薔薇は暁に香る

蒲公英

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 ツゲヌイより先にラバに乗せていた荷物が届き、荷駄の賃金を支払わなくてはならない。サウビが考えていたよりも高額で、慌てて壺の金を数えていると、もうずいぶん酒臭くなったツゲヌイが帰ってきた。
「まだ荷ほどきもしてないのか、グズ!」
 腰を蹴られ、手元の壺が横倒しになった。ラバを繋いで待っていた男が、止めに入る。
「届けたばかりですよ、ツゲヌイさん」
「ほう。時間を稼いで色目を使ったか、売女が」
 倒れた壺の中身を拾うために屈んだサウビの髪を掴んで引っ張り、引き倒す。酒を飲んだツゲヌイは馬借にも止められず、サウビは床に頭を擦りつけて許しを請うた。もう一度サウビを強く蹴ったツゲヌイは、奥の部屋でまた酒を飲みはじめた。
「その荷物を明日の朝までに片付けて、並べておけ。在庫の残りと売り上げも、明日の朝確認する。ちょろまかしたら承知しねえぞ!」

 燭台の灯りの中で荷物を広げた。強く引っ張られたために抜けた髪が床に落ち、蹴られた腰と腕は熱を持っている。半刻も過ぎるとツゲヌイは眠ってしまったらしく、大きな鼾が聞こえた。痛みに何度も手を止めながら、布を取り出して棚に合うように畳み直していく。熱を持った腕が鼓動に合わせてズキズキという。
 もしかしたら、このまま死んでしまった方が幸福なのかも知れない。ぼんやりと灯る燭台の火が、滲んで遠くなる。色すらも区別のし難い暗い部屋の中で、サウビは立ち尽くした。ツゲヌイに殴られ続けるか、あのカエルのような格好でたくさんの男を迎え入れるか、どちらの地獄も見たくないのなら土に埋められて無になりたい。どれだけの時間、そんな風に立ち尽くしていただろうか。気がつけば、外はぼんやりと明るくなっている。
 そして行李の布があと数枚になったとき、サウビの目が大きく開いた。

 これは母さんが私のためにツゲヌイに託したものだ。良い糸ではなくとも丁寧に織った生地のスカートに、サウビと母だけの印があった。文字を書けぬ母が、サウビの身に着けるもののすべてに施した刺繍がある。受け取ったツゲヌイはサウビに渡さずに、はじめから売るつもりだったろう。母さんが私のために拵えてくれたものを、ツゲヌイに渡してはならない。息を殺してツゲヌイの寝息を確認し、サウビは穿いているスカートの下にそのスカートを重ねた。
 ツゲヌイが起き出して荷物を確認すれば、気がついてしまうかも知れない。そうしたらまた、きっと殴られる。その前にこれを、どこかに隠さなくては。腰に大きな痛みの波が来てサウビは蹲り、そのまま気が遠くなった。

 目が覚めたのは、客が入ってきたからだった。前日に飾り物屋の内儀に案内されてきた客だ。
「昨日、買い物ができなかったものだから。妹の婚礼を祝う支度をしたい」
 客の前で、サウビは立ち上がることができなかった。顔は腫れ、腰には力が入らず、腕で身体を支えることができない。目を大きく開けたまま怯えるサウビの耳に、奥の部屋から怒鳴るツゲヌイの声が聞こえた。普段客の前では愛想の良いツゲヌイだが、まだ酒が残っているらしい。
「水差しの中がカラだ! 水を汲んで来い!」
 そろそろと立ち上がろうとしているうちに、業を煮やしたツゲヌイが店に入ってきた。
「何をグズグズしているんだ、この役立たずが!」
 テーブルにようやっと掴まって立ち上がるサウビの足を払おうとしたとき、客がいるのに気がついたようだ。

「ずいぶん早い時間からの買い物ですね。どんな布をお探しで?」
 サウビに対するもの言いとの差に、客が顎を引く。
「上質の絹のショールと、刺繍のスカートを」
 ツゲヌイが顎で指示し、サウビは積み上げた布から希望に添いそうなものを探そうとするが、腫れた腕が上がらない。ツゲヌイの表情を窺うと、客がいなくなれば殺されるのではないかと戦慄する。
「役立たずの穀潰しが。おまえなど、明日にでも捨てに行ってやるぞ」
 ツゲヌイは憎々し気に言い、サウビの腕を払った。腫れた腕に衝撃が走り、倒れないようにテーブルに寄りかかって耐える。遠くなった耳に、客とツゲヌイが何か話している声が聞こえるが、サウビに意味は届かなかった。

 突然客の声が響いた。
「では、売買成立だ。ここに受取を書いてもらおうか」
 受取を書かせるなんて大きな買い物をしたのだ、とサウビがぼんやり思っていると、袖を引かれた。
「さあ、あんたは俺が買い取った。一緒に来てもらうぞ」
 売られたのか。奴隷としてなのか、はたまた娼婦としてか。救いを求めるようにツゲヌイを見れば、革袋の金を数えている。客は数枚の布を束ねて持ち、サウビの腰を抱えて店から出た。持ち主の変わった女は、新しい持ち主には逆らえない。どちらにしろ満身創痍では、暴れることもできない。急な変化に呆然としながらも、もう生活のすべてが終わりなのだと思った。
 道に出ると、飾り物屋の内儀が走り寄ってくる。
「なんて酷い顔なの。どんな目に遭わされたの」
 その声を聞いた瞬間、サウビは気を失った。
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