3 / 107
3.
しおりを挟む
ツゲヌイより先にラバに乗せていた荷物が届き、荷駄の賃金を支払わなくてはならない。サウビが考えていたよりも高額で、慌てて壺の金を数えていると、もうずいぶん酒臭くなったツゲヌイが帰ってきた。
「まだ荷ほどきもしてないのか、グズ!」
腰を蹴られ、手元の壺が横倒しになった。ラバを繋いで待っていた男が、止めに入る。
「届けたばかりですよ、ツゲヌイさん」
「ほう。時間を稼いで色目を使ったか、売女が」
倒れた壺の中身を拾うために屈んだサウビの髪を掴んで引っ張り、引き倒す。酒を飲んだツゲヌイは馬借にも止められず、サウビは床に頭を擦りつけて許しを請うた。もう一度サウビを強く蹴ったツゲヌイは、奥の部屋でまた酒を飲みはじめた。
「その荷物を明日の朝までに片付けて、並べておけ。在庫の残りと売り上げも、明日の朝確認する。ちょろまかしたら承知しねえぞ!」
燭台の灯りの中で荷物を広げた。強く引っ張られたために抜けた髪が床に落ち、蹴られた腰と腕は熱を持っている。半刻も過ぎるとツゲヌイは眠ってしまったらしく、大きな鼾が聞こえた。痛みに何度も手を止めながら、布を取り出して棚に合うように畳み直していく。熱を持った腕が鼓動に合わせてズキズキという。
もしかしたら、このまま死んでしまった方が幸福なのかも知れない。ぼんやりと灯る燭台の火が、滲んで遠くなる。色すらも区別のし難い暗い部屋の中で、サウビは立ち尽くした。ツゲヌイに殴られ続けるか、あのカエルのような格好でたくさんの男を迎え入れるか、どちらの地獄も見たくないのなら土に埋められて無になりたい。どれだけの時間、そんな風に立ち尽くしていただろうか。気がつけば、外はぼんやりと明るくなっている。
そして行李の布があと数枚になったとき、サウビの目が大きく開いた。
これは母さんが私のためにツゲヌイに託したものだ。良い糸ではなくとも丁寧に織った生地のスカートに、サウビと母だけの印があった。文字を書けぬ母が、サウビの身に着けるもののすべてに施した刺繍がある。受け取ったツゲヌイはサウビに渡さずに、はじめから売るつもりだったろう。母さんが私のために拵えてくれたものを、ツゲヌイに渡してはならない。息を殺してツゲヌイの寝息を確認し、サウビは穿いているスカートの下にそのスカートを重ねた。
ツゲヌイが起き出して荷物を確認すれば、気がついてしまうかも知れない。そうしたらまた、きっと殴られる。その前にこれを、どこかに隠さなくては。腰に大きな痛みの波が来てサウビは蹲り、そのまま気が遠くなった。
目が覚めたのは、客が入ってきたからだった。前日に飾り物屋の内儀に案内されてきた客だ。
「昨日、買い物ができなかったものだから。妹の婚礼を祝う支度をしたい」
客の前で、サウビは立ち上がることができなかった。顔は腫れ、腰には力が入らず、腕で身体を支えることができない。目を大きく開けたまま怯えるサウビの耳に、奥の部屋から怒鳴るツゲヌイの声が聞こえた。普段客の前では愛想の良いツゲヌイだが、まだ酒が残っているらしい。
「水差しの中がカラだ! 水を汲んで来い!」
そろそろと立ち上がろうとしているうちに、業を煮やしたツゲヌイが店に入ってきた。
「何をグズグズしているんだ、この役立たずが!」
テーブルにようやっと掴まって立ち上がるサウビの足を払おうとしたとき、客がいるのに気がついたようだ。
「ずいぶん早い時間からの買い物ですね。どんな布をお探しで?」
サウビに対するもの言いとの差に、客が顎を引く。
「上質の絹のショールと、刺繍のスカートを」
ツゲヌイが顎で指示し、サウビは積み上げた布から希望に添いそうなものを探そうとするが、腫れた腕が上がらない。ツゲヌイの表情を窺うと、客がいなくなれば殺されるのではないかと戦慄する。
「役立たずの穀潰しが。おまえなど、明日にでも捨てに行ってやるぞ」
ツゲヌイは憎々し気に言い、サウビの腕を払った。腫れた腕に衝撃が走り、倒れないようにテーブルに寄りかかって耐える。遠くなった耳に、客とツゲヌイが何か話している声が聞こえるが、サウビに意味は届かなかった。
突然客の声が響いた。
「では、売買成立だ。ここに受取を書いてもらおうか」
受取を書かせるなんて大きな買い物をしたのだ、とサウビがぼんやり思っていると、袖を引かれた。
「さあ、あんたは俺が買い取った。一緒に来てもらうぞ」
売られたのか。奴隷としてなのか、はたまた娼婦としてか。救いを求めるようにツゲヌイを見れば、革袋の金を数えている。客は数枚の布を束ねて持ち、サウビの腰を抱えて店から出た。持ち主の変わった女は、新しい持ち主には逆らえない。どちらにしろ満身創痍では、暴れることもできない。急な変化に呆然としながらも、もう生活のすべてが終わりなのだと思った。
道に出ると、飾り物屋の内儀が走り寄ってくる。
「なんて酷い顔なの。どんな目に遭わされたの」
その声を聞いた瞬間、サウビは気を失った。
「まだ荷ほどきもしてないのか、グズ!」
腰を蹴られ、手元の壺が横倒しになった。ラバを繋いで待っていた男が、止めに入る。
「届けたばかりですよ、ツゲヌイさん」
「ほう。時間を稼いで色目を使ったか、売女が」
倒れた壺の中身を拾うために屈んだサウビの髪を掴んで引っ張り、引き倒す。酒を飲んだツゲヌイは馬借にも止められず、サウビは床に頭を擦りつけて許しを請うた。もう一度サウビを強く蹴ったツゲヌイは、奥の部屋でまた酒を飲みはじめた。
「その荷物を明日の朝までに片付けて、並べておけ。在庫の残りと売り上げも、明日の朝確認する。ちょろまかしたら承知しねえぞ!」
燭台の灯りの中で荷物を広げた。強く引っ張られたために抜けた髪が床に落ち、蹴られた腰と腕は熱を持っている。半刻も過ぎるとツゲヌイは眠ってしまったらしく、大きな鼾が聞こえた。痛みに何度も手を止めながら、布を取り出して棚に合うように畳み直していく。熱を持った腕が鼓動に合わせてズキズキという。
もしかしたら、このまま死んでしまった方が幸福なのかも知れない。ぼんやりと灯る燭台の火が、滲んで遠くなる。色すらも区別のし難い暗い部屋の中で、サウビは立ち尽くした。ツゲヌイに殴られ続けるか、あのカエルのような格好でたくさんの男を迎え入れるか、どちらの地獄も見たくないのなら土に埋められて無になりたい。どれだけの時間、そんな風に立ち尽くしていただろうか。気がつけば、外はぼんやりと明るくなっている。
そして行李の布があと数枚になったとき、サウビの目が大きく開いた。
これは母さんが私のためにツゲヌイに託したものだ。良い糸ではなくとも丁寧に織った生地のスカートに、サウビと母だけの印があった。文字を書けぬ母が、サウビの身に着けるもののすべてに施した刺繍がある。受け取ったツゲヌイはサウビに渡さずに、はじめから売るつもりだったろう。母さんが私のために拵えてくれたものを、ツゲヌイに渡してはならない。息を殺してツゲヌイの寝息を確認し、サウビは穿いているスカートの下にそのスカートを重ねた。
ツゲヌイが起き出して荷物を確認すれば、気がついてしまうかも知れない。そうしたらまた、きっと殴られる。その前にこれを、どこかに隠さなくては。腰に大きな痛みの波が来てサウビは蹲り、そのまま気が遠くなった。
目が覚めたのは、客が入ってきたからだった。前日に飾り物屋の内儀に案内されてきた客だ。
「昨日、買い物ができなかったものだから。妹の婚礼を祝う支度をしたい」
客の前で、サウビは立ち上がることができなかった。顔は腫れ、腰には力が入らず、腕で身体を支えることができない。目を大きく開けたまま怯えるサウビの耳に、奥の部屋から怒鳴るツゲヌイの声が聞こえた。普段客の前では愛想の良いツゲヌイだが、まだ酒が残っているらしい。
「水差しの中がカラだ! 水を汲んで来い!」
そろそろと立ち上がろうとしているうちに、業を煮やしたツゲヌイが店に入ってきた。
「何をグズグズしているんだ、この役立たずが!」
テーブルにようやっと掴まって立ち上がるサウビの足を払おうとしたとき、客がいるのに気がついたようだ。
「ずいぶん早い時間からの買い物ですね。どんな布をお探しで?」
サウビに対するもの言いとの差に、客が顎を引く。
「上質の絹のショールと、刺繍のスカートを」
ツゲヌイが顎で指示し、サウビは積み上げた布から希望に添いそうなものを探そうとするが、腫れた腕が上がらない。ツゲヌイの表情を窺うと、客がいなくなれば殺されるのではないかと戦慄する。
「役立たずの穀潰しが。おまえなど、明日にでも捨てに行ってやるぞ」
ツゲヌイは憎々し気に言い、サウビの腕を払った。腫れた腕に衝撃が走り、倒れないようにテーブルに寄りかかって耐える。遠くなった耳に、客とツゲヌイが何か話している声が聞こえるが、サウビに意味は届かなかった。
突然客の声が響いた。
「では、売買成立だ。ここに受取を書いてもらおうか」
受取を書かせるなんて大きな買い物をしたのだ、とサウビがぼんやり思っていると、袖を引かれた。
「さあ、あんたは俺が買い取った。一緒に来てもらうぞ」
売られたのか。奴隷としてなのか、はたまた娼婦としてか。救いを求めるようにツゲヌイを見れば、革袋の金を数えている。客は数枚の布を束ねて持ち、サウビの腰を抱えて店から出た。持ち主の変わった女は、新しい持ち主には逆らえない。どちらにしろ満身創痍では、暴れることもできない。急な変化に呆然としながらも、もう生活のすべてが終わりなのだと思った。
道に出ると、飾り物屋の内儀が走り寄ってくる。
「なんて酷い顔なの。どんな目に遭わされたの」
その声を聞いた瞬間、サウビは気を失った。
0
お気に入りに追加
220
あなたにおすすめの小説
エイミーと旦那さま ② ~伯爵とメイドの攻防~
トウリン
恋愛
※『エイミーと旦那さま』の第二部です。
遠く離れていた旦那さまの2年ぶりの帰還。ようやくまたお世話をさせていただけると安堵するエイミーだったけれど、再会した旦那さまは突然彼女に求婚してくる。エイミーの戸惑いを意に介さず攻めるセドリック。理解不能な旦那さまの猛追に困惑するエイミー。『大事だから彼女が欲しい』『大事だから彼を拒む』――空回りし、すれ違う二人の想いの行く末は?
茶番には付き合っていられません
わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。
婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。
これではまるで私の方が邪魔者だ。
苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。
どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。
彼が何をしたいのかさっぱり分からない。
もうこんな茶番に付き合っていられない。
そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。
死に役はごめんなので好きにさせてもらいます
橋本彩里(Ayari)
恋愛
フェリシアは幼馴染で婚約者のデュークのことが好きで健気に尽くしてきた。
前世の記憶が蘇り、物語冒頭で死ぬ役目の主人公たちのただの盛り上げ要員であると知ったフェリシアは、死んでたまるかと物語のヒーロー枠であるデュークへの恋心を捨てることを決意する。
愛を返されない、いつか違う人とくっつく予定の婚約者なんてごめんだ。しかも自分は死に役。
フェリシアはデューク中心の生活をやめ、なんなら婚約破棄を目指して自分のために好きなことをしようと決める。
どうせ何をしていても気にしないだろうとデュークと距離を置こうとするが……
お付き合いいただけたら幸いです。
たくさんのいいね、エール、感想、誤字報告をありがとうございます!
望まれない結婚〜相手は前妻を忘れられない初恋の人でした
結城芙由奈
恋愛
【忘れるな、憎い君と結婚するのは亡き妻の遺言だということを】
男爵家令嬢、ジェニファーは薄幸な少女だった。両親を早くに亡くし、意地悪な叔母と叔父に育てられた彼女には忘れられない初恋があった。それは少女時代、病弱な従姉妹の話し相手として滞在した避暑地で偶然出会った少年。年が近かった2人は頻繁に会っては楽しい日々を過ごしているうちに、ジェニファーは少年に好意を抱くようになっていった。
少年に恋したジェニファーは今の生活が長く続くことを祈った。
けれど従姉妹の体調が悪化し、遠くの病院に入院することになり、ジェニファーの役目は終わった。
少年に別れを告げる事もできずに、元の生活に戻ることになってしまったのだ。
それから十数年の時が流れ、音信不通になっていた従姉妹が自分の初恋の男性と結婚したことを知る。その事実にショックを受けたものの、ジェニファーは2人の結婚を心から祝うことにした。
その2年後、従姉妹は病で亡くなってしまう。それから1年の歳月が流れ、突然彼から求婚状が届けられた。ずっと彼のことが忘れられなかったジェニファーは、喜んで後妻に入ることにしたのだが……。
そこには残酷な現実が待っていた――
*他サイトでも投稿中
英雄になった夫が妻子と帰還するそうです
白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。
愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。
好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。
今、目の前にいる人は誰なのだろう?
ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。
珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥)
ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。
芙蓉の宴
蒲公英
現代文学
たくさんの事情を抱えて、人は生きていく。芙蓉の花が咲くのは一度ではなく、猛暑の夏も冷夏も、花の様子は違ってもやはり花開くのだ。
正しいとは言えない状況で出逢った男と女の、足掻きながら寄り添おうとするお話。
表紙絵はどらりぬ様からいただきました。
エイミーと旦那さま ① ~伯爵とメイドの日常~
トウリン
恋愛
※『エイミーと旦那さま』の第一部です。
父を10歳で亡くしたエイミーは、ボールドウィン伯爵家に引き取られた。お屋敷の旦那さま、セドリック付きのメイドとして働くようになったエイミー。旦那さまの困った行動にエイミーは時々眉をひそめるけれども、概ね平和に過ぎていく日々。けれど、兄と妹のようだった二人の関係は、やがてゆっくりと変化していく……
【完結】貴方のために涙は流しません
ユユ
恋愛
私の涙には希少価値がある。
一人の女神様によって無理矢理
連れてこられたのは
小説の世界をなんとかするためだった。
私は虐げられることを
黙っているアリスではない。
“母親の言うことを聞きなさい”
あんたはアリスの父親を寝とっただけの女で
母親じゃない。
“婚約者なら言うことを聞け”
なら、お前が聞け。
後妻や婚約者や駄女神に屈しない!
好き勝手に変えてやる!
※ 作り話です
※ 15万字前後
※ 完結保証付き
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる