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「買い物するには早いか。どうする?明太子か?」
「海浜公園! クリスマスローズ! ナノハナ! 早咲きのスイセン!」
用意してきたおにぎりを車の中で食べながら、茜は元気である。花ねえ、と秀一は頭の中で呟く。行くと決めてから、茜はスマートフォンで情報収集したらしい。案外と面倒……いやいや、茜のために休日を使うと決めたのだから、それは考えまい。
「海風が寒いんじゃないか?」
「ウールのタイツと内ボアのブーツだもん。ニット帽もあるし、完全装備」
ささやかな抵抗は簡単に蹴飛ばされ、信号待ちで煙草に火をつける。浦安のテーマパークで揃いの耳を着けるよりは、幾分マシだ。
「お買い物のあと、お風呂も行きたい。なんかね、海草のエキスでお肌つるつる……」
「わかったわかった」
言わせておくと、三泊分くらいのメニューが出そうだ。
ずっと、ちゃんと聞かないでいたんだな。あれやりたいこれやりたい、あーしたいこーしたい。今日の張り切った顔は、どうだ。まるで、結婚する前に買い物袋をぶら下げて部屋に来て、これから毎週休みの日の晩御飯作りまーす、なんて宣言したときみたいじゃないか。そんなことにワクワクするほど茜は世慣れていなかったし、俺もからかいながら楽しみにしてたんだ。そうか、それは日常になったから、レクリェーションの意味はなくなっちまったのか。多くを望まない娘だからといって、不満やストレスがないわけじゃない。
「海にも出たい。ふーゆーのーうーみー!」
「海浜公園に、何時間いるつもりだ。市場に車入れられなくなるぞ」
苦笑しながら、灰皿に煙草を押し潰す。楽しんでくれれば、家族サービスは成功だ。
「なんだ、バラじゃないのか」
いくら秀一でもローズがバラであるくらいは、知っている。茜が言ったクリスマスローズっていうのは、木に咲くバラだと思っていた。
「キンポウゲ科だよ。常緑多年草」
「ジョウリョクタネンソウ?」
魔法の言葉のようである。秀一に園芸の趣味はないし、茜は団地育ちだ。
「植物学、やりたかったの。農学部行こうと思って……」
俯いた花を覗き込みながら、茜は微笑む。何のためらいもなく過去形にすることは、茜の中では違和感はない。数年遅れて追いつくはずだった同級生たちの学歴や、自分のための学習の時間よりも、茜は秀一と生活することを選んだ。それについて、後悔はしていない。逢わなければどんな生活をと思うことはあっても、惜しむ気持ちよりも出遭うことができた嬉しさのほうが上だ。ただほんの時々、選ばなかった自分にはもう会えないのだろうかと思うことはある。夢見ていた未来と秀一との生活は、二者択一でしか有り得なかったのか。
「大学に行け、茜」
脈絡なく秀一が言った。
「へ? 何、いきなり」
「やりたいこと、あったんだろ? 俺に気なんか遣うな」
「どうしたの、こんなところで? 私が農学部とか言ったから?」
「それだけじゃない。そうしたほうがいいと思うからだ」
茜の将来設計を潰したのは自分だと、秀一はずっとそう思っていた。けれど潰す必要なんかないのだと、ようやく気がついた。茜が望んでいた未来は、別に独身だなんて限定してない。結婚していようが子供ができようが、自分の好きな道に進めば良いのだ。家事をさせるためや子供を産ませるために生活を共にしたんじゃない。
「普通の親父なら子供の学費投資する年齢だ、俺は。子供の代わりに嫁に投資しようってんだ」
呆気にとられた顔で秀一を見た茜は、クリスマスローズの咲き乱れる場所をもう一度見渡した。いつかと考えていたことを目の前に差し出されて、自分の感情がいきなり散らばる。
赤・白・エンジ・ピンク・緑。どれもオリエンタリス種のクリスマスローズは、色が変わっても種は同じだ。もしかして、私も頭が固かったかも知れない。ちゃんと奥さんしなくちゃとか思ってたけど、秀さんがそればっかりを喜んでるのかどうかなんて、考えもしなかった。
「ありがと、秀さん。真面目に考えるね」
決め付けるんじゃなくて、自分がどうしたいのかちゃんと考えよう。せっかく秀さんが、きっとずっと考えていてくれたことだもの。
カーナビの通りに進もうとした道は、数年前の地震の復旧工事のために通ることができず、大きく迂回した。海沿いを走ることを楽しみにしていたが、自然の爪あとの恐怖をまざまざと見せつけられたような気がする。都内でも被害の小さな地域に住まっている茜と秀一が体験しなかった恐怖は、これから訪れようとしている場所にも甚大な被害をもたらし、それを短期間で見事に復活させた経緯を持つ。人間の営みはしたたかにたくましく、だからこそ強く他人を惹きつけるのだ。精神を目にすることはできなくとも、その精神が形になることはある。
「人間ってすごいね、秀さん。意思があれば、できることの数が増える」
「ああ、そうだな。俺も見習わなくちゃな」
賑わいのピークの少し前だ。残り少なくなった駐車場に車を入れれば、市場は目の前。
「ああ、どうしよう、秀さん」
「なんだ、どうした?」
「お寿司と海鮮丼、両方食べたい」
「どっちも酢飯に刺身だ、バカ」
「だって、形が違うもん。ウニとアンキモ、どっち食べたらいい?」
「両方食え!」
「海浜公園! クリスマスローズ! ナノハナ! 早咲きのスイセン!」
用意してきたおにぎりを車の中で食べながら、茜は元気である。花ねえ、と秀一は頭の中で呟く。行くと決めてから、茜はスマートフォンで情報収集したらしい。案外と面倒……いやいや、茜のために休日を使うと決めたのだから、それは考えまい。
「海風が寒いんじゃないか?」
「ウールのタイツと内ボアのブーツだもん。ニット帽もあるし、完全装備」
ささやかな抵抗は簡単に蹴飛ばされ、信号待ちで煙草に火をつける。浦安のテーマパークで揃いの耳を着けるよりは、幾分マシだ。
「お買い物のあと、お風呂も行きたい。なんかね、海草のエキスでお肌つるつる……」
「わかったわかった」
言わせておくと、三泊分くらいのメニューが出そうだ。
ずっと、ちゃんと聞かないでいたんだな。あれやりたいこれやりたい、あーしたいこーしたい。今日の張り切った顔は、どうだ。まるで、結婚する前に買い物袋をぶら下げて部屋に来て、これから毎週休みの日の晩御飯作りまーす、なんて宣言したときみたいじゃないか。そんなことにワクワクするほど茜は世慣れていなかったし、俺もからかいながら楽しみにしてたんだ。そうか、それは日常になったから、レクリェーションの意味はなくなっちまったのか。多くを望まない娘だからといって、不満やストレスがないわけじゃない。
「海にも出たい。ふーゆーのーうーみー!」
「海浜公園に、何時間いるつもりだ。市場に車入れられなくなるぞ」
苦笑しながら、灰皿に煙草を押し潰す。楽しんでくれれば、家族サービスは成功だ。
「なんだ、バラじゃないのか」
いくら秀一でもローズがバラであるくらいは、知っている。茜が言ったクリスマスローズっていうのは、木に咲くバラだと思っていた。
「キンポウゲ科だよ。常緑多年草」
「ジョウリョクタネンソウ?」
魔法の言葉のようである。秀一に園芸の趣味はないし、茜は団地育ちだ。
「植物学、やりたかったの。農学部行こうと思って……」
俯いた花を覗き込みながら、茜は微笑む。何のためらいもなく過去形にすることは、茜の中では違和感はない。数年遅れて追いつくはずだった同級生たちの学歴や、自分のための学習の時間よりも、茜は秀一と生活することを選んだ。それについて、後悔はしていない。逢わなければどんな生活をと思うことはあっても、惜しむ気持ちよりも出遭うことができた嬉しさのほうが上だ。ただほんの時々、選ばなかった自分にはもう会えないのだろうかと思うことはある。夢見ていた未来と秀一との生活は、二者択一でしか有り得なかったのか。
「大学に行け、茜」
脈絡なく秀一が言った。
「へ? 何、いきなり」
「やりたいこと、あったんだろ? 俺に気なんか遣うな」
「どうしたの、こんなところで? 私が農学部とか言ったから?」
「それだけじゃない。そうしたほうがいいと思うからだ」
茜の将来設計を潰したのは自分だと、秀一はずっとそう思っていた。けれど潰す必要なんかないのだと、ようやく気がついた。茜が望んでいた未来は、別に独身だなんて限定してない。結婚していようが子供ができようが、自分の好きな道に進めば良いのだ。家事をさせるためや子供を産ませるために生活を共にしたんじゃない。
「普通の親父なら子供の学費投資する年齢だ、俺は。子供の代わりに嫁に投資しようってんだ」
呆気にとられた顔で秀一を見た茜は、クリスマスローズの咲き乱れる場所をもう一度見渡した。いつかと考えていたことを目の前に差し出されて、自分の感情がいきなり散らばる。
赤・白・エンジ・ピンク・緑。どれもオリエンタリス種のクリスマスローズは、色が変わっても種は同じだ。もしかして、私も頭が固かったかも知れない。ちゃんと奥さんしなくちゃとか思ってたけど、秀さんがそればっかりを喜んでるのかどうかなんて、考えもしなかった。
「ありがと、秀さん。真面目に考えるね」
決め付けるんじゃなくて、自分がどうしたいのかちゃんと考えよう。せっかく秀さんが、きっとずっと考えていてくれたことだもの。
カーナビの通りに進もうとした道は、数年前の地震の復旧工事のために通ることができず、大きく迂回した。海沿いを走ることを楽しみにしていたが、自然の爪あとの恐怖をまざまざと見せつけられたような気がする。都内でも被害の小さな地域に住まっている茜と秀一が体験しなかった恐怖は、これから訪れようとしている場所にも甚大な被害をもたらし、それを短期間で見事に復活させた経緯を持つ。人間の営みはしたたかにたくましく、だからこそ強く他人を惹きつけるのだ。精神を目にすることはできなくとも、その精神が形になることはある。
「人間ってすごいね、秀さん。意思があれば、できることの数が増える」
「ああ、そうだな。俺も見習わなくちゃな」
賑わいのピークの少し前だ。残り少なくなった駐車場に車を入れれば、市場は目の前。
「ああ、どうしよう、秀さん」
「なんだ、どうした?」
「お寿司と海鮮丼、両方食べたい」
「どっちも酢飯に刺身だ、バカ」
「だって、形が違うもん。ウニとアンキモ、どっち食べたらいい?」
「両方食え!」
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