花つける堤に座りて

蒲公英

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花つける堤に座りて

リビングに出る-3

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 お喋りしすぎて、帰りが遅くなる。珍しく、運動部の子たちと帰りが一緒になって、大勢で歩いてきた。聡美の家の前だとはいえ、7時半。聡美のお父さんが帰宅したので、遅くなったと気がついたのだ。
 まずい、怒られるかな。早足で歩いていると、向かい側から前島サンが自転車で走ってきた。ワイシャツのまま、ネクタイだけはずして。
「何してたの! 探しにいくとこだったんだよ!」
 いきなり怒られたら、謝ることなんてできない。
「ちょっと遅くなっただけじゃない」
 多分、すっごくふてくされた顔したと思う。
 前島サンは携帯電話で母に私を見つけたと連絡している。
「だって休みの日に友達と遊びに行ったときなんて、もっと遅いし」
 そう言うと、前島サンは大きく溜息をついた。
「あのね、てまちゃん。学校の帰り時間は決まっているものでしょう。そこから外れたら、心配するんだよ」
 たとえば友達と遊びに行く時は、何時までに帰ってきなさいと行く前に指示される。それより遅いと、お母さん同士で連絡を取り合っているらしい。知らなかった。道理で「誰と行くか」をしつこく聞かれるはずだ。

 自転車を押しながら歩く前島サンと並んで歩くのは、迎えに来てもらって悪いと思っているから。
 知ってる人に会いませんように。前島サンは、言いにくそうに話す。
「言いたくないけど、女の子だと他の事件に巻き込まれる可能性もあるしね」
 他の事件ってもしかして。
「中学校の制服が好き、なんて男もいるわけだし」
 最近、こんな注意がとても多い。女の子って、すごく損な気がする。
「でも、そんなことされたって話は聞いたことないよ」
 私がそう言い返すと、思いの外強い口調で返された。
「そんなことになってからじゃ遅いから、気をつけるんでしょ? 心配かけさせないでね」
 ちょっと叱られたようだったけど、それは悪い気分じゃなかった。

 家に帰ると、母からのお小言が待っていた。
「学校にまで連絡入れるところだったのよ!」
 怒る母をおさめるために、とりあえず「ゴメンナサイ」と言う。
「麻子さん、謝ってるんだから、ごはんにしよ。てまちゃん、着替えといでよ」
 前島サンに促されて、自分の部屋に着替えに入った。庇ってくれたんだ。


 いつの間にか、梅雨に入っていた。雨が降ると、運動部の活動のない校庭はとても静かになる。図書室の出窓からは、なんだか寂しい眺めだけれど、キライじゃない。部活が休みのみゅうと図書室で本の話をする楽しみがある。教室でそんな話してると「暗い」なんて言い出す子がいるし。
 どんな話なら明るいんだろう。アイドルの話、好きな男の子の話、先生の悪口。ペットの話、家族の話……まさかね。

 美術部では、ずっと石膏デッサンをしている。ヴィーナスの頭部じゃなくて、卵かなんか掴むような形の手だけど。光の当たり方によって違う絵になっちゃうなんて、初めて知った。
 クロッキー帳は2冊目になった。初めの頃より、鉛筆を柔らかく使えるようになったのが自分でもわかって嬉しい。自分にできることが、少しずつ増えてゆく。たいした変化じゃないけど。

 最近、前島サンがリビングにいても、あんまり緊張しなくなった。でも、私から話しかけたりはできない。あいかわらず、なんて呼びかけたら良いのか、わからないから。蒸し暑くなってきて、ダサいジャージからダサい半ジャージに変わった前島サンの足はやっぱり見たくなくて、Tシャツから出ている太い腕も嬉しくはなくて、目を逸らしちゃうけど。

 お風呂からシャツを着ながら出てくるのもやめて欲しい。最後までちゃんと着てからにして欲しいんだけど、それはまだ言えない。母は気にしてなんかいないようなので、注意してくれって頼めない。

 前島サンが帰宅する前に夕食の支度を手伝っていたら、母は手を動かしながら言った。
「手毬の声、お母さんと似てるんだってね。自分たちじゃわからないけど」
「うん、顔は似てないのにね」
 そう返すと、母はちらりと私の顔を見た。
「手毬はパパ似だから」
 さらっと言われた言葉が、却って興味を引いた。
「どんな人だった?」
 母はさすがに答えにくそうに、言葉を選びながらゆっくり言う。
「優しい人、だったよ。真面目でね、ちょっと抜けてて」
 それから、私しかいないのに少しだけ声をひそめて続けた。
「徹君とよく似てた。徹君の方がちょっと元気がいいかな」
 ナイショねと笑った母は、前の「友達みたいなお母さん」だった。そうか、父はあんな感じの人だったのか。一度でいい、記憶に残る場所にいてくれたら良かったのに。
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