肩越しの青空

蒲公英

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ピンクのエプロン 3

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 前方でガシャンと音がしたのは、自転車を漕ぎ出して1分もしていなかったと思う。何度か車を停めたことのある、児童公園の前だ。住宅街の裏側にあたる部分の塀が続き、子供の声を遮断させるような配慮から植込みが多い。つまり、夜は人が極端に少ない場所になる。
 倒れた自転車と、後ろのドアを開けた車に、一瞬交通事故だと思った。違うと気がついたのは、女の子が車に押し込まれそうになるのを見たからだ。救急車や警察を呼ぶのならまだしも、女の子は口を押さえられたまま身体をくねらせている。
 後から考えると、あたしの行動はひどく無鉄砲だったし、相手がひとりだったことはラッキー以外の何ものでもない。
「何してんのよっ!」
 自転車のスタンドを下ろし、駆け寄った。

 押し込もうとしていた男の注意がこちらを向き、少々緩んだ手から中学生らしき女の子が抜け出すと、男は運転席にまわり、後ろのドアを開けたまま車を急発進させた。ライトは消したままだった。
 道路にへたり込んでいる女の子の自転車を起こし、道の端に移動させる。短いスカートを穿いているわけでも、過剰に足を見せびらかしているわけでもない、おとなしそうな普通の女の子。腰が抜けてしまったのか、立ち上がるのに肩を貸した。
 泣き出したその子の肩を抱き、一緒に道端に座りながら、昭文に電話をした。どこに助けを求めようと考えるより先に、昭文の頼もしい腕を思い出した。

 塾の帰りなんです。普通に走っていただけなのに、自転車の荷台を急に引っ張られて。立ち上がったら羽交い絞めされて、口塞がれて。
 しゃくりあげながら震えている女の子を、放っておくわけにはいかない。中学生が塾から帰るような時間だから、深夜ってわけじゃない。偶然に私が通らなければ、この子は一生の傷を負ってしまうところだったのだ。
 家に電話させたところで、昭文が走って来る。
「ナンバー見たか?」
「そんなもの、覚える暇なかった!」
 自分の口から出た声は、震えていた。

 女の子のご両親が車で迎えに来て、自転車を積み込んだ後に丁寧にお礼を言っていった。改めてお礼をと仰ったけど、それは辞退した。いつ誰が遭遇しても不思議じゃないことに、あたしは今まで無縁だっただけ。それがラッキーなことだと知らないから、呑気に人通りの少ない道を走った。
 頭を下げて見送った後、足から力が抜ける。膝が折れそうになり、昭文の腕を握った。大丈夫かと肩を支えられたら、あたしの喉は勝手に呻き声を上げた。
「相手がひとりで良かった。怖かったろう」
 そう言われてからはじめて、刃物を持っていたり複数の相手だったりすることを想像する。あんな風に駆け寄って、自分が事件に巻き込まれる可能性だってゼロじゃない。
「怖かった」
 言葉を口に出したら、涙まで一緒にこぼれた。
「怖かったよ。すごく怖かった」
 よしよし、と頭を撫でられたら、感情の抑えが利かなくなった。子供みたいに拳で涙を拭いながら、あたしはただ頭を撫でられていた。

 自転車は置いていけと言われて、素直に昭文のアパートに戻った。ひとりで暗い道を走る勇気は、出そうもない。昭文が車のエンジンをかけるのを、黙って見ていた。
「住宅街だし自転車だしって、俺も軽く考えてた。もう、自転車で来るな」
 怒ったような顔で言われて、頷く外ない。
「自転車は、明日家まで届けてやる」
「でも、あたしは被害者になってないよ」
「それはラッキーだったからだ! おまえがあの子でも、何の不思議もない!」
 ご尤もです。あたしは過剰だと思っていた心配が、現実に有り得るものだと学習した。

 家の前で車を停めた昭文は、あたしが玄関に入ろうとしたら横から滑り込んできた。まだ親に紹介する気なんて、全然ないのに。
「なんのつもり?」
「早まりゃしないよ、ご挨拶するだけだ」
 ご挨拶って、もう夜の9時過ぎだってば。タダゴトじゃないと思われちゃうじゃない。
「静音?玄関先で何やってんのよ」
 母が、顔を出した。

「いつも遅くまで申し訳ありません。原口と申します」
「あら、送ってくださったんですか?まあ、ずいぶん大きな……」
 玄関の靴脱ぎの上に立った母が、目を丸くして昭文を見上げる。
「家の近くで事件があったので、自転車を置いてきました。明日、持って参りますから」
「事件って……それより……ねえ、お父さん!」
 居間に向かって父まで呼び、なんだかきまりの悪い展開になった。事件がどういうものだったかと母が質問したがり、昭文は靴を脱いだ。家にいた時のままの格好に、裸足だ。謀って上がりこんじゃうわけじゃないのは、一目で理解できるって寸法。

 我が家は全員が小柄だ。居間にこんな大きな物体があったなんて、いまだかつて見たことない。弟の友達が遊びに来たことはあったけど高校生までのことだし、思春期頃の男の子はこんなに嵩高くないもの。
 早まっちゃいない筈の熊は、公務員らしい手堅い態度であらましを説明し、自分も認識が甘かったと詫びた。顔色を変えた両親に叱られたのはもちろんあたしで、異論なんかあるはずがない。
 腰を直角に曲げた挨拶で、昭文は母の信頼をあっさりと掴んで帰って行った。
「ああいう誠実そうな人なら、静音も安心ねえ」
「いや、大男総身にナントカかも知れんぞ」
 父は面白くなさそうな顔だけど、それはまあ、いつものこと。あたしは父に可愛がられて育ってきたのだし、弟よりも庇護されてきたのだって自覚はある。

 昭文が帰って行ったあと、あたしは事件の後の自分を考えていた。あのまま女の子をご両親に引き渡して、ひとりで帰ることもできた筈だ。なのに昭文に泣きついたのは、心細かったから。
 それだけ、あたしは昭文に頼っているのか。走ってきた昭文を見たときの安心感は、自分でも驚くほどだった。
 園児だけじゃない、あたしの前にいる時も、多分昭文はピンクのエプロンなんだ。ニヤニヤ笑ってるけど、その下には懐かしい優しい顔を持ってる。
 その顔を受け取る準備はもう、整ってた。あたしはあたし自身を昭文に渡す覚悟は、できてる? 受け取るだけ受け取って、自分を差し出すことをためらうなんて。
 今日見せてしまった泣き顔を、悔やんではいない。
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