二等辺三角形プラス

蒲公英

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五十一歳

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「ちょっとね、二週間ばかり留守にするから、一度カッチャンの様子を見に来てやってくれないかなあ」
 珍しくリタさんから連絡があった。
「どこかに行かれるんですか」
「地方に住んでいる友人が入院してるって言うから見舞いにね。私たちの年齢だと、会える時に会っておかないと後悔するから。そこから足を延ばしていろいろスケッチして来ようと思って」
 リタさんのスケッチ旅行は珍しいことじゃない。足の悪いリタさんがひとりで出掛けることをオガサーラは心配するけど、クリエイティブな仕事はときどき自分を風に晒さなくてはならないのだとリタさんに言われているらしい。何十年もそうやって杖と車椅子で生活してきたのだと、心配は邪魔だと言わんばかりだったとオガサーラが寂しそうに言ったことがある。
「久しぶりに行こうかしら。でも様子を見になんて、今までおっしゃらなかったのに」
「少し問題があって。存外に脆い子だから、気の置けない誰かと話してガス抜きさせてやりたいんだよ」
「リタさんとはお話してるんじゃないですか」
「私じゃダメなんだよ。あの子は私には良い顔を見せたがって余計疲れてしまう。夏休みだからチヒロ君が来てくれるのかと思って旅行の計画をしたんだけど、今年は何か試験があるんだってねえ。だからユーキちゃんに頼もうと思って、忙しいのは知ってるんだけど」
 敷地内に暮らしているとはいっても、リタさんの家にオガサーラの部屋はない。生活時間帯が違うからなのだけれど、縁組をしているとはいえ彼らの節度と距離なのだろう。けれどやっぱり、信頼と思いやりで結びついているのだ。

 オガサーラがテレビの取材を受けたあと、オガサーラの店に今までと毛色の違う客が来るようになったらしい。客席二十にも満たない小さな店は、常連プラス単純にコーヒーが飲みたいひとだけの静かな場所だったのだが、批評家よろしくコーヒーの香りがとか店の雰囲気がとか言いたいひとが何人も来るようになり、常連たちがウンザリしているらしい。そして多少の有名になった代償のように、ウェブサイトに評価の書き込みがはじまった。概ねは好意的なものでも、批判的な書き込みをすることが意識の高いことだと勘違いしている層も確かにいて、オガサーラはそれを受け止めてしまっているということだ。
 オガサーラは否定されることに、とても弱い。厳しい意見ならば修正する力はあっても、おまえはダメだとばっさり切られると、それがどんな相手であろうと自分を責めようとする。
「五十を過ぎてもねぇ」
 リタさん相手だというのに、つい溜息を吐いた。
「それがカッチャンだから。あの子はやさしいんだよ」
「知ってます。リタさん、案外と過保護ですね」
「私は君たちが可愛いんだ。もちろんユーキちゃんもね」
 電話を切ったあと、私は唇にちょっと力を入れた。いいなあ、オガサーラ。ああやって心を配ってくれるひとがいて。

 週末にオガサーラの店に行くと告げると、チヒロはとても羨ましがった。
「俺も魚食って、海で泳ぎたいなあ」
「ああ、海水浴の時期か。じゃ、電車で行こうかな」
 街中の勤め人の季節は、気温とショウウィンドウのディスプレイでしか感じないけれど、焼けた砂浜が冷め始めた夕方の海辺を歩くのは、きっと素敵だ。マッシモと海に行ったことはなかったけれどもと思って、あったなと思い返す。こちらに出てくる前日に、強い風の吹く砂浜を歩いた。口を利かない私と、それに黙って付き従うマッシモ。何も言わないでいてくれたことが、どんなに救いだったか。その感謝を口に出した記憶はない。
 ハウスキーパーさんはそのまま来てくれるので、家を好きに使って良いとリタさんが勧めてくれ、お言葉に甘えることにした。夏に海の近くのホテルは、さすがに直前の予約なんて無理だ。
 着替え一式と洗面道具だけの荷造りだが、旅支度というのはどことなくウキウキする。マサナオさんに旅行に誘われたときは困ったことだと思っていたのに、行きつく場所に安心できる顔が待っていると思うと、この違いはどうかと自分でも思う。つまり私は、マサナオさんと長い時間を一緒に過ごすほど気を許していなかったのだな。たとえ別々の部屋を取ったとしても、こんなに楽しみにはしなかったに違いない。
 観光がてらブラブラ歩いて、夕方に店に顔を出そうかな。それから一緒に食事に出れば良いなんて考えながら、ベッドに入った。

 夜半過ぎに、枕もとのスマートフォンが鳴った。寝入り端だったが、チヒロに何かあったのかと慌てて通話ボタンを押すと、オガサーラだった。
「コウヘイさんの乗った車が、追突された」
 声が動揺している。
「怪我は?」
「本人は何ともないって言ってる。そのまま旅行を続けるって言ってるけど、迎えに行っていいと思うか?」
 過保護はこいつもか、と笑ってしまいそうになった。移動中のタクシーが事故を起こしたらしいが、夕方だったので病院での検査に時間がかかったようだ。
「落ち着きなさいよ。ちゃんと診てもらって異常はなかったんでしょう?」
「だってムチウチとかあとから来るし、ちょっと興奮してるみたいで」
「だから、落ち着け。そりゃ事故の当事者なら多少の興奮はするよ。だけど本人が帰宅する必要なしって判断したんだったら、それでいいじゃない」
「だって、落ち着かないじゃないか」
 オガサーラの気持ちはわからなくもない。私だってチヒロにそんなことがあったら、帰って来いと言うだろう。けれどリタさんは分別を持ったおとなで、その彼が帰宅の必要なしと判断しているのだ。
「いい? 私は明日、特急に乗ってはるばるそっちへ行くの。ノロケなら顔を見てから聞いてやるから、おとなしく待ってなさい。リタさんはちゃんと自分で判断できるひとなんだから、おかあさんみたいな心配するんじゃありません」
「ノロケじゃないって」
「私がなんで明日行くのか知ってる? リタさんが留守中のあんたを心配してるからだよ。相思相愛なんだから、まったく」
 電話の向こうで、照れたような顔をしているオガサーラが見えた気がした。それがひどく悔しい。オガサーラはとっくに郷土史研究会を卒業しているのだ。私だけがまだ、部室に残っている。
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