二等辺三角形プラス

蒲公英

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五十一歳

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 マサナオさんと会えなくなったのは、怯んでしまったことが原因だと理解はしている。一緒に出掛けたり食事をしたりするのは楽しかったけれども、彼が距離を詰めようとする気配があるたびに、私の身体は固くなった。嫌いなわけでなく、むしろ好意さえ抱いていた相手だというのに、一日では帰りきらぬ場所に出掛けようとか友人との集まりに同席しないかとか、友達ではなく恋人として振舞ってくれと言われているような気がした。もちろん私の考え過ぎであっても不思議ではないけれど、年齢を重ねた男女が歩む方向としては間違っていなかったように思う。
 会えなくなったとはいっても、実際に顔を見ていないのは二か月程度のことで、その間に三度きり誘いを断っただけだ。一度目は休日出勤で、嘘ではなかったけれども午前中だけだった。以前ならば午後からいかがですかと提案していたところを、そう言わなかった。そうやって約束を断り空いた時間に、明治神宮をひとりで歩いた。何故かそれに大きな解放感を感じ、小さなカフェで座って飲んだコーヒーがとても美味しかった。この気分が癖になったのか、次の誘いは用事があると断り、三度目は先週で風邪気味だと返事した。
 また連絡しますと言ったマサナオさんからの連絡は、まだない。こちらから連絡をするようなイベントもないし、このまま疎遠になってしまいそうな気がしないでもない。
 でも本当は、そのほうが良いのかも知れない。男の人の四十代前半なんて、まだ結婚適齢期だ。その年齢から子を持ったり家を建てたりするひとなんてザラにいる。村井先生だってそれを望んでいたろう。

 図書館で借りた本を読み、目が疲れたところで洗濯物を取り込む日曜日。秋が近いのか、空が高く感じる。チヒロは卒業のための研究に忙しく、大学に泊まり込んだりもしている。昨年インターンシップに出なかったと思ったら、どうも院試を考えているらしい。やりたいことがあるのならそれでも構わないけれど、説明しても内容がわからないと思っているのか、何の研究を続けるのか私には話さない。おそらく詳しく説明されても、理解できないだろうけれど。ただ共同生活者としては、報告暗いして欲しいものだ。まだ大人とは認めてやれない。
 けれど彼にはもう手はかからない。相続でまとまったお金をいただいたし、あれを無計画に使ってしまうほど考えなしではないだろう。家事も一通りのことはできる。考えがいろいろ甘すぎると思っていたけれども、同僚との雑談の中から拾った話だと、彼くらいの年齢ではもっと頼りないらしい。私自信が背水の陣で臨んだ二十代の入り口は、ごくごく当たり前に十代の続きだと考えるひとが大半のようで、改めて育ってきた環境の違いを思う。

 旅番組でも観ようかとテレビをつけると、房総だという。在住者に勧められた観光スポットや飲食店を紹介するという趣旨らしく、リポーターが道を歩くひとにマイクを差し出している。海辺の駐車場に出店しているキッチンカーの前でアイスコーヒーを飲む若者は、サーフィンのために移住したと語る。
「旨い店って、ここ。こっちはキッチンカーだけど、店のほうがいいの。一回飲むと他の店のコーヒーが飲めなくなるよ。大袈裟じゃなくって」
 少し間を置いて、今度は知っている道を車が走る。そして小さな店の看板が映される。
 あら、あらら、と呟きながら、映像を見ていた。この前連絡したときに、そんな話なんて一言もしなかったじゃないの。
「いらっしゃいませ」
 オガサーラがぎこちない笑顔で迎える。カウンターとテーブル席が三席だけの小さな店の中に、リタさんの水彩画がいくつか飾られている。濃い色のカウンターの内側で、オガサーラが伏し目になってコーヒーを淹れる。
 今まで彼を客観的に見たことはあっただろうか? 初恋を覚えた高校生のころから今まで、私にとってオガサーラはオガサーラでしかなかった。あらまあ、ともう一度呟く。いい男だね、オガサーラ。

 ぼうっとテレビを眺めていたら、玄関のドアが開いてチヒロが帰って来た。
「手なんか洗わなくていいから、ちょっと来てごらん。テレビにオガサーラが出てる」
 どれどれと言いながら、チヒロがソファの後ろに立つ。彼が中学生になったくらいから、一緒にソファに座ることはなくなった。二人掛けのソファは、親子で座るには距離が近いらしい。
「ああ、やっぱりオガサーラはかっこいいなあ。俺が行ったときもさ、カウンターに座ったひとは男も女も全員、コーヒー落とすとこ凝視してんの。プロの仕事が早いのって、無駄な動きがないからなんだよね」
 確かに素敵ではあるのだが、ひとつ私は驚いたことがある。これはメディアを通して、はじめて気が付いたことでもあった。
「オガサーラ、おじさんだね」
 チヒロが噴き出す。
「アナタもおばさんでしょ。同級生なんだから」
「そりゃそうだ」
 私も笑いながら、リポーターが次の場所に移動していく様子を見ていた。頭ではわかっていても理解していなかった事柄を、映像が証明しただけだ。

 高校生じゃないのだ。私たちはもう中年で、本人たちは同じように続いているつもりでいても、まわりの状況は大きく変わっている。オガサーラはパートナーを持ち、私は子供の成長を見ながら日々を過ごしている。お互いの変化は受け入れているつもりなのに、何故自分たちだけが変化しないと思っていたのか。
 傍から見れば私たちは、結構な年の男女が自分たちの変化を認めずに、古い関係を引きずっているひと達に見えるだろう。実際、そうでないとは言いきれない。
 ただ言えることは、私が生き延びてきた上でオガサーラの存在はとても大きかった。もちろんそれはマッシモがいたからでこそで、彼が私自信を開放せよと導いてくれたことが、今に至っている。

 去年のあの故郷の小さな神社で、オガサーラと隣り合わせに座った。あのときオガサーラは私を抱き寄せ、耳元で名を呼んだ。舞子、と。
「舞子は好奇心の玉手箱だよ。遮るものなんて蹴散らしていいんだ。舞子が舞子であろうとしてくれることが、望みなんだよ」
 あれはオガサーラの言葉じゃなかった。私が知りたいことや行きたい方向に視線を合わせてくれていたのは、いつもマッシモだった。あれはマッシモの言葉で、マッシモの息遣いだった。
 もっと自由になれと彼は言っている。それはどこからどこまでなんだろう?
 夕食の支度のために米を洗いながら、中年の交友について考えたりする。考えるだけで変わらないだろうとは思うけれども。
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