二等辺三角形プラス

蒲公英

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五十歳

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 ずいぶん長いつきあいになるのに、ユーキとふたりで出かけるのは初めてだ。マッシモとユーキが結婚するまでは、会うときは三人だった。一緒にユーキに会いに行く電車の中が、俺の幸福の時間だったとマッシモは知らない。そうだな、マッシモとはユーキ抜きで会ったことはあったんだな。そのうちの一回は二丁目に連れて行って、マッシモを試すようなことをした。あのときの俺は、嫌われたかったのか。
 青春なんていう言葉は、たとえば高校のグラウンドや賑やかな夏祭りにだけ使われるものじゃないと、後になってから理解はしたけれど、あのころの俺にはとても遠くに感じていた。そもそも俺は身体も大きいし運動神経にもそこそこ自信があり、実際中総体で県大会まで行ったバスケットボールを続けたくて仕方なかった。けれど中学校三年生の時点で、部室に転がっている性的なグラビアや回ってくる裏ルートのビデオに対して、他の男子と同じ反応をするフリができなくなっていた。興味がないと言えば、おまえはホモかと揶揄される。田舎の中学生のはやし立てかたは実に幼稚で、うんざりした。
 おまえはホモか。ああそうだ、ホモだよ。あのときにそう答えていたら、奴らはどんな顔をしたろう。
 いつか女に性的な興味が持てるかも知れないと、いろいろなタイプのグラビアを漁るようにして見ていた。確かに乳房は柔らかそうだし、顔は可愛らしいし、唇は熟れた果物みたいだけれど、それだけだ。触れてみたいなんて思いもしなかった。自分は自分だなんていう価値観は持てず、ただ尋常でない自分の性的欲求に怯えて、ひたすらに知られてはならないと思っていた。
 まだインターネットは一般的でなく、深夜のラジオなんかで覚えた言葉を頼りに、ひとつひとつ情報を拾った。街の大きな本屋で、はじめて雑誌を取り寄せてもらったときは、手が震えた。家に電話が来ないように前払いで清算し、受け取りに行くときは左右をキョロキョロしながら電車に乗った。

 けして生きやすい未来があったわけじゃない。今でもできれば他人には知られたくないと思っているし、実際自分から言うことはない。けれどそうなのかと問われれば、否定しない程度の肯定感を持てるようになった。
 俺はホモだよ。そうか、僕はヘテロだ。
 あのとき、もしもマッシモが少しでも俺を否定するような素振りを見せていたとしたら、現在の俺はなかったろう。マッシモの言葉は、自分はそうでないけれど、そういうひともいるんだと認めているように聞こえた。こちらの勝手な希望的な受け取り方だったかも知れないけれど、ふたりでユーキを見送った帰りにも、俺とマッシモは普段の距離だった。その態度にどれだけ救われたかなんて、俺にしかわからない。
 こっそり盗み見るマッシモの横顔が向いている先には、大抵ユーキがいた。どんなに羨ましくても悔しくても、マッシモのせつない視線が自分に向けられる日はないのだと、知っていた。俺がジタバタした末に自分が同性愛者だと認めざるを得なかったように、異性愛者が努力して同性愛者に変化することはない。これは自然の摂理であり、本人の意思じゃない。
 最近では、性別関係なく愛することのできるひとや、性に対しての欲がまったく持てないひと、身体だけが一方を受け入れるひと、それだけではなくたくさんの例が巷に情報として挙げられ、自分の覚えていた小さな違和感が解決したなんて言葉も聞く。主にインターネットで。匿名の告白の裏には、誰かの淡い癒しがある。

 コウヘイさんの後を追って俺は生活する場所まで変えたけれども、コウヘイさんは俺を恋人として受け入れてくれたわけじゃない。もとより彼自身の身体の都合もあるし、性別に関心が薄いのは生まれつきかどうかは知らない。
 ただ彼が俺を大切に思ってくれているのは伝わるし、俺も彼と過ごす時間の安寧さとやさしさの持続を願っている。彼が刺身の醤油に菊の花を散らす仕草や、レコード盤を変える表情や、ソファに掛けてコーヒーを口に運ぶ一連の動き、そんなものが俺にとってはセックスよりも重要だ。
 もっとも、何度かこっそり男と関係を持ったのは確かで、俺も聖人君子ってわけでもなく、ただ後腐れがなかったのはラッキーだったとしか言いようがない。知れてしまったとてコウヘイさんは、きっと何も言わない。彼の関心は、基本的に肉体に向かっていないから。俺が勝手に後ろめたく思っているだけだ。

 中距離列車のボックス席で、ユーキは窓の外を見ている。村井先生の三回忌に出席するのは、先生のお孫さんと俺とユーキだけだ。赤の他人である俺たちが出席するのはおかしいけれど、納骨もユーキとふたりだったと言うから、何か複雑な事情があるのだろう。
 いらっしゃいませんか、と連絡をくれたのは、村井先生のお孫さんだった。あの年齢になった祖父に連絡をくださっていたのはお二方だけでしたから、と。面倒見がよくユーモアのあるひとで、授業に人気があったけれども、年月が経てば記憶の底に紛れてしまう。ユーキがいなければ、俺もそうなっていただろう。東京に就職するときに、走り回って寮のある職場を探してくれた恩を忘れて。
 ユーキの義理堅さは、記憶に繋がっている人間が少ないからではないか。掛け値なしの好意だけで動いてくれた先生を、ユーキは宝物のような記憶として大切にしているのだと思う。

 今回、店を休んでまでユーキと一緒に行こうと思ったのは、おそらく最初で最後だから。チヒロから聞いた話が正しければ、ユーキはやっと自分の楽しみのために動き始めたのだ。
 若いころからユーキにはたくさんの縛りがあり、家庭環境だったり経済問題だったり、あらゆる場所で求められる身元保証だだったり、子どもを産んでからは一番にチヒロの存在があった。いつだかマッシモが、ユーキはやっと自分らしさを模索していると言っていたけれど、短い結婚生活とともにそれは中断されたままだった。あれはマッシモが自分を盾にしてでも、ユーキの心を守る決意をしていたからなのか。
 足に繋がれた枷をひとつひとつ外しても、彼女の足取りは軽やかにならなかった。繋がれている重石の存在を、足が記憶しているみたいに。もう彼女を卑しい者のように言ったりするひとはいないのに。
 何がきっかけでユーキが変わったのかは知らない。位牌のマッシモに会いに行ったとき、ユーキは確かに雲の晴れたような様子ではあった。そして今日、買い込んだ弁当の味付けが気に食わないと文句を言いながら、ユーキは最近美術館巡りをしているなんて話をした。資料を持って帰ったりしてさ、ひとり郷土史研究会みたいになってるよ、なんて言う。計画立案も実行者も自分だけだけどね、なんて。
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