二等辺三角形プラス

蒲公英

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二十歳

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 休憩時間の漁師たちが店から出てしまうと、次は海から上がってきたサーファーたちが来るまでヒマだと、オガサーラは休憩中の札を下げた。
「旨い魚を食わせてやる。ちょっと待ってな」
 そう言うとスマートフォンを出して、誰かに電話する。昼食は外で摂るから心配いらない、とかなんとか。
「誰か待ってるの?」
 そう訊ねると、意外な答えが返ってきた。
「リタさんだよ。自分の仕事がないときは、俺の食事の心配をするから」
「いつも一緒に食べてるの?」
 なぜかオガサーラは驚いた顔になり、聞いてないのかと呟いた。
「何が?」
「おいおい話すわ。それより、俺に話があるんじゃないのか」
 そうだ。とりあえず目的を果たそう。

 連れて行ってもらった定食屋は、とんでもなく旨かった。刺身も焼き魚も、普段居酒屋で出されるものとは別の魚みたいだ。そのあとオガサーラの店に戻り、もう一度コーヒーを淹れてもらった。大体話を説明すると、オガサーラは大きく頷いた。
「おまえの父親の家は、確か母方の姓だったな。おそらく一人娘だったんだろう。親父は役場勤めだったから、大した資産はないはずだ」
「友達の家の事情まで、そんなに知ってるんだ」
「クソ田舎だからな。三軒先の子供の通知表の内容だってわかるぞ。個人情報保護法なんて、違う国の法律なんだから」
 オガサーラは心底うんざりした声で言う。雑誌やネットで、楽しくて穏やかな田舎暮らしを特集されているけれど、中に入ると違うのかも知れないなと、ちらっと思った。
「ユーキは何も言わないよ。面白くなかろうがどうしようが、おまえさんの権利をどうこう言う女じゃない。ただ、先に報告だけはしておけ。内緒にできるような話じゃないから」
 母が感情的に、すべて放棄しろとか金を毟ってこいとか言うのは、考えにくい。けれど俺自身、顔も覚えていない、まして自分を誘拐しようとした人のお金っていうのは、抵抗がある。
「法律に則って言えば、おまえの相続権は四分の一だな。内訳はあちらさんで考えてるだろうから、ひとつだけ言っておく。土地家屋の相続は断れ。おまえから見たらビックリするような大きい家と広い庭だろうけど、それをもらうと自動的に寺関係の義務もついてくる。墓の管理と祭りと地域奉仕がセットで、そこに住んでいなくても参加と寄付金を求められる」
 オガサーラの口調は変わらずにうんざりしていて、本当にその土地を嫌っているみたいだ。そういえば母も、懐かしんだ話をしたことがない。
「田舎、嫌いなんだね」
「田舎は嫌いじゃない。住んでるひとたちも、個人的には嫌いじゃない。ただあの人間関係が嫌いなんだ」
 母は、と思う。あちらに用事があるとき、交通の便が良くないにもかかわらず、母は必ず日帰りだ。朝一番の新幹線で出て、夜に帰ってくる。景色を懐かしんだり古い知り合いに会いに行ったりすることはない。

「俺の父親って、どんなひとだったの」
 母にはできない質問を、オガサーラにぶつけてみる。
「物静かで、感情を表に出さないヤツだったな。成績が良くて、特に数学が得意だった。ユーキの言うところの、真っ当に生まれ育ったひと見本、みたいな感じだったね。家にも学校にも何も心配がなくて、そのぶん他人に気を配れた」
「面白くないひとだったんだね」
 成績だけが良くて、表情のない男が浮かんだ。
「それは違うな。個性は声高に主張しないからって、持ち合わせていないものじゃない。飄々とおかしなことをするヤツだったよ。部室の本棚を漫画の書庫にしちゃったのは、あいつだった」
 オガサーラの口調がやさしい。そうか、動画で見た父は、確かに楽しそうだった。俺は父がどんなひとなのか想像するしかないけれど、オガサーラと母は知っているのだ。
「うちの両親って、高校時代からつきあってたの?」
 これも聞きたかった。母は何も言わないから。
「いや、それはない。ユーキはそれどころじゃなかったし、学生時代だって俺とマッシモがユーキの所在地に何回か行ったくらいで、大したつきあいはしてない。ヤツらが卒業してすぐ、結婚することにしたなんて言い出して、ぶっ飛んだよ」

 それから話を変えるように、僕の近況を質問してきた。同棲しようと思っていた相手と別れたこと、夜中に使えるフットサルのコートがあること、居酒屋のアルバイト仲間のこと。小学生が父親に報告するみたいに洗いざらい話してしまい、居心地の良さと悪さが同居する。小さいころから知っているとはいえ、オガサーラは身内でも何でもないのに。
「俺は小さいころ、オガサーラに父親になって欲しかった」
 オガサーラは驚いた顔をしてから、斜め上に息を吐いた。
「俺もおまえを育てたい時期があったよ。でもそれはユーキが決めることだったし、結果的にはそれで良かった」
 これでおしまい、と言わんばかりに、話は唐突に切られた。入口ドアの向こうに、客の姿が見えたらしい。
「午後の営業時間だ。客を入れなくちゃ」
 連絡もせずに来た俺が悪いし、明るいうちに海沿いをドライブするのも悪くない。翌日は朝から引っ越しのアルバイトだからと言って、夕食までいろと言ったオガサーラに別れを告げた。
「今度はちゃんとアポ入れてから来るよ」
「バタバタしてて、悪かったな。ユーキによろしく言っておいてくれ」
 母に渡すようにと、オガサーラは豆を挽いてアルミの袋を閉じた。母の好きな深煎りのコーヒーは俺には少しヘビーだけれど、淹れるときの母の表情は穏やかだ。
 ありがとうと挨拶して、店を出る。久しぶりに大人と話した気がする。

 やはり、オガサーラが父親になっていなくて良かったのかも知れない。母が対外的にはとても信頼のある大人だとは知っていても、俺の中にはどこか軽んじている部分があって、会話の中で納得できない部分は相手の非と受け止めてしまうことがある。オガサーラと一緒に暮らしていたなら、やはり同じように感じるのではないか。
 高校時代の友人の中に全日本級のスポーツ選手がいたけれど、教室の中では同じ学生だった。彼をテレビの中に見ながら、俺ももう少し頑張っておけばと思ったことがあるけれど、本当はもう少しなんて問題じゃないのだ。身近なひとの素晴らしさは、遠くからひいてみないと見えない。オガサーラの懐が深く見えるのだって、普段一緒にいないからなのだ。
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