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四十八歳
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チヒロは恋人と上手くいかなくなったらしい。最近毎日帰宅するなと思っていたら、突然オガサーラの店まで行ったと、オガサーラから聞いた。確かに車を一日貸してくれとは言われたけれど、行先はまでは言わなかったから、てっきり友達と遠出したのだと思っていた。
「なんで、あんたなのよ」
「おまえさんには言いにくかったんだろ。同棲するって騒いどいて、すぐ別れたとか」
「まあ、確かに恥ずかしいわ」
チヒロは今、夏休み中だ。稼げるうちに稼ぐのだと言って、引っ越しと居酒屋のアルバイトを掛け持ちしていて、その間に友達との予定を押し込み、同じ家に暮らしていても顔を見る時間は少ない。
「おまえ、俺がゲイだってチヒロに教えてなかったんだな。小さい頃の短期間の同居が、ヤツの記憶の中ではずいぶん長期になってて、なんで結婚しなかったのって訊かれたよ」
「余計なこと言って、色眼鏡かけさせることになったらイヤだったからね。そっか、オガサーラにお父さんになって欲しいってのは、本気だったのか」
シンガポールから帰国して、日本の学校に馴染むのに時間がかかったチヒロを、二週間ほどオガサーラの家に滞在させたことがある。登校する時間になると蕁麻疹を出すようになったチヒロの環境を、一時的に変えたのだ。店の仕込みを手伝ったり、リタさんの家で庭仕事を教えてもらったりして、すっかり明るい顔になって戻ってきたチヒロが言った。家の中に男のひとがいるのって、いいねえ。向こうにいる間、お父さんってこんな感じなんだって楽しかった。お母さん、オガサーラと結婚すればいいのに。チヒロの言葉に、それは無理だと笑ったけれど、なぜ無理なのかは説明しなかったし、チヒロもその話はそこまでにしていた。だからあれは、その場で思いついたことを口に出しただけだと思っていた。
「シンガポールに行ったころも、帰ったらオガサーラお風呂に入るって言ってたなあ。そっか、やっぱり父親のいる家庭に憧れてたか」
そういうことは口に出さない子供だった。
「五年ぶりだよ、中学校の最後の夏休みに来たっきりだから。店のドアが開いたとき、皿落としそうになったわ。あんなに似てたか?」
「色白の細面で、身長もほぼ同じだしね。もともとの骨格が似てるんだよ。高校までは部活で日焼けしたりしてたから、イメージが違ったんだと思う」
オガサーラの驚きようが見えた気がした。私ですら、チヒロの横顔をまじまじと見てしまうことがあるのだ。けれど表情はまったく別物で、まして他人と関わりあう姿勢においては、赤と青くらいの違いがある。
それにしても、何故突然オガサーラに会いに行こうと思い立ったのだろう。
「ちょっと相談を受けた。おそらく数日中にチヒロから報告するだろうから、俺から聞いたとは言わないでくれ。真下の家の相続の件で来てくれって、行政書士から手紙が届いたそうだ。なんだかの代襲相続があるらしい。あいつ、誘拐されかけたことは覚えてるんだな」
「マッシモの妹から連絡があったから、私も知ってるんだけど。どっちにしろ正式に呼ばれるんならと思って、言わなかったんだよ。それで変な気をまわしたかな。事件の記憶は残る程度に育ってたものね。あのあとしばらく、私から離れなかったし。離籍届なんか出さなくても、マッシモの実家にはもう二度と関わらないと思ってたのに」
「あるんだよ。俺だって一生、小笠原家に生まれた子供だから」
戸籍に繋がるひとを持たない私には、その感覚はよくわからないけれど、確かに私が結城八重子の子供だという事実は消えない。
「あ、そうそう。ついでの報告みたいになっちゃうけど、俺も戸籍上は小笠原じゃなくなった。病院とか銀行とか、同一世帯じゃないと代理手続きできないことが多くて、これから増えていくことを考えれば、これがベストかなって」
「おめでとう! いつ改正されるかわからない戸籍法より、実をとった感じだね。オガサーラは千葉の海っぺりで生涯を過ごす覚悟ができたか。羨ましいね、そういう覚悟は」
マッシモならば大喜びでお祝いを携えて、すぐにオガサーラの住まいに向かったろう。今の私には、そんな行動力はない。やけに疲れて、他人の幸福を遠くから眺めている。
「いいなあ。私は人生が停滞してる気がする」
ふと出てしまった言葉が、私の本音かも知れない。チヒロは青年となり、私は更年期を迎えて、自分自身が次に来るのは余生なのだぞと考えてしまっている。それを否定するものが、見当たらない。
「なんかいろいろと、自己完結するクセは変わんないな。俺にでもチヒロにでも、何がモヤモヤしてるのか言っていいんだぞ」
オガサーラが呑気な口調で言うのも、なんだか癪に障る。
「そのモヤモヤの原因がわからないから、言えない」
芥川の書いたものではないが、ただぼんやりとした不安があるだけだ。これはマッシモがいれば抱かなかった不安なのだろうか?
時間を作って会いに行くとオガサーラに伝え、電話を切った。リタさんの家の敷地内に建てたオガサーラの工房と寝室だけの小さな小屋で、コーヒーを焙煎する香りを吸い込みたい。
「なんで、あんたなのよ」
「おまえさんには言いにくかったんだろ。同棲するって騒いどいて、すぐ別れたとか」
「まあ、確かに恥ずかしいわ」
チヒロは今、夏休み中だ。稼げるうちに稼ぐのだと言って、引っ越しと居酒屋のアルバイトを掛け持ちしていて、その間に友達との予定を押し込み、同じ家に暮らしていても顔を見る時間は少ない。
「おまえ、俺がゲイだってチヒロに教えてなかったんだな。小さい頃の短期間の同居が、ヤツの記憶の中ではずいぶん長期になってて、なんで結婚しなかったのって訊かれたよ」
「余計なこと言って、色眼鏡かけさせることになったらイヤだったからね。そっか、オガサーラにお父さんになって欲しいってのは、本気だったのか」
シンガポールから帰国して、日本の学校に馴染むのに時間がかかったチヒロを、二週間ほどオガサーラの家に滞在させたことがある。登校する時間になると蕁麻疹を出すようになったチヒロの環境を、一時的に変えたのだ。店の仕込みを手伝ったり、リタさんの家で庭仕事を教えてもらったりして、すっかり明るい顔になって戻ってきたチヒロが言った。家の中に男のひとがいるのって、いいねえ。向こうにいる間、お父さんってこんな感じなんだって楽しかった。お母さん、オガサーラと結婚すればいいのに。チヒロの言葉に、それは無理だと笑ったけれど、なぜ無理なのかは説明しなかったし、チヒロもその話はそこまでにしていた。だからあれは、その場で思いついたことを口に出しただけだと思っていた。
「シンガポールに行ったころも、帰ったらオガサーラお風呂に入るって言ってたなあ。そっか、やっぱり父親のいる家庭に憧れてたか」
そういうことは口に出さない子供だった。
「五年ぶりだよ、中学校の最後の夏休みに来たっきりだから。店のドアが開いたとき、皿落としそうになったわ。あんなに似てたか?」
「色白の細面で、身長もほぼ同じだしね。もともとの骨格が似てるんだよ。高校までは部活で日焼けしたりしてたから、イメージが違ったんだと思う」
オガサーラの驚きようが見えた気がした。私ですら、チヒロの横顔をまじまじと見てしまうことがあるのだ。けれど表情はまったく別物で、まして他人と関わりあう姿勢においては、赤と青くらいの違いがある。
それにしても、何故突然オガサーラに会いに行こうと思い立ったのだろう。
「ちょっと相談を受けた。おそらく数日中にチヒロから報告するだろうから、俺から聞いたとは言わないでくれ。真下の家の相続の件で来てくれって、行政書士から手紙が届いたそうだ。なんだかの代襲相続があるらしい。あいつ、誘拐されかけたことは覚えてるんだな」
「マッシモの妹から連絡があったから、私も知ってるんだけど。どっちにしろ正式に呼ばれるんならと思って、言わなかったんだよ。それで変な気をまわしたかな。事件の記憶は残る程度に育ってたものね。あのあとしばらく、私から離れなかったし。離籍届なんか出さなくても、マッシモの実家にはもう二度と関わらないと思ってたのに」
「あるんだよ。俺だって一生、小笠原家に生まれた子供だから」
戸籍に繋がるひとを持たない私には、その感覚はよくわからないけれど、確かに私が結城八重子の子供だという事実は消えない。
「あ、そうそう。ついでの報告みたいになっちゃうけど、俺も戸籍上は小笠原じゃなくなった。病院とか銀行とか、同一世帯じゃないと代理手続きできないことが多くて、これから増えていくことを考えれば、これがベストかなって」
「おめでとう! いつ改正されるかわからない戸籍法より、実をとった感じだね。オガサーラは千葉の海っぺりで生涯を過ごす覚悟ができたか。羨ましいね、そういう覚悟は」
マッシモならば大喜びでお祝いを携えて、すぐにオガサーラの住まいに向かったろう。今の私には、そんな行動力はない。やけに疲れて、他人の幸福を遠くから眺めている。
「いいなあ。私は人生が停滞してる気がする」
ふと出てしまった言葉が、私の本音かも知れない。チヒロは青年となり、私は更年期を迎えて、自分自身が次に来るのは余生なのだぞと考えてしまっている。それを否定するものが、見当たらない。
「なんかいろいろと、自己完結するクセは変わんないな。俺にでもチヒロにでも、何がモヤモヤしてるのか言っていいんだぞ」
オガサーラが呑気な口調で言うのも、なんだか癪に障る。
「そのモヤモヤの原因がわからないから、言えない」
芥川の書いたものではないが、ただぼんやりとした不安があるだけだ。これはマッシモがいれば抱かなかった不安なのだろうか?
時間を作って会いに行くとオガサーラに伝え、電話を切った。リタさんの家の敷地内に建てたオガサーラの工房と寝室だけの小さな小屋で、コーヒーを焙煎する香りを吸い込みたい。
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