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四十八歳
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マサナオさんに誘われてコンサートへ行ったのは、それから一月ほど経ってからだった。
「いただきもののチケットがありまして。もしお時間がありましたら」
コンサートホールに足を運ぶのは、生まれて初めてだ。クラシック音楽が好きでないわけではないけれど、なんとなく敷居が高いような気がしていた。
お礼にと夕食を一緒にして、マサナオさんの仕事を知った。
「施設の音響設計に携わっていまして。だからときどき、チケットをいただくことがあるんです。いつもは知人に譲ったり、ひどいときは売ってしまったりするんですが、真下さんが来てくださるなら、と」
「楽しかったです。生の演奏って、当然ですがレコードと違うんですね。この年齢まで知らなくて損をした気分です」
ドレスコードはなかったけれど、場所に合わせたつもりでワンピースを着ていた。
「先日のシャープなスーツ姿とは違って、そんなスタイルも素敵ですね」
「あら、褒めるのがお上手。出かけるのが久しぶりなので、クローゼットから探し出しました」
「僕はスーツすら数着です。会社の女の子を見てると、毎日とっかえひっかえ大変だなあと思いますよ」
「おしゃれな人は、着回しが上手ですから。私はそんなにバリエーションはありません。これも十年以上前のものだし」
チヒロを真下家に捕られないように、しばらく行っていたシンガポールで買い求めた記憶がある。私が仕事を終えて帰宅するまでの時間を、チヒロは定年後移住したという日本人夫婦の家でお世話になっていた。その家の奥さんが仕立てることを勧めてくれたものだ。
世間話のような会話は、ずいぶん昔に慣れた。子供がいるからと社内のつきあいは薄くとも、化粧室やロッカールームで会話を交わすことはあるし、一昨年までは年に何度かチヒロの学校に行くこともあったので、親同士の会話もあった。
けれど一歩でも踏み込まれれば自分の返事が固くなるのは自覚していて、親しい友人を作ることをためらっていたのではないが、できるような努力はしなかった。
考えてみれば、一緒に出歩くような友人を持っていないのだ。肉親も配偶者を通しての親戚づきあいもない。単身者ではあっても、趣味の仲間を見つけたり仕事先で気の合う友人を持ったり、学生時代からの繋がりを保っているひとだっているが、私は他のひとが当然のように手にしているものを持っていない。
チヒロが巣立つのは、長くても数年のうちだ。そのあと私はマッシモと選んだ部屋で、ひとりの生活を送ることになる。理解していて、チヒロが手のかかった時代には楽しみにすらしていたことなのに、想像しただけで寒々しい心持になるのは、私に老いが迫ってきた証拠なのか。
私の欲しいものを全部持っていたマッシモは、これからは全部共用できると言ったのに、子どもですら共用できなかった。もうとうに消化したと思っていた感情が、急激に膨れ上がる。ああ、私はここ最近おかしい。
「家の中を整理していると、意外な場所から意外なものが出てくるんです。祖母の遺品は祖父がずいぶん整理したのですが、まだたくさん残っていて。気に入っていた着物とか、彼女がスクラップしていた料理の記事とか、捨てるのにしのびなかったんでしょうね。おかげで僕は倍、しのびない気分を味わうことになります」
「それは愛された子供だったからですよ」
ぽろりと出た言葉は、普段なら心の中で呟くだけのものだった。そのあとに流れ出した言葉は、意識の表に出ないように自分で気を付けて蓋をしていたものだ。
「タンスの中のものも鏡台の上も、片っ端からゴミ袋に詰め込んで、解体業の友達がすべて運び出してくれて、誰の痕跡もない部屋の真ん中で、私が感じたのは解放感でしたもの。これで二度と母のことを思い出さなくて済む、彼女がトラブルに巻き込まれたり生活するお金に困ったらなんて心配も、何もなくなったのだと。でそれなのに私は、アルバムを一冊持ち出したんです。結局それは開かれないまま、我が家のクローゼットの奥にまだあります。片付け物をするたびに嫌な気持ちになるのに、捨てることもできないんです」
一度口に出しはじめたら、止まらなくなった。何度も会っていない、私の暮らしていた環境を知らないひとに向かって、相槌の打ちようのない話をするなんて。
年齢を重ねている人間が自分の感情を抑制できないことを、マサナオさんは呆れているのではないかと、やっと止まった言葉のあとに思う。話している最中は、彼の顔も見ていなかったのだ。
我に返って見たマサナオさんの顔には、何も浮かんでいなかった。同情も軽蔑もなく、ただ私の言葉を言葉通りに聞いていた。
「出ましょうか」
食事は終わっていた。顔を直してくると言って席を立ち、勘定を済ませて戻ると、マサナオさんはスマートフォンを弄っていた。横顔が少し、村井先生に似ていた。
店を出てから歩き出した道で、詫びを言った。楽しかった時間に水を差した、と。
「そんなことはありません。僕の事情の断片を真下さんが知っているように、僕も真下さんの断片を知っただけです」
そして続けて言う。
「僕だけ名前で呼ばれるのは、どうも座りが悪い。僕も名前でお呼びしても構わないですか」
マッシモに呼ばれなくなってから二十年の間、私を姓でなく名で呼んだひとはいなかった。
なんだかいろいろなものが押し寄せる波となり、別々の電車に乗ったあとに、私は茫然とガラス窓に映る自分の顔を眺めていた。
「いただきもののチケットがありまして。もしお時間がありましたら」
コンサートホールに足を運ぶのは、生まれて初めてだ。クラシック音楽が好きでないわけではないけれど、なんとなく敷居が高いような気がしていた。
お礼にと夕食を一緒にして、マサナオさんの仕事を知った。
「施設の音響設計に携わっていまして。だからときどき、チケットをいただくことがあるんです。いつもは知人に譲ったり、ひどいときは売ってしまったりするんですが、真下さんが来てくださるなら、と」
「楽しかったです。生の演奏って、当然ですがレコードと違うんですね。この年齢まで知らなくて損をした気分です」
ドレスコードはなかったけれど、場所に合わせたつもりでワンピースを着ていた。
「先日のシャープなスーツ姿とは違って、そんなスタイルも素敵ですね」
「あら、褒めるのがお上手。出かけるのが久しぶりなので、クローゼットから探し出しました」
「僕はスーツすら数着です。会社の女の子を見てると、毎日とっかえひっかえ大変だなあと思いますよ」
「おしゃれな人は、着回しが上手ですから。私はそんなにバリエーションはありません。これも十年以上前のものだし」
チヒロを真下家に捕られないように、しばらく行っていたシンガポールで買い求めた記憶がある。私が仕事を終えて帰宅するまでの時間を、チヒロは定年後移住したという日本人夫婦の家でお世話になっていた。その家の奥さんが仕立てることを勧めてくれたものだ。
世間話のような会話は、ずいぶん昔に慣れた。子供がいるからと社内のつきあいは薄くとも、化粧室やロッカールームで会話を交わすことはあるし、一昨年までは年に何度かチヒロの学校に行くこともあったので、親同士の会話もあった。
けれど一歩でも踏み込まれれば自分の返事が固くなるのは自覚していて、親しい友人を作ることをためらっていたのではないが、できるような努力はしなかった。
考えてみれば、一緒に出歩くような友人を持っていないのだ。肉親も配偶者を通しての親戚づきあいもない。単身者ではあっても、趣味の仲間を見つけたり仕事先で気の合う友人を持ったり、学生時代からの繋がりを保っているひとだっているが、私は他のひとが当然のように手にしているものを持っていない。
チヒロが巣立つのは、長くても数年のうちだ。そのあと私はマッシモと選んだ部屋で、ひとりの生活を送ることになる。理解していて、チヒロが手のかかった時代には楽しみにすらしていたことなのに、想像しただけで寒々しい心持になるのは、私に老いが迫ってきた証拠なのか。
私の欲しいものを全部持っていたマッシモは、これからは全部共用できると言ったのに、子どもですら共用できなかった。もうとうに消化したと思っていた感情が、急激に膨れ上がる。ああ、私はここ最近おかしい。
「家の中を整理していると、意外な場所から意外なものが出てくるんです。祖母の遺品は祖父がずいぶん整理したのですが、まだたくさん残っていて。気に入っていた着物とか、彼女がスクラップしていた料理の記事とか、捨てるのにしのびなかったんでしょうね。おかげで僕は倍、しのびない気分を味わうことになります」
「それは愛された子供だったからですよ」
ぽろりと出た言葉は、普段なら心の中で呟くだけのものだった。そのあとに流れ出した言葉は、意識の表に出ないように自分で気を付けて蓋をしていたものだ。
「タンスの中のものも鏡台の上も、片っ端からゴミ袋に詰め込んで、解体業の友達がすべて運び出してくれて、誰の痕跡もない部屋の真ん中で、私が感じたのは解放感でしたもの。これで二度と母のことを思い出さなくて済む、彼女がトラブルに巻き込まれたり生活するお金に困ったらなんて心配も、何もなくなったのだと。でそれなのに私は、アルバムを一冊持ち出したんです。結局それは開かれないまま、我が家のクローゼットの奥にまだあります。片付け物をするたびに嫌な気持ちになるのに、捨てることもできないんです」
一度口に出しはじめたら、止まらなくなった。何度も会っていない、私の暮らしていた環境を知らないひとに向かって、相槌の打ちようのない話をするなんて。
年齢を重ねている人間が自分の感情を抑制できないことを、マサナオさんは呆れているのではないかと、やっと止まった言葉のあとに思う。話している最中は、彼の顔も見ていなかったのだ。
我に返って見たマサナオさんの顔には、何も浮かんでいなかった。同情も軽蔑もなく、ただ私の言葉を言葉通りに聞いていた。
「出ましょうか」
食事は終わっていた。顔を直してくると言って席を立ち、勘定を済ませて戻ると、マサナオさんはスマートフォンを弄っていた。横顔が少し、村井先生に似ていた。
店を出てから歩き出した道で、詫びを言った。楽しかった時間に水を差した、と。
「そんなことはありません。僕の事情の断片を真下さんが知っているように、僕も真下さんの断片を知っただけです」
そして続けて言う。
「僕だけ名前で呼ばれるのは、どうも座りが悪い。僕も名前でお呼びしても構わないですか」
マッシモに呼ばれなくなってから二十年の間、私を姓でなく名で呼んだひとはいなかった。
なんだかいろいろなものが押し寄せる波となり、別々の電車に乗ったあとに、私は茫然とガラス窓に映る自分の顔を眺めていた。
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