二等辺三角形プラス

蒲公英

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四十八歳

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 その便りが届いたのは、八重桜が散るころだった。村井邦男が亡くなりました。長年のおつきあいを有難うございました。そんなふうに書かれていた。享年九十四歳、とあった。
 三十年経って私たちは立派な中年なのだから、先生もお年を召されるはずなのに、うっかり忘れてしまうくらい先生の文字はずっとお元気だったのに。最後にお会いしたのは確か六年前、そろそろ歩くのが億劫になってきたからと、サービス付き高齢者住宅に入られたときだった。会いに行った私に、少しだけ身体が小さくなられた先生は、不便なのは自宅にある資料を孫に運ばせなくてはならないことだと笑っておられた。書斎のものをまるまる置くだけのスペースが欲しいけれど、それは我儘だねと。
 父を知らない私に唯一父性を感じさせてくれた先生だったが、もう遠く離れてしまっていて、ああそうかと思うだけなのは薄情だろうか。
 けれどやはり一言お礼が言いたくて、良い思い出のない場所まで足を運んだ。

 手紙の住所を訪ねると、古い引き戸の玄関を開けて孫というひとが部屋へ案内してくれた。仏壇に線香をあげて手を合わせ、出されたお茶を啜った。
「男所帯でしたから、いろいろわからなくて。普段の生活に不自由はなくても、こういうとき男は役に立ちませんね。平均寿命が女性のほうが長いのは、世の男にとってありがたいことかも知れません」
 四十前後であろう男は、小さく笑った。
「真下さん、ですよね。祖父の自慢の教え子だった、旧姓は結城さん」
「自慢していただけるような人間ではありませんが」
「とても優秀な努力家だと、常々言っておりましたよ。ついでに言わせていただければ、おまえに見せたくないくらいの美人だと」
「あら、それではガッカリなさったでしょう」
「とんでもない。本当だったなあと感心しているところです」
 それから先生の書斎を見せていただいた。本棚に一列ファイルが並んでおり、先生の文字で年度が入っていた。
「これが教師時代の宝でしたね」
「見せていただいても?」
 許可をいただき、最後の年度のファイルを開いた。

 マッシモの几帳面な文字のレポート、オガサーラの図解。この部誌の表紙のレタリングは私がした。文化祭で並べたときの先生の満足そうな顔を覚えている。木の天板の机、シャープペンシルで書かれたノート、学生服の中に着ていたオガサーラのボーダーのシャツ、マッシモの上履きの踵のつぶれ方。
 急激に引き戻された過去に眩暈を起こし、私はそこに座り込んだ。あの張り詰めた毎日の中で、私の一番の拠りどころだった場所があった。私が結城八重子の娘だと嗤われず、誰もいない古い公営住宅で物音に怯えずに済んだ場所だ。私はただの高校生で、気の置けない友人がいるのだと思えた場所だ。
「大丈夫ですか」
 ファイルを胸に抱えたまま立てなくなった私を、男はオロオロと見守っているだけだった。できることならば、私をこの部屋にひとりにして欲しいと言いたかったけれど、それは身勝手に過ぎる望みだと理性だけは働いた。
「申し訳ありません。少しいろいろなことを」
 すべては言葉にならず、我知らず喉が詰まった。抑えることが間に合わす、大きくしゃくりあげた。
「座を外しましょう。お好きなだけいてくださって結構です」
 書斎の引き戸がカラカラと引かれた途端、自分の意志とはまるで無関係なところで堰切れた涙が、ボタボタと畳に落ちた。
 なんだろう、これは。三十年も経っていて、悲しんだり苦しんだりはしたが、人並みに子供を育て上げる喜びを持ち、不自由しない程度の生活もできているというのに。こんな一瞬で私はあのころの、隙を見せるまいと鎧を身に纏ったユーキに戻ってしまう。教室では顔を伏せ、本を読んでいるふりで休み時間をやり過ごし、アルバイト先の店主は良いひとたちだったが、やはりと言われないようにずっと気を張っていた。暗くて冷えた家の中で、炬燵に潜り込んで過ごした冬は、図書館で借りた問題集を何度も繰り返した。母のようにはならない、母のために自分を曲げたりしないと自分に言い聞かせて、他人の言葉に耳を塞いでいた。

 ひとりじゃないんだよ。常に未来の自分とふたり連れなんだ。現在が辛くても、未来の自分は必ず待っていてくれる。あれは入学した年の秋だった。たまたま部室で先生とふたりになったときに、不意に言われた言葉だ。あのときの先生の目はとてもやさしかった。信頼できる大人を知らなかった私が先生に心を開いたのは、私の生活について一度も聞き出そうとしなかったからだったと思う。おまえの母親はどうしているのかとか、悩み事があれば相談しなさいとか言われるのには、うんざりしていた。家のことについて教師に相談したって解決しないことは知っていたし、私は悩んでいたのではなく諦めていたのだ。三年生になって進路を決めなくてはならないときに、村井先生にだけ進学したいと打ち明けたのは、彼ならば親と相談しろなんて陳腐な回答を返して来ないだろうと思ったからだ。
 村井先生はある程度私の状態を把握していて、保証人欄に母親の名さえ入れられるのなら、連帯保証人を引き受けてやろうと言ってくださった。きっと四年間やり遂げるって約束してくれよ、でないと破産だと笑って。私は村井先生に報いるためにも、四年間新聞を配達し続けなくてはならなかった。

 高校生の自分が、帰る場所を求めて私の中を歩き回っている。三人で座っていた神社の境内には、木漏れ日が差していた。あのころの私に会いたい。
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