13 / 53
三十八歳
1
しおりを挟む
いつか高校生のころに、郷土史研究会で文化財を取材したことがあった。間引き絵馬と言われている、嬰児殺しの絵馬だった。天保の飢饉のために子供を間引きしたのだと住職に説明されたとき、ユーキの顔色が変わったのを覚えている。後にチヒロを産んだあとに、ユーキから説明されたことがある。
「食べるものすらなくても、男と女は交わるのかって思った。子供ができたらどうなるのかなんて考えないで、欲望を優先させるのかって。そう思ったら、あの鬼のようになっている母親の絵が恐ろしくて恐ろしくて。私の母も欲望を優先して身籠って、生かされているのは現代だからなのかって」
ユーキの母親が家に帰ってこなくなったのは、ユーキの祖母が死んでかららしい。
「チヒロを産んで、気がついたんだ。あのひとは、ずっと祖母の娘だったのよ。私を育てるのも、祖母に叱られたくなかっただけで、自主的にしたかったんじゃない。だから指示したり叱ったりする人がいなくなって、箍が外れたんだわ。何故私を産んだのかは知らないけど、興味のないものに目を配れるようなひとじゃなかった。欲しければ手を伸ばして、すぐ飽きる。そんな子供に母性を欲しがってたんだよ、私」
諦めたような吹っ切れたようなその表情には、高校時代の触ると切れそうな鋭さはなかった。
俺はずっとユーキが怖かった。一緒に笑ってはいても、瞳の奥で他人をじっと観察しているような、それでいて何かの拍子に壊れそうな、厄介で危ない存在だった。いきおい俺は行動に更に気を付けるようになり、卒業式前日の事件まで、うまく隠していたつもりだった。あの日、マッシモとふたりでユーキを送り、帰り道に聞いたのだ。言い出した男子をユーキが鞄で殴ったと。まあ、そのあと僕も机を蹴倒しちゃったんだけど、とマッシモは笑っていた。今まで隠していた俺を、ふたりともよくある秘密であるかのように受け入れてくれた。あの日にはじめて、郷土史研究会の中では俺は異端じゃないのだと思った。翌日には卒業式だったけれども。
だからマッシモがユーキと結婚すると言ったとき、さびしくも切なくもあったけれども、同時に安心した。マッシモのパートナーがユーキならば、俺を否定せずに関係を続けてくれるだろう。そうしたら俺は、まだマッシモと親しいままでいられる。
高校の入学式のあと、誰ともつるまずに歩いている男がいた。田舎の高校は近隣の中学校からの入学が大半で、みんな誰かしらと話しながら歩いていたというのに、その男はひとりだった。色の白いやさしげな風貌で、ただ飄々と歩いていただけだ。その佇まいが、心に残った。
部活動を決めなくてはならなくなり、もとより体格に恵まれた俺に運動部の勧誘は多かったけれども、それはすべて断った。すでに自分が同性愛者だと自覚していたので、ばれる惧れのある他人との濃密な接触を避けたかったからだ。そこで幽霊部員しかいないと噂の、郷土史研究会の部室の扉を開けた。
やけに身体の細いクールな外見の女子と一緒に、彼が教師の話を聞いていた。入学式のときの、と思った瞬間に、俺は恋に落ちていたのだと思う。自分の恋が実らぬものなのは知っていて、それでも俺は夢見た。けれど夢を見ているうちに、彼がずっとクールな外見の、つまりユーキのことばかりを気にしていることに気がついた。
ああ、やっぱり。そうとしか思わなかった。俺の恋は誰にも悟られてはならないもので、妄想が現実になることなんてあり得ないのだ。いくらその手に触れたいと思っても、眠れないほど笑顔を思い浮かべても、それを告げた瞬間に相手は自分から離れていくことが確実だ。だから俺は、ずっと仲の良い友人の位置をキープし続けた。彼に有用だと思われるために、郷土史研究会の雑用を買って出たりもした。大学進学を考えている彼と、地元で就職する予定の俺とでは、どちらにしろ卒業後に離れ離れになってしまう。せめてそれまでは、と。
義姉に同性愛者だと知れたのは、ほんの少しの油断からだった。同性愛者用の情報誌っていうのは少なくて、俺は電車に乗って少し開けた地域まで買いに行っていた。そうしてそれを外で丹念に読み、興味深い記事は切り取ったり書き写したりしてから、家から遠い公園のゴミ箱に捨てて帰った。けれど、そのときはそうできなかったのだ。巻頭グラビアのモデルが、マッシモに似ていた。そのページをカッターで傷つけたくなくて、鞄に入れたまま持って帰った。
「勝己くん、お弁当箱出して」
義姉にそう言われたとき、俺はうっかりいつものように、鞄に入っていると答えた。仕方ないわねぇ、と言いながら鞄を開けた義姉の手には、弁当箱じゃなくて件の雑誌が握られていた。
そこから先のことは、思い出したくない。精神科を受診させられそうになったり、甥が近寄ろうとするのを義姉が金切り声で止めたり、そんな出来損ないは寺に行けと言われたり、まあ散々だった。救いは祖母がまだ当主であったことで、そんなものは昔からある文化で、おまえたちがそれを知らないからって勝己を否定するなと言い切った。祖母は田舎では珍しく女学校を出たインテリで、祖父亡き後大きい農家を切り盛りしていた貫禄十分の刀自であったから、俺が家を出たほうが良いと判断してくれたのも祖母だった。
「都会には、いろんなひとがいるからね。あんたみたいなものは、田舎に住んでたら捻じ曲がってしまう。都会に行って、上手く息のできる場所を探しなさい」
これには本当に、感謝しかない。俺が二十年の間に田舎に帰ったのは、後にも先にも祖母の葬儀だけだった。尤も、何回か会ってはいた。母がこっそりと、通院や入院のタイミングを見計らって取り次いでくれていたから、ターミナル駅の付近で会ったり病院に顔を見に行くことはできていた。
「食べるものすらなくても、男と女は交わるのかって思った。子供ができたらどうなるのかなんて考えないで、欲望を優先させるのかって。そう思ったら、あの鬼のようになっている母親の絵が恐ろしくて恐ろしくて。私の母も欲望を優先して身籠って、生かされているのは現代だからなのかって」
ユーキの母親が家に帰ってこなくなったのは、ユーキの祖母が死んでかららしい。
「チヒロを産んで、気がついたんだ。あのひとは、ずっと祖母の娘だったのよ。私を育てるのも、祖母に叱られたくなかっただけで、自主的にしたかったんじゃない。だから指示したり叱ったりする人がいなくなって、箍が外れたんだわ。何故私を産んだのかは知らないけど、興味のないものに目を配れるようなひとじゃなかった。欲しければ手を伸ばして、すぐ飽きる。そんな子供に母性を欲しがってたんだよ、私」
諦めたような吹っ切れたようなその表情には、高校時代の触ると切れそうな鋭さはなかった。
俺はずっとユーキが怖かった。一緒に笑ってはいても、瞳の奥で他人をじっと観察しているような、それでいて何かの拍子に壊れそうな、厄介で危ない存在だった。いきおい俺は行動に更に気を付けるようになり、卒業式前日の事件まで、うまく隠していたつもりだった。あの日、マッシモとふたりでユーキを送り、帰り道に聞いたのだ。言い出した男子をユーキが鞄で殴ったと。まあ、そのあと僕も机を蹴倒しちゃったんだけど、とマッシモは笑っていた。今まで隠していた俺を、ふたりともよくある秘密であるかのように受け入れてくれた。あの日にはじめて、郷土史研究会の中では俺は異端じゃないのだと思った。翌日には卒業式だったけれども。
だからマッシモがユーキと結婚すると言ったとき、さびしくも切なくもあったけれども、同時に安心した。マッシモのパートナーがユーキならば、俺を否定せずに関係を続けてくれるだろう。そうしたら俺は、まだマッシモと親しいままでいられる。
高校の入学式のあと、誰ともつるまずに歩いている男がいた。田舎の高校は近隣の中学校からの入学が大半で、みんな誰かしらと話しながら歩いていたというのに、その男はひとりだった。色の白いやさしげな風貌で、ただ飄々と歩いていただけだ。その佇まいが、心に残った。
部活動を決めなくてはならなくなり、もとより体格に恵まれた俺に運動部の勧誘は多かったけれども、それはすべて断った。すでに自分が同性愛者だと自覚していたので、ばれる惧れのある他人との濃密な接触を避けたかったからだ。そこで幽霊部員しかいないと噂の、郷土史研究会の部室の扉を開けた。
やけに身体の細いクールな外見の女子と一緒に、彼が教師の話を聞いていた。入学式のときの、と思った瞬間に、俺は恋に落ちていたのだと思う。自分の恋が実らぬものなのは知っていて、それでも俺は夢見た。けれど夢を見ているうちに、彼がずっとクールな外見の、つまりユーキのことばかりを気にしていることに気がついた。
ああ、やっぱり。そうとしか思わなかった。俺の恋は誰にも悟られてはならないもので、妄想が現実になることなんてあり得ないのだ。いくらその手に触れたいと思っても、眠れないほど笑顔を思い浮かべても、それを告げた瞬間に相手は自分から離れていくことが確実だ。だから俺は、ずっと仲の良い友人の位置をキープし続けた。彼に有用だと思われるために、郷土史研究会の雑用を買って出たりもした。大学進学を考えている彼と、地元で就職する予定の俺とでは、どちらにしろ卒業後に離れ離れになってしまう。せめてそれまでは、と。
義姉に同性愛者だと知れたのは、ほんの少しの油断からだった。同性愛者用の情報誌っていうのは少なくて、俺は電車に乗って少し開けた地域まで買いに行っていた。そうしてそれを外で丹念に読み、興味深い記事は切り取ったり書き写したりしてから、家から遠い公園のゴミ箱に捨てて帰った。けれど、そのときはそうできなかったのだ。巻頭グラビアのモデルが、マッシモに似ていた。そのページをカッターで傷つけたくなくて、鞄に入れたまま持って帰った。
「勝己くん、お弁当箱出して」
義姉にそう言われたとき、俺はうっかりいつものように、鞄に入っていると答えた。仕方ないわねぇ、と言いながら鞄を開けた義姉の手には、弁当箱じゃなくて件の雑誌が握られていた。
そこから先のことは、思い出したくない。精神科を受診させられそうになったり、甥が近寄ろうとするのを義姉が金切り声で止めたり、そんな出来損ないは寺に行けと言われたり、まあ散々だった。救いは祖母がまだ当主であったことで、そんなものは昔からある文化で、おまえたちがそれを知らないからって勝己を否定するなと言い切った。祖母は田舎では珍しく女学校を出たインテリで、祖父亡き後大きい農家を切り盛りしていた貫禄十分の刀自であったから、俺が家を出たほうが良いと判断してくれたのも祖母だった。
「都会には、いろんなひとがいるからね。あんたみたいなものは、田舎に住んでたら捻じ曲がってしまう。都会に行って、上手く息のできる場所を探しなさい」
これには本当に、感謝しかない。俺が二十年の間に田舎に帰ったのは、後にも先にも祖母の葬儀だけだった。尤も、何回か会ってはいた。母がこっそりと、通院や入院のタイミングを見計らって取り次いでくれていたから、ターミナル駅の付近で会ったり病院に顔を見に行くことはできていた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜
夕凪ゆな@コミカライズ連載中
恋愛
大陸の西の果てにあるスフィア王国。
その国の公爵家令嬢エリスは、王太子の婚約者だった。
だがある日、エリスは姦通の罪を着せられ婚約破棄されてしまう。
そんなエリスに追い打ちをかけるように、王宮からとある命が下る。
それはなんと、ヴィスタリア帝国の悪名高き第三皇子アレクシスの元に嫁げという内容だった。
結婚式も終わり、その日の初夜、エリスはアレクシスから告げられる。
「お前を抱くのはそれが果たすべき義務だからだ。俺はこの先もずっと、お前を愛するつもりはない」と。
だがその宣言とは違い、アレクシスの様子は何だか優しくて――?
【アルファポリス先行公開】
『「稀世&三朗」のデートを尾行せよ!謎の追跡者の極秘ミッション』~「偽りのチャンピオン」アナザーストーリー~【こども食堂応援企画参加作品】
M‐赤井翼
現代文学
赤井です。
「偽りのチャンピオン 元女子プロレスラー新人記者「安稀世」のスクープ日誌VOL.3」をお読みいただきありがとうございました。
今回は「偽りのチャンピオン」の後日談で「稀世ちゃん&サブちゃん」の1泊2日の初デートのアナザーストーリーです。
もちろん、すんなりとはいきませんよ~!
赤井はそんなに甘くない(笑)!
「持ってる女」、「引き込む女」の「稀世ちゃん」ですから、せっかくのデートもいろんなトラブルに巻き込まれてしまいます。
伏見稲荷、京都競馬場、くずはモール、ひらかたパーク、そして大阪中之島の超高級ホテルのスイートへとデートの現場は移っていきます。
行く先々にサングラスの追手が…。
「シカゴアウトフィット」のマフィアなのか。はたまた新たな敵なのか?
敵か味方かわからないまま、稀世ちゃんとサブちゃんはスイートで一緒に「お風呂」!Σ(゚∀゚ノ)ノキャー
そこでいったい何がこるのか?
「恋愛小説」を騙った「アクション活劇」(笑)!
「23歳の乙女処女」と「28歳の草食系童貞」カップルで中学生のように「純」な二人ですので「極端なエロ」や「ねっとりしたラブシーン」は期待しないでくださいね(笑)!
RBFCの皆さんへの感謝の気持ちを込めての特別執筆作です!
思い切り読者さんに「忖度」しています(笑)。
11月1日からの緊急入院中に企画が立ち上がって、なんやかんやで病院で11月4日から8日の5日間で150ページ一気に頑張って書きあげました!
ゆる~く、読んでいただけると嬉しいです!
今作の「エール」も地元の「こども食堂」に寄付しますので、ご虚力いただけるとありがたいです!
それでは「よ~ろ~ひ~こ~!」
(⋈◍>◡<◍)。✧♡
追伸
校正が進み次第公開させていただきます!
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
家に帰ると夫が不倫していたので、両家の家族を呼んで大復讐をしたいと思います。
春木ハル
恋愛
私は夫と共働きで生活している人間なのですが、出張から帰ると夫が不倫の痕跡を残したまま寝ていました。
それに腹が立った私は法律で定められている罰なんかじゃ物足りず、自分自身でも復讐をすることにしました。その結果、思っていた通りの修羅場に…。その時のお話を聞いてください。
にちゃんねる風創作小説をお楽しみください。
Unknown Power
ふり
現代文学
「私は人生をやり直したい!」
母親と恩師に立て続けに先立たれた佐渡(さど)由加里(ゆかり)は、人生に絶望していた。
心配した昔バッテリーを組んでいた金谷(かなや)政(まさ)と酒を飲んでいたのだが、
飲み過ぎにより意識を失ってしまう。
目覚めた由加里の目の前にいたのは、死んだ恩師だった――
この小説はカクヨムでも投稿中です
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
【完結】記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました
Rohdea
恋愛
誰かが、自分を呼ぶ声で目が覚めた。
必死に“私”を呼んでいたのは見知らぬ男性だった。
──目を覚まして気付く。
私は誰なの? ここはどこ。 あなたは誰?
“私”は馬車に轢かれそうになり頭を打って気絶し、起きたら記憶喪失になっていた。
こうして私……リリアはこれまでの記憶を失くしてしまった。
だけど、なぜか目覚めた時に傍らで私を必死に呼んでいた男性──ロベルトが私の元に毎日のようにやって来る。
彼はただの幼馴染らしいのに、なんで!?
そんな彼に私はどんどん惹かれていくのだけど……
眩暈のころ
犬束
現代文学
中学三年生のとき、同じクラスになった近海は、奇妙に大人びていて、印象的な存在感を漂わせる男子だった。
私は、彼ばかり見つめていたが、恋をしているとは絶対に認めなかった。
そんな日々の、記憶と記録。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる