二等辺三角形プラス

蒲公英

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二十八歳

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 もともと母が組み込まれていなかった日常はすぐに戻り、四月からの就職のために寮から出た。有難いことに四年間の新聞配達で貯金はできていたので、懐の心配はしなくて良かった。東京の地理に慣れない私のために、マッシモは乗り換え路線の利便や安全性を考えてくれて、私の社会人生活はかなり恵まれた滑り出しを見せた。
「本当に、何から何までお世話になりました」
 頭を下げた私に、マッシモは笑いながら手を横に振った。彼自身は学生生活を過ごしたアパートをそのまま使うらしく、私たちの距離は少し近くなる。
 そして、あの日。なんでもないいつもの日曜日、ようやく夜に出歩けるようになってマッシモとふたりで食事した日。別方向の電車に乗るために駅で別れる直前、マッシモはふいに言った。
「結婚、してくれないかなあ」
「え?」
「ユーキ、僕と結婚してくれない?」
 そのとき、私たちは恋人同士だったことなんて一度もなかった。冗談として笑うには、マッシモの顔はいささか真面目過ぎた。
「何? どうしたの?」
「会うたびに綺麗になって、会うたびに遠くに行ってしまうみたいで。それが不安なんだ」
 マッシモを異性として好きだったとは言えない。でも彼は暖かく誠実で、悲しみやせつなさに寄り添ってくれた。何よりも、私の欲しいものをすべて持っていた。少し考えさせてくれと言いながら、その晩寝返りを打つころには、私の返事は決まっていた。

 マッシモとの結婚がすんなりできたわけじゃない。おかしな死に方をした評判の悪い女の娘を、嫁に迎えたい家なんてあるはずがない。特に母親からの反対はすさまじく、こんなに反対される結婚なんてしたくないとグズグズする私を、マッシモは強引にリードした。今後住んでいる場所も教えないし、子供ができても報告しないと言い放つ彼は、私が知っている穏やかなマッシモじゃなかった。
 リゾート地でささやかにふたりだけの式を挙げた。一緒に生活をはじめて三年目に義妹の結婚式があり、そこからおそるおそる交流がはじまり、やっと打ち解けてきたと感じたばかりだった。通勤時間は伸びるけれど、郊外にならマンションを買えるねと無理をした。そろそろ子供が欲しいねと話し合っている最中だった。
 また、ひとりになってしまった。死亡保険の申請をするために取り寄せた戸籍を見て、そう思った。抹消された誰かの部分が、母じゃなくてマッシモになったのだ。結局ひとりきりじゃないのと、骨になったマッシモに喧嘩を売ってみる。ずっと同じものを得ようと言ったくせに、もう何も得られないじゃないの。
 通夜の日に、義母は私に向かって言った。
「まともじゃない娘なんかと結婚したから、こんなことになったんだ。あんたが浩紀を殺したんだよ」
 すぐに気がついた義妹に遮られたけれども、義父は見ないふりをしていた。義母は彼の横を離れず、私を罵倒するために待ち構えていた。だから私が棺に近づけたのは、葬儀の送りのときだけだ。骨を抱いた私にそれを渡せと怒鳴りつけ、親戚や義妹に車に押し込まれて帰った義母は、私たちの住まうマンションに来たことはない。ひとりで都内には出てこれない義母だから、今は安心して暮らしていられる。

 四十九日の法要で納骨が住むと、もう他人だから二度と家には来ないように、年忌の法要に顔を出そうとしなくていい、供養はすべてこちらでと義母が宣言した。遺産なんて分けなくて良いから、二度とその顔を見せるなと。義父はやはり目をそらした。位牌分けもしてもらえないまま呆然と義実家を追われて、門を出て振り返ると、義妹が急ぎ足で歩いてきた。
「ひどいことして、ごめんなさい。母は悲しみを誰かにぶつけないと壊れてしまいそうなんです。それがお義姉さんなのは、本当にひどいことだと思う」
 マッシモとよく似た色白の細面をすまなそうに伏せ、彼女は言った。
「母が落ち着いたら、必ず連絡します。だから兄のことを、大切に思ってやってください」
 忘れないでではなく、大切に思えと言った。私がマッシモを忘れるわけがないと、義妹は知っているのだ。マッシモはどこまでも、真っ当に育った真っ当なひとだ。義両親も義妹も、彼が愛されるべき人間だと信じて疑っていない。
 携帯電話の番号を教えあって、義妹と別れた。連絡をすることなど、あるのだろうか?
 帰宅して骨の置いてあった祭壇を片付けながら、写真を真ん中にしてまだ残るたくさんの花を配置した。
「花に囲まれて、王子さまのようだね。なかなか麗しいじゃないの」
 よせやい、とマッシモの声が聞こえた気がして、部屋を見まわした。誰もいない、誰もいない。誰もいないんだよ、マッシモ。

 インターフォンが鳴ったのは、そのときだった。こんな夜にと誰何すると、オガサーラの声がした。
「夜遅くにごめん。融資が下りたからさ、仏前報告させて」
 部屋に招き入れて、骨も位牌も実家だよと言うと、オガサーラは言った。
「ただの骨でただの位牌だろ。あいつは手を合わせてくれなんて言わないよ。そのへんに座って、俺らの話聞いてる」
 手元に位牌がない不安が、オガサーラによって払拭された。そうだ、ここにはマッシモの暮らしていたすべてがあるじゃないか。
「マッシモがユーキをひとりにするはずなんて、あるわけない。あいつは高校生の時からずっと、ユーキを見てた」
「うん、知ってた」
 マッシモは誰にでも穏やかで優しかったけれども、私には特別の気遣いをしていた。それを心地良く思いながらも、私が惹かれていたのはオガサーラだったのだ。けれどオガサーラが心を寄せていたのは、マッシモだと気がついてもいた。なんてよくできた三角形。村井先生、私たちはこんなところでも三角形を築いていたんです。
「あいつはいつでも、ユーキが何を求めてるのか考えてたよ。結婚生活でユーキが手にしたものも、これから手にするものも、全部あいつからの贈り物だ」
 手にしたものは心の騒がない生活と、カウンターの内側で洗い物をしている立ち姿。でも、これから何を手にするのだろう?
「気がついてないのか。マッシモと一緒になってから、おまえは随分変わったよ。昔は疑り深い狼みたいだった」
「何それ」
「迂闊に近づくと噛むぞって気配がプンプンしてたよ。それを安心させるなんて、マッシモは大した奴だ。だからこれからある事柄は、昔のおまえには出会わないことばかりだろう。あいつの遺した一番の贈り物じゃないか?」
 ああ、そうかも知れない。私はずいぶん他人との会話が上手になった。これがマッシモが私に与えてくれたものなのか。
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