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二十八歳
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朝に出て行ったひとが、帰ってくるとは限らないのだ。あの日、行ってくるよと笑顔で出社していったひとは、横断歩道が青であったにもかかわらず、居眠り運転のトラックに轢かれた。私が病院に呼ばれたときには、もう心臓は止まっていた。血液の拭き取りきらぬ顔と、まだ体温の残っている肩から下は、見せてもらえなかった。
義両親を呼び、彼の会社に連絡し、自分の会社に連絡して、あとは何が何だか覚えていない。とにかくやたらめったら忙しく、喪主の挨拶を義父が代わってくれたころに、やっと隣に彼がいないのだと自覚した。義母が途中で倒れたこと、出棺のときに雪が降りはじめたこと。
「薄情な娘だよ、あんなにしっかり立って。やっぱりあの女の娘なんだね」
彼の親戚の誰かが言った言葉の意味が脳に届いたのは、二週間も経ってからだった。
四十九日の納骨までは彼を手元に置かせてくれと頼んで、狭いマンションに祭壇を設えた。長男なのだから実家に置くと言う義母は、義父と義妹が納得させてくれた。毎朝ふたり分のコーヒーを淹れ、笑っているだけの写真に供える。体温も声も失われて小さな箱に納まった彼を撫でても、まだ実感という実感はなくて、少し長い出張にでも出ていて、ただいまと帰ってきそうだった。
困ったのは、なんでもふたり分用意してしまうこと。夕食の皿を二枚出し、しまい直すことを繰り返す。そして溜まった新聞紙を、纏めて括ってくれるひとがいない。
オガサーラが訪ねてきたのは、翌日から出社しようとしていた日だ。
「ごめんな、こんなに遅くなって」
「遠くへ出張だったんでしょ? そんなことでマッシモは怒らないよ」
「ああ、最後のひと働きだったんだけどな」
オガサーラが立ち上がってキッチンに入ると、ほどなくして馥郁としたコーヒーの香りが漂い、カップが三客カウンターに乗せられた。
「皿とフォークも貸してくれ」
持ってきた箱から艶のあるチョコレートをコーティングして、金箔の散らされた菓子が出てくる。
「最終形が完成したってのに、食ってくれないのかよ」
白い祭壇に、コーヒー碗とケーキ皿が乗せられた。
「旨いって言えよ、これなら金出して通ってやるって」
ああ、私はここにいてはいけない。私がいたら、オガサーラはマッシモと話ができない。私はそっと立ち上がり、ジャケットを着てベランダに出た。南側が坂になった立地のマンションは低層階でも見晴らしが良くて、小さな椅子を置いてある。ここは彼のお気に入りの場所だった。小さな公園や並んだ家の屋根を見下ろし、ここにも人の営みの縮図があるなあと言っていたものだ。
部屋を振り返ると、オガサーラが大きな身体を小さく折りたたんで、祭壇の前に蹲っていた。いっそのこと泣き喚いてくれたら、私も一緒に泣けるかも知れない。そうしたら、ぼんやりとした喪失感が現実のものと受け取れるかも知れない。けれど今泣き喚けるほど、オガサーラは強くない。認めなくてはいけないと自分に言い聞かせながら、まだ何かの間違いだと思いたがっているだろう。そういう意味では、私とオガサーラはよく似ている。
「コーヒー、淹れなおすか?」
オガサーラがベランダのガラス戸を開けて、顔を出した。
「忘れたの? 私は猫舌。だけど、二杯目の用意をしてくれてもいい」
返事をしながら部屋に入り、オガサーラの顔を見る。
「話せた?」
「まあ、恨み節でも唸らせてもらうわ。店開いたら、毎週通ってやるなんて言ったくせになあ」
「楽しみにしてたよ。まだ店舗も決まってないのにね」
テーブルに着き椅子に掛けると、オガサーラがコーヒーとケーキを出してくれた。家の主が逆転したみたいだ。
「ほぼ決まったよ。コーヒースタンドに毛が生えたようなとこだけど」
皿を引き寄せ、フォークで切り取って口に運ぶ。口の中に芳醇なチョコレートの香りとアンズジャムの酸味が広がる。深くローストしたコーヒーを口に含み、もう一口。
「ん、美味しい。オガサーラのザッハトルテ、最高」
「正確にはチョコレートトルテだけどな。ホテルザッハーに出せるわけじゃないから」
節くれだったゴツゴツした手が、コーヒーミルのハンドルを回す。口の細いケトルとともにオガサーラが持ち込んで、いつの間にか我が家の備品になってしまったものだ。丁寧にフィルターペーパーを折ってドリッパーにセットすると、オガサーラは注意深く湯を注ぎ始める。
「チェリーパイも焼いてきた。今度は浅煎りのコーヒーだ」
「やだ、私を太らせるつもり?」
カウンター越しに、オガサーラがじっと私を見る。
「ますます痩せたぞ。食え、マッシモが心配するから」
その言葉が、どうして引き金になったのか。
「もう心配なんて、してくれないじゃないの。私が欲しがっていたものは、これから一緒にって」
マッシモになりたかったと繰り返す私に、今までの分はわけられないけど、これからは同じものを得ようと言った。家に帰るのが当たり前の家庭、食事中のおしゃべり、具合の悪い日に気を遣ってもらうこと。マッシモにとっては当然だけれど、私が持っていなかったものたちを、これから共有しようと言った。
「嘘ばっかりよ。期待させるだけさせて、一抜けたなんて」
喚きだしたら止まらず、オガサーラが背を撫でてくれているのも気がつかないほどしゃくりあげていた。一度切れた堰は流れ出る感情をとどめる術を知らず、しがみついた先のオガサーラもまた、呻きながら泣いていた。私たちは抱き合ったまま泣き、しばらく時間を失念した。
オガサーラの胸は硬くて広く、マッシモの胸とはまったく違うものだ、と場違いに思った。マッシモになりたかったのは、オガサーラがいたからだ。マッシモに注がれるオガサーラの視線が、私は欲しかった。それにつられてマッシモも見ているうちに、彼は私が欲しいものをすべて持っていることに気がついた。だからマッシモと結婚した。彼が持っているものを、私も得るために。それなのに、全部さらさらとこぼれていく。
オガサーラの涙が、恋した相手と二度と会えない悲しみだと、私は知っている。オガサーラがどんなに深くマッシモに恋しているかなんて、高校生のときには気がついていた。それをひた隠しにする苦悩は、私がオガサーラに抱いていた感情と同じか、それ以上のものだったと思う。同性愛者だと知られないために、オガサーラは殊更に陽気にふるまっていたから。
義両親を呼び、彼の会社に連絡し、自分の会社に連絡して、あとは何が何だか覚えていない。とにかくやたらめったら忙しく、喪主の挨拶を義父が代わってくれたころに、やっと隣に彼がいないのだと自覚した。義母が途中で倒れたこと、出棺のときに雪が降りはじめたこと。
「薄情な娘だよ、あんなにしっかり立って。やっぱりあの女の娘なんだね」
彼の親戚の誰かが言った言葉の意味が脳に届いたのは、二週間も経ってからだった。
四十九日の納骨までは彼を手元に置かせてくれと頼んで、狭いマンションに祭壇を設えた。長男なのだから実家に置くと言う義母は、義父と義妹が納得させてくれた。毎朝ふたり分のコーヒーを淹れ、笑っているだけの写真に供える。体温も声も失われて小さな箱に納まった彼を撫でても、まだ実感という実感はなくて、少し長い出張にでも出ていて、ただいまと帰ってきそうだった。
困ったのは、なんでもふたり分用意してしまうこと。夕食の皿を二枚出し、しまい直すことを繰り返す。そして溜まった新聞紙を、纏めて括ってくれるひとがいない。
オガサーラが訪ねてきたのは、翌日から出社しようとしていた日だ。
「ごめんな、こんなに遅くなって」
「遠くへ出張だったんでしょ? そんなことでマッシモは怒らないよ」
「ああ、最後のひと働きだったんだけどな」
オガサーラが立ち上がってキッチンに入ると、ほどなくして馥郁としたコーヒーの香りが漂い、カップが三客カウンターに乗せられた。
「皿とフォークも貸してくれ」
持ってきた箱から艶のあるチョコレートをコーティングして、金箔の散らされた菓子が出てくる。
「最終形が完成したってのに、食ってくれないのかよ」
白い祭壇に、コーヒー碗とケーキ皿が乗せられた。
「旨いって言えよ、これなら金出して通ってやるって」
ああ、私はここにいてはいけない。私がいたら、オガサーラはマッシモと話ができない。私はそっと立ち上がり、ジャケットを着てベランダに出た。南側が坂になった立地のマンションは低層階でも見晴らしが良くて、小さな椅子を置いてある。ここは彼のお気に入りの場所だった。小さな公園や並んだ家の屋根を見下ろし、ここにも人の営みの縮図があるなあと言っていたものだ。
部屋を振り返ると、オガサーラが大きな身体を小さく折りたたんで、祭壇の前に蹲っていた。いっそのこと泣き喚いてくれたら、私も一緒に泣けるかも知れない。そうしたら、ぼんやりとした喪失感が現実のものと受け取れるかも知れない。けれど今泣き喚けるほど、オガサーラは強くない。認めなくてはいけないと自分に言い聞かせながら、まだ何かの間違いだと思いたがっているだろう。そういう意味では、私とオガサーラはよく似ている。
「コーヒー、淹れなおすか?」
オガサーラがベランダのガラス戸を開けて、顔を出した。
「忘れたの? 私は猫舌。だけど、二杯目の用意をしてくれてもいい」
返事をしながら部屋に入り、オガサーラの顔を見る。
「話せた?」
「まあ、恨み節でも唸らせてもらうわ。店開いたら、毎週通ってやるなんて言ったくせになあ」
「楽しみにしてたよ。まだ店舗も決まってないのにね」
テーブルに着き椅子に掛けると、オガサーラがコーヒーとケーキを出してくれた。家の主が逆転したみたいだ。
「ほぼ決まったよ。コーヒースタンドに毛が生えたようなとこだけど」
皿を引き寄せ、フォークで切り取って口に運ぶ。口の中に芳醇なチョコレートの香りとアンズジャムの酸味が広がる。深くローストしたコーヒーを口に含み、もう一口。
「ん、美味しい。オガサーラのザッハトルテ、最高」
「正確にはチョコレートトルテだけどな。ホテルザッハーに出せるわけじゃないから」
節くれだったゴツゴツした手が、コーヒーミルのハンドルを回す。口の細いケトルとともにオガサーラが持ち込んで、いつの間にか我が家の備品になってしまったものだ。丁寧にフィルターペーパーを折ってドリッパーにセットすると、オガサーラは注意深く湯を注ぎ始める。
「チェリーパイも焼いてきた。今度は浅煎りのコーヒーだ」
「やだ、私を太らせるつもり?」
カウンター越しに、オガサーラがじっと私を見る。
「ますます痩せたぞ。食え、マッシモが心配するから」
その言葉が、どうして引き金になったのか。
「もう心配なんて、してくれないじゃないの。私が欲しがっていたものは、これから一緒にって」
マッシモになりたかったと繰り返す私に、今までの分はわけられないけど、これからは同じものを得ようと言った。家に帰るのが当たり前の家庭、食事中のおしゃべり、具合の悪い日に気を遣ってもらうこと。マッシモにとっては当然だけれど、私が持っていなかったものたちを、これから共有しようと言った。
「嘘ばっかりよ。期待させるだけさせて、一抜けたなんて」
喚きだしたら止まらず、オガサーラが背を撫でてくれているのも気がつかないほどしゃくりあげていた。一度切れた堰は流れ出る感情をとどめる術を知らず、しがみついた先のオガサーラもまた、呻きながら泣いていた。私たちは抱き合ったまま泣き、しばらく時間を失念した。
オガサーラの胸は硬くて広く、マッシモの胸とはまったく違うものだ、と場違いに思った。マッシモになりたかったのは、オガサーラがいたからだ。マッシモに注がれるオガサーラの視線が、私は欲しかった。それにつられてマッシモも見ているうちに、彼は私が欲しいものをすべて持っていることに気がついた。だからマッシモと結婚した。彼が持っているものを、私も得るために。それなのに、全部さらさらとこぼれていく。
オガサーラの涙が、恋した相手と二度と会えない悲しみだと、私は知っている。オガサーラがどんなに深くマッシモに恋しているかなんて、高校生のときには気がついていた。それをひた隠しにする苦悩は、私がオガサーラに抱いていた感情と同じか、それ以上のものだったと思う。同性愛者だと知られないために、オガサーラは殊更に陽気にふるまっていたから。
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