蝶々ロング!

蒲公英

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アンテナは高く姿勢は低くが基本です

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 アイザックの担当の田辺が大きなスーツケースを開いて、意外な商品を広げた。可愛らしいデイジー柄のガーゼ地のチュニックシャツだ。レディースのそれは現場作業じゃなくて、気楽な普段着に見える。

「可愛い!」

 後ろの丈が少々長めになっており、細いパンツや長いスカートでカントリー風の装いができそうである。

「可愛いでしょう? これとコーディネートするパンツと、これからの季節用にUVカットのパーカーもあります」

「私用にオススメですか?」

 あまりに伊佐治の商品ラインナップから外れているので、商品の幅の広いメーカーだと知ってはいても、意図はそれしか思いつかない。

「相沢さんが着れば、確かに可愛いかも。でも違うんですよ、農業用です。伊佐治さんには農家のお客様はいらっしゃいませんか」

 農業の客も、いることはいる。麦わら帽子や軍手を買っていくし、多分階下でノコギリや剪定鋏も買っていると思う。安手のカーゴパンツや靴下のまとめ買いをする人は、確かにいる。けれど女性用について、質問されたことはない。

「今のところ、問い合わせが来たことはないですね」

「試しに一枚か二枚、飾っていただけませんか。潜在的な顧客がいると思うんですけど。日除けの帽子とコーディネートしたり、可愛い長靴のご用意もありますし」

 一瞬イメージを思い浮かべたが、表に出てこない対象よりも、インナーの種類を増やすほうが売り場にとっては有益だと思いなおした。

「これはちょっと見送ります。試してみたい気はあるんですけど」

「あら、残念。じゃ、次の機会にしましょう。その他にご紹介するものは……」

 女性営業らしい柔軟さで、田辺は話を引っ込めた。こういうとき、相手が女性だととても安心する。美優の年齢やキャリアで、年上の男性営業の商品紹介を断るのはちょっと勇気がいる。


 三月に入ると、ぼちぼち薄手の羽織物や保温機能のないインナーが売れ始め、まだ外は寒くとも防寒商品は動かなくなる。季節商品を入れ替え始める時期が来たのだ。入荷次第に発送を依頼していた新商品が、予定より早く入ってきたりするので、予算にも頭を悩ませなくてはならない。予定外で見通しの立たない商品のために、レイアウトを考える余裕はないのだ。

 夕方に階段をドタドタと上がってきたのは、リョウだ。

「みーさん、今年も新人入るんだって! 俺、先輩!」

 一年間社内で一番下の立場にいたのだから、弟分ができるみたいで嬉しいのかも知れない。早坂興業の中途採用は経験者のみのようなので、リョウの後に入った人も先輩になってしまうのだ。

「また十五歳?」

 初めて会ったころに較べると、リョウは見間違えるほど逞しくなった。表情は子供のままだが、顔つきも身体つきも精悍だ。

「高卒だって。だから二個上」

 職人の世界は上下が厳しいらしい。だから年齢は関係ないはずだが、美優は余計なことに気がついてしまう。

「十八ってことは、すぐ高所作業できるんだよね?」

 高所作業は安全衛生法で年齢制限があり、十八になるまで許可されない。早生まれのリョウは、あと二年近くそれができない。

「あああああ! そっか! やっぱり俺だけ下回りのまんまか!」

 がっかりして俯くリョウが幼くて、思わず頭を撫でてみる。

「甘ったれてんじゃねえ」

 階段の中ほどから、鉄の声がした。

「他の事情ならともかく、勉強サボって高校に行けなかったヤツが、年齢でどうのなんて言えないだろ。今週のドリル、出てねえなあ」

 階段を上りながら、会話を聞いていたらしい。一番上の段に立って、美優とリョウの立ち位置を確認して、面白くなさそうな顔になった。

「おまえの母ちゃんが、どんなバカ学校でも高校くらいって言ったとき、勉強なんか関係ねえくらい稼いでやるって啖呵切ったなあ。覚えてっか」

 リョウはきまり悪そうに、下唇を突き出した。リョウが早坂興業に入社はいった経緯は美優も知らないので、そこは黙っておく。

「腕だけの職場だぞ。なんの受験資格もねえなら、その分十八になったときに一気に全部できるようになっとけ」

「クロガネさんは頭がいいから、そうやって俺にも同じようにやれって言う。俺、バカだからっ!」

 こういう言い方は、どこか過去に聞いたことがある。っていうか、両親や兄に美優自身が口に出した記憶がある。今ならそれが、身内の甘えだったと理解できるのだが。

 それでも少し弱い立場の、リョウの肩を持ちたい気がする。

「休みたい日も愚痴りたい日もあるんじゃない? てっちゃんだって、そうでしょ?」

 ふん、と鉄が口を結んだまま息を漏らした。

「そういうことにしておいてやる。明日までにドリル出せよ、せっかく図形まで行ってんだから」

 小さく返事したリョウは、しょぼくれた顔のままだ。

「で、何を買いに来たの?」

 気を取り直して、質問する。ここが売り場であることを、忘れるところだった。

「タフィーちゃんのTシャツって、前に言ってたと思って。あれ、いつ入る?」

 意外な部分で、今季の入荷の話になった。

「タフィーちゃん? てっちゃんが着るの?」

「ウケ狙って着るなんて、だせえことするわけないだろ。ウチの事務員さんの娘が、マニアなんだって」

「タフィーちゃん、ごつい工具持ってるよ?」

「そこがレアだから、欲しいんだってよ」

 会話が普段通りに落ち着いて、リョウも安心した顔になった。頼りない弟が少しずつ逞しくなっていくのを確認しているみたいで、美優はなんとなく嬉しい。

 ハンガーラックをごそごそと漁っていたリョウが、ブルゾンを一枚取り出した。

「これさ、色ってこれだけ?」

 光沢のある織り柄の作業服は、辰喜知の人気シリーズだ。全色全サイズなんて揃えたら、予算が足りなくなる。

「あとね、グレーとパープルがあるよ」

 そう答えた後、ふと思い出した。

「それ、今季で新色が出る。いい感じのグリーンだから、リョウ君に似合そう!」

 冬カタログには載っていないが、春夏のカタログはまだ来ていない。手元にあるのは展示会で貰ったリーフレットだけだ。カウンターのしたから引っ張り出して、提示する。一緒に覗きこんだリョウが、嬉しそうに買う意思を示した。

「まだカタログにもないんだ? すっげー! みーさん、俺の分予約して!」

 客を喜ばせることができて、美優も嬉しい。情報を仕入れておいて、良かった。

 ん? なんだか反対側にも体温を感じるんですけど。ふと逆側の横を見て、思わずリョウのほうに身体を寄せた。作業服なんて見ようともしていなかった鉄が、一枚の紙を覗いているリョウと美優の横に、ぴったりとくっついて一緒に覗こうとしているのだ。

「ごめん、てっちゃんも見たかった?」

 美優が一歩退こうとしても、鉄はその場を離れない。

「いや、俺、これの紺持ってるし」

 そう言いながら尚も密着している鉄に、美優の居心地は甚だよろしくない。気を使ったリョウがリーフレットから手を離し、距離を開いてくれたのが幸いである。そしてリョウが離れたのを確認したように、鉄も少しだけ隙間を開けた。なんていうか、微妙な行動である。

「会長の買い物、行くんすか?」

 リョウが鉄に声をかける。

「八時に寝やがるからな、あのじじい。材料揃ってねえと、うるさくてな」

「でも会長の味噌汁、旨いっすから」

「そのおかげで、朝からうるせえ」

 早坂興業の若い職人の朝食は、おばあちゃんが作っていると聞いた気がする。おじいちゃんも手伝っているんだろうか。

「お味噌汁、おじいちゃんが作るの?」

 父親よりも更に鉄に似ていた老人は、台所なんて無縁に見えた。だから単純な疑問だ。

「ばあちゃんが最近腰痛いっつって。そしたら、じじいが暇つぶしにウロウロしてた、現場とか会合とかに出なくなったんだわ。俺も今まで職人代表みたいな顔した年寄りが、洗濯やら台所の手伝いやらすると思わなかった。巧いもんだよ、味噌汁の具が増えた」

 なんですか、その萌え設定。

「……おじいちゃん、ステキ」

「面倒くせえよ。ネギ嫌いなヤツに無理くりネギ食わしたり、犬食いになってないか監視したり」

「あ、俺、箸の使い方直され中っす」

 リョウが小学生みたいに笑い、慌ただしい朝の光景が想像できてしまう。

「まあ、四時には起きてるからな。とりあえず蒟蒻と焼き豆腐買ってくるわ」

 あ、なんだ。今日は別にお茶とかじゃなかったのか。ちょっとガッカリして、美優は上目遣いになった。

「あとでメッセする。またな、みー」

「俺、グリーン予約ね! 早くね!」

 階段を降りていく鉄とリョウを見送り、棚の見回りをする。顔を見れば一緒にいられると期待してしまう自分が、とても悔しい。乱れていた手袋のフックを直し、溜息を吐く。

 先刻の行動はどういうことですか、てっちゃん。リョウ君と肩を寄せていたのが、気に入らなかったんでしょうか。ちゃんと言ってくれないと、わかんないよ。

 この前、確かに通じ合ったと思った。宣言はなくとも、もう恋人同士なのだと思ったのだけれど、それが錯覚だった気がして不安になる。ぼうっと立っていると、また客が入ってきた。そろそろ美優も定時だ。

「いらっしゃいませ」

 客は無言でゴム手袋の前に立ち、無造作にいくつか掴んだあとに軍手を一締め持った。

「ゴム手のSってないの?」

「在庫は置いておりませんけど、中二日でお取り寄せができます。お必要なら、取り寄せますけど」

 まだ若そうにみえるその客は、職業が見えない。職人の匂いはしないけれど、誰かの代理で買いに来たのでもなさそうだ。

「じゃ、入れて置いてもらおうかな。丈夫なやつで、適当に」

「はい! 入荷後に連絡いたしますので、連絡先を教えていただけますか」

 客注はダイレクトに売り上げになるので、途端に機嫌が直るのがゲンキンである。

「使うのは母ちゃんだから、母ちゃんに取りに来させる。農家がネイルとか、笑えるよな」

 農家? この人、農家なのかしら。

「お客様、農業なんですか?」

「そうそう。最近市内に直売所ができたから、若い女の子も遊びに来てね」

 連絡先を残し、客は手袋類を手に階段を降りていく。

 農業の人いたよ、アイザックさん。しかも女の人が商品受け取りに来るって! これってサンプル見せる案件? サイズがわからないけど、手がSサイズなら標準で揃えて良いよね?

 知識を持っていれば、チャンスが大きくなる。

 アイザックの置いていったリーフレットを引っ張り出し、農業の女性向けの商品を確認する。新規に開発したラインだと言ってはいたが、結構充実のラインナップだ。UVカットのパーカー、ガーゼのシャツ、伸縮性のあるパンツに帽子、長靴、アームカバー。ひとつひとつはどこにでも売っている商品に見えるが、コンセプトが違う。トップスは屈んでも腰が出ないように後ろが長めだし、ボトムスは長靴が履きやすいように足首が細い。街着にしても違和感はないけれど、プラスアルファの細工がある。

 試しに一枚だけ、入れてみよう。興味がありそうなら説明して、目もくれないようなら夏に私が着ようっと。

 農家ってことは外仕事だろうからと、サーモンピンクのパーカーとネイビー主体のシャツの発注書を切った。そして元々の客注であるゴム手袋と、通常の仕入れ。

 ずいぶん予算を気にしないで発注できるようになった、と思う。以前は二社に分けての発注なんかすると、残りの予算が気になっていたのに。売れないかも知れない商品でも、数点なら飾りと割り切って発注できる余裕ができた。これが販売に繋がるのなら、新しい客層の開拓だ。

 余裕が開拓を産み、手が広がっていく。けれどそれだけじゃない。情報を仕入れているからこそ、商品が存在することも必要な客がいることも理解するのだ。

 もしもアイザックが紹介した商品を、うちでは売れないと無碍にして、資料ごと破棄してしまっていたら、客の農業という言葉に反応はしなかった。そんな客も二階に来ることがあるんだななんて、思うだけで終わってしまったろう。外仕事だからUVカットが必要だとか、女性だったら仕事中に長靴の色味までコーディネートできれば楽しいだろうとか、絶対に考えが及ばないはずだ。

 アンテナを高くして、常に新しい情報をキャッチしなくてはならない。自分が販売しているのは、必需品じゃない。扱う店は他にもあるのだし、現に伊佐治の売り場が一年前の状態であっても、誰も裸だったり素手で仕事をしたりはしていなかったのだ。逆を言えば、伊佐治の売上が上がっているのは、他の販売店の売上が落ちているってこと。常に新鮮な情報を提供しなければ、あっという間に立場が逆転してしまう。

 実は美優は、まだそこまで深く考えてはいない。自分の持つ知識が、売り上げに繋がるかも知れないという事実だけが嬉しくて、次は何をしようかとカタログを捲ってみているだけだ。それが勉強であり、一号店との連絡が情報の共有であり、展示会やメーカー営業との雑談がヒントなのに気がつくには、少々経験不足なのだろう。


「ご連絡いただいた大沢と申します」

 小さなサイズの手袋を引き取りに来た客は、美優の想定とあまりにずれていた。女性の職人の接客はときどきあるし、家族の作業着や軍手を代理で購入する主婦もいる。恋人と一緒に来る、派手目の女の子もいることはいる。会社単位の取引なら、事務の女性が打ち合わせに来ることもある。けれどなんていうか、大体が伊佐治に来ても違和感のない人たちなのだ。

 着飾っているわけでもなく、ヒールの高いサンダルを履いているわけでもない。たとえば駅前で通り過ぎても、感じが良い人だなーと感じただけで通り過ぎるタイプだが、伊佐治の店の中では強烈な違和感だ。

 農家の人だから、小柄でも日焼けしてがっしりした人をイメージしていた。そこからでも、ずいぶん違う。

 多分引き算で計算したシンプルでカジュアルな装い、日焼けなんて微塵も感じない白い肌。中綿の入っている防寒服に見慣れた目には、ウールのコートが新鮮だ。そして冬の厚着に包まれた身体は、美優よりも華奢。この人が農作業をしているなんて、まったく考えられない。

「はじめて来た店っておもしろいですね。ちょっと見せていただいてかまわないですか」

 そんな言葉で我に返り、どうぞと愛想よく返事した。思い込みって怖い。農家だっていうからこういう人って、自分に言い聞かせてしまった。

 考えてみれば、鉄とリョウが同じタイプなわけじゃない。同じ職業だからって、十羽一絡げで同じタイプじゃないのだ。

 気を取り直して、アイザックの残していったリーフレットを引っ張り出す。農業ガールなんて書いてあるそれが、たとえ客の見かけにそぐわなくても、話の接ぎ穂くらいにはなるはずだ。

 ラッキーなことに、取り寄せたパーカーはカウンターの前に飾ってあった。一目で女性用とわかる色とデザインは、売り場の中では異質なので目を惹く。彼女が目を留めたときがチャンスだ。

「女性用もあるんですね。こんな可愛い色で、作業服なんですか」

 待ってました! カウンターの上に待機させていた資料を広げ、美優は返事をする。

「農業ガール用なんて、メーカーが新規開発したんです。パーカーは他に、スカイブルーとカラシ色の三色展開ですね。シャツやパンツや小物類もありますよ」

 ふうん、と客は興味深そうに一緒に資料を覗く。美優が何気なく指で隠しているのは、直に卸価格を書き入れてしまっている箇所だ。

「ストレッチで細いから、普段の生活紫外線防止にも使えますね」

「農作業ですと、遮るものはありませんものね」

 そう返すと、客は雑談する気になったらしい。

「私は滅多に畑作業しないから。経理と販売がメインだと、そこまで強力じゃなくても大丈夫。だけどこれ、直売所の人たちにも使えそう。プリントとかできます?」

「はい、もちろんです。デザインを持ってきていただければすぐにできますし、手描きでもスキャンと校正できますよ」

 客の爪は短くしていても、綺麗なマーブルのように塗られていた。先にこれだけを注目していれば、きっと農作業用なんたらなんて、勧めようとしなかったと思う。本当に客の外見だけでなんて、判断できない。

 自分の選択が商売に結び付きそうで、ワクワクする。金魚すくいの水槽の前で、ポイをかまえているみたい。

 スカイブルーのパーカーを発注し、リーフレットのカラーコピーを持って、客は帰って行った。理想的なやりとりができて、テンションが上がる。たとえそのあと、商品が揃っていないと客に嫌味を言われようが、これだけは胸を張れる。

 私が知っていたからこそ、売ることができたんだからね!


 上機嫌で美優が帰宅すると、珍しく父親が帰宅していた。

「美優は最近、ずいぶん頑張ってるらしいな。叔父さんが褒めてたぞ」

 褒めるくらいなら時給を上げて欲しいところだが、給与査定は来月である。

「売上上げてるもん。ガタガタだった売り場を立て直したんだから、感謝してもらいたいよ」

 言いながら、自分の分だけコーヒーを淹れる。お砂糖もいっぱい入れちゃお。

「客商売は波があるからな。全部自分の手柄だと思ってると、失敗したときに折れるぞ。ただ運が良かったって低姿勢でいれば、まわりの評価も変わってくるし」

「はいはい」

 機嫌の良さに説教で水を差された気がする。けれども言われたことは尤もで、自分の力で売ってやったなんて自慢する人は、美優だって感じが良いとは思えないだろう。

 気をつけないと、客にまで傲慢な姿勢を見せてしまうかも知れない。私が仕入れてやったから欠品してない、私が揃えているから最新モデルが見られる、それが事実であっても、その情報は客には必要ない。

 あくまでも過不足のない接客と、必要なものが揃っているか否かが大切なのだ。逆を考えれば、売り場のラインナップと接客の態度いかんでリピーターが来る。そしてリピートする客が、売り場を美優の個性だと捉えるのだ。強い自己主張は必要ない。低姿勢を保っていれば、客は勝手に自分が買う立場だと認識する。

 それは買う側と売る側の上下関係でなく、利益を支払う側と利益を得る側の立場の違いだ。売買の取引っていうのは、そういうことである。

 店の中で基本的な接客の教育を受けられているわけではないから、傍目八目の父の言葉だってたまには頭に残しておいたほうがいい。けれど身内の説教なんて大抵鬱陶しいものではあるし、隅っこでちらりと覚えておいて、トラブルになってから思い返すのが順当である。もちろん美優もご多聞に漏れない。


 鉄が連絡もなく来るのは毎度のことだが、本来は客なのだから文句を言う筋合いはない。資材や工具を買いに来たのでもないらしく、まっすぐに階段を上がって来たらしい。

「あれ? ひとり?」

「今日はガチで買い物だから。取り寄せる時間ないから、見つからなかったら他に行く。今ここで上下揃ってて、打ち合わせにも現場にも使えるやつってある?」

 打ち合わせに使うってことは、きっと鳶装束じゃない。上下が揃っていないかもって危惧は、個人店の在庫の少なさから考えれば必ずある。

「平ひらズボン? どんなの?」

「丈夫で普通っぽいやつ。肩とか動きにくいとダメ」

 普通のって言われたって、何を基準に普通というのか。

「街で着て歩けそうなやつ? それとも早坂興業のユニフォームみたいなの?」

「デニムとかでいい。何かある? うるさい現場で、超超穿いて来んなってとこの仕事が来た」

 ときどき、そんな話を聞くことはあった。大手が街中での現場で、服装規定をすることがある。鳶装束は威圧的に見えるから禁止、みたいな。

 展示会で鉄に似合そうだと思いながら見た商品は、発注していない。売り場をぐるりと見回して、濃いカーキ色のブルゾンを手に取った。トップスは確かLL、ウエストはいくつだっけ?

「これ、どう? 辰喜知のカジュアル」

 振り向けば、鉄はエンジ色のパンツを手に取っていた。

「なんかこれ、変な形だな」

「あ、そこのメーカーさんの新作、立体裁断なの。穿くと足のラインが綺麗だよ。試着してみる?」

 美優が差し出したものも気になると言って、鉄は両方の商品を手に試着室のカーテンを開けた。鉄が着替えている間に、美優はもう一枚候補を見つけてカーテンの前に立った。

 着替え終わった鉄が、カーテンを開けて出てくる。地厚な綿の生地に敗けない肩のラインと、長い足。

「似合う! かっこいい!」

 瞬間で裾に目を遣り、裾上げの必要がないことを確認した。エンジ色の上下はハンガーに掛かっていると躊躇するような色合いだが、実際に身に着けると粋だ。

「みーが持ってきたそれもいいな」

 そう言う鉄の肩に持ってきた商品を当ててみようとすると、さりげない仕草で手首を掴まれた。

「なんだよ、リョウとはもっと近かったろ」

「え?」

 何故この場で、そんなことを言い出すのか。

「っていうか、いつも客との距離近いよな。今だって普通に肩とか触ってるじゃん」

 身に着けるものであれば、引っ張ったり当てたりでどこかに触れることは、確かに多い。

「仕方ないじゃない。余裕があるかとか、皺の寄り方とか見なくちゃならないし」

 手首を掴まれたまま、言い訳をしてみせる。大体、なんでこんなことを言われなくてはならないのか。まだ鉄からは、何も明言されてないというのに。

「みーは自分が売り場にいるとき、すっげー色っぽいの知らないだろ」

 色っぽいって言葉は、美優から遠い言葉だとずっと思っていた。不本意ではあるが童顔は自覚しているし、売り場のユニフォームは作業服メーカーのポロシャツなのだ。

「中学生みたいな顔してるくせに、どこからでも掛かって来いみたいな迫力でさ、そこだけ大人に見えんの。ずるいよな」

 一体なんの文句だ。

「親父だって、あの子は大化けするから先に手ぇ打てって言うし、惚れさせろって言われたってどうしていいかわかんねえし」

 待って! こんな場所で、こんなシチュエーションで、何を言い出してるの、てっちゃん?

 美優の手首を掴んだまま、鉄は後ずさりして試着室に入った。当然美優を引っ張っている。

「少なくとも、みーも俺と同じ気持ちだと思ってるんだけど」

「同じって、どういう?」

 鉄が帰ったあと、きっと定時まで自分は仕事にならない。それに今客が入ってきてしまったら。

「同じって、こういう」

 美優の手首を捕まえている逆側の手で、鉄は試着室のカーテンを閉めた。中から何か軽い音が聞こえ、そのあと慌てて美優が転がり出る。

 美優が首から上がすべて赤くなっていることや、鉄が試着室の中に靴のまま入っている理由は、美優と鉄しか知らない。

 あとで迎えに来ると言って商品を抱えて階段を降りる鉄を見送って、美優はカウンターの中にへたりこんだ。

 売り場にいるときは、どこからでも掛かって来いって迫力があるんだって。それって、何を質問されても対応しますって見えてるんだよね、違う?

 きちんとプロに近づいてるんだろうか。そうだといいな。

 はい、私は作業服のプロフェッショナルですってね。
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