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17.神獣と帝国皇子②
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モンドハイン宮殿の庭園は、非常に不自然な自然を再現している。宮殿から出ると巨大な噴水があり、バラ園が左右に広がり、公園の端からは地平線まで運河がある。それだけではない、先日のアンティーク・マーケットが開かれていた庭園しかり、宮殿の上から見ると、手入れされた道と芝生のコントラストが、まるで絨毯か衣服のレースのように精緻な模様を作っているのだ。
まったくもって、気味が悪い。整然とし過ぎたこの庭園は、人間に言わせれば美しいらしいが、私達はもっと雑然とした場所が好きなのだ。
だから、バラ園の東側に作られたこぢんまりとした小川が、夜の散歩コースの定番だった。控えめな橋も含め、あの場所は悪くない。
そこへ行こうと、宮殿から庭園へ続く階段を降りていると、暇を持て余す門兵の雑談が聞こえてきた。仕方がないので、門の傍にある鈴をチリンチリンと鳴らしてやる。
「なんだ、侵入者か?」
「ああ、お前はまだ見たことないのか。ロザリア様の飼ってる犬だよ」
ぬっと、月明かりに照らされて門兵が顔を出す。ランプの明かりが私の体を照らした。
「ほら、ここに金属のプレートをつけてるだろ? ファルク皇家の紋章入り……これが目印で、これつけてるイヌは通してやれって、ラウレンツ殿下からのお達しで」
「ああ、例の……。初めて見たけど、結構いかつい犬だなあ。オオカミみたいじゃないか?」
「まあ、外国の犬だしな。そういう種類もいるんだろ。あ、そうだ、りんごがあるぞ、食うか? ……行ってしまったな」
誰が犬だと怒ってやりたかったが、そういうことになった以上はそうもいかない。馴れ馴れしくエサを差し出してくるのを無視し、庭の奥へと進んだ。歩いていると、胸のあたりで鉄のプレートが揺れて鬱陶しかった。
夜の庭園は警備の兵が多く好きではないのだが、例の小川は入口に兵が立っているだけで、中に入ると人がいなくていい。同じようにプレートを見せて中へ入り、橋の上に寝転び、せせらぎを聞きながら目を閉じた。寒くなってきたせいか、虫の声はもう聞こえない。聞こえてくるのは、少し離れた森にいるフクロウの声くらいだった。
「ヴァレン?」
……それだというのに、不躾な皇子め。顔を上げると、分厚い外套を羽織ったラウレンツ皇子が突っ立っていた。
この小川は私のお気に入りだったのが、なんとも厄介なことに、この皇子のお気に入りの場所でもあったらしい。ある夜に鳥たちとのんびり歓談していたところに人の気配がしたと思ったら、このトボけた皇子が現れ、しかも遠慮して回れ右するのでなく「ヴァレンは寒くないのか?」と言いながら隣に座るときた。そういう貴様は私で暖を取っているのがバレバレだぞ、そう呻ってやりたかった。
今日もそうだ。私がいるのを分かっていてやってきて、わざわざ私の隣に座り込む。
「今日はロザリアを独り占めして悪かったね。明々後日は休みにしたから、ふたりでゆっくり過ごしてくれ」
言われなくともそのつもりだ。フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたとき、微かに珍しい香りがして、逆にその顔を見上げてしまった。気づいた皇子が手元と私を見比べる。
「これ? これはみかんだよ。来るときに木から落ちてきたから持ってきたんだ」
落ちてきた、ということは先日会ったコマドリの仕業だな。心当たりと同時に、コマドリから聞いた話が頭に浮かんだ。
この庭園の奥にある森は、どうやら例の元皇妃が薙ぎ倒して開発を予定していた地らしい。しかし、この皇子がそれをやめさせたらしく、森の連中はこぞってこの皇子を好いているのだ。そのとき、一羽のコマドリが大真面目に訊ねてきたのだ、皇子に贈り物をする方法は如何と。なにもしてやることはないとあしらったが、それでは収まらないと言うから、果物でも投げてやったらどうだと話したのだ。
つまりこのみかんは私にも食う権利があるはずだ。フンフンと鼻でつついていると「分かった分かった」と丁寧に皮を剥き始める。物分かりのいいところは貴様のいいところだ。
「最近どうかな、すっかりお犬様と認識されているけれど……ごめんって」
まったくだ、その点は貴様のせいだ。牙を剥くと、噛まれないと分かっているからか、ラウレンツ皇子はわざとらしく首を竦めただけだった。そういうところが生意気なのだ。
「ロザリアが皇子妃になって外にも行く以上、オオカミだと連れていけないんだ。犬なら最近飼うのも流行っているからね、まったく問題ないんだけれど」
そんなことは契約に注意書きをしておくべきだと私は憤慨したのだが、ロザリアは「まあまあ」と取り合わなかった。どうやら、ラウレンツ皇子からお詫びがてら私専用の通行証をもらい受けたので、むしろ便宜がいいではないかということらしい。門兵どもが見ていたのがそれだ。そういうことは私に許可を取るべきだとも言ったのだが、「だから、ヴァレンに確認してきますねなんて言って提案を保留にはできないって話したでしょう」などと抜かした。喋らないことにしているというのは、なんとも不便だ。
「だから君にとっては迷惑な話で申し訳ないんだけれど、俺はロザリアが契約妃になってくれてすごく助かっているよ。この間、久しぶりに手元から書類が消えた。一瞬ではあったけどね、びっくりしたよ」
ラウレンツ皇子がみかんを差し出す。その手から食いながら、今日も与太話を聞いてやる。
どうやらこの皇子、宮殿にろくに友人がいないらしく、私のことを徹頭徹尾オオカミだと思っているくせに夜な夜な四方山話《よもやまばなし》をしに来るのだ。最初は少々憐れに思ったが、考えてみればロザリアも私以外にさして友人がいないことを思い出したので、憐れむのはやめにした。
「雑談ついでのことだったとはいえ、ロザリアがエーデンタール国で何をしてきたか知ることができたのは幸いだった。あのまま使用人にしていては人の無駄遣いもいいところだ、他の連中への説明には手間取ったけれど、早い段階で気付いたお陰で言い訳は立ったしね」
そもそも、この皇子に友人がいないのはコイツの問題なのではないか。最近の私はそう気が付いた。なにせこの皇子、手八丁口八丁でロザリアを自らの契約妃にしたのである。
もちろん、それに伴い、ロザリアと私の生活水準が飛躍的に上がったことは喜ばしいことである。部屋の広さ、清潔さ、堅牢さ、快適さ、どれをとっても使用人部屋とはくらべものにならない。私も床に転がるよりは大きな寝台でロザリアの隣に寝るほうがいいに決まっている。それに、厨房仕事がなくなったのはありがたい。あれはロザリアの傍にいることができず面倒だったのだ。だから相応の礼はしてやった。
が、だとしてこの皇子の目的はなにか? 本当にロザリアが使えるから妃にしただけか? 裏では私の加護を目当てにしているのではないか? トボけているくせに実は強かで狡猾で腹黒い皇子なのではないか?
「しかし、ロザリアはどうしてアラリック王子の反感を買ったんだい? 仕事もできるし気も利いて面白いし……まあそうか、たまに出来過ぎる女性を嫌がる男もいるからね。鼻についたというヤツなのかもしれないね」
そのわりには、なかなかボロを出さない皇子だ。みかんをもう一粒もらい、立ち上がり、その腕に顔をこすりつけてやる。
ほらほら、私は可愛らしいオオカミだぞ。もっと好き勝手に心の内を話せばいい、この橋で話した秘密がばれることはないのだから。
「どうした? もっと食べたいのか?」
いや、もっと聞きたいのだ。それはそれとしてみかんはもらおう。
「そういえば、少し前に商隊のほうの臣下がエーデンタール国から帰ってきたよ。小麦の値段が上がっていて大儲けだったと喜んでいた。ロザリアのことといい、エーデンタール国からは色々といただいてしまって申し訳ないね」
ラウレンツ皇子の膝に足を乗せながら、小首を傾げて上目遣いもしてやった。しかし頭を撫でてくるだけだ。そうではないぞ、馬鹿皇子。
すりすりと膝に頬ずりをし、甘えているふりをしてやる。演技とはいえこんなことをしてやるのはロザリアだけだ。光栄に思うがいい。
「……ところで、この間、ネーベルハイン国から使者があっただろう? シュトルム侯爵令息のトビアス殿だ、覚えているかな」
覚えているとして、それがなんだ。いま私が聞きたいのはそんなことではない。さては貴様、空気が読めないというヤツだな。
「確かにネーベルハイン国は友好の証に……そういうこともする。俺達が手をとって口づけるのと同じだね。しかし……しかしね……」
が、ラウレンツ皇子は急に言い淀み始めた。いつも飄々とうるさいほどに喋っていくこの皇子らしくない。顔を上げると、暗がりの中で、ラウレンツ皇子は眉間にしわを寄せ、難しく考えこんでいた。
「うまく言語化できていないんだけれど、夫である俺がまだしていないことを全くの部外者がやってのけたことに釈然としない自分がいてね。……ネーベルハイン国では友好の証を見せるためにハグをすることは知っていたし、互いの懐に入りながら全く害することなく離れるという行為で親愛を示すことに感心したことさえある。……のだが」
うーん、とラウレンツ皇子は呻ったし、私は声を上げて笑いそうになってしまった。
なるほどこの皇子、考えてみれば追放された元皇妃は「継母」で、浪費と汚職にいとまがない女だったという。しかも皇子なのにこの年で妃の候補もいない……。
「……おいヴァレン、なにか笑っていないか? 気のせいか?」
オオカミの表情が分かるとは、鈍い鈍いと思っていたが意外と鋭い皇子のようだ。フンフンと鼻を鳴らして誤魔化すと「ごめん、みかんはもうないよ」と言うので、いやしかしやはり鈍いのかもしれん。
私を軽くあしらうように撫でた後、皇子は馴れ馴れしく肩を組んだ。
「もちろん、ロザリアがネーベルハイン国の侯爵令息の信頼を勝ち取ったのは大きいんだ。弱小国だと見下す連中もいるけれど、あの国の航海技術は俺の知る限り大陸屈指のものだしね、今後も見据えて仲良くしておきたい。だから何も困ることなんてないんだけれど、どうも漠然とした不安というか……不可解な、蟠りのようなものが消えなくてね。一体どうしたものか……こらヴァレン、まだ話は途中じゃないか」
私に向かってこらとはなんだ。するりと腕の間を抜け、宮殿へ鼻先を向ける。橋がトントンと空虚な音を鳴らした。
「帰るのか? だったら俺も帰るよ。……こらヴァレン、待ってくれ、オオカミと違って人間はそんなにすぐ立ち上がれないんだ」
嘘をつけ、惚けたふりばかりして。お前が何に鈍く何に鋭いか、こちらはすべてお見通しだ。フンフンと鼻を鳴らしながら口元が緩んでいるのを感じてしまったが、まあ、気のせいだろう。
まったくもって、気味が悪い。整然とし過ぎたこの庭園は、人間に言わせれば美しいらしいが、私達はもっと雑然とした場所が好きなのだ。
だから、バラ園の東側に作られたこぢんまりとした小川が、夜の散歩コースの定番だった。控えめな橋も含め、あの場所は悪くない。
そこへ行こうと、宮殿から庭園へ続く階段を降りていると、暇を持て余す門兵の雑談が聞こえてきた。仕方がないので、門の傍にある鈴をチリンチリンと鳴らしてやる。
「なんだ、侵入者か?」
「ああ、お前はまだ見たことないのか。ロザリア様の飼ってる犬だよ」
ぬっと、月明かりに照らされて門兵が顔を出す。ランプの明かりが私の体を照らした。
「ほら、ここに金属のプレートをつけてるだろ? ファルク皇家の紋章入り……これが目印で、これつけてるイヌは通してやれって、ラウレンツ殿下からのお達しで」
「ああ、例の……。初めて見たけど、結構いかつい犬だなあ。オオカミみたいじゃないか?」
「まあ、外国の犬だしな。そういう種類もいるんだろ。あ、そうだ、りんごがあるぞ、食うか? ……行ってしまったな」
誰が犬だと怒ってやりたかったが、そういうことになった以上はそうもいかない。馴れ馴れしくエサを差し出してくるのを無視し、庭の奥へと進んだ。歩いていると、胸のあたりで鉄のプレートが揺れて鬱陶しかった。
夜の庭園は警備の兵が多く好きではないのだが、例の小川は入口に兵が立っているだけで、中に入ると人がいなくていい。同じようにプレートを見せて中へ入り、橋の上に寝転び、せせらぎを聞きながら目を閉じた。寒くなってきたせいか、虫の声はもう聞こえない。聞こえてくるのは、少し離れた森にいるフクロウの声くらいだった。
「ヴァレン?」
……それだというのに、不躾な皇子め。顔を上げると、分厚い外套を羽織ったラウレンツ皇子が突っ立っていた。
この小川は私のお気に入りだったのが、なんとも厄介なことに、この皇子のお気に入りの場所でもあったらしい。ある夜に鳥たちとのんびり歓談していたところに人の気配がしたと思ったら、このトボけた皇子が現れ、しかも遠慮して回れ右するのでなく「ヴァレンは寒くないのか?」と言いながら隣に座るときた。そういう貴様は私で暖を取っているのがバレバレだぞ、そう呻ってやりたかった。
今日もそうだ。私がいるのを分かっていてやってきて、わざわざ私の隣に座り込む。
「今日はロザリアを独り占めして悪かったね。明々後日は休みにしたから、ふたりでゆっくり過ごしてくれ」
言われなくともそのつもりだ。フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いたとき、微かに珍しい香りがして、逆にその顔を見上げてしまった。気づいた皇子が手元と私を見比べる。
「これ? これはみかんだよ。来るときに木から落ちてきたから持ってきたんだ」
落ちてきた、ということは先日会ったコマドリの仕業だな。心当たりと同時に、コマドリから聞いた話が頭に浮かんだ。
この庭園の奥にある森は、どうやら例の元皇妃が薙ぎ倒して開発を予定していた地らしい。しかし、この皇子がそれをやめさせたらしく、森の連中はこぞってこの皇子を好いているのだ。そのとき、一羽のコマドリが大真面目に訊ねてきたのだ、皇子に贈り物をする方法は如何と。なにもしてやることはないとあしらったが、それでは収まらないと言うから、果物でも投げてやったらどうだと話したのだ。
つまりこのみかんは私にも食う権利があるはずだ。フンフンと鼻でつついていると「分かった分かった」と丁寧に皮を剥き始める。物分かりのいいところは貴様のいいところだ。
「最近どうかな、すっかりお犬様と認識されているけれど……ごめんって」
まったくだ、その点は貴様のせいだ。牙を剥くと、噛まれないと分かっているからか、ラウレンツ皇子はわざとらしく首を竦めただけだった。そういうところが生意気なのだ。
「ロザリアが皇子妃になって外にも行く以上、オオカミだと連れていけないんだ。犬なら最近飼うのも流行っているからね、まったく問題ないんだけれど」
そんなことは契約に注意書きをしておくべきだと私は憤慨したのだが、ロザリアは「まあまあ」と取り合わなかった。どうやら、ラウレンツ皇子からお詫びがてら私専用の通行証をもらい受けたので、むしろ便宜がいいではないかということらしい。門兵どもが見ていたのがそれだ。そういうことは私に許可を取るべきだとも言ったのだが、「だから、ヴァレンに確認してきますねなんて言って提案を保留にはできないって話したでしょう」などと抜かした。喋らないことにしているというのは、なんとも不便だ。
「だから君にとっては迷惑な話で申し訳ないんだけれど、俺はロザリアが契約妃になってくれてすごく助かっているよ。この間、久しぶりに手元から書類が消えた。一瞬ではあったけどね、びっくりしたよ」
ラウレンツ皇子がみかんを差し出す。その手から食いながら、今日も与太話を聞いてやる。
どうやらこの皇子、宮殿にろくに友人がいないらしく、私のことを徹頭徹尾オオカミだと思っているくせに夜な夜な四方山話《よもやまばなし》をしに来るのだ。最初は少々憐れに思ったが、考えてみればロザリアも私以外にさして友人がいないことを思い出したので、憐れむのはやめにした。
「雑談ついでのことだったとはいえ、ロザリアがエーデンタール国で何をしてきたか知ることができたのは幸いだった。あのまま使用人にしていては人の無駄遣いもいいところだ、他の連中への説明には手間取ったけれど、早い段階で気付いたお陰で言い訳は立ったしね」
そもそも、この皇子に友人がいないのはコイツの問題なのではないか。最近の私はそう気が付いた。なにせこの皇子、手八丁口八丁でロザリアを自らの契約妃にしたのである。
もちろん、それに伴い、ロザリアと私の生活水準が飛躍的に上がったことは喜ばしいことである。部屋の広さ、清潔さ、堅牢さ、快適さ、どれをとっても使用人部屋とはくらべものにならない。私も床に転がるよりは大きな寝台でロザリアの隣に寝るほうがいいに決まっている。それに、厨房仕事がなくなったのはありがたい。あれはロザリアの傍にいることができず面倒だったのだ。だから相応の礼はしてやった。
が、だとしてこの皇子の目的はなにか? 本当にロザリアが使えるから妃にしただけか? 裏では私の加護を目当てにしているのではないか? トボけているくせに実は強かで狡猾で腹黒い皇子なのではないか?
「しかし、ロザリアはどうしてアラリック王子の反感を買ったんだい? 仕事もできるし気も利いて面白いし……まあそうか、たまに出来過ぎる女性を嫌がる男もいるからね。鼻についたというヤツなのかもしれないね」
そのわりには、なかなかボロを出さない皇子だ。みかんをもう一粒もらい、立ち上がり、その腕に顔をこすりつけてやる。
ほらほら、私は可愛らしいオオカミだぞ。もっと好き勝手に心の内を話せばいい、この橋で話した秘密がばれることはないのだから。
「どうした? もっと食べたいのか?」
いや、もっと聞きたいのだ。それはそれとしてみかんはもらおう。
「そういえば、少し前に商隊のほうの臣下がエーデンタール国から帰ってきたよ。小麦の値段が上がっていて大儲けだったと喜んでいた。ロザリアのことといい、エーデンタール国からは色々といただいてしまって申し訳ないね」
ラウレンツ皇子の膝に足を乗せながら、小首を傾げて上目遣いもしてやった。しかし頭を撫でてくるだけだ。そうではないぞ、馬鹿皇子。
すりすりと膝に頬ずりをし、甘えているふりをしてやる。演技とはいえこんなことをしてやるのはロザリアだけだ。光栄に思うがいい。
「……ところで、この間、ネーベルハイン国から使者があっただろう? シュトルム侯爵令息のトビアス殿だ、覚えているかな」
覚えているとして、それがなんだ。いま私が聞きたいのはそんなことではない。さては貴様、空気が読めないというヤツだな。
「確かにネーベルハイン国は友好の証に……そういうこともする。俺達が手をとって口づけるのと同じだね。しかし……しかしね……」
が、ラウレンツ皇子は急に言い淀み始めた。いつも飄々とうるさいほどに喋っていくこの皇子らしくない。顔を上げると、暗がりの中で、ラウレンツ皇子は眉間にしわを寄せ、難しく考えこんでいた。
「うまく言語化できていないんだけれど、夫である俺がまだしていないことを全くの部外者がやってのけたことに釈然としない自分がいてね。……ネーベルハイン国では友好の証を見せるためにハグをすることは知っていたし、互いの懐に入りながら全く害することなく離れるという行為で親愛を示すことに感心したことさえある。……のだが」
うーん、とラウレンツ皇子は呻ったし、私は声を上げて笑いそうになってしまった。
なるほどこの皇子、考えてみれば追放された元皇妃は「継母」で、浪費と汚職にいとまがない女だったという。しかも皇子なのにこの年で妃の候補もいない……。
「……おいヴァレン、なにか笑っていないか? 気のせいか?」
オオカミの表情が分かるとは、鈍い鈍いと思っていたが意外と鋭い皇子のようだ。フンフンと鼻を鳴らして誤魔化すと「ごめん、みかんはもうないよ」と言うので、いやしかしやはり鈍いのかもしれん。
私を軽くあしらうように撫でた後、皇子は馴れ馴れしく肩を組んだ。
「もちろん、ロザリアがネーベルハイン国の侯爵令息の信頼を勝ち取ったのは大きいんだ。弱小国だと見下す連中もいるけれど、あの国の航海技術は俺の知る限り大陸屈指のものだしね、今後も見据えて仲良くしておきたい。だから何も困ることなんてないんだけれど、どうも漠然とした不安というか……不可解な、蟠りのようなものが消えなくてね。一体どうしたものか……こらヴァレン、まだ話は途中じゃないか」
私に向かってこらとはなんだ。するりと腕の間を抜け、宮殿へ鼻先を向ける。橋がトントンと空虚な音を鳴らした。
「帰るのか? だったら俺も帰るよ。……こらヴァレン、待ってくれ、オオカミと違って人間はそんなにすぐ立ち上がれないんだ」
嘘をつけ、惚けたふりばかりして。お前が何に鈍く何に鋭いか、こちらはすべてお見通しだ。フンフンと鼻を鳴らしながら口元が緩んでいるのを感じてしまったが、まあ、気のせいだろう。
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