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聖女side
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しおりを挟む9歳の私は、突然親元から引き離された。
「……ママ?」
そこは教会のような場所で、白い衣に身を包んだ大人たちが小さな私を囲んでいた。
彼らは何かを話し掛けていたけれど、その言葉を私は分からなかった。
「パパ……ママ……?」
怖くて、心細くて、不安で、泣き叫んだ私を彼らは戸惑うように見下ろしていた。
心は恐怖でいっぱいだった。
幼心にあまりに辛い記憶だったんだろう。私はその前後のことをぼんやりとしか思い出せない。
はっきりと思い出せるのは、それから半年ほど経ってからのことだ。
私は変わらず、よく分からない教会のような場所に保護されていた。精神的に少し落ち着いてからこの国の言葉を覚えはじめた。すると彼らと意志が通じあえるようになった。
私を保護した大人たちは、神官、という役職であるという。
「貴方様は聖女です」
聖女、という聞き慣れない言葉を、当時の私は正確に理解出来てはいない。
「私たちに必要な尊い方でございます」
大人の言葉は少しも理解出来なかった。
けれど彼らは絶えることのない笑顔を浮かべながら私の世話をしてくれた。
幼い私に分かったのはたった一つ。
パパとママには会えないんだということだけだった。
――五年後。
私はいまだ、両親に会えていない。
14歳を迎えて、三度目の満月の日だった。
神殿のはずれに建てられた小さな建物が私の生きる場所。色とりどりのガラスの窓に囲まれたその建物は、教会のような厳かさも持っている。
実際に聖女が住まう、神に祈るための場所だった。
ここが今では私の世界のすべてだ。9歳から14歳に至るまで、神殿とこの場所以外には出たことがない。
「それでは聖女様。今宵もお勤めをお願い致します」
白い長衣を着た神官が礼を取りながら言う。
「分かりました……今宵も月の輝きがありますように」
「月の輝きがありますように」
神官は儀礼的な返事をすると建物を後にして行った。
親元で育った記憶は私の大切な宝物だ。
両親に愛され育ったと思う。
「どうしてパパとママに会えないの?」
私の問いに神官たちは決まって同じ答えを返した。
「聖女様は神殿で保護する決まりなのです」
この国では、長い歴史でずっとそうだったのだと語る。
「聖女様の祈りだけが、神からお力を分け与えられるのです」
聖女にしか出来ない役割。
それをするために私はここにいるのだと言う。
神官とは会話をする。勉強も受けさせられる。
けれど彼らは私の数少ない言葉を交わせる人間のはずなのに、心のこもった会話など出来たことはなかった。それが分かるのは、親元で、おそらく普通に育った記憶が私の中にわずかながらに残っているからだ。
五年。
初めは泣いて喚いた。次に身体を壊した。元気になった後は、何度もここから抜け出そうとした。
街まで逃げたことがある。
数日煉瓦造りの町をうろつき、お腹を空かせ倒れているところを神官に捕らえられた。
結局――子供の自分には逃げる場所などどこにもなく、一人では生きていけないのだと知っただけだった。
諦めてしまえば、日々は穏やかに過ぎていく。
食べることには困らない。学ばせて貰える。そして綺麗な住居と、心静かに祈れる時間が与えられている。住まいは草花と木々に囲まれ太陽の日差しと鳥の声に満たされている。生活は申し分ない。
私にしか出来ない役割が与えられている。きっと特別な人間なのだろう。役に立つ勤めを果たすことで、いずれ心から満たさせる時も来るのかもしれない。
けれどそう思えない……。
神官とも、世話役の女官とも、心が通わないどころか目を合わせることすら避けられているような気がするのだ。
何気ない会話が誰とも出来ない。
(ただ……寂しい)
幼いのだろうか。わがままなのだろうか。
(パパ、ママ……)
明るい笑顔で愛情を伝えてくれたはずの人たちがいない。
(会いたい……)
記憶はとうに朧げだ。
幼い身にあまる辛さは、私から大事な記憶まで薄れさせてしまった。
それでも何年経っても寂しさに慣れない。張り裂けそうな孤独を抱えながら空を見上げる。
月が昇る。
聖女には勤めがある。
月明かりの元、この一人きりの建物の中で、月に向かって神に祈れという。
満月の夜は特別だ。
祈りを怠ると、神官たちにもそれが分かってしまう。聖女の祈りは、この世界の魔力量を増やすためのものなのだから。
心を無にするように深呼吸をしてから、祈りの姿勢を取ると、私は言った。
「月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……」
祈りの言葉は限りなく存在するけれど、突き詰めればこの願いを祈るだけだ。
だけど本当は、心から祈れていないことも知っていた。私の世界はとても狭い。知らない人のことなど祈れない。だからひっそりと、心の中には家族を思い浮かべている。
「私の大切な人たちがどうか幸せでありますように……」
月にそう願うと、ぽたりと一粒の涙がこぼれ落ちる。
月のしずくのような涙が床に染みを作ると、暗い気持ちが湧き上がる。
――私は、幸せじゃない。
寂しさと、恥ずかしさが入り混じる複雑な思いが心を占める。
幸せじゃ、ない、なんて。
自分は健康だ。
聖女として、きっと敬われている。特別な役割を与えられ、豊かな暮らしをしているのに、幸せだと思えないなんて。
――自分はなんて醜いことだろう。
けれど、世界の人々の幸せを願いながら……私は自分の幸福を祈ることも出来ず、自分の笑っている姿すら、想像することが出来ないのだ。
「……寂しい……寂しいの」
口に出してしまえば想いは止まらない。
「……ふぅ……うぅ……っ」
嗚咽が止まらず口元を押さえながら床に膝を突く。
「ママ……っ」
瞬間。
カタン。
誰もいないはずの室内に静かな音が響く。涙に濡れた瞳を向けると、白い封筒が落ちている。
「……?」
神官の忘れ物だろうか。手に取ると封がされていない。自分宛のものかと思い、無造作に開けてから息を呑む。
「――え?」
便せんに書かれていたのは、神の言葉。子供の頃に知っていた言葉。
――聖女様しか知らないお言葉は、神の世界のお言葉なのでございます。
祈りは、神の言葉で捧げている。
この国の人々には読めない、懐かしい文字で書かれていたそれは、私宛の手紙だった。
『聖女様
突然のお手紙をお許しください。
僕は平凡な学生です。
ある夜の祈りの時間から、貴方様のお姿を拝見するようになりました。
とても信じられないような出来事でした。
目を瞑り祈っていると、どうしてだか閉じた瞳の奥がぼんやりと明るくなり、貴方様のお姿が映るのです。
清らかに神に祈るお姿から、聖女様に違いないと思いながらも、それを確認するすべもなく日々を過ごしてきました。
あまりに不思議なことです。
神の思し召しなのでしょうか。
けれど、貴方様のお姿を思い浮かべるだけで、僕は心が晴れるような気持ちになれることに気が付きました。
辛い日常を耐え、明日を生きる元気をもらえるように思えたのです。
この感謝をどうにか伝えられないかと思った僕は手紙を書くことにしました。
瞳の奥でだけ拝見出来る、幻の聖女様に手紙だなどと、馬鹿な考えだとお笑いください。
けれど、この手紙が貴方に届くことを、月の神シャーリャン様に祈りたいと思います』
――それが、彼からの初めての手紙だった。
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