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東の山の怪異
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伊織と晴山の里との戦は、ふた月ほどで、晴山方の勝ちに終わった。いつもならもっと簡単に決着するのに、ふた月も続いたのは、伊織の兵たちがいつになく持ちこたえたからである。最後はやはり隊が崩れることになったが、暑いさなかにありながらなかなか音を上げなかった伊織軍に、晴山王は感心したようだった。
「ようやく手応えが出てきたわい、青二才め! 」
腹の底から愉快そうに笑いながら晴山が放った矢は、小棘とともに前線にいた高嶋の兜の飾りを射落とした。
戦の前に葵が寄越した託宣について、小棘は父に黙って山辺彦に相談を持ちかけた。ふたりはあたかも衛士たちがみずから考えついた策であるかのように王に進言し、それが戦に活きたのだった。
すべての川を征せよ、というものだった。雨のよく降る時節、幅も、速さも、凶暴さも、すべてが倍になった川に、舟に慣れた衛士たちが命懸けで挑み、まさかこんな川を使いはすまい、と山越えばかり警戒していた晴山軍を奇襲した。さながら陸の上の水軍であった。
それでも死者は出た。
「御榊の 葉色のごと とこしえの 巌のごと とこしえの 境の暗戸へ ゆくとて 里を忘るな」
葵は日差しに負けそうな声を振り絞った。兵士の墓は申し訳程度に盛り上がっている。中に眠っているのは彼の髪だけだ。
舞い終わると、葵は胸にかけていた小さな鏡を兵士の墓に置いた。父と母が、わっと泣き伏した。他に子はない。たったひとりの息子だった。
葵は数人の采女だけを供として連れ、大半は宮に留めていた。戦に敗れたばかりの男王の目がある。そうでなくとも、大武棘は巫女の宮をよくは思っていない。巫女は祓いや鎮めをするときに男王の許しを得よ、と言い出したのも大武棘だ。守っているのは初音だけだった。
老いた両親は葵に何度も叩頭した。細まって、皺のひとつになったような目から、涙がいつまでも零れていた。隣家の人々が寄ってきた。
「そんなに泣くな、泣くな。イワオが心配するで」
「泣くなだとお」
母は力なく隣人に掴みかかった。縋る手を求めていたのかも知れなかった。
「何のために、あの子は死んだんだ。ああ、ああ、優しい子だったよ。おまえさんに分かるか」
イワオの父はものも言わずにうなだれている。葵の傍らに控えていたナギが行って、その肩を支えた。
集まっている近所の人々の間から、すすり泣く声が漏れてきた。今の伊織は、どこへ行ってもこんなふうだった。
そこへ、近づいてくるものがいた。
「これはこれは、巫女王」
大武棘に仕えるウカミが、にやにやしながらやってきた。自分では剣も持てないような小男なので、いつも脇に若い衛士をふたり連れている。黒っぽい衣を着た、影のような男だったが、一度姿を現せばこれほど目を引く男も他になかった。
「送ですかな」
ウカミは跪きもせず、小さな墓を見下ろした。衛士たちはさすがに渋い顔をしたが、ウカミに倣わないわけにはいかなかった。
「礼のひとつくらい守られてはいかが? 」
葵はウカミのだらりとした顔を睨んだ。
ウカミがすぐさま言った。
「大武棘さまの許しを得ていませんな。令のひとつくらい守られてはいかがかな? 」
葵は頬に手を当てた。
「大武棘さまがひとつくらい誰かの命をお守りくださっていたら、それだけ送も少なくて済んだのでしょうけれどね」
これを聞いて、ウカミはさすがに頬を引き攣らせた。里人たちがざわつき、その声は次第に大きくなっていった。ウカミはうろたえ、衛士たちに甲高く命じた。
「何をしておる! 黙らせろ! 」
衛士たちは里人たちに声をかけたが、効果はなかった。里人たちは声高に大武棘やウカミをなじり、度重なる戦に疲弊していることを訴え、口々に罵った。衛士たちは仕方なく、剣に手をかけて里人たちを怒鳴りつけようとした。
ナギが葵の脇に立った。
「巫女王の御前で剣に手をかけるとはなんだ。ここは送の場でもある。わきまえられよ」
静かに言っただけだったが、大喝したくらいの威力があった。衛士たちは引き下がった。ウカミについているのも、望んでそうなったのではないのだろうと葵は思った。
「大武棘さまに、あまり逆らわれない方がよろしい」
ウカミは何とかにやにや笑いを取り戻して言った。
「ご自身が、王であられる前に乙女であることをお忘れにならぬことですな。今にきっと身を滅ぼすことになりますぞ」
「なにおう」
それまで隣人に縋って泣いていたイワオの母が、みなが止めるのを振り払ってウカミに掴みかかろうとした。
「どうぞ落ち着いて」
ナギが羽交い締めにして止めなければ、衛士たちも黙ってはいられないところだった。
「ええい、止めてくだされるな! 葵さまを馬鹿にされて、黙ってはおれん」
イワオの母はナギの腕がびくともしないと分かるまで暴れ続けたが、収まってからも、肩で息をしながらぎらぎらとウカミを睨んだ。焔の燃える目だった。
「うちの子がどこで死んだのか、言ってみろ。どんな子で、いくつまで生きたのか、言ってみろ! 言えんじゃろうが。下のものの顔も知らん、おまえのような連中にやるために、おらは腹を痛めたんじゃねえんだぞ。布も米も、子どもまで取っちまいやがって! 子どもいなくて、どうして米を作る? おまえが田植えしてくれるんか? 子どもだけじゃねえ。おまえらはその親まで殺すんだ! 」
「志津、もうよせ、もうよせ」
イワオの父が立ち、妻の手を引いて家へ戻っていった。泣いていた。
「頭のおかしな婆あよ」
ウカミは志津の剣幕に怯み、捨て台詞をやっと吐いて、来た道をすごすごと戻っていった。衛士たちは葵とナギに頭を下げようとしたが、
「早う来んか! 」
ウカミにきいきいと怒鳴られ、慌てて主のあとを追った。志津が呻く声が、その背を急かす。呪いに似た声だった。
「我らの長は葵さまじゃ」
殺さば殺せ。剣を突きつけて、口を塞いでみろ。おまえのことなんぞ祟り殺してやるぞ――。
「ようやく手応えが出てきたわい、青二才め! 」
腹の底から愉快そうに笑いながら晴山が放った矢は、小棘とともに前線にいた高嶋の兜の飾りを射落とした。
戦の前に葵が寄越した託宣について、小棘は父に黙って山辺彦に相談を持ちかけた。ふたりはあたかも衛士たちがみずから考えついた策であるかのように王に進言し、それが戦に活きたのだった。
すべての川を征せよ、というものだった。雨のよく降る時節、幅も、速さも、凶暴さも、すべてが倍になった川に、舟に慣れた衛士たちが命懸けで挑み、まさかこんな川を使いはすまい、と山越えばかり警戒していた晴山軍を奇襲した。さながら陸の上の水軍であった。
それでも死者は出た。
「御榊の 葉色のごと とこしえの 巌のごと とこしえの 境の暗戸へ ゆくとて 里を忘るな」
葵は日差しに負けそうな声を振り絞った。兵士の墓は申し訳程度に盛り上がっている。中に眠っているのは彼の髪だけだ。
舞い終わると、葵は胸にかけていた小さな鏡を兵士の墓に置いた。父と母が、わっと泣き伏した。他に子はない。たったひとりの息子だった。
葵は数人の采女だけを供として連れ、大半は宮に留めていた。戦に敗れたばかりの男王の目がある。そうでなくとも、大武棘は巫女の宮をよくは思っていない。巫女は祓いや鎮めをするときに男王の許しを得よ、と言い出したのも大武棘だ。守っているのは初音だけだった。
老いた両親は葵に何度も叩頭した。細まって、皺のひとつになったような目から、涙がいつまでも零れていた。隣家の人々が寄ってきた。
「そんなに泣くな、泣くな。イワオが心配するで」
「泣くなだとお」
母は力なく隣人に掴みかかった。縋る手を求めていたのかも知れなかった。
「何のために、あの子は死んだんだ。ああ、ああ、優しい子だったよ。おまえさんに分かるか」
イワオの父はものも言わずにうなだれている。葵の傍らに控えていたナギが行って、その肩を支えた。
集まっている近所の人々の間から、すすり泣く声が漏れてきた。今の伊織は、どこへ行ってもこんなふうだった。
そこへ、近づいてくるものがいた。
「これはこれは、巫女王」
大武棘に仕えるウカミが、にやにやしながらやってきた。自分では剣も持てないような小男なので、いつも脇に若い衛士をふたり連れている。黒っぽい衣を着た、影のような男だったが、一度姿を現せばこれほど目を引く男も他になかった。
「送ですかな」
ウカミは跪きもせず、小さな墓を見下ろした。衛士たちはさすがに渋い顔をしたが、ウカミに倣わないわけにはいかなかった。
「礼のひとつくらい守られてはいかが? 」
葵はウカミのだらりとした顔を睨んだ。
ウカミがすぐさま言った。
「大武棘さまの許しを得ていませんな。令のひとつくらい守られてはいかがかな? 」
葵は頬に手を当てた。
「大武棘さまがひとつくらい誰かの命をお守りくださっていたら、それだけ送も少なくて済んだのでしょうけれどね」
これを聞いて、ウカミはさすがに頬を引き攣らせた。里人たちがざわつき、その声は次第に大きくなっていった。ウカミはうろたえ、衛士たちに甲高く命じた。
「何をしておる! 黙らせろ! 」
衛士たちは里人たちに声をかけたが、効果はなかった。里人たちは声高に大武棘やウカミをなじり、度重なる戦に疲弊していることを訴え、口々に罵った。衛士たちは仕方なく、剣に手をかけて里人たちを怒鳴りつけようとした。
ナギが葵の脇に立った。
「巫女王の御前で剣に手をかけるとはなんだ。ここは送の場でもある。わきまえられよ」
静かに言っただけだったが、大喝したくらいの威力があった。衛士たちは引き下がった。ウカミについているのも、望んでそうなったのではないのだろうと葵は思った。
「大武棘さまに、あまり逆らわれない方がよろしい」
ウカミは何とかにやにや笑いを取り戻して言った。
「ご自身が、王であられる前に乙女であることをお忘れにならぬことですな。今にきっと身を滅ぼすことになりますぞ」
「なにおう」
それまで隣人に縋って泣いていたイワオの母が、みなが止めるのを振り払ってウカミに掴みかかろうとした。
「どうぞ落ち着いて」
ナギが羽交い締めにして止めなければ、衛士たちも黙ってはいられないところだった。
「ええい、止めてくだされるな! 葵さまを馬鹿にされて、黙ってはおれん」
イワオの母はナギの腕がびくともしないと分かるまで暴れ続けたが、収まってからも、肩で息をしながらぎらぎらとウカミを睨んだ。焔の燃える目だった。
「うちの子がどこで死んだのか、言ってみろ。どんな子で、いくつまで生きたのか、言ってみろ! 言えんじゃろうが。下のものの顔も知らん、おまえのような連中にやるために、おらは腹を痛めたんじゃねえんだぞ。布も米も、子どもまで取っちまいやがって! 子どもいなくて、どうして米を作る? おまえが田植えしてくれるんか? 子どもだけじゃねえ。おまえらはその親まで殺すんだ! 」
「志津、もうよせ、もうよせ」
イワオの父が立ち、妻の手を引いて家へ戻っていった。泣いていた。
「頭のおかしな婆あよ」
ウカミは志津の剣幕に怯み、捨て台詞をやっと吐いて、来た道をすごすごと戻っていった。衛士たちは葵とナギに頭を下げようとしたが、
「早う来んか! 」
ウカミにきいきいと怒鳴られ、慌てて主のあとを追った。志津が呻く声が、その背を急かす。呪いに似た声だった。
「我らの長は葵さまじゃ」
殺さば殺せ。剣を突きつけて、口を塞いでみろ。おまえのことなんぞ祟り殺してやるぞ――。
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