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思惑
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「おまえも辛いなあ」
高嶋は巫女宮をいっとき辞して修練にやって来た友人の胸中を思いやって腕を組んだ。
「そのうち媛さまに、好きだと言ったのは嘘なのねとか、誰に心変わりしたのとか、わたしかその剣かどちらかを選んでみなさいとか何とか言われるぞ。手も握ってやらないんじゃ……女人はその辺り、男の心をよく分かっておらんからな」
「媛さまがそんなことをおっしゃるものか。大体、君は遊びすぎだ」
ナギが横目で睨むと、高嶋はばれたか、と頭を掻いた。
高嶋が女の恨み言をひょいと思いつくのは、二股をかけているのが発覚したとき、ふたりの娘から夜通し泣き言を言われ続けたことがあるからである。この青年に、そんなことは珍しくなかった。
高嶋は反省の色なく言った。
「東の山のそばに、千曲という娘がいるだろう。あれもいい女だ。昔はやせっぽちで、何だか夏でも寒々とした娘だったが、とみに美しくなったという話だ」
「好いた男子でもできたのではないか。君がいつか言っていたろう。恋人のいる女人ほど美しく見えるから困るとか何とか」
ナギは噂の千曲の白々とした顔を思い浮かべた。物憂げで、寂しそうで、朧月の化身のような娘だったと思う。
高嶋は儚げな女が好みなのだ。しかしそういう頼りなげに見える娘の方が意外に根が深くて、何度も痛い目に遭っているのにこいつは一向懲りないなと、ナギは呆れた。
高嶋は慌ててナギの肩を叩いた。
「おいおい、それが自分だとか言わんだろうな。おまえが相手では勝ち目がないよ」
「高嶋、そう構ってやるな」
ひねくれた声が割り込んだ。小棘王子だった。叩頭するふたりを見て、ふんと鼻で笑う。
「大水葵朗子殿は、巫女王に命を懸けておられるのだ。高嶋、おまえ、友と思って気安く口をきいてはならんぞ」
小棘は、普段はナギをしつこく兄水葵、兄水葵と呼ぶ。今も胸の内で、心ゆくまで罵っているに違いなかった。
「他の娘の話などするな。不憫だろう」
不憫だと! 自分が何を口に出そうとしているか、思い至ったときにはすでに体が動いていた。
自分の立場を完全に忘れて、ナギは小棘に詰め寄った。巫女王と妹背になったといっても、みなが名ばかりの、役目のひとつだと知っている。ナギの身分は、小棘に歯向かえるだけものではなかった。高嶋がぎょっとして、慌ててナギの肩を抑えて下がらせた。それで、それ以上何か無礼を働くことはせずに済んだ。
小棘も、普段どんなに小馬鹿にしても礼を崩さないナギが反抗してくるとは思っていなかったのだろう。ナギが我に返っても、まだ呆然としていた。
「申し訳ありません」
ナギは叩頭し、返事も待たずにその場を離れた。あれしき、少し煽られたくらいで、あんなに腹が立つとは思わなかった。
ナギは自分で思っているよりも、心を擦り減らしながら葵に仕えているのだった。ナギは葵で心がいっぱいなのだ。小棘の言う意味で自分を不憫とは思わないが、恋するひとのかたわらにいることを許されながら耐え忍ばねばならないという妙な鎖がナギを縛っているのは確かだった。ひとを好くあまりに苦しんでいる己を思えば、それが小棘や高嶋には器が小さく見えるのかもしれなかった。
葵を自分の手で守れるということは、これ以上ない喜びだ。だが、本当に気持ちがあるのに形だけの関わりを保つことは、これ以上ない苦しみだった。
後からひどい罰が下されるならそれでも構わないとナギは思った。生きているのがこんなにままならないなら、いっそ首でも切ってほしいくらいだ。だが今頃は、口の達者な高嶋が何とか場を収めているに違いなかった。
「ナギ」
葵が宮の階で手を振っている。どこかに出かけようとして、ナギを待っていたのだろう。薄紅色の裳が眩しいくらい似合っていた。
悟られないように、あかるこさま、と呟いてみた。もし本当にナギが死罪を言い渡されたら、彼女はどうするだろうか?
「お山へ行かれますか、葵さま」
葵は頷き、ナギの手を取ろうとしたようだったが、今回はすぐに引っ込めた。ナギが困った顔をするからではなく、元からどうも、見ようとしてもふいと隠してしまう。ふたりで川辺に行った日の帰り、思わず胸中を告白してしまったナギの手を慰めるように(本当に慰めようとしていたのだったら、何もしないでいた方がある意味ではよかったのだが)繋いでくれたが、それ以来ナギは一度も葵の手をまともに見ていなかった。
傷があるせいだろうか、とナギは思う。それなら、気にしないでいいと教えてやりたかった。むしろ、慈しまれるべきなのだ――葵が手ずから摘んできた薬草のおかげで、里のものは傷を癒されてきたのだから。だが葵が自分でわけを話さないうちからそんなことを言うと、ナギの方でかえって傷のあることを気にしているようで気が引けた。
本当の夫ならと考えずにはおれなかった。あるいは、ナギ自身がもっと快活な、たとえば双葉や高嶋のような気性であったなら。気にするな、と笑い、そなたは健気だなあと抱きしめてやれるだろうに。
葵はいつも山へ持っていく籐の籠を持っていた。ナギは尋ねた。
「何をお取りになります」
「ドクダミを……」
葵は夢見るような顔つきでナギを見た。
「見たことのないところに」
夢見があったのだ、とナギは分かった。葵は夢に、地祇の神託を受け取ることができる――母のヤエナミも同じ力を持っていた、と聞いた。
最初にその才が現れたのは、もう十年ばかり前、ナギが葵――そのときは、あかること呼ばれていたのだろうが――と出会ったあとのことだ。あかるこは東の山が崩れると言って夜中に突然火のついたように泣き出し、山辺彦を仰天させたらしい。雨の強い晩で、巫女の子の言うことだからと、山辺彦は東の山の麓に住む里人を屋形に連れてきた。
そして、あかるこの予言したとおりのことが起こった。東の山が崩れ、雨を含んだ土砂が流れ落ち、里人の家を押し潰したのだ。今でも削れて形の変わった山肌が里のどこからも見える。
命を拾った里人たちはあかるこに額づき、涙を流した。
それから間もなく、あかるこは葵として巫女の宮へ上げられたのだ。
「どんなところでしたか」
ナギが聞くと、葵は迷いながら東の山を指した。
「あの辺りだと思う。昔、山崩れのあったところ。近くに、沢が流れているの」
「少し遠出になりますね。もう一枚、何か着るものを持っていかれてはいかがです。もし夕刻を過ぎるようなことがあれば、思いがけなく寒くなるかもしれません」
「わたくしもお連れください」
と采女がひとり寄ってきた。
「わたくしは東の山の生まれです。お役に立つこともあろうかと」
高嶋は巫女宮をいっとき辞して修練にやって来た友人の胸中を思いやって腕を組んだ。
「そのうち媛さまに、好きだと言ったのは嘘なのねとか、誰に心変わりしたのとか、わたしかその剣かどちらかを選んでみなさいとか何とか言われるぞ。手も握ってやらないんじゃ……女人はその辺り、男の心をよく分かっておらんからな」
「媛さまがそんなことをおっしゃるものか。大体、君は遊びすぎだ」
ナギが横目で睨むと、高嶋はばれたか、と頭を掻いた。
高嶋が女の恨み言をひょいと思いつくのは、二股をかけているのが発覚したとき、ふたりの娘から夜通し泣き言を言われ続けたことがあるからである。この青年に、そんなことは珍しくなかった。
高嶋は反省の色なく言った。
「東の山のそばに、千曲という娘がいるだろう。あれもいい女だ。昔はやせっぽちで、何だか夏でも寒々とした娘だったが、とみに美しくなったという話だ」
「好いた男子でもできたのではないか。君がいつか言っていたろう。恋人のいる女人ほど美しく見えるから困るとか何とか」
ナギは噂の千曲の白々とした顔を思い浮かべた。物憂げで、寂しそうで、朧月の化身のような娘だったと思う。
高嶋は儚げな女が好みなのだ。しかしそういう頼りなげに見える娘の方が意外に根が深くて、何度も痛い目に遭っているのにこいつは一向懲りないなと、ナギは呆れた。
高嶋は慌ててナギの肩を叩いた。
「おいおい、それが自分だとか言わんだろうな。おまえが相手では勝ち目がないよ」
「高嶋、そう構ってやるな」
ひねくれた声が割り込んだ。小棘王子だった。叩頭するふたりを見て、ふんと鼻で笑う。
「大水葵朗子殿は、巫女王に命を懸けておられるのだ。高嶋、おまえ、友と思って気安く口をきいてはならんぞ」
小棘は、普段はナギをしつこく兄水葵、兄水葵と呼ぶ。今も胸の内で、心ゆくまで罵っているに違いなかった。
「他の娘の話などするな。不憫だろう」
不憫だと! 自分が何を口に出そうとしているか、思い至ったときにはすでに体が動いていた。
自分の立場を完全に忘れて、ナギは小棘に詰め寄った。巫女王と妹背になったといっても、みなが名ばかりの、役目のひとつだと知っている。ナギの身分は、小棘に歯向かえるだけものではなかった。高嶋がぎょっとして、慌ててナギの肩を抑えて下がらせた。それで、それ以上何か無礼を働くことはせずに済んだ。
小棘も、普段どんなに小馬鹿にしても礼を崩さないナギが反抗してくるとは思っていなかったのだろう。ナギが我に返っても、まだ呆然としていた。
「申し訳ありません」
ナギは叩頭し、返事も待たずにその場を離れた。あれしき、少し煽られたくらいで、あんなに腹が立つとは思わなかった。
ナギは自分で思っているよりも、心を擦り減らしながら葵に仕えているのだった。ナギは葵で心がいっぱいなのだ。小棘の言う意味で自分を不憫とは思わないが、恋するひとのかたわらにいることを許されながら耐え忍ばねばならないという妙な鎖がナギを縛っているのは確かだった。ひとを好くあまりに苦しんでいる己を思えば、それが小棘や高嶋には器が小さく見えるのかもしれなかった。
葵を自分の手で守れるということは、これ以上ない喜びだ。だが、本当に気持ちがあるのに形だけの関わりを保つことは、これ以上ない苦しみだった。
後からひどい罰が下されるならそれでも構わないとナギは思った。生きているのがこんなにままならないなら、いっそ首でも切ってほしいくらいだ。だが今頃は、口の達者な高嶋が何とか場を収めているに違いなかった。
「ナギ」
葵が宮の階で手を振っている。どこかに出かけようとして、ナギを待っていたのだろう。薄紅色の裳が眩しいくらい似合っていた。
悟られないように、あかるこさま、と呟いてみた。もし本当にナギが死罪を言い渡されたら、彼女はどうするだろうか?
「お山へ行かれますか、葵さま」
葵は頷き、ナギの手を取ろうとしたようだったが、今回はすぐに引っ込めた。ナギが困った顔をするからではなく、元からどうも、見ようとしてもふいと隠してしまう。ふたりで川辺に行った日の帰り、思わず胸中を告白してしまったナギの手を慰めるように(本当に慰めようとしていたのだったら、何もしないでいた方がある意味ではよかったのだが)繋いでくれたが、それ以来ナギは一度も葵の手をまともに見ていなかった。
傷があるせいだろうか、とナギは思う。それなら、気にしないでいいと教えてやりたかった。むしろ、慈しまれるべきなのだ――葵が手ずから摘んできた薬草のおかげで、里のものは傷を癒されてきたのだから。だが葵が自分でわけを話さないうちからそんなことを言うと、ナギの方でかえって傷のあることを気にしているようで気が引けた。
本当の夫ならと考えずにはおれなかった。あるいは、ナギ自身がもっと快活な、たとえば双葉や高嶋のような気性であったなら。気にするな、と笑い、そなたは健気だなあと抱きしめてやれるだろうに。
葵はいつも山へ持っていく籐の籠を持っていた。ナギは尋ねた。
「何をお取りになります」
「ドクダミを……」
葵は夢見るような顔つきでナギを見た。
「見たことのないところに」
夢見があったのだ、とナギは分かった。葵は夢に、地祇の神託を受け取ることができる――母のヤエナミも同じ力を持っていた、と聞いた。
最初にその才が現れたのは、もう十年ばかり前、ナギが葵――そのときは、あかること呼ばれていたのだろうが――と出会ったあとのことだ。あかるこは東の山が崩れると言って夜中に突然火のついたように泣き出し、山辺彦を仰天させたらしい。雨の強い晩で、巫女の子の言うことだからと、山辺彦は東の山の麓に住む里人を屋形に連れてきた。
そして、あかるこの予言したとおりのことが起こった。東の山が崩れ、雨を含んだ土砂が流れ落ち、里人の家を押し潰したのだ。今でも削れて形の変わった山肌が里のどこからも見える。
命を拾った里人たちはあかるこに額づき、涙を流した。
それから間もなく、あかるこは葵として巫女の宮へ上げられたのだ。
「どんなところでしたか」
ナギが聞くと、葵は迷いながら東の山を指した。
「あの辺りだと思う。昔、山崩れのあったところ。近くに、沢が流れているの」
「少し遠出になりますね。もう一枚、何か着るものを持っていかれてはいかがです。もし夕刻を過ぎるようなことがあれば、思いがけなく寒くなるかもしれません」
「わたくしもお連れください」
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