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7、真実の日
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尖った小石を踏んで、また足に怪我をした。誰にも見つからないように治療して、隠しておかなければならない。カツミは大きな石で新しい傷の周りを叩いて毒を出し、衣の端をちぎって巻きつけた。血が止まるまでの間は、じっとしていよう。
「お兄ちゃんどうしたの? 」
森の上を飛んできた男の子が、カツミを見つけて下りてきた。雀の羽根だ。この子はずいぶん小さいから、自分のことを知らないのだろうとカツミは思った。
男の子はカツミの傷に気がついた。
「足を怪我したの」
「……うん」
「あっちに薬草があるよ」
男の子は森の奥を指さした。
息子を追って、母親がやってきた。彼女はカツミが息子と一緒にいるのを見ると小さな羽根を懸命に動かして一目散に飛んできて、息子を無理やり引っ張っていってしまった。
――うつったりしないのに。
カツミは足を引きずりながら教えてもらった薬草を摘みに行き、すり潰して傷に擦り込んだ。翼を持つ民人――〈バーシュの子ら〉の住むこの山の里では、足に怪我をすることは流行り病にかかるより厭わしいことだった。
地べたを歩く人のための出入り口を設けてある家はひとつもない。カツミは我が家の裏門に申しわけ程度にかけられている、虫食いのはしごをよじ登った。誰にも見られていないはずだった――ところが、間の悪いことに部屋には父がいた。
カル=マトゥは息子がやっとこさ上がってくるのを眉ひとつ動かさずに眺めていて、立ち去るでもなく声をかけるでもなくそこにいた。カツミが登ってこようがどうしようが――さらに言うなら、そこにいようがいまいがその態度は変わらなかったろうし、ツバメでも横切れば父はそちらの方によほど注意を向けただろう。
父の関心がもうずっと自分にはまったくないことをカツミは知っていた。
「……ただいま」
とはいえ、カツミの方では父に対してそこに何もいないかのような振る舞いはできなかった。カツミは返事などないことを知りながら挨拶した――傷ついた足を後ろに隠しながら。
カルはカツミの小さな努力を、一瞥ですべてふいにした。
「怪我をしたのか」
カルがぼそりと言った。カツミは立ちすくんだ。
「どれだけ恥を上塗りすれば気が済むんだ」
カルはカツミの横を一足で通り過ぎ、鷹の羽根を開いて裏門から飛んでいってしまった。
※
創世の物語に語られる男神バーシュは、背に鷹の翼を持っていた。彼はその息吹で美しい土地を作り出し、温暖で恵まれたその土地には、人間がどんどん増えていった。この土地は神の名をとってバーシュと呼ばれるようになり、人々は神を愛し、神を崇めた。
いつしか、バーシュに生まれる人間たちの中に、神と同じように鳥の羽根を持つものが生まれるようになった――彼らは〈バーシュの子〉と呼ばれた。神が人々を加護している証として、バーシュがみずからの力を分け与えたのだ。わけても、鷹の翼を生まれ持つものは神から特別な加護を与えられているとされ、〈バーシュの子ら〉の長として人々を導く役割を担うことになった……
この神話を素直に信じていた頃、カツミの背にはまだ健やかな鷹の羽根が生えていた。風をつかむとき自在に背に現れ、そうでないときは隠れてしまう不思議な羽根――〈バーシュの子ら〉の誰も、それが不思議とは思っていなかった。
だからカツミも、羽根が自分の自由にならなくなることなど考えたことはなかった。両翼が突然つけ根から凍りつくように痺れていって、突然消えてしまう――まさか、そんなことが起こるだなんて。
「カツミ! 」
そのとき一緒に飛んでいた子の声が、ぐるぐる回りながらあとを追ってきた――カツミにとってただひとつ幸運だったのは、落ちた先が川だったということだけだった。
――この子の羽根は……
――神の力が……
――里のものにはどう……
――国王が……
秋の終わり頃のことだった。熱を出して寝込んだカツミは、枕もとで父や母、カツミを診にきた里の呪術師が話し込んでいるのを、夢うつつで聞くともなしに聞いた。耳に入ってきたことは限られていたが、両親の間にどんな話し合いが持たれたかは、その後の彼らの態度と、自由にならなくなった自分の羽根の具合で分かった。
母は、夫やカツミの前でどことなくおどおどした様子を見せるようになった。そして父は、カツミをいないものとして扱うようになった――カツミが〈羽根なし〉になったと聞いて叔父がすっ飛んできたとき、実にすげなく父は言ったのだった……おれに息子はいない。
父の心境は理解できた。父は、〈バーシュの子ら〉の長を務めてきた家系の名誉にかけて、カツミにこれまでと同じように接することはできなかったのだ。誇り高い鷹の長の一族から〈羽根なし〉が出たことなど、絶対に認められなかったに違いない。
結局――カツミは竹で編んだ涼しい椅子に腰かけて、足の具合を調べた。いないものとして扱われてはいるが、こうして家に出入りしているのだから、自分たちには大して変わったことなどなかったのだ、とカツミは思った。
カツミが〈羽根なし〉になったことは、里の〈バーシュの子ら〉の方に大きな動揺をもたらした。次の長だとみながもてはやしていた少年が、急にみなが避けて通らねばならない呪いになった。
〈羽根なし〉は普通、月のない夜に人知れず里を出ていくから、カツミのように白昼堂々表を歩いている人などいない。そんなしきたりのあることも、カツミはこんなことになって初めて知った。
よりによってこんな日に、足を怪我するなんて。とはいえ足がいくら痛んでも、カツミは今夜、里を出ていくと決めていた。
カルは出かけてしまったが、会えなくても何の未練もなかった。もう怪我は見られてしまったので、隠そうという気も起きず、カツミはおおっぴらに包帯を巻いてやった。
「羽根の次は足か」
いつからそこにいたのか、例の叔父が戸口にもたれてこちらを見ていた。カツミが返事をせずにいると、叔父は舌打ちして顔を背けた。
「一族の恥さらしめ」
「本当は嬉しいくせに」
カツミはもともとこの無神経な叔父があまり好きではなかったが、今ではますます嫌いになっていた。叔父の方も、昔からカツミのことを邪魔にし、嫌っていた。どうせ今日で、この叔父の顔を拝むのも最後になるのだからと、カツミはわざと思ったことをそのまま口に出した。
「おれがこんなことになったから、次の長はあんたなんだろ」
「なんだと」
叔父は目を剥いてカツミを睨んだ。カツミはいつも相手がやるように叔父を鼻で笑った。自分が〈一族の恥さらし〉であるという自覚はカツミを卑屈な気持ちにしないではなかったが、だからといってこの叔父の方が自分より優れた人間であるなどとは少しも思っていなかった。
「本当は、あんたがおれを呪ったんじゃないの。得意だろ」
「きさま」
叔父は真っ赤になった。カツミは殴られるかもしれないと思ったが、叔父は何も言わず、足音も荒く向こうへ行ってしまった。カツミが飛べなくなってから、妙に足繁くこの家にやってくる。侮辱するためのはったりだったがどうやら図星だったようで、カツミはかえっておかしくなった。
里を出ていくことを、特別誰かに言うつもりはなかった。カツミと口をききたがる人なんか、もう里にはいないのだ。
当面必要だと思うものをまとめたが、一抱えというほどにもならなかった。宝物はいろいろあったけれど、持って行ったって何になるというのだろう――里を出たら、野垂れ死にするかもしれないのに。この部屋もじき、あの叔父の子が使うようになるんだろうと、カツミは投げやりに小さな部屋を見回した。
「カティ」
誰かが部屋に続くはしごを上がってきて、ずかずかとカツミのそばまでやってきた。カツミは愛称で呼ばれるのがあんまり久しぶりで、自分のことではないような気持ちがした。
「ファン姉さん」
「なによその顔は」
ファンは尖った顎を不機嫌そうに突き出した。いつもは首や、耳や、腕や、頭や、いろんなところに飾りをつけているのに、今はひとつもついていないので、そんなふうにしても音は鳴らなかった。
ファンはこの里の人らしい、褐色の腕を組んだ。彼女の肌の色は浅すぎず暗すぎず、里で一番美しいと言われていた。
「あんた、叔父さんを怒らしたでしょう。あんたのことを追い出してやるって、母さんに八つ当たりしてたわ。叔母さんも大変よね」
「言われなくたって出てってやるさ。最後だから、思ってたこと言ってやったんだ」
弟が荷造りを済ませていると見て取って、ファンは人前では決してしない、行儀の悪い座り方をした。カツミはファンが驚くかと思っていたのに、ファンは最初から分かっていたとでも言わんばかりに平然としていた。
「わたしも出ていくつもり」
「おれと一緒に? 」
カツミは驚いて姉を見た。姉には肉親らしい愛情を変わらずに感じていたから、旅が孤独でなくなるかもしれないと思えば嬉しかった。
しかし、ファンは首を振った。
「あんたと一緒には行かない。まだ何も準備してないしね。でも、そうね、叔父さんが越してくる頃になったら出ていこうかな」
カツミはがっかりした。けれど今は、何の不自由もなく暮らしているはずの姉が里を出たがるわけを知りたかった。カツミは〈羽根なし〉にさえならなければ、里の中での暮らしに疑問を感じたりしなかっただろうから。
「どうして外へ行きたいんだ? 」
「あんたは行きたくないわけ? 」
ファンはかえってカツミに聞いてきた。
「この里の外にどれだけ広い世界があるか、あんたは考えたこともないの? そりゃあ、この里にいれば安全かもしれないわよ。だけど、この里にいたんじゃ経験できないことの方が、ずっと多いんだわ」
「何か、外でしたいことがあるの? 」
「まだ分からない……知らないことの方が多いんだもの。でも外に出れば、何も知らないままで終わるということはないわ。……それに、あの叔父さんの顔を見なくて済むしね」
カツミは答えられなかった。彼は、自分は外へ出ていかざるを得なくなったのだという意識をまだ捨てていなかった。
「おれ、分からないや。出ていった方が、里にいるよりいいと思ったわけじゃないし」
「人は、自分にとって善と思わないことはしないものよ」
ファンはやけに大人びた口ぶりで言った。
「あんたは、この里で暮らすよりも外へ出た方がよさそうだと思ったのよ。自分でそう気づいていたかは別としてね。この里はあんたが必要かもしれないけど、あんたにこの里はもう必要ないのよ……わたしたち、見送らないわよ。頑張りな」
「姉さん」
「じゃあね、カティ。またどこかで会いましょ」
ファンは言いたいだけ言って、カツミの返事も待たずに立ち上がった。
その晩は、晴れて星がよく見えた。
ファンが言った通り、カツミを見送るものは誰もいなかった。カツミは黙って森を抜け、山を下りた。外のものが里へ入ってくることはめったになかったが、里のものが外へ出かけることは、禁止でもなんでもない。カツミ自身がバーシュの他の町へ行くときに、何度も通った道だ。
だが、こんな気持ちで通ったことは一度もなかった。
何も、あてがあるわけではなかった。カツミは世間的に見れば十三歳の少年で、労働力としてはやや頼りなく、資産といえば、健康と若さだけだった。
心は軽かった。里人の冷たい目や、父の無関心、母の怯え、叔父の難癖がないというだけで、カツミの気持ちは思いがけなく明るくなったのだ。自分は傷ついていたのだとカツミは初めて気がついた。町には、優しい人も冷たい人もいたが、彼らの態度は常に普通の少年に対するもので、彼が〈バーシュの子〉であったこととも、〈羽根なし〉であることとも関係なかった。
愉快なことばかりではなかったが、それは心地よい扱いだった。
「カツミさま」
山を下りて数日、最初の町をあちこちさまよっていたとき、横を通り過ぎようとした果物屋からそっと声がかかった。カツミが驚いてそちらを見ると、見覚えのある男が懐かしげな目でカツミを見つめていた。
カルの家で使用人をしていた男だ。カツミは、彼と仲がよかったのだ。だが、彼はいつの間にか里から姿を消し、誰もその理由をカツミに語ってはくれなかった。
それが、まさかこんなところで!
「サマラ! 」
「お久しゅうございます。……」
恐らく、お元気そうで、とか、お変わりなく、とか、サマラは続けようとしたのだろうが、カツミの様子を見て黙り込んだ。そのときのカツミは町をうろつくみなしごのようなみすぼらしさで、元気そうにもかつてと同じにもとても見えなかった。ただ、その顔つきにみじめな影がないということで、カツミは辛うじて〈旅人〉に見えていた。
カツミが単に里から出かけてきたわけではないということも、サマラには分かったに違いない。彼が誰にも告げずに里を出たのは自分と同じ理由なのではないかと、カツミははっとした。
サマラは気を取り直して笑顔を作った。もともと痩せぎすな青年だったサマラは里にいた頃よりいくらかふくよかになって、健康そうだった。
「本当に、こんなところでお会いできるとは。これからどちらへおいでですか? 」
「まだ決めてないんだ。おれ、自分に何ができるのかもよく知らないし」
こう答えたとき、カツミはファンが言っていたことを思い出していた――まだ分からない、知らないことの方が多いんだもの。
カツミはサマラの果物屋を眺めた。港が近いこともあり、多くの仕入れ先を抱えているのだろう、店先の品ぞろえは充実していた。客も大勢いて、サマラはカツミと話している間にも、愛想よくオレンジやぶどうをさばいていた。
「サマラは、果物を売ってるんだな」
カツミが感心して言うと、サマラは誇らしげに頷いた。
「最初は、雇われた身でしたが。今は、店を任せてもらっています」
「すごいや」
「見ててください」
サマラはカツミを店の裏に呼び、そこに積んであったオレンジの木箱――もちろん、中身はまだぎっしりと詰まっている――を五つ重ねたままひょいと持ち上げて見せた。カツミはぎょっとした。五段になった木箱はそれだけでサマラの背丈より大きかった。
ところが、サマラは平然としている。それどころか、木箱をそのままカツミに渡そうとしてきた。カツミは慌てた。
「無理だよ! 」
「上で支えますから、持ってごらんなさい」
カツミはわけが分からなかった。このくらいできなければ、里の外で生きていくことができないということなのか? だが、サマラは待っている。仕方なく、彼が支えてくれているのを確かめてから、カツミは箱を受け取った――思いがけず、軽かった。
「ほら、大丈夫じゃありませんか」
「それは、サマラが……」
カツミは言いかけたが、サマラは両手をひらひらと振ってみせた。カツミはひとりで木箱を持っていた。
「わたしはこの力を重宝され、今の仕事に恵まれました。〈羽根なし〉になった〈バーシュの子〉には、みな同じ力が現れます――飛べなくなる代わりに、人の身を超える力がついたり、飛ぶように速く走れるようになったりする。わたしは、これも我々の神の加護であると思っています……なんせ、配達なんかはわたしがいなけりゃやってられないんですから」
「……気がつかなかった……」
「この力は資産です。あなたは、決して無力ではない。あなたの力を必要としている人は必ずいます。――なんなら、しばらくうちの店にいませんか? 」
こうして、カツミはサマラの店で働くようになった。カツミをサマラの弟だと思う客も少なくなかった。サマラは里にいた頃と同じようにカツミをかわいがったので、本当に兄弟のように見えたに違いなかった。
ただひとつカツミが気になったのは、サマラに代わって配達に出かけた先で、ときおり出会う人々の視線だった。カツミが果物の入った木箱をいくつも抱えて平然と現れると、道行く人々や、サマラの怪力を見慣れているはずの人までもが、実にさまざまな感情のこもったまなざしをカツミに向けた――好奇。奇異。畏怖。恐怖。興味。嫌悪。称賛と、それを上回る何か。カツミを同じ人間と思っていないかのようなまなざしは、里で浴びていた人々の視線とはまた違った居心地の悪さをもたらした。
とはいえ、仕事はひっきりなしにやってきたし、カツミに直接何か言ってくるものはいなかった。サマラも同じような経験をしてるのだろうか、とカツミはときどき考えた。羽根があった頃は、隠してしまえば普通の人間と変わらなかったから、こんなことは一度もなかったのに。配達が板につき、顔なじみになっても、人々の目は変わらなかった。
仕方がないのだ、とカツミは思うことにした。カツミだって、サマラの力を見たときはあんなに驚いたのだ。自分のような子どもが、大人にもないような力を持っているのを見れば、誰だってびっくりするに決まってる。
だが、一方では――カツミは自分に理解できない力を目の当たりにしたとき、それが自分たちにとってどういうものであるか考えるよりも先に、自分たちと違うということをやり玉に挙げる人々の反応に疲れていた。どんなに親しくしようとしても、カツミの力を知っているものたちは、カツミとの間に引いた一線をなくそうとはしない。
里にいた頃と違うのは――自分は人々との間にある隔たりの冷たさに傷ついていると、カツミが自分で気がついたことだった。
※
カツミがサマラの店に来て一年あまりが経った頃のことだった。いつものように港へ配達に出ていたカツミは、男性の叫び声を聞いた。
「何するんです! 」
離れたところで、ガラの悪い船乗り風の男が女性を突き飛ばして小さな袋を奪い取るのが見えた。叫び声をあげたのは、彼女のそばについている小柄なおじさんらしい。彼はならず者を追いかけようとしたが、女性が倒れてしまったのでそちらに手を貸すのに忙しかった(それに、仮に追いついたとしても勝ち目は薄そうだった)。
逃げた男はこちらに駆けてきて、邪魔なカツミを蹴飛ばそうとした。
「うわっ! 」
年端もいかない少年が棒切れのような腕で大の男を投げ飛ばしたので、波止場の人々はみな一様にぽかんとカツミを見つめた。男は石畳に投げ出され、そのままだらしなくのびてしまった。
「なんだあれ……」
小さな声がカツミの耳にまで届いた。見ると、どこかの船の水夫がこそこそとその場を離れていくところだった。変なやつ、とカツミは思った――目の前で強盗した男ではなく、その強盗を取り押さえたカツミの方を怖がるなんて。
「すごいねえ、あんた」
袋を盗まれた女性が埃を払いながらカツミのところへやってきた。カツミは目を回している男の手から袋をもぎ取り、彼女に返した。
「これ、お姉さんのだろ」
「うん、そう。あんたの方が小さいのに、よっぽどものの道理が分かってるね」
肌の白い、きれいな人だった。彼女は布カバンに袋をしまおうとしたが、カツミが好奇心に任せて目で追いかけているのに気がついて、カツミの目の前で袋を振ってみせた。しゃらしゃらという、涼しげな音がささやかにした。
「中に何が入っているか。当ててごらん」
「お嬢さま」
おじさんが追いついてきて、まったくこの人は、という声で言った。気苦労の絶えなそうな人だな、とカツミは思った。
「また目をつけられますよ! 」
「もうつけられてるかもね。あいつだって、交易所からずっとつけてきてたんだから」
彼女は平気な顔で言い、それから横目でおじさんを睨んだ。
「お嬢さまじゃないって言ってるのに。もうずいぶん経つんだから、いい加減〈船長〉に慣れてほしいんだけど? 」
「お姉さん、海賊? 」
カツミは聞いてみた。目の前の人は、どうも並みの商人には見えなかった。彼女は吹き出した。
「あんた、本物の海賊にそんなこと聞くんじゃないよ。……まあ、船乗りだよ」
「それ、袋の中身と関係ある? 」
「もちろん」
「金貨」
「残念」
「じゃあ、宝石」
「違うねえ」
船長は革紐を緩めて中を見せてくれた。磨いた珊瑚みたいな小さな丸い粒がたくさん見えたので、なんだ宝石じゃないかと思ったが、飾りものには使えそうもなかった。赤く光る粒は、カツミの小指の爪より小さかった。
船長は一粒指先に乗せた。吹いたら飛びそうなそれを、おじさんははらはらしながら見ている。
「これは胡椒だよ」
「胡椒? それが? 」
「粉にしたやつだったら、前ほど珍しくなくなってきたかな? バーシュは胡椒を栽培してるから、安く仕入れができるんだ。他と比べて、だけど」
「胡椒って、そんなに価値があるの? 」
「たとえばミゼルカのデルテへ持っていくと、二十倍の値段で買ってくれる」
カツミはあっけに取られて赤い粒を巡る仕組みを考えたが、さっぱり分からなかった。船長は粒を袋に戻した。
「マルテルでも北の方へ持っていくと、銀一粒と交換だ。マルテルは大きいからね。バーシュとくっついてるところではそんなに高値はつかないけど、北へ行けば行くほど値段も上がっていくんだ。そのうちにもっと出回るようになれば安くなっていくだろうけど、今はまだ高値をつけてもらえるよ」
「それ一粒で? 」
「そう。だから、お礼に一粒あげたっていいんだけれど、バーシュじゃそんな価値は出ないしね」
船長には、たくらみがあるらしかった。
「お礼なんていいよ」
と歩いていこうとするカツミを捕まえて、にこにこしながら言った。
「そこで、あんたをうちの船で雇いたいんだけど」
「船長、そんな勝手に」
おじさんは一応たしなめるように口を挟んだが、あまり本気で言っているようではなかった。
「……確かに、君のような力のある人がいてくれれば頼もしい限りとは思いますが……」
船長は眉をちょっと下げた。
「もう、四年目になるかな。若い商会だけど、どう? ぜひあんたのような、力の強い、すばしっこいのが欲しいんだ。来てくれるなら、船乗りとして鍛えてあげるよ……海を渡ったことなんか、あるかい? あんたが見たこともないようなものも、きっといくつも見られるよ」
「おれを乗せてくれるんですか」
海に出るなんて、考えたこともなかった。船長は柔らかそうな手を差し出した。
「わたしはマリー。マリー・ヴィヴァンだよ。あんたは? 」
「カツミです」
カツミが手を握り返すと、マリーの目は彼女の左腕に輝く銀のバングルみたいにきらきら光った。
「わたしはティムといいます」
ティムはマリーと同じようにカツミと握手した。気のせいか、消毒薬の匂いがした。
話を聞いたサマラは別れを惜しみながらも、だから言ったでしょう、と涙交じりにほほえんだ。
「あなたの力を必要としている人は必ずいると、前に言ったでしょう。おめでとう。あなたには、今新たな風が吹いてきたのだ」
よい風を、とサマラは言った。それは、バーシュに古くから伝わる祝福の言葉だった。……
――ごぼごぼという鈍い音とともに口と鼻から塩辛い海水が入ってきて、カツミは危うく走馬灯から覚めた。むせそうになったところを無理に抑えたせいで、肺がぎしぎし痛む。
ミカゼを抱えたまま、頭を下にして海を沈んでいくところだった。海面は遠かったが、外から明るい色の光が何条も差していて、その明かりで自分たちの上にある船底がよく見えた。トランやマリーたちが、総出でふたりを探しているのだろう。ミカゼの顔はカツミから逆光になって、影の中にただ青白かった。
水底からふいに暗い大きな影がゆらりと近寄ってきた。左右に揺れる尾の動きは緩やかだが、ひとかきであっという間に距離を詰めてくる――黒光りする背には、尖った背びれ。鮫が、傷だらけで血まみれのふたりを嗅ぎつけたのだ。
カツミは力の抜けかけていた翼で鮫の鼻面を殴りつけ、両足で水を蹴って泳ぎはじめた。右足の傷から待ちかねたように血が噴き出し、鮫の鼻先に広がった。
カツミが必死に波間に顔を出し、水面を翼で叩いて飛び上がったとき、裸足の爪先を鮫の歯がかすめた。
「カツミ! 」
マリーが火の入ったカンテラをぶんぶん振り回している。カツミは冬の羽虫のような飛び方でふらふらとそちらへ向かった。里を出てから一度も開かなかった一対の鷹の羽根は、カツミが甲板に辿り着いたとたんにばらばらと抜け落ちて、見えなくなってしまった。
「無茶してくれますよ、まったく」
ティムが涙ぐみながら、彼にしては乱暴な手つきでカツミに毛布をかぶせ、ミカゼを介抱しはじめた。近くにはニルスもいて、彼もティムと似たような顔をしていたが、カツミが見ると顔を背けた。
波止場ではアルベルトとアニーがこちらに向かって手を振り、カツミたちと入れ違いにそちらへ援護に向かったマロード・ヴァイゲルが手ずからハインリヒ・ルーフとその部下たちを引っ立てて、がみがみ怒鳴っているのが見えた。
「この恥知らずが! 厚顔無恥もいいところだ! 民間人に発砲し、あまつさえ彼女を守ろうとする青年を撃ち落とすとは、貴様それでも一度は提督を名乗った身か! とっとと歩け、この二段腹め! 」
「おもしろい人」
カツミははっとミカゼを見た。ミカゼは目を覚まし、マロードの大声に笑いながら、カツミに手を伸ばした。海の中でのミカゼを思い出して、カツミは今さら身がすくんだ。ミカゼの頬に少しずつ赤みが差してきて、自分を見つめてほほえんでいる、それだけのことが、身に染みてありがたかった――カツミとミカゼが上がってきた辺りには、鮫が集まってきていた。
ミカゼは自分の手を取ったカツミの指先が震えているのが寒さのせいだと思ったようで、両手でカツミの手を握ったが、彼女の手の方こそが冷たくなっていて、なかなか温まりそうになかった。
ティムが起き上がっちゃいけません、とミカゼを叱りながら、彼女の頬の傷に軟膏を塗った布を貼りつけた。自分の頬傷みたいな残り方をしなければいいが、とカツミは思った。
「さあ、君も脚を見せなさい」
ティムはカツミに向き直り、つけつけと言った。カツミは大人しく右脚を出した。腿に銃弾が突き抜けた跡があり、海水に混じって血が垂れていた。
「あなた……その脚で……」
ミカゼはティムとは対照的に、ひどく悲しげな顔をした――彼女はそうと知っていたわけではないが、ティムが厳しい顔をするよりも、彼女が悲しい顔をする方が効果があった。ティムの消毒は背筋が痺れるほどしみたが、カツミは文句ひとつ言わずに耐えた。
「いい船員たちだ」
座に加わらず、遠くから見守っていたマリーに、トランが言った。
「いい船長には、いい船員が集まるものだ。……誇らしいよ」
「まあね」
船長、と呼ばれてそちらへ向かいながら、マリーは答えた。
「人を見る目はあるんだ。母譲りでね」
※
ミゼルカの王都デルテはその日、いつにも増して賑わっていた。今日は〈真実の日〉だ――一年前に祝日として制定されることが発案され、今年初めて正式に、国を挙げての祝祭が各地で催されることになった。
女神ミセルマの使徒が国を侵そうとしていた悪を正し、ミゼルカをあるべき姿に導いたその勇気を称え、国の繁栄を願うための祝日だ。一連の出来事に関わったものたちは表立って名を明かされたりはしなかったが、特に騒動の中心となったデルテでは人々の記憶がたやすく薄れるはずもなく、砲撃で破壊された町の復興が進むと同時に、彼らを記念する祝日を作ろうという動きが出たのは当然のことだったのかもしれない。
「船が着いたってよ、ミカゼ」
人ごみをかきわけながら道を行くミカゼに、屋台のおじさんが声をかけた。ミカゼは立ち止まった。デルテに越して一年、この辺りで彼女の顔を知らないものはいない。
「どこの船? 」
「そりゃあ」
おじさんはにやにやしながらミカゼにスモモをひとつ放ってよこした。
「海軍のさ。君に言うんだからな」
あれだけの大騒動に巻き込まれたあとだったが、ミカゼの基本的な暮らしはあまり変わらなかった。メーアからデルテにやってきて、〈ミセルマの子〉としての仕事が増えたくらいだ。デルテにも、メーアほどではないが、〈ミセルマの子〉にふさわしい豊かな森と山があった。
ただひとつ、大きく変わったことといえば――。
「ミカゼ」
人ごみの向こうから呼ぶ声がして、カツミの頭が見えた。周りにいた人々の目が、ミカゼとカツミの間を行き来する。お祭りだから、普段この町にいない人もたくさんいるんだわと、ミカゼは思った。
「あなたがメーアのミカゼ? 」
ミカゼのそばの屋台で花を選んでいたおばあさんが、銀色の眼鏡を押し上げた。耳打ちするような声ではあったが、それが周囲の好奇心を煽らないようにという配慮のためだったとしたら、あまり意味はなかった。
「ええ」
ミカゼが頷くと、おばあさんはミカゼの手を取り、うっとりと彼女を見つめた。
「わたしの息子がね、海軍にいるのよ。あなたが、銃を持った男に立ち向かうところを見ていたの……」
デルテに出てきてよかったわ、まさかあなたに会えるなんて思わなかったから、とおばあさんは感激のあまり言葉を詰まらせた。
「それにまあ、あなたはなんて目がきれいなのかしら……」
ミカゼが捕まっている間に、カツミがそばまで来た。おばあさんはカツミを見上げたために、眩しい日の光に目を細めた。
「あなたが鷹の? あらあ、あの子の言ってた通りだわ! 」
カツミの返事を待たずに、おばあさんは買ったばかりの花束をふたりに持たせた。
「これは家でお祝いするために買ったものだけど、あなたたちにあげるわ。いいのよ、あなたたちの勇気が、この国を守ったのだから。あなたたちのためのお祝いなんだもの」
「どうしてあのときデルテにいなかった連中までおれたちのことを知ってるのかと思ってたけど」
おばあさんが手を振りながら行ってしまうと、カツミはもらった花束から小さいダリアを抜いてミカゼの髪飾りのところへ挿した。
「居合わせた連中が身内に言いふらしたのがきっかけだったわけだな」
「あれだけのことが目の前で起こったら、黙ってる方が難しいんじゃないかしら」
「違いない」
カツミは肩を越しつつある髪を結っているリボンをむしり取ってからミカゼを抱きしめた。ミカゼは深緑色の軍服の上から彼にくっついた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
カツミはトランとニルスに呼ばれて海軍の任務に出ていて、祝祭に合わせてデルテ港に戻ってきたところだった。長かった、とカツミは呟いた――ほんの二週間あまりの航海だったのだが。
港に入ったミゼルカ海軍の船が、ふたりのいる場所から見える。甲板を歩き回って何やら号令を飛ばしているのはニルスだ。彼はこちらに気がつくと、笑って手を振った。
「あなたはいなくていいの? 」
ミカゼが聞くと、カツミは肩をすくめた。深緑色の軍服は、とっくに腕を抜かれていた。
「おれは軍人になるつもりはないぜ」
ニルスたちの様子を見る限り、カツミを単なる手伝いと思っていないのは明らかだった。どうも任務にかこつけてそれなりの地位につけてしまおうと目論んでいる節があるのだが、カツミはあくまでベルマリー号に籍を置いているつもりでいるらしく、嫌がってなかなかうんと言わない。そのベルマリー号は、近々デルテに寄港してふたりを拾ってくれる算段になっていた。
ふたりのところへ、小さい子どもを抱いた女性がやってきた。一連の騒動が終結したあとで、ミカゼが取り上げた子だ。若い母親は嬉しそうにミカゼに話しかけてきた。
「〈真実の日〉おめでとう、ミカゼ」
「ええ、おめでとうメリーさん。僕ちゃん、ごきげんよう」
メリーの息子は母親そっくりの大きな目でミカゼとカツミをじっと見つめた。
メリーはデルテの市場で、菓子職人の夫が手がけたお菓子を売っている。彼女はあの砲弾降り注ぐ中を身重の体で王宮まで逃げ、その三か月後に出産した。ミカゼは過酷な体験が母子の健康に影響することを少なからず心配していたのだが、母親はそれ以上に強かった――ミカゼとしても、印象深い出会いだったのだ。
「お元気そうね。何か困っていることはない? 」
「ぜんぜん。元気すぎて困ることならあるけど……それでね、この子の名前なんだけど。あなたたちに言わなきゃと思って」
メリーは息子の柔らかい頬をつついた。
「最初は、あなたの名前をもこの子にもらおうと思ってたの。でも、この子男の子でしょ。だから……」
メリーが意味ありげに間を置いた。
「……カツミ? 」
ミカゼが言うと、メリーはほほえんだ。当のカツミだけが、あっけに取られていた。
「……おれの名前? 」
メリーの息子、小さい方のカツミが、カツミに手を伸ばした。カツミはこわごわ自分の何倍も小さな指に触った。
「とてもすてきだわ。きっとすごく勇敢な子になるわよ」
「ばか、おまえ……」
ミカゼがにこにこしながら受けあったので、カツミは彼女の頬を両手で挟んだ。それじゃ、またお店に来てね、と去っていく親子を見送るその口元は笑っている。
ミカゼはやっぱりにこにこしながら言った。
「あなたはすてきよ、カティ」
「そうかい。……なら、おまえも幸せか」
ミカゼが答える間もなく、カツミは隙をついて彼女からキスをひとつかっさらった。
「お兄ちゃんどうしたの? 」
森の上を飛んできた男の子が、カツミを見つけて下りてきた。雀の羽根だ。この子はずいぶん小さいから、自分のことを知らないのだろうとカツミは思った。
男の子はカツミの傷に気がついた。
「足を怪我したの」
「……うん」
「あっちに薬草があるよ」
男の子は森の奥を指さした。
息子を追って、母親がやってきた。彼女はカツミが息子と一緒にいるのを見ると小さな羽根を懸命に動かして一目散に飛んできて、息子を無理やり引っ張っていってしまった。
――うつったりしないのに。
カツミは足を引きずりながら教えてもらった薬草を摘みに行き、すり潰して傷に擦り込んだ。翼を持つ民人――〈バーシュの子ら〉の住むこの山の里では、足に怪我をすることは流行り病にかかるより厭わしいことだった。
地べたを歩く人のための出入り口を設けてある家はひとつもない。カツミは我が家の裏門に申しわけ程度にかけられている、虫食いのはしごをよじ登った。誰にも見られていないはずだった――ところが、間の悪いことに部屋には父がいた。
カル=マトゥは息子がやっとこさ上がってくるのを眉ひとつ動かさずに眺めていて、立ち去るでもなく声をかけるでもなくそこにいた。カツミが登ってこようがどうしようが――さらに言うなら、そこにいようがいまいがその態度は変わらなかったろうし、ツバメでも横切れば父はそちらの方によほど注意を向けただろう。
父の関心がもうずっと自分にはまったくないことをカツミは知っていた。
「……ただいま」
とはいえ、カツミの方では父に対してそこに何もいないかのような振る舞いはできなかった。カツミは返事などないことを知りながら挨拶した――傷ついた足を後ろに隠しながら。
カルはカツミの小さな努力を、一瞥ですべてふいにした。
「怪我をしたのか」
カルがぼそりと言った。カツミは立ちすくんだ。
「どれだけ恥を上塗りすれば気が済むんだ」
カルはカツミの横を一足で通り過ぎ、鷹の羽根を開いて裏門から飛んでいってしまった。
※
創世の物語に語られる男神バーシュは、背に鷹の翼を持っていた。彼はその息吹で美しい土地を作り出し、温暖で恵まれたその土地には、人間がどんどん増えていった。この土地は神の名をとってバーシュと呼ばれるようになり、人々は神を愛し、神を崇めた。
いつしか、バーシュに生まれる人間たちの中に、神と同じように鳥の羽根を持つものが生まれるようになった――彼らは〈バーシュの子〉と呼ばれた。神が人々を加護している証として、バーシュがみずからの力を分け与えたのだ。わけても、鷹の翼を生まれ持つものは神から特別な加護を与えられているとされ、〈バーシュの子ら〉の長として人々を導く役割を担うことになった……
この神話を素直に信じていた頃、カツミの背にはまだ健やかな鷹の羽根が生えていた。風をつかむとき自在に背に現れ、そうでないときは隠れてしまう不思議な羽根――〈バーシュの子ら〉の誰も、それが不思議とは思っていなかった。
だからカツミも、羽根が自分の自由にならなくなることなど考えたことはなかった。両翼が突然つけ根から凍りつくように痺れていって、突然消えてしまう――まさか、そんなことが起こるだなんて。
「カツミ! 」
そのとき一緒に飛んでいた子の声が、ぐるぐる回りながらあとを追ってきた――カツミにとってただひとつ幸運だったのは、落ちた先が川だったということだけだった。
――この子の羽根は……
――神の力が……
――里のものにはどう……
――国王が……
秋の終わり頃のことだった。熱を出して寝込んだカツミは、枕もとで父や母、カツミを診にきた里の呪術師が話し込んでいるのを、夢うつつで聞くともなしに聞いた。耳に入ってきたことは限られていたが、両親の間にどんな話し合いが持たれたかは、その後の彼らの態度と、自由にならなくなった自分の羽根の具合で分かった。
母は、夫やカツミの前でどことなくおどおどした様子を見せるようになった。そして父は、カツミをいないものとして扱うようになった――カツミが〈羽根なし〉になったと聞いて叔父がすっ飛んできたとき、実にすげなく父は言ったのだった……おれに息子はいない。
父の心境は理解できた。父は、〈バーシュの子ら〉の長を務めてきた家系の名誉にかけて、カツミにこれまでと同じように接することはできなかったのだ。誇り高い鷹の長の一族から〈羽根なし〉が出たことなど、絶対に認められなかったに違いない。
結局――カツミは竹で編んだ涼しい椅子に腰かけて、足の具合を調べた。いないものとして扱われてはいるが、こうして家に出入りしているのだから、自分たちには大して変わったことなどなかったのだ、とカツミは思った。
カツミが〈羽根なし〉になったことは、里の〈バーシュの子ら〉の方に大きな動揺をもたらした。次の長だとみながもてはやしていた少年が、急にみなが避けて通らねばならない呪いになった。
〈羽根なし〉は普通、月のない夜に人知れず里を出ていくから、カツミのように白昼堂々表を歩いている人などいない。そんなしきたりのあることも、カツミはこんなことになって初めて知った。
よりによってこんな日に、足を怪我するなんて。とはいえ足がいくら痛んでも、カツミは今夜、里を出ていくと決めていた。
カルは出かけてしまったが、会えなくても何の未練もなかった。もう怪我は見られてしまったので、隠そうという気も起きず、カツミはおおっぴらに包帯を巻いてやった。
「羽根の次は足か」
いつからそこにいたのか、例の叔父が戸口にもたれてこちらを見ていた。カツミが返事をせずにいると、叔父は舌打ちして顔を背けた。
「一族の恥さらしめ」
「本当は嬉しいくせに」
カツミはもともとこの無神経な叔父があまり好きではなかったが、今ではますます嫌いになっていた。叔父の方も、昔からカツミのことを邪魔にし、嫌っていた。どうせ今日で、この叔父の顔を拝むのも最後になるのだからと、カツミはわざと思ったことをそのまま口に出した。
「おれがこんなことになったから、次の長はあんたなんだろ」
「なんだと」
叔父は目を剥いてカツミを睨んだ。カツミはいつも相手がやるように叔父を鼻で笑った。自分が〈一族の恥さらし〉であるという自覚はカツミを卑屈な気持ちにしないではなかったが、だからといってこの叔父の方が自分より優れた人間であるなどとは少しも思っていなかった。
「本当は、あんたがおれを呪ったんじゃないの。得意だろ」
「きさま」
叔父は真っ赤になった。カツミは殴られるかもしれないと思ったが、叔父は何も言わず、足音も荒く向こうへ行ってしまった。カツミが飛べなくなってから、妙に足繁くこの家にやってくる。侮辱するためのはったりだったがどうやら図星だったようで、カツミはかえっておかしくなった。
里を出ていくことを、特別誰かに言うつもりはなかった。カツミと口をききたがる人なんか、もう里にはいないのだ。
当面必要だと思うものをまとめたが、一抱えというほどにもならなかった。宝物はいろいろあったけれど、持って行ったって何になるというのだろう――里を出たら、野垂れ死にするかもしれないのに。この部屋もじき、あの叔父の子が使うようになるんだろうと、カツミは投げやりに小さな部屋を見回した。
「カティ」
誰かが部屋に続くはしごを上がってきて、ずかずかとカツミのそばまでやってきた。カツミは愛称で呼ばれるのがあんまり久しぶりで、自分のことではないような気持ちがした。
「ファン姉さん」
「なによその顔は」
ファンは尖った顎を不機嫌そうに突き出した。いつもは首や、耳や、腕や、頭や、いろんなところに飾りをつけているのに、今はひとつもついていないので、そんなふうにしても音は鳴らなかった。
ファンはこの里の人らしい、褐色の腕を組んだ。彼女の肌の色は浅すぎず暗すぎず、里で一番美しいと言われていた。
「あんた、叔父さんを怒らしたでしょう。あんたのことを追い出してやるって、母さんに八つ当たりしてたわ。叔母さんも大変よね」
「言われなくたって出てってやるさ。最後だから、思ってたこと言ってやったんだ」
弟が荷造りを済ませていると見て取って、ファンは人前では決してしない、行儀の悪い座り方をした。カツミはファンが驚くかと思っていたのに、ファンは最初から分かっていたとでも言わんばかりに平然としていた。
「わたしも出ていくつもり」
「おれと一緒に? 」
カツミは驚いて姉を見た。姉には肉親らしい愛情を変わらずに感じていたから、旅が孤独でなくなるかもしれないと思えば嬉しかった。
しかし、ファンは首を振った。
「あんたと一緒には行かない。まだ何も準備してないしね。でも、そうね、叔父さんが越してくる頃になったら出ていこうかな」
カツミはがっかりした。けれど今は、何の不自由もなく暮らしているはずの姉が里を出たがるわけを知りたかった。カツミは〈羽根なし〉にさえならなければ、里の中での暮らしに疑問を感じたりしなかっただろうから。
「どうして外へ行きたいんだ? 」
「あんたは行きたくないわけ? 」
ファンはかえってカツミに聞いてきた。
「この里の外にどれだけ広い世界があるか、あんたは考えたこともないの? そりゃあ、この里にいれば安全かもしれないわよ。だけど、この里にいたんじゃ経験できないことの方が、ずっと多いんだわ」
「何か、外でしたいことがあるの? 」
「まだ分からない……知らないことの方が多いんだもの。でも外に出れば、何も知らないままで終わるということはないわ。……それに、あの叔父さんの顔を見なくて済むしね」
カツミは答えられなかった。彼は、自分は外へ出ていかざるを得なくなったのだという意識をまだ捨てていなかった。
「おれ、分からないや。出ていった方が、里にいるよりいいと思ったわけじゃないし」
「人は、自分にとって善と思わないことはしないものよ」
ファンはやけに大人びた口ぶりで言った。
「あんたは、この里で暮らすよりも外へ出た方がよさそうだと思ったのよ。自分でそう気づいていたかは別としてね。この里はあんたが必要かもしれないけど、あんたにこの里はもう必要ないのよ……わたしたち、見送らないわよ。頑張りな」
「姉さん」
「じゃあね、カティ。またどこかで会いましょ」
ファンは言いたいだけ言って、カツミの返事も待たずに立ち上がった。
その晩は、晴れて星がよく見えた。
ファンが言った通り、カツミを見送るものは誰もいなかった。カツミは黙って森を抜け、山を下りた。外のものが里へ入ってくることはめったになかったが、里のものが外へ出かけることは、禁止でもなんでもない。カツミ自身がバーシュの他の町へ行くときに、何度も通った道だ。
だが、こんな気持ちで通ったことは一度もなかった。
何も、あてがあるわけではなかった。カツミは世間的に見れば十三歳の少年で、労働力としてはやや頼りなく、資産といえば、健康と若さだけだった。
心は軽かった。里人の冷たい目や、父の無関心、母の怯え、叔父の難癖がないというだけで、カツミの気持ちは思いがけなく明るくなったのだ。自分は傷ついていたのだとカツミは初めて気がついた。町には、優しい人も冷たい人もいたが、彼らの態度は常に普通の少年に対するもので、彼が〈バーシュの子〉であったこととも、〈羽根なし〉であることとも関係なかった。
愉快なことばかりではなかったが、それは心地よい扱いだった。
「カツミさま」
山を下りて数日、最初の町をあちこちさまよっていたとき、横を通り過ぎようとした果物屋からそっと声がかかった。カツミが驚いてそちらを見ると、見覚えのある男が懐かしげな目でカツミを見つめていた。
カルの家で使用人をしていた男だ。カツミは、彼と仲がよかったのだ。だが、彼はいつの間にか里から姿を消し、誰もその理由をカツミに語ってはくれなかった。
それが、まさかこんなところで!
「サマラ! 」
「お久しゅうございます。……」
恐らく、お元気そうで、とか、お変わりなく、とか、サマラは続けようとしたのだろうが、カツミの様子を見て黙り込んだ。そのときのカツミは町をうろつくみなしごのようなみすぼらしさで、元気そうにもかつてと同じにもとても見えなかった。ただ、その顔つきにみじめな影がないということで、カツミは辛うじて〈旅人〉に見えていた。
カツミが単に里から出かけてきたわけではないということも、サマラには分かったに違いない。彼が誰にも告げずに里を出たのは自分と同じ理由なのではないかと、カツミははっとした。
サマラは気を取り直して笑顔を作った。もともと痩せぎすな青年だったサマラは里にいた頃よりいくらかふくよかになって、健康そうだった。
「本当に、こんなところでお会いできるとは。これからどちらへおいでですか? 」
「まだ決めてないんだ。おれ、自分に何ができるのかもよく知らないし」
こう答えたとき、カツミはファンが言っていたことを思い出していた――まだ分からない、知らないことの方が多いんだもの。
カツミはサマラの果物屋を眺めた。港が近いこともあり、多くの仕入れ先を抱えているのだろう、店先の品ぞろえは充実していた。客も大勢いて、サマラはカツミと話している間にも、愛想よくオレンジやぶどうをさばいていた。
「サマラは、果物を売ってるんだな」
カツミが感心して言うと、サマラは誇らしげに頷いた。
「最初は、雇われた身でしたが。今は、店を任せてもらっています」
「すごいや」
「見ててください」
サマラはカツミを店の裏に呼び、そこに積んであったオレンジの木箱――もちろん、中身はまだぎっしりと詰まっている――を五つ重ねたままひょいと持ち上げて見せた。カツミはぎょっとした。五段になった木箱はそれだけでサマラの背丈より大きかった。
ところが、サマラは平然としている。それどころか、木箱をそのままカツミに渡そうとしてきた。カツミは慌てた。
「無理だよ! 」
「上で支えますから、持ってごらんなさい」
カツミはわけが分からなかった。このくらいできなければ、里の外で生きていくことができないということなのか? だが、サマラは待っている。仕方なく、彼が支えてくれているのを確かめてから、カツミは箱を受け取った――思いがけず、軽かった。
「ほら、大丈夫じゃありませんか」
「それは、サマラが……」
カツミは言いかけたが、サマラは両手をひらひらと振ってみせた。カツミはひとりで木箱を持っていた。
「わたしはこの力を重宝され、今の仕事に恵まれました。〈羽根なし〉になった〈バーシュの子〉には、みな同じ力が現れます――飛べなくなる代わりに、人の身を超える力がついたり、飛ぶように速く走れるようになったりする。わたしは、これも我々の神の加護であると思っています……なんせ、配達なんかはわたしがいなけりゃやってられないんですから」
「……気がつかなかった……」
「この力は資産です。あなたは、決して無力ではない。あなたの力を必要としている人は必ずいます。――なんなら、しばらくうちの店にいませんか? 」
こうして、カツミはサマラの店で働くようになった。カツミをサマラの弟だと思う客も少なくなかった。サマラは里にいた頃と同じようにカツミをかわいがったので、本当に兄弟のように見えたに違いなかった。
ただひとつカツミが気になったのは、サマラに代わって配達に出かけた先で、ときおり出会う人々の視線だった。カツミが果物の入った木箱をいくつも抱えて平然と現れると、道行く人々や、サマラの怪力を見慣れているはずの人までもが、実にさまざまな感情のこもったまなざしをカツミに向けた――好奇。奇異。畏怖。恐怖。興味。嫌悪。称賛と、それを上回る何か。カツミを同じ人間と思っていないかのようなまなざしは、里で浴びていた人々の視線とはまた違った居心地の悪さをもたらした。
とはいえ、仕事はひっきりなしにやってきたし、カツミに直接何か言ってくるものはいなかった。サマラも同じような経験をしてるのだろうか、とカツミはときどき考えた。羽根があった頃は、隠してしまえば普通の人間と変わらなかったから、こんなことは一度もなかったのに。配達が板につき、顔なじみになっても、人々の目は変わらなかった。
仕方がないのだ、とカツミは思うことにした。カツミだって、サマラの力を見たときはあんなに驚いたのだ。自分のような子どもが、大人にもないような力を持っているのを見れば、誰だってびっくりするに決まってる。
だが、一方では――カツミは自分に理解できない力を目の当たりにしたとき、それが自分たちにとってどういうものであるか考えるよりも先に、自分たちと違うということをやり玉に挙げる人々の反応に疲れていた。どんなに親しくしようとしても、カツミの力を知っているものたちは、カツミとの間に引いた一線をなくそうとはしない。
里にいた頃と違うのは――自分は人々との間にある隔たりの冷たさに傷ついていると、カツミが自分で気がついたことだった。
※
カツミがサマラの店に来て一年あまりが経った頃のことだった。いつものように港へ配達に出ていたカツミは、男性の叫び声を聞いた。
「何するんです! 」
離れたところで、ガラの悪い船乗り風の男が女性を突き飛ばして小さな袋を奪い取るのが見えた。叫び声をあげたのは、彼女のそばについている小柄なおじさんらしい。彼はならず者を追いかけようとしたが、女性が倒れてしまったのでそちらに手を貸すのに忙しかった(それに、仮に追いついたとしても勝ち目は薄そうだった)。
逃げた男はこちらに駆けてきて、邪魔なカツミを蹴飛ばそうとした。
「うわっ! 」
年端もいかない少年が棒切れのような腕で大の男を投げ飛ばしたので、波止場の人々はみな一様にぽかんとカツミを見つめた。男は石畳に投げ出され、そのままだらしなくのびてしまった。
「なんだあれ……」
小さな声がカツミの耳にまで届いた。見ると、どこかの船の水夫がこそこそとその場を離れていくところだった。変なやつ、とカツミは思った――目の前で強盗した男ではなく、その強盗を取り押さえたカツミの方を怖がるなんて。
「すごいねえ、あんた」
袋を盗まれた女性が埃を払いながらカツミのところへやってきた。カツミは目を回している男の手から袋をもぎ取り、彼女に返した。
「これ、お姉さんのだろ」
「うん、そう。あんたの方が小さいのに、よっぽどものの道理が分かってるね」
肌の白い、きれいな人だった。彼女は布カバンに袋をしまおうとしたが、カツミが好奇心に任せて目で追いかけているのに気がついて、カツミの目の前で袋を振ってみせた。しゃらしゃらという、涼しげな音がささやかにした。
「中に何が入っているか。当ててごらん」
「お嬢さま」
おじさんが追いついてきて、まったくこの人は、という声で言った。気苦労の絶えなそうな人だな、とカツミは思った。
「また目をつけられますよ! 」
「もうつけられてるかもね。あいつだって、交易所からずっとつけてきてたんだから」
彼女は平気な顔で言い、それから横目でおじさんを睨んだ。
「お嬢さまじゃないって言ってるのに。もうずいぶん経つんだから、いい加減〈船長〉に慣れてほしいんだけど? 」
「お姉さん、海賊? 」
カツミは聞いてみた。目の前の人は、どうも並みの商人には見えなかった。彼女は吹き出した。
「あんた、本物の海賊にそんなこと聞くんじゃないよ。……まあ、船乗りだよ」
「それ、袋の中身と関係ある? 」
「もちろん」
「金貨」
「残念」
「じゃあ、宝石」
「違うねえ」
船長は革紐を緩めて中を見せてくれた。磨いた珊瑚みたいな小さな丸い粒がたくさん見えたので、なんだ宝石じゃないかと思ったが、飾りものには使えそうもなかった。赤く光る粒は、カツミの小指の爪より小さかった。
船長は一粒指先に乗せた。吹いたら飛びそうなそれを、おじさんははらはらしながら見ている。
「これは胡椒だよ」
「胡椒? それが? 」
「粉にしたやつだったら、前ほど珍しくなくなってきたかな? バーシュは胡椒を栽培してるから、安く仕入れができるんだ。他と比べて、だけど」
「胡椒って、そんなに価値があるの? 」
「たとえばミゼルカのデルテへ持っていくと、二十倍の値段で買ってくれる」
カツミはあっけに取られて赤い粒を巡る仕組みを考えたが、さっぱり分からなかった。船長は粒を袋に戻した。
「マルテルでも北の方へ持っていくと、銀一粒と交換だ。マルテルは大きいからね。バーシュとくっついてるところではそんなに高値はつかないけど、北へ行けば行くほど値段も上がっていくんだ。そのうちにもっと出回るようになれば安くなっていくだろうけど、今はまだ高値をつけてもらえるよ」
「それ一粒で? 」
「そう。だから、お礼に一粒あげたっていいんだけれど、バーシュじゃそんな価値は出ないしね」
船長には、たくらみがあるらしかった。
「お礼なんていいよ」
と歩いていこうとするカツミを捕まえて、にこにこしながら言った。
「そこで、あんたをうちの船で雇いたいんだけど」
「船長、そんな勝手に」
おじさんは一応たしなめるように口を挟んだが、あまり本気で言っているようではなかった。
「……確かに、君のような力のある人がいてくれれば頼もしい限りとは思いますが……」
船長は眉をちょっと下げた。
「もう、四年目になるかな。若い商会だけど、どう? ぜひあんたのような、力の強い、すばしっこいのが欲しいんだ。来てくれるなら、船乗りとして鍛えてあげるよ……海を渡ったことなんか、あるかい? あんたが見たこともないようなものも、きっといくつも見られるよ」
「おれを乗せてくれるんですか」
海に出るなんて、考えたこともなかった。船長は柔らかそうな手を差し出した。
「わたしはマリー。マリー・ヴィヴァンだよ。あんたは? 」
「カツミです」
カツミが手を握り返すと、マリーの目は彼女の左腕に輝く銀のバングルみたいにきらきら光った。
「わたしはティムといいます」
ティムはマリーと同じようにカツミと握手した。気のせいか、消毒薬の匂いがした。
話を聞いたサマラは別れを惜しみながらも、だから言ったでしょう、と涙交じりにほほえんだ。
「あなたの力を必要としている人は必ずいると、前に言ったでしょう。おめでとう。あなたには、今新たな風が吹いてきたのだ」
よい風を、とサマラは言った。それは、バーシュに古くから伝わる祝福の言葉だった。……
――ごぼごぼという鈍い音とともに口と鼻から塩辛い海水が入ってきて、カツミは危うく走馬灯から覚めた。むせそうになったところを無理に抑えたせいで、肺がぎしぎし痛む。
ミカゼを抱えたまま、頭を下にして海を沈んでいくところだった。海面は遠かったが、外から明るい色の光が何条も差していて、その明かりで自分たちの上にある船底がよく見えた。トランやマリーたちが、総出でふたりを探しているのだろう。ミカゼの顔はカツミから逆光になって、影の中にただ青白かった。
水底からふいに暗い大きな影がゆらりと近寄ってきた。左右に揺れる尾の動きは緩やかだが、ひとかきであっという間に距離を詰めてくる――黒光りする背には、尖った背びれ。鮫が、傷だらけで血まみれのふたりを嗅ぎつけたのだ。
カツミは力の抜けかけていた翼で鮫の鼻面を殴りつけ、両足で水を蹴って泳ぎはじめた。右足の傷から待ちかねたように血が噴き出し、鮫の鼻先に広がった。
カツミが必死に波間に顔を出し、水面を翼で叩いて飛び上がったとき、裸足の爪先を鮫の歯がかすめた。
「カツミ! 」
マリーが火の入ったカンテラをぶんぶん振り回している。カツミは冬の羽虫のような飛び方でふらふらとそちらへ向かった。里を出てから一度も開かなかった一対の鷹の羽根は、カツミが甲板に辿り着いたとたんにばらばらと抜け落ちて、見えなくなってしまった。
「無茶してくれますよ、まったく」
ティムが涙ぐみながら、彼にしては乱暴な手つきでカツミに毛布をかぶせ、ミカゼを介抱しはじめた。近くにはニルスもいて、彼もティムと似たような顔をしていたが、カツミが見ると顔を背けた。
波止場ではアルベルトとアニーがこちらに向かって手を振り、カツミたちと入れ違いにそちらへ援護に向かったマロード・ヴァイゲルが手ずからハインリヒ・ルーフとその部下たちを引っ立てて、がみがみ怒鳴っているのが見えた。
「この恥知らずが! 厚顔無恥もいいところだ! 民間人に発砲し、あまつさえ彼女を守ろうとする青年を撃ち落とすとは、貴様それでも一度は提督を名乗った身か! とっとと歩け、この二段腹め! 」
「おもしろい人」
カツミははっとミカゼを見た。ミカゼは目を覚まし、マロードの大声に笑いながら、カツミに手を伸ばした。海の中でのミカゼを思い出して、カツミは今さら身がすくんだ。ミカゼの頬に少しずつ赤みが差してきて、自分を見つめてほほえんでいる、それだけのことが、身に染みてありがたかった――カツミとミカゼが上がってきた辺りには、鮫が集まってきていた。
ミカゼは自分の手を取ったカツミの指先が震えているのが寒さのせいだと思ったようで、両手でカツミの手を握ったが、彼女の手の方こそが冷たくなっていて、なかなか温まりそうになかった。
ティムが起き上がっちゃいけません、とミカゼを叱りながら、彼女の頬の傷に軟膏を塗った布を貼りつけた。自分の頬傷みたいな残り方をしなければいいが、とカツミは思った。
「さあ、君も脚を見せなさい」
ティムはカツミに向き直り、つけつけと言った。カツミは大人しく右脚を出した。腿に銃弾が突き抜けた跡があり、海水に混じって血が垂れていた。
「あなた……その脚で……」
ミカゼはティムとは対照的に、ひどく悲しげな顔をした――彼女はそうと知っていたわけではないが、ティムが厳しい顔をするよりも、彼女が悲しい顔をする方が効果があった。ティムの消毒は背筋が痺れるほどしみたが、カツミは文句ひとつ言わずに耐えた。
「いい船員たちだ」
座に加わらず、遠くから見守っていたマリーに、トランが言った。
「いい船長には、いい船員が集まるものだ。……誇らしいよ」
「まあね」
船長、と呼ばれてそちらへ向かいながら、マリーは答えた。
「人を見る目はあるんだ。母譲りでね」
※
ミゼルカの王都デルテはその日、いつにも増して賑わっていた。今日は〈真実の日〉だ――一年前に祝日として制定されることが発案され、今年初めて正式に、国を挙げての祝祭が各地で催されることになった。
女神ミセルマの使徒が国を侵そうとしていた悪を正し、ミゼルカをあるべき姿に導いたその勇気を称え、国の繁栄を願うための祝日だ。一連の出来事に関わったものたちは表立って名を明かされたりはしなかったが、特に騒動の中心となったデルテでは人々の記憶がたやすく薄れるはずもなく、砲撃で破壊された町の復興が進むと同時に、彼らを記念する祝日を作ろうという動きが出たのは当然のことだったのかもしれない。
「船が着いたってよ、ミカゼ」
人ごみをかきわけながら道を行くミカゼに、屋台のおじさんが声をかけた。ミカゼは立ち止まった。デルテに越して一年、この辺りで彼女の顔を知らないものはいない。
「どこの船? 」
「そりゃあ」
おじさんはにやにやしながらミカゼにスモモをひとつ放ってよこした。
「海軍のさ。君に言うんだからな」
あれだけの大騒動に巻き込まれたあとだったが、ミカゼの基本的な暮らしはあまり変わらなかった。メーアからデルテにやってきて、〈ミセルマの子〉としての仕事が増えたくらいだ。デルテにも、メーアほどではないが、〈ミセルマの子〉にふさわしい豊かな森と山があった。
ただひとつ、大きく変わったことといえば――。
「ミカゼ」
人ごみの向こうから呼ぶ声がして、カツミの頭が見えた。周りにいた人々の目が、ミカゼとカツミの間を行き来する。お祭りだから、普段この町にいない人もたくさんいるんだわと、ミカゼは思った。
「あなたがメーアのミカゼ? 」
ミカゼのそばの屋台で花を選んでいたおばあさんが、銀色の眼鏡を押し上げた。耳打ちするような声ではあったが、それが周囲の好奇心を煽らないようにという配慮のためだったとしたら、あまり意味はなかった。
「ええ」
ミカゼが頷くと、おばあさんはミカゼの手を取り、うっとりと彼女を見つめた。
「わたしの息子がね、海軍にいるのよ。あなたが、銃を持った男に立ち向かうところを見ていたの……」
デルテに出てきてよかったわ、まさかあなたに会えるなんて思わなかったから、とおばあさんは感激のあまり言葉を詰まらせた。
「それにまあ、あなたはなんて目がきれいなのかしら……」
ミカゼが捕まっている間に、カツミがそばまで来た。おばあさんはカツミを見上げたために、眩しい日の光に目を細めた。
「あなたが鷹の? あらあ、あの子の言ってた通りだわ! 」
カツミの返事を待たずに、おばあさんは買ったばかりの花束をふたりに持たせた。
「これは家でお祝いするために買ったものだけど、あなたたちにあげるわ。いいのよ、あなたたちの勇気が、この国を守ったのだから。あなたたちのためのお祝いなんだもの」
「どうしてあのときデルテにいなかった連中までおれたちのことを知ってるのかと思ってたけど」
おばあさんが手を振りながら行ってしまうと、カツミはもらった花束から小さいダリアを抜いてミカゼの髪飾りのところへ挿した。
「居合わせた連中が身内に言いふらしたのがきっかけだったわけだな」
「あれだけのことが目の前で起こったら、黙ってる方が難しいんじゃないかしら」
「違いない」
カツミは肩を越しつつある髪を結っているリボンをむしり取ってからミカゼを抱きしめた。ミカゼは深緑色の軍服の上から彼にくっついた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
カツミはトランとニルスに呼ばれて海軍の任務に出ていて、祝祭に合わせてデルテ港に戻ってきたところだった。長かった、とカツミは呟いた――ほんの二週間あまりの航海だったのだが。
港に入ったミゼルカ海軍の船が、ふたりのいる場所から見える。甲板を歩き回って何やら号令を飛ばしているのはニルスだ。彼はこちらに気がつくと、笑って手を振った。
「あなたはいなくていいの? 」
ミカゼが聞くと、カツミは肩をすくめた。深緑色の軍服は、とっくに腕を抜かれていた。
「おれは軍人になるつもりはないぜ」
ニルスたちの様子を見る限り、カツミを単なる手伝いと思っていないのは明らかだった。どうも任務にかこつけてそれなりの地位につけてしまおうと目論んでいる節があるのだが、カツミはあくまでベルマリー号に籍を置いているつもりでいるらしく、嫌がってなかなかうんと言わない。そのベルマリー号は、近々デルテに寄港してふたりを拾ってくれる算段になっていた。
ふたりのところへ、小さい子どもを抱いた女性がやってきた。一連の騒動が終結したあとで、ミカゼが取り上げた子だ。若い母親は嬉しそうにミカゼに話しかけてきた。
「〈真実の日〉おめでとう、ミカゼ」
「ええ、おめでとうメリーさん。僕ちゃん、ごきげんよう」
メリーの息子は母親そっくりの大きな目でミカゼとカツミをじっと見つめた。
メリーはデルテの市場で、菓子職人の夫が手がけたお菓子を売っている。彼女はあの砲弾降り注ぐ中を身重の体で王宮まで逃げ、その三か月後に出産した。ミカゼは過酷な体験が母子の健康に影響することを少なからず心配していたのだが、母親はそれ以上に強かった――ミカゼとしても、印象深い出会いだったのだ。
「お元気そうね。何か困っていることはない? 」
「ぜんぜん。元気すぎて困ることならあるけど……それでね、この子の名前なんだけど。あなたたちに言わなきゃと思って」
メリーは息子の柔らかい頬をつついた。
「最初は、あなたの名前をもこの子にもらおうと思ってたの。でも、この子男の子でしょ。だから……」
メリーが意味ありげに間を置いた。
「……カツミ? 」
ミカゼが言うと、メリーはほほえんだ。当のカツミだけが、あっけに取られていた。
「……おれの名前? 」
メリーの息子、小さい方のカツミが、カツミに手を伸ばした。カツミはこわごわ自分の何倍も小さな指に触った。
「とてもすてきだわ。きっとすごく勇敢な子になるわよ」
「ばか、おまえ……」
ミカゼがにこにこしながら受けあったので、カツミは彼女の頬を両手で挟んだ。それじゃ、またお店に来てね、と去っていく親子を見送るその口元は笑っている。
ミカゼはやっぱりにこにこしながら言った。
「あなたはすてきよ、カティ」
「そうかい。……なら、おまえも幸せか」
ミカゼが答える間もなく、カツミは隙をついて彼女からキスをひとつかっさらった。
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