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夏の夜 彼の怒り

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 甘い一夜を過ごせると期待してきたのだと思う。
 まさか私がこんな話を切り出すとは思ってもみなかったのだろう。
 緊張した面持ちになり、「そうなのか」と彼は続けた。

「そう、ですね」
「どうしてそんなに簡単に言うのだ、お前は!」

 ドンっとテーブルの上に彼の拳が飛んだ。
 ガチャンっと机上の茶器が音を立てる。
 正直に言ったほうが話が早いかな? 他に誤魔化すこともできなさそうだったので、そうです、と答えた。
 じっとりと熱い夏の夜気が肌にまとわりつく。
 彼の怒りがそのまま伝わってきそうで怖かった。

「どこの男だ」
「殿下の存じ上げない方、とだけ申し上げておきます」
「だからどこの男かと訊いているんだ」

 殿下の口調に、私の心はどきりとした。
 二度目の拳がテーブルに打ち付けられる。
 扉の向こうで騎士が心配になったらしく、こちらをちらりと覗きこんでくる。
 大丈夫よ、と手で合図をすると彼は訝しんだ顔つきで廊下に戻っていった。

「そんなことは殿下に申し上げることではございません。それを知ってどうなさいますか」
「決まっているだろう。俺が直接、話をつけにいく」
「妹という婚約者がおりますのに?」
「それは」

 国王陛下のお耳に入ったら、伯爵家一族揃って縛り首かなあ、と背中に一筋の汗が流れた。

 殿下は「それは」と言い淀み、悔しそうに顔を歪めた。
 それでいいと思った。
 彼が行動を起こせば、相手だってただでは済まない。
 もっともその相手はまだこの時にはいなかったのだ。私はいもしない新しい男性を生み出してそう言ったのだった。
 誰も空気には勝てない。
 存在しない相手には罪を問えない。
 だから、さっさと引いて欲しかった。男らしく、去り際を弁えて欲しかった。
 殿下にも、我が家にも迷惑をかけたくなかった。
 妹に対してはどうだったか‥‥‥そのときの感情は覚えていない。

「私たちは短い幻を見ていた。そういうことに致しませんか」
「ちょっと待て。俺が話をつけにいくと言っているのだ」
「そんなことは皆にとって不幸しか生みません。違いますか」
「……」

 シュネイルは目を閉じ、悔しそうにうなだれた。両肘をテーブルに載せて、頭を抱えている。
 負けを認めたくない、そんな感じにも見て取れた。
 私は申し訳ございません、と二度告げた。

「彼のこと以外でしたら、殿下のお気の済むようになさって下さいませ。でも、伯爵家を咎めるようなことはなさらないで下さいませ。この関係が国王陛下に知れ渡れば、妹も泣くことになります。どうか、そこだけはお許しください。どうか」

 我ながら都合のいい言葉を吐いたものだと思う。
 けれど、シュネイルはそれを受け入れなかった。

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