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第一章 緋色の羊毛
第九話 手料理と自爆と公爵の愛
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彼女の師であるラバウルは、もともと、こことは別の南の大陸出身だったという。
若い頃には料理人を目指して修行に励み、その腕前は悪くなく、あのまま続けていれば、もしかしたらあちらの国の、宮廷料理人になれたかもしれない、とラバウルは言っていた。
当人だけでなく、祖国から着いてこの国まで流れてきた、ラバウルの妻エナスまでがそういって誉めるのだから、それは大したものだったのだろう。
それほどに素晴らしいものならば是非とも、後学のために習っておきたい。
「そう。あれが間違いの元だったのよ!」
回想の中で鍋を片手に厨房に立つ親方は、魔石の彫金を教えるときよりも厳しかった。
鎌を手にして、ブチブチと雑草を刈り、後方に据えた作業用の手押し車にそれを積め、またしゃがんでは草を刈る、この繰り返し。
「腰が痛い。みんなが来てからお願いするべきだった」
魔石を加工するときの姿勢は中腰だが、そこには椅子がある。
じっとしゃがみこんで、動くこともあまりない。
それに加えて、地面に這いつくばる様なこの姿勢で作業することの、なんてキツイことか。
冒険者はときとして、こういった雑務をやってくれるという。次からはお願いすることにしよう。
「まだお昼にならないのかしら」
ぼやいて、窓から部屋を見上げると、壁にかけた時計はまだ午前十時を少しばかり回った頃だった。
あと数時間もある。
さっさとやってしまいますか、仕方ない。
覚悟を決め、庭師を絶対に雇うんだと心に誓い、オフィーリナの意識はまた回想へと戻って行く。
あの頃のオフィーリナはまだ十歳前後で、親の理解もまだまだ深まっていなかった。
伯爵がいつどこかの令息と婚約して社交界にデビューしろ、と言ってきてもおかしくない時期だった。
オフィーリナの中でも嫁入り修行として学んでおくには悪くない、といった打算があったことも確かだ。
一年ほどかけていろいろと学んだ結果、この料理法には致命的な欠陥があった。
辛いのだ。とてつもなく辛い。
まるで南国の極彩色な景色の中で、砂漠の太陽よりも熱い熱波にさらされるほどに、辛くて熱気を覚える。
そんな辛さだった。
塩と胡椒、ワインに酸味。そういった濃い味ではあるが、辛さを追求したわけではない王国の料理を知る人間にとって、これはある意味、拷問に近い味だったのだ。
「だから舌の肥えた旦那様の味覚を誤魔化せると思ったのよ、なのに……」
彼はその程度では堪えない人だった。
スプーンで最初の一口を口にしたときは、「んっ」と小さく呻いたのだが。
二口目、三口目からはすいすい、ぱくぱくとまるで辛さなんて気にならないという風に、料理を平らげてしまう。
自分では相当、辛口にしたつもりだったのだが、と思いつつそれを口に含んだだけで、猛烈な辛さと続いてやってくる突き抜けるような痺れが全身を震わせた。
即座に水を飲み、それだけでは足らず、テーブルに冷やしたワインを用意していたのが、失敗だった。
料理に文句ひとつ言わず、洗練された作法で美味しい、美味しいと評してくれる彼の言葉に、ついつい有頂天になりすぎた。
ワインの杯を重ね、情熱がたぎってしまい、そして――。
「あーもうやめ、やめよ、やめて!」
思い出して顔面から火を噴いたオフィーリナは、鎌を放り出すと両手で顔を覆う。
「うー……うっ。なんであんなことしたのかしら、わたしのばか……。ううっ……!」
一度、恋愛感情に着火したら、とことんまで暴走する。
それがオフィーリナの本質だったのだ。
これが公爵相手ではなくて、タチの悪い男に捕まっていれば、どこまでも利用されて捨てられる、ダメな恋愛体質。
結婚しておいてよかった。契約結婚だけど。
彼で良かった。おかげであれから本当の愛人関係になってしまったけど。
お陰様で、彼に会いたいし、会えば胸に飛び込んで抱擁されたたいし、情熱のあるキスを奪われたい。
けれどもそれが実行されるたびに、一つのことがじわじわと心に闇を作る。
真っ黒でどす黒くて、寂し気な何かが、自分の後悔と自責の念を強くする。
「……奥様に合わせる顔がないわ」
真上を仰ぎ見た姿勢から、顔を両手で覆ったままで今度はいきなり俯いてしまう。
それも「はああああっ……」と大きく情けないため息とともに行うのだから、誰も見ていない庭先で良かった、と指の合間から辺りをちらちらと伺い、誰もいないのを確認してほっとする。
「妊娠したらどうしよう。そういう契約だけれども」
初秋の午前。
上には立派な緑陽樹の葉が日光を遮ってくれているとはいえ、斜陽が含む熱気は限りなく穏やかでほわほわとした温かさを与えてくれる。
黒い上下を着たのが失敗の元で、そのぬくもりを吸い取った衣服が肌にじんわりと汗を浮かび上がらせる。
ぶつぶつと他人様の幸福と自分の現状を見比べながら、一心不乱に作業をしていたオフィーリナ。
着ていた麻の布地は、やがて汗を吸ってべったりと吸い付いてしまう。
肌に衣類が貼り付く居心地の悪さは、ブライトのなんでも包み込んでくれる優しさとまったく別物で、どうしようどうしよう。
また週末がやってくる――そんな未来への希望と不安を募らせながら、オフィーリナは冷静に戻り、作業を再開するのだった。
若い頃には料理人を目指して修行に励み、その腕前は悪くなく、あのまま続けていれば、もしかしたらあちらの国の、宮廷料理人になれたかもしれない、とラバウルは言っていた。
当人だけでなく、祖国から着いてこの国まで流れてきた、ラバウルの妻エナスまでがそういって誉めるのだから、それは大したものだったのだろう。
それほどに素晴らしいものならば是非とも、後学のために習っておきたい。
「そう。あれが間違いの元だったのよ!」
回想の中で鍋を片手に厨房に立つ親方は、魔石の彫金を教えるときよりも厳しかった。
鎌を手にして、ブチブチと雑草を刈り、後方に据えた作業用の手押し車にそれを積め、またしゃがんでは草を刈る、この繰り返し。
「腰が痛い。みんなが来てからお願いするべきだった」
魔石を加工するときの姿勢は中腰だが、そこには椅子がある。
じっとしゃがみこんで、動くこともあまりない。
それに加えて、地面に這いつくばる様なこの姿勢で作業することの、なんてキツイことか。
冒険者はときとして、こういった雑務をやってくれるという。次からはお願いすることにしよう。
「まだお昼にならないのかしら」
ぼやいて、窓から部屋を見上げると、壁にかけた時計はまだ午前十時を少しばかり回った頃だった。
あと数時間もある。
さっさとやってしまいますか、仕方ない。
覚悟を決め、庭師を絶対に雇うんだと心に誓い、オフィーリナの意識はまた回想へと戻って行く。
あの頃のオフィーリナはまだ十歳前後で、親の理解もまだまだ深まっていなかった。
伯爵がいつどこかの令息と婚約して社交界にデビューしろ、と言ってきてもおかしくない時期だった。
オフィーリナの中でも嫁入り修行として学んでおくには悪くない、といった打算があったことも確かだ。
一年ほどかけていろいろと学んだ結果、この料理法には致命的な欠陥があった。
辛いのだ。とてつもなく辛い。
まるで南国の極彩色な景色の中で、砂漠の太陽よりも熱い熱波にさらされるほどに、辛くて熱気を覚える。
そんな辛さだった。
塩と胡椒、ワインに酸味。そういった濃い味ではあるが、辛さを追求したわけではない王国の料理を知る人間にとって、これはある意味、拷問に近い味だったのだ。
「だから舌の肥えた旦那様の味覚を誤魔化せると思ったのよ、なのに……」
彼はその程度では堪えない人だった。
スプーンで最初の一口を口にしたときは、「んっ」と小さく呻いたのだが。
二口目、三口目からはすいすい、ぱくぱくとまるで辛さなんて気にならないという風に、料理を平らげてしまう。
自分では相当、辛口にしたつもりだったのだが、と思いつつそれを口に含んだだけで、猛烈な辛さと続いてやってくる突き抜けるような痺れが全身を震わせた。
即座に水を飲み、それだけでは足らず、テーブルに冷やしたワインを用意していたのが、失敗だった。
料理に文句ひとつ言わず、洗練された作法で美味しい、美味しいと評してくれる彼の言葉に、ついつい有頂天になりすぎた。
ワインの杯を重ね、情熱がたぎってしまい、そして――。
「あーもうやめ、やめよ、やめて!」
思い出して顔面から火を噴いたオフィーリナは、鎌を放り出すと両手で顔を覆う。
「うー……うっ。なんであんなことしたのかしら、わたしのばか……。ううっ……!」
一度、恋愛感情に着火したら、とことんまで暴走する。
それがオフィーリナの本質だったのだ。
これが公爵相手ではなくて、タチの悪い男に捕まっていれば、どこまでも利用されて捨てられる、ダメな恋愛体質。
結婚しておいてよかった。契約結婚だけど。
彼で良かった。おかげであれから本当の愛人関係になってしまったけど。
お陰様で、彼に会いたいし、会えば胸に飛び込んで抱擁されたたいし、情熱のあるキスを奪われたい。
けれどもそれが実行されるたびに、一つのことがじわじわと心に闇を作る。
真っ黒でどす黒くて、寂し気な何かが、自分の後悔と自責の念を強くする。
「……奥様に合わせる顔がないわ」
真上を仰ぎ見た姿勢から、顔を両手で覆ったままで今度はいきなり俯いてしまう。
それも「はああああっ……」と大きく情けないため息とともに行うのだから、誰も見ていない庭先で良かった、と指の合間から辺りをちらちらと伺い、誰もいないのを確認してほっとする。
「妊娠したらどうしよう。そういう契約だけれども」
初秋の午前。
上には立派な緑陽樹の葉が日光を遮ってくれているとはいえ、斜陽が含む熱気は限りなく穏やかでほわほわとした温かさを与えてくれる。
黒い上下を着たのが失敗の元で、そのぬくもりを吸い取った衣服が肌にじんわりと汗を浮かび上がらせる。
ぶつぶつと他人様の幸福と自分の現状を見比べながら、一心不乱に作業をしていたオフィーリナ。
着ていた麻の布地は、やがて汗を吸ってべったりと吸い付いてしまう。
肌に衣類が貼り付く居心地の悪さは、ブライトのなんでも包み込んでくれる優しさとまったく別物で、どうしようどうしよう。
また週末がやってくる――そんな未来への希望と不安を募らせながら、オフィーリナは冷静に戻り、作業を再開するのだった。
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