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第五章 再会

第三十五話 天使

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 帝国に行く予定の日が近くなり、セナはホテルを辞めた。
 寮を出て、その間は王都のアパートメントにセナは身を潜めた。

 アパートメントのベッドの中で、世間から逃げるようにして布団の中に潜り込みながら、セナは回想する。
 お腹の膨らみもそれなりに目立つようになり、もう隠し切ることは難しくなっていた。

 自分の判断が正しいかどうかまだはっきりとしない状態で、彼女には新しい土地に対する不安が大きくのしかかっていた。

 これまでの体調は最悪だったが、その合間は、女神の神聖魔法でどうにかやり過ごした。
 痛みや吐き気、気分の乱降下に、体調の悪化。

 最初は全く効力を表すなかった女神の奇跡は、セナが子供のためにどうにかしてやりたいと、自分よりも新しい命を優先する方に考えを変えたから、少しずつ彼女を助けてくれた。

 妊娠なんてしていなかった頃のように万全の体調で、猛然となって働くことはもう無理だったが、それでも清掃係の忙しい業務を頑張ってこなした。

 アパートメントに引っ越すときになって、ロアッソが彼女の荷物運びを手伝うと申し出たら、セナは困ったように肩をすくめた言った。

「バック一つくらいしか、荷物はないの」
「どこに置いてきたんだ? そんなにたくさんの人生を」
「どこかな? ちょっと言えないところに置いてきたかもね」

 半年が過ぎる頃になると、セナはロアッソとの距離感を掴み始めていた。
 彼は決して、恋人や都合のよい肉体関係を求めるわけではなく、職場の上司として、同じ故郷を持つ者として、王国で差別される移民仲間として、友人としてセナを支えてくれていた。

 一番助かったことは、彼が自分の過去を明かすようにと、求めなかったことだ。
 十代の若さで帝国から王国へと移民したセナの過去に、彼は頓着しなかった。

 誰にでもいろんな過去がある。
 一度、仕事が終わった後に彼と食事をした。

 その時、ロアッソは若いころに結婚したものの、その女性はなくなり彼は未だに彼女のことを愛していると、セナの前で言った。
 財布の中に大切にしまっている写真を取り出して見せてくれもした。

 彼とよく似た黒い髪、鳶色の瞳のどこか知的な面持ちをした女性だった。
 毎朝、鏡に映る自分の姿とはまるで大違いだと、セナは写真を見ながら思った。
 
 生きることに必死で女性としての美しさとか、綺麗さとかそういったものを後回しにしてきた自分の顔は、いつも疲れ切ってしまい、幸福感なんて微塵もなかった。

 しかし写真に写った彼女は、とても幸せに満ち足りた顔をしていた。
 それはロアッソと彼女の関係が信頼感に満ちたよい夫婦仲だったことを物語っていた。

「綺麗な人ね」
「そうだろう。俺の自分の妻だ。いまでもそうだな」
「いまでも?」

 お酒は口に出来ない自分と違い、その時彼はしたたかに酔っていた。
 意地悪な質問だと思いながら、だいぶ親しくなった関係性を確かめるように、セナは言った。

「私が目当てじゃなかったの」
「お前を? 冗談だろ、もし子供が生まれていたら、今頃はお前と同じ年齢だ。もしいたらだけどな」
「ごめんなさい。悪い冗談だった」
「いいさ、俺たちが親しくしてるから、職場で俺の子供じゃないかっていう噂を、立てやつもいる」

 息が詰まった。
 彼にそこまで迷惑をかけていると思う自覚できていなかった。

 どこまで行ってもセナはセナで、年齢からしてもまだ自分とお腹の中にいる子供のことを考えるだけで、彼女は精一杯だった。

「そんなことになってるなんて……」
「知らなかっただろう。知らないふりをしたらいい。そんな事実はないんだからな。ただ」
「ただ、何? ロアッソ」
「世間ってやつは、女が一人で。それもお前くらい若いとなったら、とことん冷たいもんだ。俺と一緒に行くかどうするかは、ゆっくり考えたらいい。無理強いはしない」
「そうね。ちゃんと考えるわ」

 無関係の人にまで迷惑をかけるなら、立ち去りたいと深く感じた。
 ロバートの前からも、ロアッソの前からも逃げることの罪悪感が、いい気分だった夕食の雰囲気を壊しかける。

 しかし、彼は前もって釘を刺した。

「迷惑じゃないって言ってる人間の前から消えることくらい、酷い裏切りはないぞ? 裏切りっていう意味じゃないが、ここまで来たらある意味、共犯関係だろう。お前は俺を利用していい。俺は自分の仕事のために、帝国に戻って働けるようになったらお前を利用する。上司と部下としてな」
「まるで脅しみたいに言うのね」
「脅し? いいや、悪い友人だろ。それの方が、響きがいい」

 そう言って笑いながら、気分がいいのか、また酒の杯を彼は空けた。
 世間にはアルコールが入るといろいろと隠れた本性がむきだしになる男性もいるが、ロアッソは大人しいものだった。
 
 当人が思ってるほど、彼は酒に強くない。
 その夜も、同じ寮に戻る車の中で、彼は軽い寝息を立てていた。

 いつのまにか亡くなった父親の面影を、セナはロアッソに感じていた。
 半年間の付き合いから、彼を信じてもいいのだ、という疑念は確信へと変わり、セナはアパートメントを出て帝国へと帰国した。

 彼の支援を受けて病院で子供を出産し、生まれてきたのは男の子。
 最初は黑かった髪と瞳が、生後、しばらくして青く染まり、真紅に変わる。

 王国では珍しい髪色に瞳だが、帝国では空や水の精霊の加護を受けた人間は、その子とよく似た髪色をして生まれて来るから、ロアッソは特に父親が誰か、ということを気に留めなかった。

 新しいの子の誕生に、まるで自分の孫が生まれたかのように、ロアッソは破顔し、心の底から祝福を述べる。
 彼の申し出を受けて本当に良かった。セナは心の底からロアッソに感謝した。

 生まれたその子に、セナは亡夫の名前を貰い、ディーノと名付けた。
 出産してしばらくし、どうにか体調が整った後、取引の条件通りロアッソはセナを新しい職場のホール長に任命してた。
 新しい職場、新しい環境、新しい人々と、新しい関係を築き上げていく。

 六年ほどが経過して、ディーノはセナと深い縁のある、戦女神ラフィネの神殿が経営する、初等学院に入学した。
 ディーノは歌が大好きでその声は深く豊かに響く。

 神殿の聖歌隊に入ると少女たちに混じって、女神への聖歌を歌うようになる。
 夏の祭りの夜、神殿で行われた合唱の一幕でディーノは透き通るような声を披露した。

 それは訪れた信者たちを深い女神への感謝へと導いた。
 高い評価を得た代償なのか、それとも女神の思し召しなのか。

 皮肉にもディーノはその容姿を人々に見知られることで、それまでセナが必死に隠し通してきた王国の王室へと存在を知られてしまった。
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