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プロローグ
第三話 似た者親子
しおりを挟むロイヤルスイートルームから廊下へと足を踏み出すのと、階下に降りるエレベーターの入り口がちょうど開くのは、ほぼ同じ瞬間だった。
「待ってくれ」
エレベーター前に立つ二人の人影に声をかけ、マーティンはしまったという顔をする。
そこにいたのは、ミューラを連れたオリビアだった。
藍色のワンピースドレスと深く被った黒いベール姿の彼女が声に気づき、こちらを振り向いたからだ。
まさかこんな身分のある存在がエレベーター前にいるなんて想像もしていなかった。
オリビアがボタンを押して扉を長く開けようとすると、横からミューラの手が伸びてきたそれを変わってくれた。
「後にお乗りくださいませ、旦那様」
ミューラの言葉は丁寧ながらも冷たいものが含まれていた。
おまえのような身分も確かでない男を、聖女たるオリビアと同じエレベーターに乗せるはずがないでしょう? と、ミューラは言葉の裏でそう言ったのだ。
開閉ボタンのうち、閉じるを押されたエレベーターはさっさと扉を閉じてしまう。
冷徹な言葉だけがマーティンの耳に残り、彼は次のエレベーターを待つ羽目になった。
話相手のニコスとその父親が泊っている部屋は聞いている。
遅れてやってきたエレベーターに、他数名の淑女を連れた紳士たちと乗り込み、マーティンは二つ下の階でエレベーターを降りた。
そこから棟を移動してホテルの西側にあるペントハウスのひとつへと、足を運ぶ。
この土地を治める辺境伯の名にふさわしいその場所は、他国の王族やその関係者しか普段は利用できない場所だ。
「……貴族が」
別に貴族に恨みはないが、辺境伯家にはいろいろと複雑なものがある。
先ほど、袖なくされた聖女一行も、思えば貴族だった。
なんとなく理不尽な怒りを抱いて歩くこと数分。
立派な樫の木の森と芝生、湖を抱いた広大な敷地を見渡せるその場所で見る夜景は、実に壮大な眺めだった。
この部屋で最後に夜景を見たのは、もう二年も前のことだ。
あのとき恋人だった元妻は死に、面影すら思い返したくない過去のトラウマとなっている。
玄関のドアをノックしようとしたら、扉が開いて見覚えのある顔が彼を出迎えた。
「よう、マーティン。そろそろ来るものだと思っていたよ」
ドア口に、ニコスの父にしてマーティンの元義理の父親、元辺境伯のサーベラスが酒によっているのか赤い顔をして、陽気に出迎えてくれた。
その向こうにニコスがやってきて、マーティンと彼の視線が交錯する。
ぶつかった瞬間、互いに敵意を持っているのだと、はっきりと感じ取れた。
片方は自由になろうとし、片方は言いなりにしておきたい。
二人の思惑は正反対で、燃えるような赤毛のニコスは、苔色の瞳に深い憎しみを宿していた。
約十二年前。
彼と同じ顔をした美しい少女に、マーティンは心を奪われた。
セシルとニコスは瓜二つで、この兄妹と深く信頼を築けることを、マーティンは誇りに思っていたほどだ。
十年して結婚し、一年も経たないうちに彼女はこの世を去ってしまった。
ほんとうに流れる川のようにすさまじい速度で、彼の幸せな時間はあっという間に消えてしまったのだ。
後に残ったのは、負債と憎悪と悲しみだけ。
「ようやくケリがつくようだな。マーティン」
ニコスは怒りを瞳から顔全体に広がらせて、そう言った。
吐き捨てるような口ぶりに、互いにこの状況をさっさと終わらせたいのは明白だった。
中に入り、サーベラスが進めてくれた来客用の椅子に腰を下ろす。
少なくとも、元義理の父親だけは、マーティンのことをまだ息子だと思ってくれているようだった。
「あれが済まないな」
「いえ、気にしていないので」
いつもは大勢の家臣を侍らせているはずなのに、今だけはそのほとんどが姿を見せていない。
顔見知りだった執事たちも、侍女長もここにはいなかった。
いるにはマーティンとニコスとサーベラスの三人だけだ。
この会話を誰かに聞かれることは不名誉だ、と貴族の誇りがさせたのかもしれない。
「セシルが死んでからは、悲しみの連続だった。こうして来てくれたことを感謝するよ」
目を閉じて、義理の父は頭を深々と下げてくれた。
ニコスは奥に酒を用意しに行っていたらしく、そんな二人を見ると「おいっ」と野太い声で恫喝する。
「親父、そいつはもう親戚じゃないんだ」
「黙っていろ、ここではわしが主だ」
「……」
命じられ、ニコスは黙ってしまった。
辺境伯になったはいいものの、まだまだその実権は父親であるサーベラスが持っている、ということなのだろう。
そういえば、ヘラルドグループ総帥の座も、まだサーベラスが在籍していた。
父親の影響力は偉大だな。
ふっと鼻先で笑ってしまい、ニコスの射るような目つきに思わず肩を竦める。
二人でいるときは獰猛な狼も、父親の前では形無しだった。
「俺たちは、もう違う道を歩くべきかと思うのです。義父さん」
「……まだそう呼んでくれるだけ、ありがたい。そうは思わないのか、ニコス」
「そうだな。でも、それは署名までの間だけだ。すぐに終わる」
「おまえ、そこまでして――」
金に薄汚い息子を怒鳴ろうとして、サーベラスはマーティンの視線に気づき、ハッと我に返る。
いまはうちうちでもめている場合ではなかった、と思い出したらしい。
今夜の主役はニコスなのだ。
この場所に集まったのは、ニコスの二十四歳の誕生日を祝うためなのだから。
「話を進めよう。うちの弁護士が用意したのがこれだ。和解内容に沿う内容になっている」
持参した封筒から書類を出し、テーブルの上に広げて見せる。
ニコスがまず確認し、サーベラスの確認が入った。
二人はその内容に満足したのだろう、特に反論は無いようだった。
ニコスが黙って所定の欄を埋め、彼の万年筆が記したインクが乾くのを待って、マーティンは書類に漏れがないかどうかを確認する。
完璧だ。
ここまでは完璧なできだった。
もうこれ以上、どんな嫌がらせも法的に行うことは出来なくなる。
マーティンは彼らと他人に――さまざまな意味で、友人としてもビジネスパートナーとしても、縁が切れるのだから。
サーベラスとの友情は大事にしたかったが、裁判まで起こして揉めたあとでは、それも難しい。
マーティンは最後に別れの悪手だけを求めて、席を立った。
「共同口座の預金だが――」
ニコスがいきなり、突拍子の無いことを言いだしたのは、マーティンが玄関のドアノブに手をかけたときだった。
「ちゃんと残っているんだろうな、半分。おまえのいまの財産のだ」
ああ、そういう認識だったな、こいつらは。
と、マーティンは認識違いで生きている人種を哀れに感じた。
婚姻時に成した契約はマーティンがニコスの助力を受け、独立した際に初めて築いた財産の半分となっていた。
あのころのセシルは純粋でそれほどお金に強欲でもなかったし、外で見つけた悪い男のせいで堕落に染まり、見る見る間に資産を失う愚かな女でもなかった。
しかし、契約内容は顧問弁護士とマーティンとセシルのみが知っている。
そして、いま共同名義の口座資産はほほ、ゼロに近い。
多分な嫌味も含めて、マーティンは親切に教えてやる。
「ああ、残っているよ。彼女が使いこんだものも含めてな」
「なんだと? セシルが使いこんだとはどういう意味だ?」
それまで柔和な笑みを浮かべていたサーベラスが、いきなり険しい顔をしたことに、マーティンは少しばかりの驚きを隠せなかった。
同時に、彼もまた、現在のマーティンが持つ資産額の半分に執着していたのだ、と判別するとそれを見抜けなかった自分の間抜けさに嫌気が差した。
「……開けて見ればわかる事ですよ、義父さん。俺はまったく手を出していない」
「おい、待てっ!」
そこまで言うと、サーベラスが止めるのも聞かず、マーティンはドアから外へ飛び出した。
扉を締めると、うるさい怒鳴り声が遠い異世界にいる鳥のさえずりのように静かになった。
「あの娘で、この兄と父親か。似た者親子だな」
踵を返しエレベーターホールへと向かう。
腹立たしいが、今夜のパーティーにはマーティンの近しい友人たちや、ビジネスパートナーたちも顔出すのだ。
辺境伯親子も目立ったやり返しなどはしてこないだろう。
ある程度のところで切り上げ、王都に戻ろう、と心に固く誓う。
エレベーターがやってきて、乗り込もうと開閉ボタンに手をやったら、ふとあることを思い出した。
マーティンは東部にあるこのグレナンの出身だが、いまの養父母に養子として迎えられるまで、南部の孤児院で過ごした時期がある。
それは彼がまだ十歳かそこらの話で、あまり覚えていないが、女神リシェスの神殿に隣接していたそこで、幼い少女と親しくしていた時期があるのだ。
後から知ったことだが、彼女は先代の聖女の娘で、しばらく前にその跡を引き継いだと聞いた。
「……オリビア」
名前は憶えている。
つい先ほど見たのがもしそうだとしたら、ベールの下には燃えるような赤い髪と緑の瞳を持つ、美しい顔があるはずだ。
「聖女との結婚で、辺境伯家は王国最大の勢力を持つ、か」
あいにく、そろそろ国外に資産を移そうと考えているマーティンは、それほどこの国に対しての愛着というものが薄い。
魔王が勇者といい戦いをしているとも聞く。
「逃げ出すにはいい時期かもな」
手にした書類を大事そうに抱え込むと、上の階へと続くボタンを押した。
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