聖女オリビアの禁欲事情

秋津冴

文字の大きさ
上 下
8 / 9
プロローグ

第七話 古臭い女

しおりを挟む
「他の者たちにもそれぞれ、理由をつけて……ね。誰だって愛する者とは一緒にいたいものよ」
「聖女様も――」

 そこまで言って、エレンは言うのをやめた。
 オリビアが辺境伯ニコスと結婚するのはあくまで、政治的なつながりの為だ。

 東西南北の聖旗を預かる家の人間同士が婚姻をすることで、結果的に最も救われるのは王都に住む、王家になる。
 国王は自分の政治的な立場を安定させるために、オリビアをニコスと結婚させることにしたのだ。

「私は結婚しても、旦那様となる男性とお会いできるのは年に数回かしら。子供がちゃんと育ってくれればいいのだけれど」
「両親が揃っていることが一番いいのですが」
「私もそうだと思う。でも仕方ないわ。女は政治の道具だもの。私たちの婚約も、叔父様が国王陛下と、前代の辺境伯様とお決めになられたのだし」

 大神官と年の同じ侍女長のエレンは、白髪交じりの頭を悩ましそうに振った。

「大神官様は政治にはなかなか……」
「女遊びは上手みたいだけど」
「聖女様。それはあくまで噂ですから」
「そうだったわね。火遊びが過ぎて、大神官の地位を追われなければいいけれど。そこだけが心配だわ」
「あの人は政治は人並みですが、他人から恨みを買わないことに関しては天才的ですので」
「よく知っているのね、エレン?」
「お互い十二歳の時に神殿に入って以来、三十年。もう長い付き合いですので」

 どこか信頼しているような口ぶりで侍女長はそう言った。

「あなたが彼と結婚してくれたら私も安心なのに」
「嫌ですよ。あの人は若い女性にしか興味がありません」
「そう……。彼はどうなのかしら」

 鏡に映る自分の瞳の奥に、悲しみの色を覚えた。
 婚約者として、これからパーティーに出向く。

 参加して、今年の夏には結婚する予定の彼の誕生を祝うためだ。
 同時に、年に数回しか会えない彼との関係に変化がないか、確かめたいというオリビアの思いも含まれていた。

 世間でのニコスの評判は両極端だ。
 たったの数年間で、国内でも有数の富豪にのしあがった成り上がり者。

 戦いでも政治でも、経営でも彼の才覚は群を抜く。そんな男は敵が多いし、味方も多い。
 そんな彼の元には、あまりにも強大な魅力に惹きつけられて、誘蛾灯に誘われるがごとく行ってくる乙女たちも数少なくない。

「噂はよくありませんね」
「そうなのよね。でもあくまで噂だから。心無い誰かが流してる可能性もあるわけでしょう?」
「火のないところに煙は立たないとも申します」
「そんなこと言い出したら……。救いがないじゃない」

 実際に、オリビアの耳にはそれなりの数の、ニコスが流した浮名が聞こえている。
 四年ほど前に王都の夜会で知り合ってから、国王陛下の命令もあり、婚約と至ったけれど、果たしてこれから先、彼は私のことを愛してくれるのだろうか。

 自分一人だけを見て他の女からは全て手を引いてくれるのだろうか。
 神殿の中であまり多くの男性を知らずに育った聖女は、色恋沙汰に疎い。

「結婚したとしても、ニコスが陰に隠れてこっそりと、彼女に悟られないように、世間に知られないように浮気をするのであれば、それを認めるのもまた妻の器量……とか誰か言っていましたね」
「叔父様ね。妻の器量をそんなところで試されたくないわよ。他の女の香りをベッドの中に持ち込んだら許さないと思うわ」
「それが正しい判断だと思いますけどね。浮気をする男はいつか必ず刺されて死ぬんですよ」
「怖いこと言わないで? 叔父様の未来みたい」
「そうなる前にこの手で殺してあげた方がいいのかも」
「怖い冗談ね。あなたが言うと本気みたいに聞こえる」

 ははっ、と侍女長は乾いた笑いを残して、化粧を整えてくれた。
 まったく、大神官は余計な入れ知恵をしてくる。

 その大神官は自分の叔父にあたるが、彼もまた女官たちとの悪い噂が絶えない人物だ。
 血の繋がりがないとはいえ、ほぼ肉親に近い彼がすることにオリビアはいつも心を痛めていた。

 結婚する相手もそうなってしまうのだろうか。
 あと半年も時間がないというのに、彼女の心にはいつも大きな暗雲が渦巻いている。

 しかし今はそんなことを考えている時ではない。

「髪型はどうなさいますか? いつものようにベールを?」
「公的な立場で参加しているから、それは仕方ないわね。王都の貴族令嬢たちのような華やかなドレス、いつになったら着れるのかしら」

 ホテルに到着して、スイートルームに移動するまでの短い間、エレベーターの中でみた彼女たちは、彩り豊かで冬の時期だというのに背中も肩も出し、緩やかに波間を作る薄い生地が重なったスカートの裾は、驚くことに膝上だった。

 早く歩けば太ももが見えてしまいそうなほどだ。
 戒律の厳しい神殿において、聖女の着る服は行事によって数種類バリエーションがあるものの、そのデザインはほとんど同じ。

 藍色のワンピースドレスを着て、その上から季節ごとに薄かったり分厚い生地のローブを羽織り、顔を黒いベールで隠さなくてはならない。

 肌が見えることは悪いこととされて、わずかに覗くのは首筋程度。
 スカートの裾はくるぶしほどまであり、両手にはいつもレースの長手袋をつけている。

 唯一おしゃれができるとしたら、帽子ぐらいなのだろうか。
 しかしそれも外出する時のみであり、宝冠と呼ばれる額飾りと短い銀鎖がその下にはいつも輝いていて、ベールで素顔を覆うことが、誰か人と会う時の正装とされた。

 今でもそうだ。後は顔をベールで覆うだけ。
 この覆いを勝手にめくることができる他人は、いまのような身の回りの世話をしてくれる侍女か、夫のみ。

 ニコスが手を触れただけで、大問題になりそうなほど、オリビアは古臭い因習に縛られている。
 彼女の普通が、一般世間でいうところの普通に近づくには、もう少し時間がかかりそうだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

少し先の未来が見える侯爵令嬢〜婚約破棄されたはずなのに、いつの間にか王太子様に溺愛されてしまいました。

ウマノホネ
恋愛
侯爵令嬢ユリア・ローレンツは、まさに婚約破棄されようとしていた。しかし、彼女はすでにわかっていた。自分がこれから婚約破棄を宣告されることを。 なぜなら、彼女は少し先の未来をみることができるから。 妹が仕掛けた冤罪により皆から嫌われ、婚約破棄されてしまったユリア。 しかし、全てを諦めて無気力になっていた彼女は、王国一の美青年レオンハルト王太子の命を助けることによって、運命が激変してしまう。 この話は、災難続きでちょっと人生を諦めていた彼女が、一つの出来事をきっかけで、クールだったはずの王太子にいつの間にか溺愛されてしまうというお話です。 *小説家になろう様からの転載です。

婚約者に妹を紹介したら、美人な妹の方と婚約したかったと言われたので、譲ってあげることにいたしました

奏音 美都
恋愛
「こちら、妹のマリアンヌですわ」  妹を紹介した途端、私のご婚約者であるジェイコブ様の顔つきが変わったのを感じました。 「マリアンヌですわ。どうぞよろしくお願いいたします、お義兄様」 「ど、どうも……」  ジェイコブ様が瞳を大きくし、マリアンヌに見惚れています。ジェイコブ様が私をチラッと見て、おっしゃいました。 「リリーにこんな美しい妹がいたなんて、知らなかったよ。婚約するなら妹君の方としたかったなぁ、なんて……」 「分かりましたわ」  こうして私のご婚約者は、妹のご婚約者となったのでした。

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。

藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった…… 結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。 ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。 愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。 *設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 *全16話で完結になります。 *番外編、追加しました。

婚約破棄されたので、契約不履行により、秘密を明かします

tartan321
恋愛
婚約はある種の口止めだった。 だが、その婚約が破棄されてしまった以上、効力はない。しかも、婚約者は、悪役令嬢のスーザンだったのだ。 「へへへ、全部話しちゃいますか!!!」 悪役令嬢っぷりを発揮します!!!

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

処理中です...