上 下
1 / 9

辺境伯アレクセイ

しおりを挟む
 辺境伯。
 国や地域によってその役割は異なるが、大きく変わらないものがある。
 それは、ある程度の自治権を有し、他国と隣接する重要な国境を守る領地を託されること。
 パルシェスト王国の北部地域の統治を国王より託された彼にとって、その領地を死守することがそれまでの生き甲斐だった。

 数世代にわたりこの土地を守ってきた自負もある。
 祖先たちは皆、偉大な武人だったように思う。事実、誇りに思っている。
 幼い頃から騎士の叙勲式を受ける十六歳まで資源国家ロイデンに留学した彼は、当時のロイデン王国宮廷魔導師長から、魔法の真髄を習った。

 十六歳から生まれ故郷に戻り、それから同盟国にまだなっていなかった、獣人国家群との戦いに明け暮れた。
 すべて王国のため、だ。
 ロイデン留学はこのパルシェストの貴族にとって、ある種の憧れでもあった。
 おおよそ魔力の少ない国民の中で、魔法国家と呼ばれるロイデンの、その魔法文化の中心で学ぶことができるからだ。

 彼と共に留学し、戻ってきた者たちは、王都の社交界の後にカードを楽しむと称して、その友好を深めていった。
 それもこの国の為、国民の未来の為、そして――諸外国がこぞって信仰する女神様の根拠地を、その栄光を守るため。
 どれもがそのために集約し、そして、戦いもまた、そのために行われていた。
 同じ女神教を信仰していながら、文化や種族の違いというだけで、理解しあえないという現実を、彼は不可思議なことと受け止めていた。

 心の拠り所が同じならば、それは見えないだけで一つの共通項ではないか、と考えたのだ。 
 しかし、これまで千年近く続いてきた騒乱と小競り合いから生まれた憎しみの炎は、そうそう簡単に消えることはない。

 何かもっと強い拠り所があってくれれば世界は一変してもおかしくないな。
 戦いに明け暮れて心まで削り取られてしまい、誰しもが疲れ果てた頃。
 みんなが心のどこかで待ち望んだその存在が、誕生する。
 戦女神ラフィネの神託を受けた、数世紀ぶりの『本物』の聖女の誕生である。

 マルゴット・エル・シフォンという、甘いお菓子のような名を持つその女児は、神殿のなかで育てられた聖女候補だった。
 四百年ほど前に最後の神託が下って以降、本当の意味での聖女は生まれてこなかった。
 みな、魔力量の多さや、その質の良さから選ばれた、次点での聖女だった。
 神殿は王国の中枢とつながり、聖女となった女性は国母となったときから、次代にそれを譲り渡す。
 そんな特定の権力層が確立した特権階級の仕組みを、まるでぶち壊すかのように、マルゴットは神託により選ばれた。

 それからのことだ。
 戦女神を信奉する多くの国々が王国と同盟を結び、さらには戦いの矛先を大森林の向こう側にいる竜族や魔族へと向けようとしていた。
 その頃には亡夫の跡を継いでグレイスター辺境伯を名乗ることになった青年は、これを追い風として長年の悲願だった、獣人族たちとの和平交渉を成立させる。

 しかし、それは彼の名声を高めるどころか、聖女様の恩恵を受けその尻馬に乗っただけの、単なる偶然として中央では讃えられることはなかった。
 いつも眠たそうにしていて、ろくに社交界の夜会に顔も出さない、田舎貴族。

 赤銅色の肌と真紅の瞳、栗色の髪を持つ偉丈夫。
 その瞳の色から、魔族の係累かと疑われたことはこれまでの生涯においていとまがない。
 グレイスター辺境伯アレクセイ・スヴェンソンへの周囲の評価はおおむね、そんな感じに低かった。
 そして彼もまた爵位に見合った行動を取れ、なんて言われるのが億劫だったので、無能を演じることに徹してきた。
 そんな彼にも、秘めたる女性への想いはあったのである。

 しばらく前に行われた王都の夜会で、あの聖女マルゴットと対面したときのことだ。
 自分と同じ栗色の髪、肌の色は白く、瞳の色は湖の底のように透き通った緑。
 女性にしては長身の彼女は容姿も雰囲気もしゃべり方も、声の大きさからその仕草の端々に至るまで、彼にとって生涯で初めて出会う、完璧な女性だった。

 しかし、その時は彼女にその淡い思いを気取られまいと、わざとぶっきらぼうに喋って怒らせてしまった。
 いつか謝ろうと考えながら、その機会は未だ与えられず。
 女神ラフィネにどうかもう一度彼女の笑顔を見るだけでも、と願わなかった日はない。

 だが、その思いはずっと胸に秘めてきた。
 なぜなら、マルゴットは聖女で、聖女は次期国母で、彼女にはあまり噂の良くない第一王子というれっきとした婚約者がいたからだ。

 その間に挟まって都合よく彼女を掠め取ろうなんて浅ましい考えは彼にはなかった。
 せめて彼女が生涯に渡って幸せでいてくれるなら、あの辺境の地を彼女の為に守り抜くことも悪くないと思えたほどだ。
 とはいえ祖先から代々、収めてきたあの辺境伯領は他の人間の手には負えない、ある問題がある。
 それは、二週間としてあの土地を離れては生きていけない代々の当主が背負う呪い、そのものでもある。
 だから自分はここで朽ち果てようと思っていた。

 平均寿命が六十歳に近いこの国で、自分はもうそのほぼ半分を生きたことになる。
 今更、妻を娶るのはためらわれた。
 どう考えても、自分の方がさきに女神様の足元に呼ばれることになるからだ。
 それならば、一族のなかから都合の良い誰かを養子に取って跡を継がせようと考えていた。
 そんな矢先。
 文字通り天空から雷が舞い降り、彼の人生を一変させるできごとが起こってしまった。

 あの婚約破棄宣言、その後に。
 まさしくその後に、だ。

「マルゴット・エル・シフォン」
 約一月ぶりに王宮に参内したら、どこかで訊いた声と忘れられないあの人の名前が響いてきた。
「はいはい、なんでございましょうか、殿下」

 呆れたように、どこかのんびりとした口調で、返事をするご婦人の声。
 まだ朝早くだからか、その声にはいつもの張りがなかったが、間違いない。
 聖女様の声だ。
 相手は誰だ?
 こんな早朝から、王宮と神殿の合間の通路で、誰が聖女様を呼び捨てにしている。

 王族不敬罪で文字通り首がとぶ。
 聞いているこっちのほうまでその罪が及びそうで、眉をひそめる。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

聖女はただ微笑む ~聖女が嫌がらせをしていると言われたが、本物の聖女には絶対にそれができなかった~

アキナヌカ
恋愛
私はシュタルクという大神官で聖女ユエ様にお仕えしていた、だがある日聖女ユエ様は婚約者である第一王子から、本物の聖女に嫌がらせをする偽物だと言われて国外追放されることになった。私は聖女ユエ様が嫌がらせなどするお方でないと知っていた、彼女が潔白であり真の聖女であることを誰よりもよく分かっていた。

悪役令嬢は断罪イベントから逃げ出してのんびり暮らしたい

花見 有
恋愛
乙女ゲームの断罪エンドしかない悪役令嬢リスティアに転生してしまった。どうにか断罪イベントを回避すべく努力したが、それも無駄でどうやら断罪イベントは決行される模様。 仕方がないので最終手段として断罪イベントから逃げ出します!

殿下をくださいな、お姉さま~欲しがり過ぎた妹に、姉が最後に贈ったのは死の呪いだった~

和泉鷹央
恋愛
 忌み子と呼ばれ、幼い頃から実家のなかに閉じ込められたいた少女――コンラッド伯爵の長女オリビア。  彼女は生まれながらにして、ある呪いを受け継いだ魔女だった。  本当ならば死ぬまで屋敷から出ることを許されないオリビアだったが、欲深い国王はその呪いを利用して更に国を豊かにしようと考え、第四王子との婚約を命じる。    この頃からだ。  姉のオリビアに婚約者が出来た頃から、妹のサンドラの様子がおかしくなった。  あれが欲しい、これが欲しいとわがままを言い出したのだ。  それまではとても物わかりのよい子だったのに。  半年後――。  オリビアと婚約者、王太子ジョシュアの結婚式が間近に迫ったある日。  サンドラは呆れたことに、王太子が欲しいと言い出した。  オリビアの我慢はとうとう限界に達してしまい……  最後はハッピーエンドです。  別の投稿サイトでも掲載しています。

婚約破棄され聖女も辞めさせられたので、好きにさせていただきます。

松石 愛弓
恋愛
国を守る聖女で王太子殿下の婚約者であるエミル・ファーナは、ある日突然、婚約破棄と国外追放を言い渡される。 全身全霊をかけて国の平和を祈り続けてきましたが、そういうことなら仕方ないですね。休日も無く、責任重すぎて大変でしたし、王太子殿下は思いやりの無い方ですし、王宮には何の未練もございません。これからは自由にさせていただきます♪

義妹に婚約者を寝取られた病弱令嬢、幼馴染の公爵様に溺愛される

つくも
恋愛
病弱な令嬢アリスは伯爵家の子息カルロスと婚約していた。 しかし、アリスが病弱な事を理由ににカルロスに婚約破棄され、義妹アリシアに寝取られてしまう。 途方に暮れていたアリスを救ったのは幼馴染である公爵様だった。二人は婚約する事に。 一方その頃、カルロスは義妹アリシアの我儘っぷりに辟易するようになっていた。 頭を抱えるカルロスはアリスの方がマシだったと嘆き、復縁を迫るが……。 これは病弱な令嬢アリスが幼馴染の公爵様と婚約し、幸せになるお話です。

私を追い出した結果、飼っていた聖獣は誰にも懐かないようです

天宮有
恋愛
 子供の頃、男爵令嬢の私アミリア・ファグトは助けた小犬が聖獣と判明して、飼うことが決まる。  数年後――成長した聖獣は家を守ってくれて、私に一番懐いていた。  そんな私を妬んだ姉ラミダは「聖獣は私が拾って一番懐いている」と吹聴していたようで、姉は侯爵令息ケドスの婚約者になる。  どうやらラミダは聖獣が一番懐いていた私が邪魔なようで、追い出そうと目論んでいたようだ。  家族とゲドスはラミダの嘘を信じて、私を蔑み追い出そうとしていた。

婚約破棄されました。あとは知りません

天羽 尤
恋愛
聖ラクレット皇国は1000年の建国の時を迎えていた。 皇国はユーロ教という宗教を国教としており、ユーロ教は魔力含有量を特に秀でた者を巫女として、唯一神であるユーロの従者として大切に扱っていた。 聖ラクレット王国 第一子 クズレットは婚約発表の席でとんでもない事を告げたのだった。 「ラクレット王国 王太子 クズレットの名の下に 巫女:アコク レイン を国外追放とし、婚約を破棄する」 その時… ---------------------- 初めての婚約破棄ざまぁものです。 --------------------------- お気に入り登録200突破ありがとうございます。 ------------------------------- 【著作者:天羽尤】【無断転載禁止】【以下のサイトでのみ掲載を認めます。これ以外は無断転載です〔小説家になろう/カクヨム/アルファポリス/マグネット〕】

第一夫人が何もしないので、第二夫人候補の私は逃げ出したい

マルローネ
恋愛
伯爵令嬢のリドリー・アップルは、ソドム・ゴーリキー公爵と婚約することになった。彼との結婚が成立すれば、第二夫人という立場になる。 しかし、第一夫人であるミリアーヌは子作りもしなければ、夫人としての仕事はメイド達に押し付けていた。あまりにも何もせず、我が儘だけは通し、リドリーにも被害が及んでしまう。 ソドムもミリアーヌを叱責することはしなかった為に、リドリーは婚約破棄をしてほしいと申し出る。だが、そんなことは許されるはずもなく……リドリーの婚約破棄に向けた活動は続いていく。 そんな時、リドリーの前には救世主とも呼べる相手が現れることになり……。

処理中です...