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辺境伯アレクセイ
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辺境伯。
国や地域によってその役割は異なるが、大きく変わらないものがある。
それは、ある程度の自治権を有し、他国と隣接する重要な国境を守る領地を託されること。
パルシェスト王国の北部地域の統治を国王より託された彼にとって、その領地を死守することがそれまでの生き甲斐だった。
数世代にわたりこの土地を守ってきた自負もある。
祖先たちは皆、偉大な武人だったように思う。事実、誇りに思っている。
幼い頃から騎士の叙勲式を受ける十六歳まで資源国家ロイデンに留学した彼は、当時のロイデン王国宮廷魔導師長から、魔法の真髄を習った。
十六歳から生まれ故郷に戻り、それから同盟国にまだなっていなかった、獣人国家群との戦いに明け暮れた。
すべて王国のため、だ。
ロイデン留学はこのパルシェストの貴族にとって、ある種の憧れでもあった。
おおよそ魔力の少ない国民の中で、魔法国家と呼ばれるロイデンの、その魔法文化の中心で学ぶことができるからだ。
彼と共に留学し、戻ってきた者たちは、王都の社交界の後にカードを楽しむと称して、その友好を深めていった。
それもこの国の為、国民の未来の為、そして――諸外国がこぞって信仰する女神様の根拠地を、その栄光を守るため。
どれもがそのために集約し、そして、戦いもまた、そのために行われていた。
同じ女神教を信仰していながら、文化や種族の違いというだけで、理解しあえないという現実を、彼は不可思議なことと受け止めていた。
心の拠り所が同じならば、それは見えないだけで一つの共通項ではないか、と考えたのだ。
しかし、これまで千年近く続いてきた騒乱と小競り合いから生まれた憎しみの炎は、そうそう簡単に消えることはない。
何かもっと強い拠り所があってくれれば世界は一変してもおかしくないな。
戦いに明け暮れて心まで削り取られてしまい、誰しもが疲れ果てた頃。
みんなが心のどこかで待ち望んだその存在が、誕生する。
戦女神ラフィネの神託を受けた、数世紀ぶりの『本物』の聖女の誕生である。
マルゴット・エル・シフォンという、甘いお菓子のような名を持つその女児は、神殿のなかで育てられた聖女候補だった。
四百年ほど前に最後の神託が下って以降、本当の意味での聖女は生まれてこなかった。
みな、魔力量の多さや、その質の良さから選ばれた、次点での聖女だった。
神殿は王国の中枢とつながり、聖女となった女性は国母となったときから、次代にそれを譲り渡す。
そんな特定の権力層が確立した特権階級の仕組みを、まるでぶち壊すかのように、マルゴットは神託により選ばれた。
それからのことだ。
戦女神を信奉する多くの国々が王国と同盟を結び、さらには戦いの矛先を大森林の向こう側にいる竜族や魔族へと向けようとしていた。
その頃には亡夫の跡を継いでグレイスター辺境伯を名乗ることになった青年は、これを追い風として長年の悲願だった、獣人族たちとの和平交渉を成立させる。
しかし、それは彼の名声を高めるどころか、聖女様の恩恵を受けその尻馬に乗っただけの、単なる偶然として中央では讃えられることはなかった。
いつも眠たそうにしていて、ろくに社交界の夜会に顔も出さない、田舎貴族。
赤銅色の肌と真紅の瞳、栗色の髪を持つ偉丈夫。
その瞳の色から、魔族の係累かと疑われたことはこれまでの生涯においていとまがない。
グレイスター辺境伯アレクセイ・スヴェンソンへの周囲の評価はおおむね、そんな感じに低かった。
そして彼もまた爵位に見合った行動を取れ、なんて言われるのが億劫だったので、無能を演じることに徹してきた。
そんな彼にも、秘めたる女性への想いはあったのである。
しばらく前に行われた王都の夜会で、あの聖女マルゴットと対面したときのことだ。
自分と同じ栗色の髪、肌の色は白く、瞳の色は湖の底のように透き通った緑。
女性にしては長身の彼女は容姿も雰囲気もしゃべり方も、声の大きさからその仕草の端々に至るまで、彼にとって生涯で初めて出会う、完璧な女性だった。
しかし、その時は彼女にその淡い思いを気取られまいと、わざとぶっきらぼうに喋って怒らせてしまった。
いつか謝ろうと考えながら、その機会は未だ与えられず。
女神ラフィネにどうかもう一度彼女の笑顔を見るだけでも、と願わなかった日はない。
だが、その思いはずっと胸に秘めてきた。
なぜなら、マルゴットは聖女で、聖女は次期国母で、彼女にはあまり噂の良くない第一王子というれっきとした婚約者がいたからだ。
その間に挟まって都合よく彼女を掠め取ろうなんて浅ましい考えは彼にはなかった。
せめて彼女が生涯に渡って幸せでいてくれるなら、あの辺境の地を彼女の為に守り抜くことも悪くないと思えたほどだ。
とはいえ祖先から代々、収めてきたあの辺境伯領は他の人間の手には負えない、ある問題がある。
それは、二週間としてあの土地を離れては生きていけない代々の当主が背負う呪い、そのものでもある。
だから自分はここで朽ち果てようと思っていた。
平均寿命が六十歳に近いこの国で、自分はもうそのほぼ半分を生きたことになる。
今更、妻を娶るのはためらわれた。
どう考えても、自分の方がさきに女神様の足元に呼ばれることになるからだ。
それならば、一族のなかから都合の良い誰かを養子に取って跡を継がせようと考えていた。
そんな矢先。
文字通り天空から雷が舞い降り、彼の人生を一変させるできごとが起こってしまった。
あの婚約破棄宣言、その後に。
まさしくその後に、だ。
「マルゴット・エル・シフォン」
約一月ぶりに王宮に参内したら、どこかで訊いた声と忘れられないあの人の名前が響いてきた。
「はいはい、なんでございましょうか、殿下」
呆れたように、どこかのんびりとした口調で、返事をするご婦人の声。
まだ朝早くだからか、その声にはいつもの張りがなかったが、間違いない。
聖女様の声だ。
相手は誰だ?
こんな早朝から、王宮と神殿の合間の通路で、誰が聖女様を呼び捨てにしている。
王族不敬罪で文字通り首がとぶ。
聞いているこっちのほうまでその罪が及びそうで、眉をひそめる。
国や地域によってその役割は異なるが、大きく変わらないものがある。
それは、ある程度の自治権を有し、他国と隣接する重要な国境を守る領地を託されること。
パルシェスト王国の北部地域の統治を国王より託された彼にとって、その領地を死守することがそれまでの生き甲斐だった。
数世代にわたりこの土地を守ってきた自負もある。
祖先たちは皆、偉大な武人だったように思う。事実、誇りに思っている。
幼い頃から騎士の叙勲式を受ける十六歳まで資源国家ロイデンに留学した彼は、当時のロイデン王国宮廷魔導師長から、魔法の真髄を習った。
十六歳から生まれ故郷に戻り、それから同盟国にまだなっていなかった、獣人国家群との戦いに明け暮れた。
すべて王国のため、だ。
ロイデン留学はこのパルシェストの貴族にとって、ある種の憧れでもあった。
おおよそ魔力の少ない国民の中で、魔法国家と呼ばれるロイデンの、その魔法文化の中心で学ぶことができるからだ。
彼と共に留学し、戻ってきた者たちは、王都の社交界の後にカードを楽しむと称して、その友好を深めていった。
それもこの国の為、国民の未来の為、そして――諸外国がこぞって信仰する女神様の根拠地を、その栄光を守るため。
どれもがそのために集約し、そして、戦いもまた、そのために行われていた。
同じ女神教を信仰していながら、文化や種族の違いというだけで、理解しあえないという現実を、彼は不可思議なことと受け止めていた。
心の拠り所が同じならば、それは見えないだけで一つの共通項ではないか、と考えたのだ。
しかし、これまで千年近く続いてきた騒乱と小競り合いから生まれた憎しみの炎は、そうそう簡単に消えることはない。
何かもっと強い拠り所があってくれれば世界は一変してもおかしくないな。
戦いに明け暮れて心まで削り取られてしまい、誰しもが疲れ果てた頃。
みんなが心のどこかで待ち望んだその存在が、誕生する。
戦女神ラフィネの神託を受けた、数世紀ぶりの『本物』の聖女の誕生である。
マルゴット・エル・シフォンという、甘いお菓子のような名を持つその女児は、神殿のなかで育てられた聖女候補だった。
四百年ほど前に最後の神託が下って以降、本当の意味での聖女は生まれてこなかった。
みな、魔力量の多さや、その質の良さから選ばれた、次点での聖女だった。
神殿は王国の中枢とつながり、聖女となった女性は国母となったときから、次代にそれを譲り渡す。
そんな特定の権力層が確立した特権階級の仕組みを、まるでぶち壊すかのように、マルゴットは神託により選ばれた。
それからのことだ。
戦女神を信奉する多くの国々が王国と同盟を結び、さらには戦いの矛先を大森林の向こう側にいる竜族や魔族へと向けようとしていた。
その頃には亡夫の跡を継いでグレイスター辺境伯を名乗ることになった青年は、これを追い風として長年の悲願だった、獣人族たちとの和平交渉を成立させる。
しかし、それは彼の名声を高めるどころか、聖女様の恩恵を受けその尻馬に乗っただけの、単なる偶然として中央では讃えられることはなかった。
いつも眠たそうにしていて、ろくに社交界の夜会に顔も出さない、田舎貴族。
赤銅色の肌と真紅の瞳、栗色の髪を持つ偉丈夫。
その瞳の色から、魔族の係累かと疑われたことはこれまでの生涯においていとまがない。
グレイスター辺境伯アレクセイ・スヴェンソンへの周囲の評価はおおむね、そんな感じに低かった。
そして彼もまた爵位に見合った行動を取れ、なんて言われるのが億劫だったので、無能を演じることに徹してきた。
そんな彼にも、秘めたる女性への想いはあったのである。
しばらく前に行われた王都の夜会で、あの聖女マルゴットと対面したときのことだ。
自分と同じ栗色の髪、肌の色は白く、瞳の色は湖の底のように透き通った緑。
女性にしては長身の彼女は容姿も雰囲気もしゃべり方も、声の大きさからその仕草の端々に至るまで、彼にとって生涯で初めて出会う、完璧な女性だった。
しかし、その時は彼女にその淡い思いを気取られまいと、わざとぶっきらぼうに喋って怒らせてしまった。
いつか謝ろうと考えながら、その機会は未だ与えられず。
女神ラフィネにどうかもう一度彼女の笑顔を見るだけでも、と願わなかった日はない。
だが、その思いはずっと胸に秘めてきた。
なぜなら、マルゴットは聖女で、聖女は次期国母で、彼女にはあまり噂の良くない第一王子というれっきとした婚約者がいたからだ。
その間に挟まって都合よく彼女を掠め取ろうなんて浅ましい考えは彼にはなかった。
せめて彼女が生涯に渡って幸せでいてくれるなら、あの辺境の地を彼女の為に守り抜くことも悪くないと思えたほどだ。
とはいえ祖先から代々、収めてきたあの辺境伯領は他の人間の手には負えない、ある問題がある。
それは、二週間としてあの土地を離れては生きていけない代々の当主が背負う呪い、そのものでもある。
だから自分はここで朽ち果てようと思っていた。
平均寿命が六十歳に近いこの国で、自分はもうそのほぼ半分を生きたことになる。
今更、妻を娶るのはためらわれた。
どう考えても、自分の方がさきに女神様の足元に呼ばれることになるからだ。
それならば、一族のなかから都合の良い誰かを養子に取って跡を継がせようと考えていた。
そんな矢先。
文字通り天空から雷が舞い降り、彼の人生を一変させるできごとが起こってしまった。
あの婚約破棄宣言、その後に。
まさしくその後に、だ。
「マルゴット・エル・シフォン」
約一月ぶりに王宮に参内したら、どこかで訊いた声と忘れられないあの人の名前が響いてきた。
「はいはい、なんでございましょうか、殿下」
呆れたように、どこかのんびりとした口調で、返事をするご婦人の声。
まだ朝早くだからか、その声にはいつもの張りがなかったが、間違いない。
聖女様の声だ。
相手は誰だ?
こんな早朝から、王宮と神殿の合間の通路で、誰が聖女様を呼び捨てにしている。
王族不敬罪で文字通り首がとぶ。
聞いているこっちのほうまでその罪が及びそうで、眉をひそめる。
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