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あなたに捧げられるもの

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 桜が感じた仄暗さは間違いだったのかもしれない。
 安堵しながらも残る違和感に気づかないほど、桜は今困っていた。


「口を開けてごらん」
「……あの、ちょっと今は食欲が……」

 さすがに嫌だ。

 物を食べさせるのは、非常に親密な行為だ。
 少なくとも人前で行うことではない。
 粥をすくった匙を差し出す帝にひたすら困っていると、「だめか」と彼は残念そうに匙を椀に戻した。

「一度看病というものをしてみたかったんだがな」
「看病というのなら困らせないことです。嫁入り前の姫君に何てことをなさるのですか」

 新しく桜の側付きの女官となった芙蓉が帝を嗜める。
 彼女は元々帝の乳母を務めた女性だ。皇后候補の桜につくには少し位が高く、また帝に近すぎる。帝が桜を大事にしている、との話を裏付けるかのような人選だった。
 事実、帝は桜を寵愛しているらしい、との噂が大きく広がっているらしい。

 芙蓉の言葉にわかったわかったと両手を挙げて、帝は苦笑いして。

「全くうるさくてかなわない。橘以外、全員下がれ」

 芙蓉がじっと帝を見つめ「くれぐれもおかしなことはなさいませんように」と念押しして部屋を出た。
 その背中を見送ると、「芙蓉がいると面倒だな」と顔を顰める。

「それでは口直しに物語でも聞くとしよう。橘、何か話をしてくれないか」
「……俺ですか?」
「そうだ」

 急に話を振られた橘が苦笑して桜を見た。

「何か聞きたい話はありますか?」

「それなら、言い伝えについて知りたい。ただのお伽話だと思っていたのだけど、あれは史実なの?」

 言い伝えの帝が当てられた黒龍の瘴気とは、龍花の毒。それを聞いてからずっと気になっていた事なのだ。

「千年ほど前に実際に有った話だと伝えられております」
「では花の女神や四獣や黒龍も、いたのかしら」

 弓の試練で白萩が言っていたことを思い出す。桜は花の女神の生まれ変わりと噂をされている。そして、黒龍も生まれ変わっているのではと。そもそも存在したと思っていなかった桜には、随分突飛な話に聞こえた。

「原型となった人物はいたと思いますが、なにぶん千年前の事ですから。ただ脚色されていることは間違いありません。実際の事実は、今伝えられている内容とは全く違うという可能性さえあります」
「まあ、そうよね。女神や人に変わる獣がいるわけがないもの」

 史実は伝える人の都合の良いように変えられる物だと聞いたことがある。

「当時の帝が、花の女神と伝えられている女性をとても愛していたのかもしれない。だから大好きな女性をより讃えるために女神と言ったのかな。それなら黒龍は、大陸から来たというし、大陸の使者?帝に近づける方といったら高位の方よね。それが帝に毒を盛り、女神の武士が倒して、癒した。……戦争にならなかったのかしら」
「当時戦争があったとは伝えられていませんが、どうでしょうね」
「花の女神は蝋梅さまのような不思議な力を持っていたのかな、じゃなければ癒せないものね」


「楽しそうだな」

 言い伝えの話で盛り上がる桜を見て、帝は目を細めている。
 かと思えば少し遠くを見るように御簾の向こうの庭を見て、少しだけ外に出る、と言ってそのまま庭に出てしまった。

「お疲れなのかしら」

 帝の背中を眺めながら桜が呟くと、橘が頷いた。

「桜花さまに会う時間を作るために、公務を詰め込んでいらっしゃいますよ。……大事にされていらっしゃいますね」

「そうね。大事にして頂いてるわ」
「あなたの努力が報われて、嬉しく思います」
「そうよね。私も嬉しい」

 橘が喜んでくれるなら。

 胸が疼く。
 毒に侵された時とは違い明瞭な頭では、この胸の疼きの正体を誤魔化すことはできなかった。

 この宮中で静養している間、考える時間だけはたくさんあった。

 桜が飲んだ毒は、一番辛い記憶が毎晩悪夢として蘇る。
 桜を毎晩苦しめた夢は、橘に『もう会わない』と言われた記憶だった。あれが桜の人生最大の悪夢だ。

 目を覚ました時に聞いた『桜』と呼ぶ掠れた声を思い出す。倒れる寸前に香った懐かしい匂いにも、抱き止められた腕の感触も。胸が痛くなるほど、何度も思い返した。すり減ったらどうしようかと思いながら。

 本当はずっと、大好きだった。
 それは今でも。

 気付きたくなかったなとぼんやり帝の背中を見ていると、「……ずっと後悔していました」と橘の声が降ってきた。
 見上げると、どこか痛いのを堪えているような顔で桜をじっと見つめている。

「八年前、あなたを傷つけてしまったことを」

 きりっと心臓が痛くなった。

「あの時、……可愛い妹のような桜花様が皇后候補になると聞いて、動転してしまいました。あなたを一人にすべきではなかったのに」

 驚きで震えながら口を開いた。

「私は、あなたから……蔑まれていたのかと思ってた。私の母が、妾で平民だから」
「……そう思わせてしまっていたのか」

 悲痛な顔の橘が、あなたを蔑んだことなど一度もない、と絞り出すような声で言った。それから何度も、申し訳なかった、と謝られた。

(橘は私を蔑んだりしていなかった)

 やっぱり、彼はずっと優しいままだった。私を嫌いになったわけじゃなかったんだ。涙が出そうで、堪えるのでいっぱいだった。
 桜とは違う種類の気持ちでも、今も昔も大事にしてもらえている。今もなお、八年前のことを悔やむくらいには。

「橘が私の武士で良かった。そばで助けてくれてありがとう」

そう言うと橘は泣きそうな顔で笑った。

「あなたなら良い皇后になれると思います」
「なるわ。あなたが自慢に思えるくらい」


罪悪感に縛られている彼を、早く解放してあげなくちゃと強く思った。

(皇后になって、立派にこなして、幸せそうに笑う姿を見せるんだ)


そうしたらきっと彼は、自由になれる。


大好きでたまらない橘にあげられるものなんて、桜にはそれしかなかった。





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