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第四十五話 婚約破棄と追放と、悪役令嬢の決心
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――婚約破棄からの破滅。
その事態に陥らないために私は何年もアイリーンと一緒にやってきたはずだった。彼女のワガママに振り回され続けていたけれど、それでも。
悪夢に追いつかれてしまったとでもいうのだろうか。
婚約破棄を告げられた瞬間、思考に空白ができて。それから数秒かかってやっとその意味を呑み込み……目の前が真っ暗になった。
「……何よ、それ。おかしい。そんなのおかしいわ。だってここにはファブリス殿下がいないじゃない」
「本人はおらずとも手続きはできる。これを見れば、説明など不要だろう」
差し出されるのは一枚の書類。
名前の欄は二つ。そのうち一つは空欄だ。
でも、もう一つは。
「――ぁ」
ファブリス王子の名が記されていた。
それも、彼との勉強会の時に見せてもらったノートにあったのと同じ筆跡で。
アイリーンはそれをまじまじと見つめ、それからグシャリと握りつぶした。
「このままライセット家まで送るつもりであったが、国王たる余への侮辱と暴行により、隣国への追放処分とする。良いな?」
衝撃があまりに大き過ぎたせいか私もアイリーンも何も言えない。
警備兵に両脇を固められ、またしてもなすすべがなかった。
しかし意外なことに、メアリが声を上げた。
「ま、待って、待ってください……!」
彼女は何かを訴えかけてくるような必死な形相をしていた。
これで彼女は満足のはずだ。もしかするとまだやり残したことがあるのだろうか?
しかしこちらが問い返す前にすぐ満面の笑顔を浮かべて。
「さようなら、悪役令嬢さん。せいぜい良い旅をお過ごしくださいねぇ」
――なんとも胸糞の悪い、最悪の見送りをしてきたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
おぞましい獣たちの声があたりに響き渡っている。
北方の隣国へと繋がる街道。王宮からまだ半日ほどしか経っていないというのに、あたりはすっかり寂れ、人の気配が感じられないこの場所はまるで地獄のように感じられた。
最初はこちらを監視していた兵たちもやがてどこかへ行き、御者が一人いるばかり。
そんな寂しい中、先に口を開いたのはアイリーンだった。
「破滅なんて叩き潰してやろうと思っていたけれど、うまくいかないものね。わたくしとしたことがしくじったわ」
「……そうですね」
しくじった、だなんて、軽々しく言えるようなレベルの話ではないが。
「アイリーン様は、これでいいんですか」
「いいはずない。いいはず、ないでしょうが」
ぽた、ぽたと手の甲に冷たいものが落ちてきた。
……雨では、ない。それの正体に気づいて私は息を呑む。
直後、ずっと溜め込んでいたに違いない激情が、爆発した。
「でも、わたくしはファブリス殿下に捨てられたのよ!! アイ、あなたの言うことが正しかったわ! 最初からファブリス殿下の心を繋ぎ止めておくことなんてわたくしにはできなかった! わたくしに可愛げがないから!? わたくしがワガママだから!? ええ、そうでしょうね。どうせわたくしは淑女とはかけ離れている、ワガママでどうしようもない悪女よ!」
アイリーンは強いから泣かないと思っていた。
だってこの六年間、常に傍にいながら一度だってそんな姿を見てこなかったから。
でも彼女だって年頃の少女。傷つかなかったわけがない。
あれほどの仕打ちを受けて余裕ぶっていたのは、ただ強がっていただけなのだろうと気づいた。現に今も泣きじゃくりはしない。ただ涙をこぼすだけだ。
震える声で、彼女はぽつりと呟いた。
「あんたの妹の言うことが正しいなら、隣国に行って幸せになれるんでしょ。だけど、だから何だというの」
そこには静かな絶望と、諦めと、嘆きが込められている。
それがずっしりと私の心にも響いた。
おそらく、これは紫彩の書いた物語通りの展開なのだろう。
悪役令嬢は追放され、その先で新しい男と出会って、きっとハッピーエンドを迎える。元々そういう話だと彼女は言っていた。
(私たちの手で歪めてしまったシナリオが元に戻っただけかも知れない。でも――)
それでは二度とファブリス王子のあの輝かしい笑顔は拝めなくなってしまう。
そう思うとたまらなく胸が苦しくなった。
こんな気持ちになる原因はすぐにわかった。私も、そしてアイリーンも、きっと。
「――どうしてかしら。気づいたらいつの間にか、ファブリス殿下のことが好きになってたの。なよなよだし頼りない方だけれど、わたくしを認めてしっかり寄り添ってくれる。そのことがとても、とても……嬉しかったのかもね」
「アイリーン……」
「あの女はわたくしと違って可愛らしいから、結局ファブリス殿下も虜になった。あれほどピンク髪女に気をつけなさいって言ったのに! ずっとずっと、わたくしの方が長い時間一緒にいたのに!!
認められていたなんてただの勘違い。本当はファブリス殿下はわたくしのことなんて、愛しているどころか邪魔っけにしか思っていなかったんだわ」
「そんなことっ」
ない、とは断言できなかった。
だってもう、ファブリス王子とアイリーンの婚約は破棄されてしまっている。二人の関係はその程度のものだったのだと突きつけられたも同然なのだから。
「お父様やお母様だってそう。わたくしのことなんて、どうせ何とも思っていないわ。わたくしがファブリス殿下の婚約者だから家に置いていただけ。有用だから利用していただけ。友人たちも皆が皆、今のわたくしを見たらきっと呆れて笑って後ろ指を差し、道端に打ち捨てるでしょうよ」
普段の彼女からは信じられないほど、卑屈で自虐的な言葉をひとしきり吐き出したアイリーン。
それから、まるで今のは冗談だとばかりに口元を歪めた。
「らしくないことを言ったわね。今のは忘れなさい。命令よ」
おそらくこれは彼女なりのけじめ。もう二度と泣き言を漏らさないように、と。
前向きにならなければ、この先乗り越えていけない。全て終わってしまったことだ。
わかっている。わかっているけれど。
「忘れたりなんて、しません。だって私もファブリス王子が好きですから」
美し過ぎる見た目が好きだ。
アイリーンを誰よりも見てくれて、付き合ってくれる心根が好きだ。
私が涙ながらに全てを打ち明けて……あたたかい言葉をかけてくれた時に、私は彼に恋をした。
だがファブリス王子はアイリーンの婚約者。決して私のじゃない。
だからわざわざ自覚しようとも思わなかった。彼からの愛を望むこともしなかった。
そんな私だが、いや、私だからこそ思う。
たとえそこに恋情がなかったとしても、向けられた優しさが全部偽りだったなんて、そんなわけがないのだと。
『大丈夫だよ。――君のことは絶対に、命に代えても僕が守ってみせるから』
かつて告げられた彼の誓いを、私は信じたかった。
「もう一度聞きます。アイリーン様は、これでいいんですか。別れの挨拶も交わすことなく、隣国に追い結愛られてしまっていいんですか!」
アイリーンは答えない。
「私はそんなの、絶対に嫌っ!!」
アイリーンは答えない。でも、手の甲で涙を拭った。
アイリーンが立ち上がり、全力を拳に込めて窓を叩き破る。
そして――粉々に砕け散った窓ガラスが足やドレスに突き刺さるのも構わず、窓から身を乗り出した。
「決めたわ、アイ。振られるならきっちり振られましょ」
馬車から飛び出て、外へ転がり落ちる。
ここをただで抜けられるとは思えないけれど、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
「突っ切るわよ」
獣特有の匂いと命の危険が満ちる森を、猛然と駆け出した。
その事態に陥らないために私は何年もアイリーンと一緒にやってきたはずだった。彼女のワガママに振り回され続けていたけれど、それでも。
悪夢に追いつかれてしまったとでもいうのだろうか。
婚約破棄を告げられた瞬間、思考に空白ができて。それから数秒かかってやっとその意味を呑み込み……目の前が真っ暗になった。
「……何よ、それ。おかしい。そんなのおかしいわ。だってここにはファブリス殿下がいないじゃない」
「本人はおらずとも手続きはできる。これを見れば、説明など不要だろう」
差し出されるのは一枚の書類。
名前の欄は二つ。そのうち一つは空欄だ。
でも、もう一つは。
「――ぁ」
ファブリス王子の名が記されていた。
それも、彼との勉強会の時に見せてもらったノートにあったのと同じ筆跡で。
アイリーンはそれをまじまじと見つめ、それからグシャリと握りつぶした。
「このままライセット家まで送るつもりであったが、国王たる余への侮辱と暴行により、隣国への追放処分とする。良いな?」
衝撃があまりに大き過ぎたせいか私もアイリーンも何も言えない。
警備兵に両脇を固められ、またしてもなすすべがなかった。
しかし意外なことに、メアリが声を上げた。
「ま、待って、待ってください……!」
彼女は何かを訴えかけてくるような必死な形相をしていた。
これで彼女は満足のはずだ。もしかするとまだやり残したことがあるのだろうか?
しかしこちらが問い返す前にすぐ満面の笑顔を浮かべて。
「さようなら、悪役令嬢さん。せいぜい良い旅をお過ごしくださいねぇ」
――なんとも胸糞の悪い、最悪の見送りをしてきたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
おぞましい獣たちの声があたりに響き渡っている。
北方の隣国へと繋がる街道。王宮からまだ半日ほどしか経っていないというのに、あたりはすっかり寂れ、人の気配が感じられないこの場所はまるで地獄のように感じられた。
最初はこちらを監視していた兵たちもやがてどこかへ行き、御者が一人いるばかり。
そんな寂しい中、先に口を開いたのはアイリーンだった。
「破滅なんて叩き潰してやろうと思っていたけれど、うまくいかないものね。わたくしとしたことがしくじったわ」
「……そうですね」
しくじった、だなんて、軽々しく言えるようなレベルの話ではないが。
「アイリーン様は、これでいいんですか」
「いいはずない。いいはず、ないでしょうが」
ぽた、ぽたと手の甲に冷たいものが落ちてきた。
……雨では、ない。それの正体に気づいて私は息を呑む。
直後、ずっと溜め込んでいたに違いない激情が、爆発した。
「でも、わたくしはファブリス殿下に捨てられたのよ!! アイ、あなたの言うことが正しかったわ! 最初からファブリス殿下の心を繋ぎ止めておくことなんてわたくしにはできなかった! わたくしに可愛げがないから!? わたくしがワガママだから!? ええ、そうでしょうね。どうせわたくしは淑女とはかけ離れている、ワガママでどうしようもない悪女よ!」
アイリーンは強いから泣かないと思っていた。
だってこの六年間、常に傍にいながら一度だってそんな姿を見てこなかったから。
でも彼女だって年頃の少女。傷つかなかったわけがない。
あれほどの仕打ちを受けて余裕ぶっていたのは、ただ強がっていただけなのだろうと気づいた。現に今も泣きじゃくりはしない。ただ涙をこぼすだけだ。
震える声で、彼女はぽつりと呟いた。
「あんたの妹の言うことが正しいなら、隣国に行って幸せになれるんでしょ。だけど、だから何だというの」
そこには静かな絶望と、諦めと、嘆きが込められている。
それがずっしりと私の心にも響いた。
おそらく、これは紫彩の書いた物語通りの展開なのだろう。
悪役令嬢は追放され、その先で新しい男と出会って、きっとハッピーエンドを迎える。元々そういう話だと彼女は言っていた。
(私たちの手で歪めてしまったシナリオが元に戻っただけかも知れない。でも――)
それでは二度とファブリス王子のあの輝かしい笑顔は拝めなくなってしまう。
そう思うとたまらなく胸が苦しくなった。
こんな気持ちになる原因はすぐにわかった。私も、そしてアイリーンも、きっと。
「――どうしてかしら。気づいたらいつの間にか、ファブリス殿下のことが好きになってたの。なよなよだし頼りない方だけれど、わたくしを認めてしっかり寄り添ってくれる。そのことがとても、とても……嬉しかったのかもね」
「アイリーン……」
「あの女はわたくしと違って可愛らしいから、結局ファブリス殿下も虜になった。あれほどピンク髪女に気をつけなさいって言ったのに! ずっとずっと、わたくしの方が長い時間一緒にいたのに!!
認められていたなんてただの勘違い。本当はファブリス殿下はわたくしのことなんて、愛しているどころか邪魔っけにしか思っていなかったんだわ」
「そんなことっ」
ない、とは断言できなかった。
だってもう、ファブリス王子とアイリーンの婚約は破棄されてしまっている。二人の関係はその程度のものだったのだと突きつけられたも同然なのだから。
「お父様やお母様だってそう。わたくしのことなんて、どうせ何とも思っていないわ。わたくしがファブリス殿下の婚約者だから家に置いていただけ。有用だから利用していただけ。友人たちも皆が皆、今のわたくしを見たらきっと呆れて笑って後ろ指を差し、道端に打ち捨てるでしょうよ」
普段の彼女からは信じられないほど、卑屈で自虐的な言葉をひとしきり吐き出したアイリーン。
それから、まるで今のは冗談だとばかりに口元を歪めた。
「らしくないことを言ったわね。今のは忘れなさい。命令よ」
おそらくこれは彼女なりのけじめ。もう二度と泣き言を漏らさないように、と。
前向きにならなければ、この先乗り越えていけない。全て終わってしまったことだ。
わかっている。わかっているけれど。
「忘れたりなんて、しません。だって私もファブリス王子が好きですから」
美し過ぎる見た目が好きだ。
アイリーンを誰よりも見てくれて、付き合ってくれる心根が好きだ。
私が涙ながらに全てを打ち明けて……あたたかい言葉をかけてくれた時に、私は彼に恋をした。
だがファブリス王子はアイリーンの婚約者。決して私のじゃない。
だからわざわざ自覚しようとも思わなかった。彼からの愛を望むこともしなかった。
そんな私だが、いや、私だからこそ思う。
たとえそこに恋情がなかったとしても、向けられた優しさが全部偽りだったなんて、そんなわけがないのだと。
『大丈夫だよ。――君のことは絶対に、命に代えても僕が守ってみせるから』
かつて告げられた彼の誓いを、私は信じたかった。
「もう一度聞きます。アイリーン様は、これでいいんですか。別れの挨拶も交わすことなく、隣国に追い結愛られてしまっていいんですか!」
アイリーンは答えない。
「私はそんなの、絶対に嫌っ!!」
アイリーンは答えない。でも、手の甲で涙を拭った。
アイリーンが立ち上がり、全力を拳に込めて窓を叩き破る。
そして――粉々に砕け散った窓ガラスが足やドレスに突き刺さるのも構わず、窓から身を乗り出した。
「決めたわ、アイ。振られるならきっちり振られましょ」
馬車から飛び出て、外へ転がり落ちる。
ここをただで抜けられるとは思えないけれど、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
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