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【水の章:聖なる夜へ向けた計画】

4「これまでのすべてを紐解いた先で」

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 摩訶子は東側の廊下に出ると、死体を食堂へと引きずった血痕が生々しく残る廊下を進み、途中で倉庫に立ち寄った。其処で手持ちのランプとシャベルを二つずつ見つけて、続いて向かった先は館の裏庭だった。

 小高い丘を登った頂上――森蔵が埋葬された場所に、十字架を象った墓石が立てられている。体感的には遥か遠い日の出来事なのに、あれからまだ六日しか経っていないのだ……。皆が生きていたころ……俺が何も知らなかったころ……。

「最も効果的な場所を考えれば、きっと此処だ」

 ランプを墓石に引っ掛けて吊るし、摩訶子は地面を掘り始めた。墓暴きでもするかのようで感心しないけれど、何か意味があってのことなのだろう。俺も黙って、それに倣った。

 息が凍る……手がかじかむ……湿った土は重くて、掘り進むにつれて足場も悪くなる。

 それでも作業を止めずに、およそ六フィートを掘りきった。終いには二人共、すっかり泥まみれとなってしまった。

「棺を開けてくれるかい。目当ての品はその中にある」

 そう云われて、俺は釘付けされていた棺の蓋をシャベルでこじ開ける。堪らない臭気が舞い上がって、思わず鼻を塞ぎたくなった。森蔵は最後に見たときと、いくらか腐敗は進んでいたものの、格好そのものは変わらないそれで寝ていた。

 遺体を囲む大量のカーネーション。胸の上で組まれた手の上に、十字架とロザリオ。その他にも、腹の上に――俺には見覚えのない、原稿用紙の束が置かれている。

 まさかと思いつつ表紙を確認し、果たして『渦目摩訶子は明鏡止水』というその題名を目にした俺は、土の上にへたり込むしかなかった。

 一方の摩訶子は原稿を手に取ると、穴を這い上がって行く。ランプを吊るした墓石の傍で一枚一枚めくり始める。逆光になるため、その表情は窺えない。不必要な動作をしない彼女の影法師は、こうして見上げると機械的で不気味に感じられた。

 今夜は満月だ……星座が織り成す物語の中で、夜の女王は無慈悲に輝いている……。

「思ったとおりだよ、茶花くん」と、やがて原稿を確認し終えた彼女は云った。「これが初稿の完全版だ。私達が読んだ『~選択するペルセウス~』はここから複写されたものだな。『~あみだくじの殺人~』と『~バラバラにされた海獣~』も、事後に修正を施される前の状態で載っている。当然だね。棺の釘の痕を観察すれば、それが六日前の埋葬以降、一度も開けられなかったと分かる。この原稿も六日前に収められたきり、手を触れられていないということだ」

「どうして、此処にそんなものが隠されていると……?」

「先程述べたとおりさ。これが森蔵の作なのだと示すにあたって、此処より相応しい場所はない。それに館内であれば私も何度か注意して回っていたではないか」

「…………今、森蔵の作と云ったか?」

「もっとも、単に此処から発見されるだけでは証拠とはならないがね、これを見れば瞭然だよ。私達が読んだ原稿はどれもワープロ打ちされていたけれど、このオリジナル版はそうではない。森蔵は手書きでしか小説を執筆しないことを君も知っているね? 見たまえ、森蔵の字だと分かるはずだよ」

 ぬかるんだ土に足を取られながらも、俺は穴から這い出た。摩訶子から原稿を受け取って、書き連ねられた文字に目を走らせた。

「……でも、森蔵の文章らしくないぞ。描写が淡泊で、整理され過ぎている……ダーシをこんなに多用することもない」

「若いころの彼がこれに近い書き方をしていたよ。初稿というのも関係しているかも知れない。それにね、これは彼の遺作には違いないが、彼の小説としては書かれていないのだ」

「だけど…………」

 いや、反論するだけ無駄である。現に並んでいるのは森蔵の文字だ。力強くて、書き殴るかのようでありながら、決して読みづらくはない。以前に何かの資料で見たことがあるままだった。

「彩華が君と結ばれる聖なる夜のために今度の事件を計画したというのが、私にはとても受け入れがたかった。麻由斗らを操るために計画書あるいは台本が必要だったとしても、それを君視点の小説として書く必要はないだろう? 内容にしたところで、あまりに遠回りが過ぎるよ。麻由斗が云った〈リセット〉が果たして本当に不可欠だったのか疑問だし、単に山野部家を壊滅させるだけなら、あえてこんな回りくどい事件を演出したのはどうしてだい? 一度や二度で済むことを、かしこや紅代を使って無駄に小分けしている――どうせ暴かれることを前提としたミスリードであるにも拘わらずだ。であれば、彩華もまた第一義的な真犯人ではない可能性が浮上する。すなわち、さらに上位の何者かが存在している。それに該当しそうなのは、もう山野部森蔵しか残っていなかった」

 ああ、まるで理科の実験か――ひとつの切っ掛けを与えられたことで劇的な反応が表れる――俺の頭の中で夜空の星々みたく散っていた点と点が、瞬く間に線で結ばれていった。黒目がギュルギュルと回転しているのかと錯覚した。火花が散るイメージさえ幻視した。

「これぞまさに、定められた理じゃないか……」

 意識するまでもなく呟いていた。山の頂、その歪な景色が広がっていく。暗雲が払われて、あるいは霧が薄くなって、世にも恐ろしい全景が今……。

「君は訊いていたな、彩華の顔を焼いたのは森蔵なんじゃないかって。つまりは五年前だ。森蔵は自らが著した『渦目摩訶子は明鏡止水』を実現するために、その条件を整える一貫として、彩華の顔を焼いたんだな。そして彼女にこれを読ませた。結末……『~選択するペルセウス~』において、俺は彩華を選択する。これが実現されたなら、彩華は俺から選ばれる。顔を焼かれてしまった彼女は、もはやこれに従うしかなかった。これに頼るしかなかった。発声障害の振りをしていたのも、そう定められていたからか。彩華と紅代による〈入れ替わりトリック〉のため……だってこれは森蔵による推理小説なんだから。いわばトリックそのものが目的のトリックだったんだ……」

「ちなみに、そう推理や解釈できる条件が再現されたというだけで、実際には〈入れ替わりトリック〉なんて行われなかったのだと思うよ。厳密なそれではなかったが、彩華の筆跡の問題があっただろう? 削れるリスクは削るのが合理的さ。殺人の実行犯は彩華であり、ガレージの車で隠れていたのが紅代だった。要するに彩華が犯人側の人間だとは紅代や母上も承知していたのだ。これで事は随分とスムーズに運ぶ」

「うん? そうなのか……?」

 だが、違和感を覚えはしたものの、そうならそうで俺の考えも修正できる。今の俺はもしかすると、アルコール中毒者が云うところの〈頭脳明晰な一瞬〉が引き伸ばされているような状態かも知れない。身体の疲労感とは裏腹に、脳髄がフルスロットルで回っている。

「なるほどな……。であれば、やっぱり紅代は、彩華と賭け勝負でもしているみたいなところがあったんだろう。話を戻させてもらうと……『渦目摩訶子は明鏡止水』を書いたのが森蔵であると知っていたのは、彩華だけだったんだな。彩華はあくまで自分の、〈種仔〉の意思だとして、麻由斗にこれの複写……ワープロで打ち直した原稿を渡した。さらには麻由斗が、かしこさんと紅代……それに沙夜さんもか……にそれを読ませた。必要な犯人たちが揃ったわけだ。かしこさんは摩訶子が探偵として活躍することを望んで……沙夜さんは自分が推理小説的な意味ある死を死ぬことを望んで……紅代はこの原稿の結末ならびにアンドロメダを巡る神話が覆されることを望んで……麻由斗は〈種仔〉の意思が果たされることを望んで……彩華は俺に選ばれて結ばれることを望んで…………しかし、かしこさんや沙夜さんはともかくとして、あとの三人の望みは遂げられなかった。『渦目摩訶子は明鏡止水』の再現まではおおよそ理想的に遂げられ、この時点で紅代の期待は潰える。さらには、本編が終了した後、森蔵によって定められていなかった〈続き〉において、彩華は圭太に殺害されてしまったんだから…………」

 酷い話だ。彼女らがしたことを思えば憐れみの余地はないけれど、それでも、俺は情けなくて仕方がなくなった。どうしてこの世界は、こうも上手くいかないのだろう。

 ままならないことばかりだ。現実を離れ、虚構の世界に逃避してしまいたくなるのも頷ける。うつし世のまことは醜いばかり、むごいばかりで、正視するに堪えない。

「違うよ、茶花くん」

 項垂れようと、目を伏せようとする俺だったが――摩訶子が静かに、首を横に振った。

「『渦目摩訶子は明鏡止水』が『~選択するペルセウス~』で終わりだと思ったかい? あれでは未完成ではないか。森蔵がそんな小説で満足するわけがないよ」

 彼女は原稿をぱらぱらとめくり、そのページを掲げて見せた。

 そこには、『~聖なる夜へ向けた計画~』という章題が記されていた。

「すべて定められていたことだ。彩華ははじめから、ああやって死ぬと決まっていたのだ」

「……まさか、書かれているのか? さっきの出来事が、あのまま?」

「そうだ。彼女は圭太にツヴァイヘンダーで斬り殺される定めだった」

「……じゃあ、彩華や麻由斗は、それを知らなかったのか? 『~選択するペルセウス~』の続きを読ませてもらえず、自分達の望みが結局は叶わないことを知らず、森蔵に利用されていたということなのか?」

「違うよ、茶花くん」

 首を横に振る摩訶子。首を、横に、振る、摩訶子。先程まであった俺の〈頭脳明晰な一瞬〉が終わりを告げる。見えていたはずの景色が揺らぎ、崩壊していく。

「『~聖なる夜へ向けた計画~』もそれまでと同様だった。初稿のサンプルが『~選択するペルセウス~』のみでは不充分だったが、これでようやく分かったよ。この小説では、私と君以外の全員が、現実の言動とほぼ一致しているのだ。異なるのは本当に些細な部分か、あるいはすべて、私か君による予定外の発言や行動に対してリアクションする場面だけ。私と君以外は皆が、この小説の再現をおこなっていた。すなわち加害者も被害者もひと揃いに、共犯関係にあったのだと云えよう」

 俺は途方に暮れる。此処は世界の最果てか。聖書における最後の審判か。

「道理で出来過ぎていると思ったのだ。誰もがその場その場で最も望ましい、理想的な言動をとる。最初の違和感は、まさにこの小説の冒頭に描かれている、食堂での一幕だった。既に前の晩で済まされたようなやり取りを、彼らは露骨に簡略化して繰り返したではないか。あれは読者に分かりやすくするため、わざと説明的に振舞っていたのだよ。その後の質疑応答においても、私が問い掛ければ〈解決〉のために必要となる〈伏線〉が面白いくらい正直に返ってきた。あんなにやりやすい現場は今までなかったさ。この事件はずっとそうだ。誰をとっても絶妙だった。ご親切に伏線を張り、お利口に退場していく。出番でないときは大人しく待機。いくら犯人たちが緻密に計画を立てていたところで、現実の事件――それもここまで複雑な構造の連続殺人が、こうも順調に進行していくわけがないだろうに。被害者たちと申し合わせてでもいない限り、単に十数人もの人間を殺害するというだけで本来ならつまづくものさ。私か君以外の者達がひとりとして想定外の行動をとらないなんて、そんな都合の良い話が、小説でもないのにあり得ると思うかい? 思わないだろう? そしてこの事件は、まさしく小説だったのだよ。登場人物たちが作者にとって物語にとって実に都合良く振舞ってくれる、『渦目摩訶子は明鏡止水』という題名の推理小説だったのだ」

 摩訶子がそこまで語ったときだった。

 まるで小説みたいなタイミングで、背後から声が掛かった。

「どうやら、真実に到達したようだなァ……」

 杖をつきながら丘を登ってきたのは、覇唐眞一郎だった。

〈作者〉――山野部森蔵が、ずっと〈主役〉に据えてきた名探偵。

 ランプの明かりにぼおっと照らされて、その老人は皺だらけの顔を綻ばせていた。
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