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【鏡の章:バラバラにされた海獣】
7「我々を記述したのは何者か」
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7
『うわ、なんて畏れ多い。〈つがいの館〉とかファンでさえ訪ねない聖域なのに……ごめんね、大丈夫? 迷惑になってるでしょ?』
「いちおう、何とかなっています。沙夜さんが気にすることないですよ」
『なら安心だけどさー。ってことは何、夕希、山野部森蔵と顔合わせてるわけ?』
「えーっと、まあ……詳しい話はまた改めてしますよ。実は此処、携帯の持ち込みとか禁止されてまして、今もこっそり掛けているんです」
『あ、そうなの。わざわざありがとね。いや本当にありがと。そんなとこにいた夕希にもびっくりだけど、一日掛からずそれを見つけられる茶花くんにもびっくりだわ。推理作家遺伝子ってやつか』
「夕希は明日、連れ帰ろうと思います。今日はもう遅いですから」
『えーやっぱり悪いね? そちら様がそれでいいなら、あたしは何も云えないけどさ……あ、できたらでいいんだけど、山野部森蔵のサインとかー無理かなー』
「そうですね……ちょっと……」
『んっ全然いいの。むしろこっちがお詫びの品……って云っても、あたしらみたいな庶民が山野部家に失礼のない贈り物とか不可能だけど。そうだなーまあ茶花くん、夕希になら何しちゃってもいいから。愚妹は君に任せる。じゃあおやすみねー』
「はい、おやすみなさい」
通話を切る。携帯電話を持ってきていたのは幸いだった。持ち込み禁止の規則なんて、もはや守ってやる義理はない。電波そのものは通じるのだ。
ツグミ高校への連絡は、夕希の証言を裏付ける結果となった。彼女は今週どころか今学期、一度も欠席していない。記録の上だけでなく担任を含めた複数の教師が認めている。同学年の生徒たちに当たってみたところで同様だろう。
〈あみだくじの殺人〉が行われた間、この館はクローズド・サークルと化していた。出入りは叶わず、また、益美と未春の殺害はともかくとして、名草と菜摘が殺されたのは最も早いケースでも早朝六時――それからどんなに急いだとしても、ツグミ高校の始業時刻である八時半には間に合わない。だが意外なことに、夕希は遅刻もしたことがない優等生とのこと。
斯くして、疑いは晴れた。彼女は犯人ではあり得ない。摩訶子も認めるしかなかった。
林基たちに向けては俺らが夕希を連れてきたのだと説明し、やはり稟音とはひと悶着あったものの、彼女が摩訶子の本来の助手であることとも併せ、納得してもらった。彼女はひと晩だけ宿泊を許され、客室は摩訶子と共用になった。
そうこうしているうちに一時間が経過。時刻は十一時。
摩訶子から受けていた指示どおり、俺は彼女の客室に出向く。彼女は卵黄入り珈琲を飲みながら待っていた。夕希は今、東側の浴場を使っていて、此処にはいない。
「『渦目摩訶子は明鏡止水』を読み終わったよ。次は君の番だ。これは一人称形式で書かれている。と云うより探偵譚形式だな。ホームズとワトスン、眞一郎と森蔵のそれみたく、探偵が私で語り部が君。心理描写がどのくらい正確かも含めて、確認してくれたまえ」
原稿を受け取る。手にしてみるとまた何とも気味悪く、胸の奥がザワついた。
「俺らはずっと監視されていたのか? 二人だけでいたときまで」
「申し訳ないが、今は回答を控えさせてもらおう。ただし紅代ちゃんについては簡単に説明しておく。君はジェントル澄神という探偵を知っているかい?」
「あっ……」その名を聞いて思い出した。道理で紅代という名前に憶えがあったわけだ。
ジェントル澄神とは売り出し中の私立探偵である。その助手をしているのが、たしかバイオレント紅代という少女――もちろんそんなのは芸名だと分かる。顔写真などを見たことはなかったけれど……それが夕希だと云うのか?
「三ヵ月ほど前だ。私はある殺人事件で彼と居合わせた。彼は依頼を受けていたが、まったく無名である私は話を聞きつけて個人として解決へ乗り出した格好だった。結果、解決したのは私の方だった。そのときに紅代ちゃんとも会っていたのだね。それからすぐ後のことだ、彼女が私のもとへやって来たのは。どうやら色々とあって、ジェントル澄神とのコンビが解消されたらしい」
「へぇ、知らなかったな。君のところに来たのは、新たな働き口を求めてってわけか」
「前の主人に勝利した探偵として印象に残っていたのだろう。彼女の所在地を知ったいまでは、香逗町と煤牧市だ――実生活との両立がしやすいという判断もあったと思われる」
「夕希がそんなバイトをしてたなんて……掴みどころのなさはあいつらしいが」
「真面目に高校生をやっていたとは私も驚いたよ。とはいえ不可能ではない。学生なのは私も同じだし、探偵活動は基本的に休日だ。ジェントル澄神と組んでいたころがどうだったかは知らないが、コンビ解消はおそらくその辺の融通がききづらくなってきたためではないだろうか」
「なるほど……じゃあ君はあいつにバイト代なんかも払っているのか。変な話だな」
「いいや。さっきも云ったとおり私はほんの駆け出しの探偵だ。活動はいわば各地に種を蒔くかたちのボランティア。一度だけ謝礼をもらったことがあるのみだよ。稼ぎがない以上、助手にも給料は出ないと云ったのだがね、紅代ちゃんはそれでもいいと答えた。彼女は金銭が欲しいのでなく、好奇心から、あるいは道楽として探偵の助手を務めたいそうだった」
夕希は親戚から援助を受けており、金には困っていないのだったか。そもそも稼ぐのが目的であれば、探偵助手なんかよりもっと現実的なアルバイトを探すだろう。
ひとり暮らしな彼女の、気まぐれな退屈凌ぎ。ジェントル澄神とはどのような縁があったのか謎だけれど、実のところ俺は彼女について具体的な事柄はほとんど知らないのである。探偵助手の件は沙夜でさえ把握していないようだった。
一体いくつの顔を彼女は持っているのか、きっと本人にしか分からない。彼女を『寂しい奴なんだよ』と評したときの、沙夜の物憂げな微笑みが思い出された。
「そういうことならばと、私も受け入れた。探偵に金銭を介さない関係の助手がいるというのは私の理想でもある。ちなみにアルバイトのまかないというわけではないが、彼女はよく渦目家で食事をするし、泊まることもあるのだよ。なぜか爺上と打ち解けていてね」
「君と夕希の関係は理解したよ。それにしても、世間は狭いと云うか……山野部家と渦目家の付き合いから繋がっていた俺らが、夕希を介しても繋がっていたなんて――」
「出来過ぎている、だろう?」
摩訶子は珈琲をひとくち飲むと、こめかみに人差し指を当てて話し始めた。
「その点については甚だ同意だ。実に変な話だよ。こうした偶然には、隠された恣意を疑わなければならない。つまり紅代――薊夕希からすれば、すべて分かったうえで私と君とに別個に接触したということさ。考えてみたまえ。彼女が私達とそれぞれ付き合いを持つに至った理由は、いずれもいささか強引ではなかったか」
「……でも、あいつはどうしてそんなことを?」
「目論見を推定するには材料が不足している。ただし、その怪しい動きが今度の山野部家における連続殺人に繋がるという想像はできる――できたのだが、幸か不幸か彼女のアリバイは確かだよ。その事実を蔑ろにして、感情から推理を組み立ててはならない」
彼女は迷っているようだった。表情や振る舞いに大きな変化はないのだが、それらのひとつひとつ、些細な部分から何となくそうと感じ取れる。俺が彼女を見ることに段々と慣れてきたおかげかも知れない。
「俺が混乱しているのも、そのあたりだと云えるかな。夕希の潔白が証明されたなら、やっぱり犯人は母さんだったんだろう? だがそれとは別に――」手にしている原稿を軽く掲げる。「――こんなふざけた小説を書いた人物がいる。しかもなぜか、夕希に郵送した」
「うん、これはまったく想定外の展開だった。私も意表を衝かれたよ。しかし茶花くん、」
珍しいことに、彼女は話し相手から視線を逸らした。
「云っただろう。その点については今は回答を控えさせてもらう」
「……分かった」
控えられたのではしょうがない。彼女との付き合いで俺がよく学んでいることのひとつだ。
『うわ、なんて畏れ多い。〈つがいの館〉とかファンでさえ訪ねない聖域なのに……ごめんね、大丈夫? 迷惑になってるでしょ?』
「いちおう、何とかなっています。沙夜さんが気にすることないですよ」
『なら安心だけどさー。ってことは何、夕希、山野部森蔵と顔合わせてるわけ?』
「えーっと、まあ……詳しい話はまた改めてしますよ。実は此処、携帯の持ち込みとか禁止されてまして、今もこっそり掛けているんです」
『あ、そうなの。わざわざありがとね。いや本当にありがと。そんなとこにいた夕希にもびっくりだけど、一日掛からずそれを見つけられる茶花くんにもびっくりだわ。推理作家遺伝子ってやつか』
「夕希は明日、連れ帰ろうと思います。今日はもう遅いですから」
『えーやっぱり悪いね? そちら様がそれでいいなら、あたしは何も云えないけどさ……あ、できたらでいいんだけど、山野部森蔵のサインとかー無理かなー』
「そうですね……ちょっと……」
『んっ全然いいの。むしろこっちがお詫びの品……って云っても、あたしらみたいな庶民が山野部家に失礼のない贈り物とか不可能だけど。そうだなーまあ茶花くん、夕希になら何しちゃってもいいから。愚妹は君に任せる。じゃあおやすみねー』
「はい、おやすみなさい」
通話を切る。携帯電話を持ってきていたのは幸いだった。持ち込み禁止の規則なんて、もはや守ってやる義理はない。電波そのものは通じるのだ。
ツグミ高校への連絡は、夕希の証言を裏付ける結果となった。彼女は今週どころか今学期、一度も欠席していない。記録の上だけでなく担任を含めた複数の教師が認めている。同学年の生徒たちに当たってみたところで同様だろう。
〈あみだくじの殺人〉が行われた間、この館はクローズド・サークルと化していた。出入りは叶わず、また、益美と未春の殺害はともかくとして、名草と菜摘が殺されたのは最も早いケースでも早朝六時――それからどんなに急いだとしても、ツグミ高校の始業時刻である八時半には間に合わない。だが意外なことに、夕希は遅刻もしたことがない優等生とのこと。
斯くして、疑いは晴れた。彼女は犯人ではあり得ない。摩訶子も認めるしかなかった。
林基たちに向けては俺らが夕希を連れてきたのだと説明し、やはり稟音とはひと悶着あったものの、彼女が摩訶子の本来の助手であることとも併せ、納得してもらった。彼女はひと晩だけ宿泊を許され、客室は摩訶子と共用になった。
そうこうしているうちに一時間が経過。時刻は十一時。
摩訶子から受けていた指示どおり、俺は彼女の客室に出向く。彼女は卵黄入り珈琲を飲みながら待っていた。夕希は今、東側の浴場を使っていて、此処にはいない。
「『渦目摩訶子は明鏡止水』を読み終わったよ。次は君の番だ。これは一人称形式で書かれている。と云うより探偵譚形式だな。ホームズとワトスン、眞一郎と森蔵のそれみたく、探偵が私で語り部が君。心理描写がどのくらい正確かも含めて、確認してくれたまえ」
原稿を受け取る。手にしてみるとまた何とも気味悪く、胸の奥がザワついた。
「俺らはずっと監視されていたのか? 二人だけでいたときまで」
「申し訳ないが、今は回答を控えさせてもらおう。ただし紅代ちゃんについては簡単に説明しておく。君はジェントル澄神という探偵を知っているかい?」
「あっ……」その名を聞いて思い出した。道理で紅代という名前に憶えがあったわけだ。
ジェントル澄神とは売り出し中の私立探偵である。その助手をしているのが、たしかバイオレント紅代という少女――もちろんそんなのは芸名だと分かる。顔写真などを見たことはなかったけれど……それが夕希だと云うのか?
「三ヵ月ほど前だ。私はある殺人事件で彼と居合わせた。彼は依頼を受けていたが、まったく無名である私は話を聞きつけて個人として解決へ乗り出した格好だった。結果、解決したのは私の方だった。そのときに紅代ちゃんとも会っていたのだね。それからすぐ後のことだ、彼女が私のもとへやって来たのは。どうやら色々とあって、ジェントル澄神とのコンビが解消されたらしい」
「へぇ、知らなかったな。君のところに来たのは、新たな働き口を求めてってわけか」
「前の主人に勝利した探偵として印象に残っていたのだろう。彼女の所在地を知ったいまでは、香逗町と煤牧市だ――実生活との両立がしやすいという判断もあったと思われる」
「夕希がそんなバイトをしてたなんて……掴みどころのなさはあいつらしいが」
「真面目に高校生をやっていたとは私も驚いたよ。とはいえ不可能ではない。学生なのは私も同じだし、探偵活動は基本的に休日だ。ジェントル澄神と組んでいたころがどうだったかは知らないが、コンビ解消はおそらくその辺の融通がききづらくなってきたためではないだろうか」
「なるほど……じゃあ君はあいつにバイト代なんかも払っているのか。変な話だな」
「いいや。さっきも云ったとおり私はほんの駆け出しの探偵だ。活動はいわば各地に種を蒔くかたちのボランティア。一度だけ謝礼をもらったことがあるのみだよ。稼ぎがない以上、助手にも給料は出ないと云ったのだがね、紅代ちゃんはそれでもいいと答えた。彼女は金銭が欲しいのでなく、好奇心から、あるいは道楽として探偵の助手を務めたいそうだった」
夕希は親戚から援助を受けており、金には困っていないのだったか。そもそも稼ぐのが目的であれば、探偵助手なんかよりもっと現実的なアルバイトを探すだろう。
ひとり暮らしな彼女の、気まぐれな退屈凌ぎ。ジェントル澄神とはどのような縁があったのか謎だけれど、実のところ俺は彼女について具体的な事柄はほとんど知らないのである。探偵助手の件は沙夜でさえ把握していないようだった。
一体いくつの顔を彼女は持っているのか、きっと本人にしか分からない。彼女を『寂しい奴なんだよ』と評したときの、沙夜の物憂げな微笑みが思い出された。
「そういうことならばと、私も受け入れた。探偵に金銭を介さない関係の助手がいるというのは私の理想でもある。ちなみにアルバイトのまかないというわけではないが、彼女はよく渦目家で食事をするし、泊まることもあるのだよ。なぜか爺上と打ち解けていてね」
「君と夕希の関係は理解したよ。それにしても、世間は狭いと云うか……山野部家と渦目家の付き合いから繋がっていた俺らが、夕希を介しても繋がっていたなんて――」
「出来過ぎている、だろう?」
摩訶子は珈琲をひとくち飲むと、こめかみに人差し指を当てて話し始めた。
「その点については甚だ同意だ。実に変な話だよ。こうした偶然には、隠された恣意を疑わなければならない。つまり紅代――薊夕希からすれば、すべて分かったうえで私と君とに別個に接触したということさ。考えてみたまえ。彼女が私達とそれぞれ付き合いを持つに至った理由は、いずれもいささか強引ではなかったか」
「……でも、あいつはどうしてそんなことを?」
「目論見を推定するには材料が不足している。ただし、その怪しい動きが今度の山野部家における連続殺人に繋がるという想像はできる――できたのだが、幸か不幸か彼女のアリバイは確かだよ。その事実を蔑ろにして、感情から推理を組み立ててはならない」
彼女は迷っているようだった。表情や振る舞いに大きな変化はないのだが、それらのひとつひとつ、些細な部分から何となくそうと感じ取れる。俺が彼女を見ることに段々と慣れてきたおかげかも知れない。
「俺が混乱しているのも、そのあたりだと云えるかな。夕希の潔白が証明されたなら、やっぱり犯人は母さんだったんだろう? だがそれとは別に――」手にしている原稿を軽く掲げる。「――こんなふざけた小説を書いた人物がいる。しかもなぜか、夕希に郵送した」
「うん、これはまったく想定外の展開だった。私も意表を衝かれたよ。しかし茶花くん、」
珍しいことに、彼女は話し相手から視線を逸らした。
「云っただろう。その点については今は回答を控えさせてもらう」
「……分かった」
控えられたのではしょうがない。彼女との付き合いで俺がよく学んでいることのひとつだ。
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