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【鏡の章:バラバラにされた海獣】

6(2)「人を食ったような後輩の証言」

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「ボク、誰も殺してませんから」

 白々しい――俺は怒鳴りそうになるのを必死に堪える。

「……今、自分が犯人だと云ったばかりじゃないか」

「え、云ってませんよぉ。聞いてました? ボクはただ見に来ただけです。やっぱり家族ってロクでもないなぁということ、此処で茶花先輩と分かち合いたかっただけです。でも直截的に誘ったって、茶花先輩、此処に戻ろうとはしなかったでしょ? だから失踪を演じました。そしたら茶花先輩……えへへ……ボクを心配して、来てくれた。嬉しいなぁ」

 話がまるで噛み合わない! 歯車がいくつ足らないのか見当もつかないほど!

「犯行を認めないつもりかい。彩華に成り代わっていたのは事実だというのに」

 摩訶子のその言葉で――そうだ――ようやく大事な点に思い至った。

「彩華はどこだ? どこにやった?」

「知りませんよ。足跡はもう降雪で消えちゃったと思いますけど、ボクだって今日の夕方に着いたばかりですもの。へへ、ちなみにタクシーで近くまで送ってもらいました。ドライバーさん戸惑ってましたねぇ……それはともかく、正面から訪ねたって追い返されるだけでしょうからどうしたもんかと思いつつ周っていたら、この部屋だけ窓が開いてたんです。位置的に山野部彩華の客室だとは分かりましたし、扉に内側から錠が掛かってましたんで、彼女は出て行ったんだなぁと判断できましたね」

「無理矢理な説明だな。信用できないよ」と摩訶子。

「えへへ。摩訶子探偵こそ、貴女らしくもない無理矢理な推理じゃありません? 犯人は山野部瑞羽じゃなかったのかってボクもさっきから疑問なんですが……まあいいです。証拠をお見せしますよ」

 夕希は俺の脇をすっと抜けて部屋の隅まで行くと、其処に置かれていた屑籠くずかごを手に取ってひっくり返した。大量の毛髪がもさぁと床に落ちて散らばった。

「山野部彩華に化けて待ってたのはサービス――って云いますか、単なる遊びです。机の上に出てるその鋏で、さっき自分で切ったんです。『市松人形のようなおかっぱ頭』ってこういうことでしょ? これだけじゃ切られた時間を証明できませんから、物証としては弱いですかね」

 続いて書きもの机の方へ歩いて行く夕希。摩訶子は黙って見守っている。

「落書きも書き置きもボクがやったことです。摩訶子探偵の推理ではボクがその内容を知ってるはずがないわけですけどぉ――先輩へ。大好きな先輩へ。大好きな山野部茶花へ。ボクは天から堕ち、バラバラにされた海獣。先輩はきっと、このボクを拾い集めて、拾い集めて、見つけてくれるでしょう。薊夕希は大罪と同じ数だけ切り分けられたのです。右腕は黄色の強欲。右脚は赤色の憤怒。首は藍色の嫉妬。胸は紫色の――」

 唄うように暗唱しながら、夕希はそれを便箋に書き綴っていき、完成するとこちらに掲げて見せた。

「茶花先輩がお持ちの書き置きと、見比べてみてくださいよ。正真正銘、ボクの字でしょ? と同時に、山野部彩華の字とは違うはずです。もっとも彩華の字については記憶を頼りにするしかありませんか。彼女は荷物を残しませんでした――この仮面を除いては」

 鏡面が曇るかの如く、清水が濁るかの如く、形勢が変わっていくのを、肌で感じる。

「やっぱり山野部彩華は仮面を被ってたんですねぇ。妙だと思ってたんですよ。『表情が窺えない』ことを何度も強調したり、五年前に何かあったらしいことを思わせぶりにほのめかしたり、他にも『あまり顔を見られたくないのだ、彼女は』って箇所とか、中でもとりわけ怪しかったのは最後らへんの描写です――『彩華が俺の傍らまで来て、その顔を俺の肩のあたりに埋める。固い感触が首にも当たり、ひやりと冷たかった』――固い感触? ひやりと冷たい? 当たったのが額や頬なら不自然に思える表現ですけど……えへへ、この仮面を見て納得しました。鉄製ですし、そりゃあ固いし冷たいわけですよ」

「何の話をしてるんだ、お前は……」

 ついていけない。摩訶子でさえ、素早く的確な対応で以て会話を優位に進めていく得意の術が、まったく発揮できていない。彼女が初めて、後手に回されている。

「君はどうしてそうも、種々の事情に精通しているのだ。君が此処にやって来て間もないと云うなら、なぜ事件のことやこの家のことをそこまで知っていて、そんな振る舞いを可能たらしめている? 茶花くんが教えたのではないのだろう?」

 無論、俺は何も教えていない。〈つがいの館〉から帰った俺はこの二日間、家で不貞寝していただけだ。夕希には会っていないし、連絡しようにも互いの電話番号を知らない。彼女と俺とは学校の放課後――〈特別な時間〉に限った〈秘密の関係〉なのだから。

「そうですねぇ。ボクとしてもちょっと不思議なんですよ。てっきり茶花先輩が書いたものと思ってたんですけど、その様子からすると違うみたいじゃないですか。とにかく見てもらうのが早いですよねぇ……」

 彼女はソファーの陰から、イルカやクジラのぬいぐるみがぶら下げられた彼女お馴染みの大きなリュックサックを抱え上げると、中からダブルクリップで留められた用紙の束を取り出した。それから摩訶子へと歩み寄り、両手で持って差し出した。

「どうぞ。昨日、学校から帰ったら家のポストに届けられてた小説です」

 小説……? 摩訶子は受け取って、ぺらりぺらりとめくっていく。わずかにだけれど、顔をしかめているのが分かった。俺も近寄って、彼女の隣から紙面を覗き込んだ。

 ワープロで打たれた原稿。夕希が云ったとおり、小説の形式で書かれた文章だともすぐに分かる。問題は、その内容だった。

「タイトルは冒頭にありますね――『渦目摩訶子は明鏡止水~あみだくじの殺人~』」

 耳にしたものと目にしているものとが一致する。言葉を失う。

 文中には確かに摩訶子の名前がある。それから俺の名前がある。

 今見ているページでは丁度、俺と摩訶子が〈これまでの事件の経過〉を整理している。

 二日前、此処の食堂で交わした、憶えのある会話が、そのまんま、文字となって、書き連ねられている。

「ね? 茶花先輩の視点で書かれてるんですから、ボクがそれを茶花先輩が書いた小説だと思うのも無理ないでしょ? でも作り話にしては妙です。登場人物も舞台もみんな実在してますし、山野部森蔵の葬儀だとは教えてくれませんでしたけど、茶花先輩、親族の集まりがあるからしばらく学校を休むって云ってましたし――これって本当に起きたことなんじゃないかと考えました。それで興味がうずうず湧いて、居ても立ってもいられなくなったものですから、真相を確認するためにもこうしてやって来たんですよ」

 ぺらりぺらり、めくられていく原稿。

 知っていることだけが、本当にあったことだけが、忠実に、小説として記録されている。

 関係者を訪ねて回る摩訶子と俺……摩訶子からのヒント……昼食……摩訶子が仕掛けた罠……罠に嵌った山野部瑞羽……解決編…………。

「お分かりいただけましたね? ボクがちゃあんと事件の詳細を知ってる理由。館の見取り図まで付いてますから、此処が山野部彩華が使ってた客室だと分かるのも当然ですよぉ。それにしても、本当なんですね、これ全部。だけど茶花先輩が書いたんじゃなければ、誰が書いたんでしょうね? えへへへ、面白くなってまいりましたよぉ」

「君が書いたのではないのか」

 摩訶子は原稿に視線を落としたまま述べ立てる。流水のようではない、機械的な口調で。

「二日間あったのだ。君が事情を知っていてもおかしくない理由をつくるために、君自らがこれを用意したのではないのか。書き置きは君が此処に来る以前に沙夜に渡しておき、落書きについても指示をしておいたのではないのか。であるならば、君が犯人であるという可能性は消去され得ない」

「まだ信じてくれないんですかぁ? その小説も裸で入ってたわけじゃなくて、茶封筒に入れられて郵送されてきたんですよぉ? 待ってください、今見せますから。ちなみに差出人は不明。消印は一昨日の日付で十八から二十四時、条拝由木胎、速達でしたねぇ……」

 リュックサックへと歩いて行く途中で――「あ、そうそう」――夕希は何か思い出したらしく、振り向いた。いや違う、思い出したかのような素振りはあからさまな芝居だ。へらへらとした口元が物語っている。

「決定的な証拠があるんでした。ツグミ高校に連絡してみてくださいよ。まだ帰ってない教員とかいる時間でしょ。そんで確認してください――ボクは今週ずっと、今日ありました終業式まで含めて、ばっちり無遅刻無欠席でぇす」

 彼女はほとんどワンピースのように身体を覆っていたパーカーを脱いだ。

 下から現れたのは私立ツグミ高等学校のセーラー服。

 その格好でこちらに向けてピースサインまで決めると、彼女はもう一度「えへっ」と笑った。
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