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【鏡の章:バラバラにされた海獣】

5「海獣はたしかに其処にいた」

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 摩訶子は改札の脇にある喫茶店にいて、俺の姿を見とめると悠然と出てきた。制服のブレザーの上から黒のトレンチコートを羽織り、赤いキャリーバッグを引いている。はじめから前髪を掻き上げてカチューシャを嵌めた例の探偵モード――女子高生ばなれしていて人目を惹く佇まい。対して俺の方は正装でなく普段着で靴もスニーカーを履いてきてしまったけれど、森蔵の葬儀は終わったのだから問題ないはずだ。今はそんなのどうだっていい。

「母さんが犯人じゃないって、どういうことだ」

「落ち着きたまえ。息を乱したりして少々みっともないよ。ほら、君の分のチケットだ」

 人差し指と中指で挟んだ乗車券をピッと突き出してくる。「料金は結構」

「電車に乗ったら説明してもらうぞ」

「当然さ。乗り換えを含めて三時間は掛かる。条拝じょうはい由木胎ゆぎはら駅――」〈つがいの館〉が建つ山の麓にある駅だ。「――では母上が昼から待ってくれているが、ダイヤは変えられないのだからね、せいぜいのんびりと行こうではないか」

 ……たしかにカリカリしたって仕方がない。この探偵女子が相手ではなおさらそうだろう。

 改札を抜けて行く摩訶子の背に、どこに住んでいるのか訊ねてみた。まさか同じ香逗町ではあるまいと思っての質問だったが、回答は電車で三十分と離れていない煤牧すすまき市だった。案外、狭いものである。彼女からすれば此処は通り道だったわけだ。

「ところで私からもひとついいかい。君はどうして左右で靴紐の色を変えているのだろう。赤の方はお世辞にも良いセンスとは云えないな」

「ああ……」沙夜にも指摘されたけれど、そんなに気になるものなのか。「高校の下駄箱でさ、帰るときになって見たら片方だけ靴紐が盗まれていたんだよ。しょうがないから、家にあったもう履いてない靴のそれで代用してるんだ」

「いじめられているのかい、君」

「そんなはずはないと思うんだけどな……」

 しかし自覚がないだけで、本当はそうなのかも知れない。靴紐を抜くだなんて明らかに悪意ある行為だし……ややショックを受けた。



 クロスシートに並んで腰掛けると、摩訶子はウェットティッシュで手を拭いてから膝にハンカチを乗せ、その上でチーズをいくつも海苔で巻きながら話し始めた。

「皆は動機については伏せ、昔から精神的に不安定だった瑞羽が錯乱をきたして一族を殺していき、木葉については瑞羽の絶対の味方である圭太が従犯となって絞殺したのだというふうに警察に説明しようと決めたらしい。もっとも話し合いの大半は事件について外部に極力漏れないようにするための算段に費やされ、それでひと晩も掛かったそうなのだがね。そして話を合わせるためにその旨を瑞羽と圭太にも知らせに行ったところ、幾分か落ち着いた瑞羽が、自分は誰も殺していない、犯人に嵌められただけだと云い出したのだ」

 白く曇った窓には夜の街並みが滲み、流れていく。ガタンゴトンとなる音に混じって、朗々とした声が、俺にだけ聞き取れる丁度良い声量で続く。

「彼女の云い分はこうだ――山野部家、特に木葉に対して憎しみを抱いていたのは事実だし、殺したいと思ったこともあったが、実行には移せるはずもなく、ましてった計画を練るなんて性格的にも心理的にもあり得なかった。しかし今度の連続殺人が起こり、この機に乗じて木葉を殺してしまえばという考えが浮かんだ。さらに菜摘が殺されたときに、被害者は家系図上であみだくじを描いているのだと気付いた。次は圭太――これは菜摘の父親と同義であるから、代わりに木葉を殺せば、真に自分を孕ませた男を告発するというような意味を付与できるのではないかとも思い付いた。圭太が殺されてしまえばあみだくじが終わってしまうので、自分の犯行を連続殺人の中に紛れ込ませるには急がなくてはならないという焦りも働いた。もはや冷静な思考は失われ、突き動かされるように、彼女は朝に私の指示で皆が部屋に戻った後、一度トイレに行く振りをして部屋を抜け出し、調理室から包丁を盗んだ。それからは木葉殺害のチャンスを窺い続け、私が罠を仕掛けたときにああやって引っ掛かってしまった――と、こういう話さ」

「……それで、まさかまだ通報してないのか?」

「そうみたいだよ。茶花くんと私が帰っただけで、他は一切があのまま。〈つがいの館〉というのは雪で閉じ込められずとも常から一種の閉鎖空間だ。あそこにいると皆、時間が停止してしまうのだろうな」

 呆れた……非常識にもほどがある。死体遺棄罪とかに当たるんじゃないのか。

「母さんが犯人じゃないっていうのは、その、どうなんだ? 林基さん達は信じてるのか、その証言を」

「判断が付けられないらしい。瑞羽が容疑を否認している以上、事件は未解決だ。警察を呼べば徹底的に調べを受ける羽目はめになる――特に稟音がこれを恐れている。そこで私が呼び戻されたのだよ。茶花くんについては来れるなら来いくらいな程度と聞いたけれど、君がいなくては私が困る。この事件では君が助手なのだから。それに私の本来の助手――紅代べにしろちゃんと云うのだがね――連絡が付かないのだ。無断で冬休みのつもりだろうか」

 摩訶子にはまったく悪びれる様子がない。ということは、

「君は母さんの証言を信じてないようだな。つまり、推理を間違ってはいないと」

「十中八九、私は間違えていない。瑞羽には大方、圭太が入れ知恵したのだろう。倉庫に閉じ込められていた二人にもひと晩の時間があったのだからね、瑞羽だけでも逃れられる云い訳を練り上げたのさ。こういうのは解釈の問題なのだよ。多重解決をテーマとしたミステリ同様、種々の事象や証拠について可能性の上では等しくあり得る数々の解釈をどのように選択し繋げていくか。それによってひとつの事件から互いに独立した複数の真相が導き出されてしまう。――食べるかい?」

 海苔で巻いたチーズをもらった。素材を選んでいるのか、食べてみると意外なほどに相性が良い。

「たとえば凶器の件がある。瑞羽は木葉の殺害にあたっては、それまで紐状の凶器で絞殺していたのをやめて包丁を選択した。だが彼女はこれを、自分は犯人でなかったために同じ凶器を用意できなかったのだと弁明している。〈木を隠すなら森〉式の隠れた便乗殺人をやるならば、むしろ彼女も紐状の凶器を用意しようとするのが普通だ――これに関しても焦りと不安でそこまで頭が回らなかったと云っているそうだが、要するに理屈と膏薬こうやくはどこへでも付くのさ」

「でも、そう云えばそれを忘れてたじゃないか。紐状の凶器、母さんは持ってなかったのか?」

「うん、発見されてないと聞いたよ。それも皆が判断に困っている理由みたいだが、考えてみたまえ。瑞羽からすれば、菜摘を殺害した時点でその凶器は用済みになったのだ。外には出られずとも窓を開けて紐を捨てるくらいできた。どうせあの人達は雪の中を掻き分けてまで探してはいないだろう」

 摩訶子の考えには隙がない。どんな細部に関しても、妥当な答えが返ってくる。

 瑞羽が釈明したという内容は、俺にも強引なこじ付けとしか思えなかった。いくら解釈として可能とはいえ、現実には蓋然性がいぜんせいの名の下、真相に揺らぎは生じないのか……。

「茶花くんは、仮に瑞羽が無実だったならば、そちらの方が良いのかい?」

「……分からない。混乱しているんだ。母さんが誰も殺してなかったとしても、俺が知った山野部家の秘密は事実に違いないだろう? 父さんは木葉さんを殺したし……もうどうだったところで変わらない気がするんだよ」

 俺の心は既に山野部家のすべてからあまりに遠ざかって、両親でさえ他人のことのように感じてしまうのだった。瑞羽が本当に無実でも、往生際悪く罪を逃れようとしているだけでも、今更、哀れに感じこそすれ、希望を見出したりはできない。俺にとって事件は、これ以上ないほどに終わってしまっている。

「そうか。事後処理に付き合わせてすまないね。瑞羽に云い逃れする余地を残してしまったのは、たしかに私の落ち度だった。木葉を殺そうとしている現場を押さえても、それ以前の犯行を彼女のものとする厳格な証拠にはなり得ない。私もまだまだ未熟だな」

 摩訶子がそんなふうに自分のミスを認めるとは意外――と一瞬思ったけれど、考えてみれば、彼女には自分を実際以上に大きく見せようとするところなんてなかった。実はとても素直と云うか、これも明鏡止水というやつだろうか。

「君は立派だよ、摩訶子」と云う俺に、彼女は「ありがとう、茶花くん」とだけ応えた。

 それからはしばし、互いに無言の時間が続いた。摩訶子は読書を始めて、俺は窓外を眺めるともなく眺めながら、彩華のことを考えた。

 これからまた、彼女に会う。どんな顔をして、どんな言葉を掛ければいいのだろう。

 二日前の俺は山野部家から、そして彩華から逃げ出したのだ。彼女は俺の本物の妹で……母親は瑞羽……父親は木葉……俺らはセトとネフティスに対応せし兄妹……彼女は俺への気持ちに木葉の企みは関係がないと云っていた……いや、書いていた……心因性の発声障害……『彩華を愛してくださるでしょうか?』……この二日間、ぐるぐると脳内を巡り続けていた言葉……彼女の顔も、表情も、分からない……彼女は何を考えているのか、俺は何を考えているのか……俺の望みは……義務は……俺はどうすればいい…………。

「摩訶子、」

 悩み事から逃避するようだけれど――これも大事な懸案事項だ――俺は夕希の書き置きと落書きの図を探偵に見せた。彼女ならこの謎々を解けるかも知れないと思い、持ってきていたのである。

 簡単な事情を説明してアイデアを乞うたが、しかし彼女は二枚の紙に視線を落としたまま、なかなか応えようとしなかった。深く考え込んでいる様子だ。

「やっぱり、わけ分かんないよな……」

「いや、暗号そのものは実に簡単だ」

 目をみはる俺の前で、彼女は制服の胸ポケットから取り出した便箋に、黒と赤の万年筆を使い分けながら新たな図形を描いていく。〈つがいの館〉で山野部家の真の家系図を描かれたときの映像がフラッシュバックする。今度も彼女は、俺の想像を遥かに超える解答を、いとも簡単に……。

「メドゥーサ、ペルセウス、アンドロメダとくれば、海獣とはケートス――すなわち、くじら座だと分かるじゃないか。七つの大罪はミスディレクションに過ぎない。落書きを紐解くにあたって大事なのはギリシア神話ひいては星座の方さ。星座だよ、茶花くん。バラバラにされたくじら座を復元すればいい」

 七つのアパートがそれぞれ向きを変えられて、本当にパズルのように組み合わされていく。色分けを無視して赤色で写された落書き――その直線同士が連結されて現れたのは、晩秋から初冬にかけて夜空に輝くくじら座。

 どうして思い至らなかったのだろう。星座にまつわる神話の知識がなかったとはいえ、夕希と俺が出逢った場所こそ、他ならぬプラネタリウムだったのに。これは真実、俺に向けられた暗号だったのに。

 しかし、いまやそんなことは些事さじに過ぎなかった。完成した図形が、その形が、俺から衝撃を受けるだけの余裕さえもすべて奪ってしまった。自分の目で見ているものが、信じられなかった。



「こ、これって……」声が上擦る。「これって、もしかして……」

「〈つがいの館〉だね。私達が今こうして向かっている先に薊夕希はいるらしい。君からすれば一石二鳥、一挙両得というやつだ」

 とぼけたようなことを云う摩訶子。だが口元は笑っておらず、俺を見詰める目は真剣そのものだった。

「正直、驚いたよ。十中――二か一の方だった。〈つがいの館〉の事件は、まだ終わっていないのかも知れない。薊夕希について、詳しく教えてくれるかい?」
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