名探偵・桜野美海子の最期

凛野冥

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3日目

9、10「ロマンス」

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    9


 夕食は終わり、自室に戻った僕は、今晩は寝ないようにしようと決めた。

 琴乃ちゃんの雄姿を無駄にしないよう、僕は部屋に引きこもっているしかないけれど、それでも一緒に起きているくらいはできる。犯人と相対した彼女の叫び――もちろん、名前あるいは正体について告発する叫びだ――を聞き逃さないように、バリケードを築いたうえで扉をわずかに開け、寝ずの番……じゃあないけれど起きていよう。

 効果があるかは分からないが、何だか落ち着かないので珈琲を淹れた。それを啜りながら、今日の出来事をノートに記す。

 作業しながらも、琴乃ちゃんが心配で堪らなかった。彼女が作戦を開始するのは日付変更のときだから、まだ始まってすらいないけれど、だからこそ、本当は止めるべきではないか、なんてぐるぐると逡巡しゅんじゅんしてしまう。師でもないただの同級生――それだって琴乃ちゃんがそう呼んでいるだけだが――の僕に口出しできる問題でもないのに。

 サロンは広い。だから琴乃ちゃんもみすみす殺されたりはしないだろう。きっと上手くいく。リスクが大きすぎるために犯人も怖気づいて手出ししないかも知れない……それでは意味がないが、この際それでもいい気がした。でも、もし琴乃ちゃんが途中で居眠りするようなことがあったら……いや、これはいくらなんでも琴乃ちゃんに失礼か。

 ガチャリ。

 部屋の扉が開けられて、またぞろ桜野がやって来たのかと思ったが、違った。

「塚場さん、入れてもらえますか?」

 出雲さんだった。僕はすぐにソファーを退けて、彼女を中に入れ、またソファーを扉に着けた。

「塚場さんだけですか?」

「はい、そうですよ。犯人に待ち伏せされていたら怖いので、部屋中チェック済みです」

 出雲さんはそれを聞いて、胸を撫で下ろした様子だった。

「どうかしたんですか?」

 急ぎの報告がある感じでもないけれど。

「えーっと……掛けませんか?」

「あ、そうですね」

 客人である出雲さんに促されるかたちで、僕は彼女と並んでベッドに腰を下ろした。

「ごめんなさい。特に用といったものはないんです」

 出雲さんは俯いているので、髪に隠れて表情は窺えない。だがその声が震えているのは分かった。

「ただ、怖いんです。ひとりだと、どうしても怖くて……耐えられなくて……塚場さんのところに……。あの、迷惑でしょうか」

「とんでもないです。僕じゃ頼りないですけど、それでもいいなら全然僕は構わないです」

「良かった……」

 出雲さんが横に移動し、僕との距離を詰めた。手と手が触れて、僕は咄嗟に引っ込めてしまう。すると出雲さんの手は、今度は僕の腿に乗せられた。

 にわかに緊張してしまう僕。何だろう……出雲さんがひとりじゃ怖いのも本当だろうし、それで僕のところへ来たというのも本当なのだろうけれど、しかし、別の意味合いがある気がするのだ。自意識過剰ではなく……その証拠に、出雲さんはさらに僕との距離を詰め、もう肩と肩が触れている。ここで僕が距離を取るのも失礼だし、どうすればいいのか。まだ昨晩に桜野と風呂に入ったときの方が心中穏やかだったような……。

 互いに無言の時間が続いた。どのくらいの時間が経っただろう、やがて口を開いたのは出雲さんの方だった。

「今晩、この部屋で寝てもいいですか?」

 驚きはしなかった。先ほどから、そういうお願いをされるのではないか、とは場の空気から察しがついていた。だが気の利いた答えを用意できているかどうかは別の話で、答えあぐねていると、

「お願いします」

 出雲さんのずっと俯いていた顔が、こちらに向いた。その潤んだ瞳からは、一筋の涙が頬を伝っていた。間近で見て初めて、彼女の右目に泣きぼくろがあると気付いた。年齢の割に幼い顔立ち……初めて見たときから、僕は彼女が薄幸はっこうそうだと思っていた。いま不安に押し潰されてしまいそうな彼女の姿には、庇護欲を刺激される。

「分かりました」

 僕はできるだけ力強く、頷いた。

 安堵した出雲さんは力が抜けたようで、僕に凭れ掛かってきた。抱き締めたい衝動に駆られたが、それは何と云うか、違うだろうと思い直した。

「紅茶を淹れますよ」

「あ、それなら私が」

 使用人気質が染み付いているのか、出雲さんは率先して紅茶を淹れる役割を請け負った。彼女が離れたおかげで、少し緊張が解れた。しかし既に全身汗だくだ。暖房が効き過ぎている。リモコンで設定温度を二度ほど下げた。

 僕はソファーに移動したが、本来向かいに置かれているべきもう片方はバリケードに使っているため、出雲さんはまた僕の隣に座った。さっきほどくっつかれはしなかったので一安心だが。

 紅茶を啜りながら、僕はとにかく話題を提示しようと「琴乃ちゃんが心配ですね」と云った。その場しのぎに琴乃ちゃんを使ったみたいになってしまったが、心配しているのは本当だ。

 出雲さんは「はい」と答えた後に、また俯いてしまった。事件に関する話を振ったのは失敗だったか。僕も気が回らない奴である。

「塚場さん、夜に地響きみたいな音、聞こえます?」

「地響き、ですか」

 聞いた憶えはない。

「地震……ではないんです。揺れはあまりなかったので」

「昨晩ですか?」

「その前の晩もです」

「そんな話は初めて聞きますね。たぶん出雲さんだけが……いえ、聞き違いだろうという意味ではありませんよ」

「それも怖くて。でもこの部屋なら、聞こえないみたいですね。来て良かったです……。本当は此処に来るまでも怖かったんですけど」

 白生塔に集まった人々の中でおそらく最も臆病な出雲さんだから、途轍もない勇気を要する行動だっただろう。ふと気になって「出雲さんっておいくつなんですか?」と訊ねた。またしても女性に失礼な質問……僕は一旦冷静になった方が良い。

 だが出雲さんは気分を害したふうもなく「二十四です」と答えた。思っていたよりお姉さんだ。となると、本当に童顔である。無花果ちゃんといい、桜野といい、童顔が多いな、と思ったけれど、無花果ちゃんに関しては本当に幼いとも考えられる。やけに年齢を見た目で判断するなと突っかかるのは、年齢で軽んじられないためのブラフというわけだ。本人の前で云ったら大変なことになりそうだが。

 その後も僕と出雲さんのどこかたどたどしい会話は続いた。会話が途切れて雰囲気が妖しさを帯びてくるたびに僕が無理矢理に話題を持ち出すという繰り返しだった。

 やがてはそんな誤魔化しも効かなくなり、時間も時間なので僕は「シャワーを浴びて来ますね」と立ち上がった。そうしてから、さらに誤魔化しが効かない状況へ自らを追い込んでいるような感じがしたけれど、シャワーを浴びるくらいおかしくない。僕には何の下心もないのだ。……誰に云い訳しているのだろう。

「はい……」

 出雲さんまで、まるで何かを悟ったかのような表情で頷く始末だ。

 僕は何の過ちも犯さないぞ、そもそも連続殺人事件の最中に何をふざけたことを、なんて考えながら浴室に向かった。

 ……だが僕のくだらない考えは、最悪のかたちで杞憂と終わった。

 浴室から出た僕を待っていたのは、首だけとなった出雲さんだった。

 吃驚びっくりしたような顔をしていた。


    10


 すぐに隣室から桜野を引っ張って来た。

 出雲さんの首はバリケードとして使っていない方のソファーの上に置かれていた。その周りには大量の血が広がっており、切断場所もそこだと分かる。バリケード用としていた方のソファーはしかし、僕が浴室を出たときにはその役割を全うしていなかった。扉が充分に開く位置まで後退していたからだ。

「君がシャワーを浴びている間に、出雲さんがバリケードを解いて犯人を招き入れ、殺されてしまった、というのが妥当かぁ。塚場くん、何も聞かなかったの?」

「ずっとシャワーを出しっ放しだったし……」

 鼓動もうるさくて、なんては余計だろう。

「塚場くんってシャワーが長い人ではないよね」

「湯船も張ってなかったから、せいぜい十五分だったよ」

「犯人の手際の良さには恐れ入るよ。でも十五分とは随分と、念・入・り・だ・ね、塚場くん」

「ん?」

 桜野はいわゆるジト目で僕を見ていた。

「いつからそんなにモテるようになったのかな」

「そ、そんなこと云ってる場合じゃないだろ」

 照れ隠しや誤魔化しでなく、本気でそう思う。

「それに僕に疚しい気持ちなんてちっとも――」

「はいはい、分かったよぉ」

 桜野は子供をあしらうかのような調子だ。僕は出雲さんが無残な殺され方をしたショックで吐き気と戦っているのに、桜野はまったく普段どおりである。僕だって、死体そのものには慣れてしまっているけれど。

「とにかく、杭原さん達を呼んで来よう」

 桜野と僕はエレベーターを呼び出した。

 扉が開くと、そこにはエプロンドレスを着た胴体――首の欠けた、出雲さんの胴体があった。

「滅茶苦茶だ」

 僕は思わず吐き捨てた。人を食ったような真似ばかりして、なんて悪趣味な犯人なのだろう。

「この階に来るまでの時間から推し量るに、エレベーターは一階か九階のどちらかにあったんだね」

 桜野は冷静な判断を述べつつ、螺旋階段を上がって行く。出雲さんの胴体を放置するのも気が引けたが、僕も桜野に続いた。

 七階で杭原さんと琴乃ちゃんを拾い、今度は皆で九階の無花果ちゃんのもとへ向かう。なるべく集団で動いた方が良い。階段の上がり下がりに辟易した桜野に肩を貸しながらも到着し、九〇二号室を開けようとして、扉が簡単に開くと気付いた。バリケードであるソファーが、その役割を果たさない地点まで後退していたのだ。

「無花果ちゃん!」

 奥に駆け込んだ僕は、箪笥の上に置かれた無花果ちゃんの首と目が合う。

 生前と変わらぬ無表情。もとから人形のような相貌であったから、何かの冗談みたいな光景だった。床全体を染め上げている赤黒い血は、噎せ返りそうなにおいを部屋に充溢じゅういつさせている。まるで血の海。僕はそこに膝をついて、もう一度、

「滅茶苦茶だ……」

 どういうわけか、祈るような気持ちで呟いた。
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