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2日目
4「傷心」
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4
「痛てててっ……」
「あ、動いちゃ駄目ですよ」
僕が使用している五〇二号室には今、僕の他に出雲さんの姿もあった。香奈美ちゃんに噛まれた際にできた傷の手当てをしてもらっているのだ。義治くんの血にまみれてしまった服は既に着替えてある。
「こんなに肉が抉れて……すごい力だったんですね……」
「香奈美ちゃんが怒るのも無理はありませんよ。恋人が殺されたうえ、その首をあんなふうに扱われて」
枷部さんのふざけた演説――本人はふざけていないにしても、香奈美ちゃんにはそう映っただろう――はあまりにも配慮に欠けていた。それに香奈美ちゃんはまだ高校生なのだ。朝に能登さんの死体を見せられ、塔に閉じ込められるかたちとなってなおも気丈に振る舞っていたのだって、相当に無理をしていたのだろう。それがあのとき、とうとう臨界点を越してしまったという話である。
「ごめんなさい、私、何もできませんでした……」
「いいんですよ。それに出雲さんがあの香奈美ちゃんに近づいていたら危険だったと思います」
消毒が終わり、出雲さんは僕の腕に包帯を巻く。
「優しいですね、塚場さんは」
出雲さんの安堵したようなその微笑みが不意に魅力的に感じられて、僕は少しドキドキした。
「そんなことないです」
「ありますよ。塚場さんがいて、良かったです。私、本気でそう思うんです。だって此処の人達は、その……皆様とても変わってますでしょ? 塚場さんだけが、あ、いえ、平凡とかそういう意味じゃなくて、塚場さんも立派な小説家の方ですけど、それでも素朴と云いますか……」
気を遣い過ぎてとても喋りにくそうだった。
「たしかに人畜無害なんてはよく云われますね」
「えーっと、そういう畏まった言葉でもなくて……やっぱり、優しいんだと思います。あ、桜野さんも良い人だし面白いですけど」
「まぁ桜野も無害ですけど、あいつの場合は何を考えてるのか分からないところがありますからね。そもそも何も考えていないのかも」
桜野は今、杭原さん達とサロンにいる。手当てが済んだらすぐに向かうから先に行っててくれ、と僕が云ったからだ。
「ずっと読書なさってますよね。私が読んだ小説、これは塚場さんが書いた桜野さんの小説ですけど、その中でも事件中によく読書していましたね」
「どんな日でも一定以上は推理小説を読まないと気が狂う病気なんですよ、桜野は。此処では獅子谷氏の蔵書に希少なものがたくさん見つかって、いつもより過剰になってますけど」
「そうなんですね。……はい、下手ですが、いちおう私なりに手当てできました」
「ありがとうございます」
僕は礼を述べて、立ち上がった。
「出雲さんは先にサロンに戻っていてください。僕は香奈美ちゃんに会ってから行きます。何だか心配なので」
「えっ、危険じゃありませんか?」
「大丈夫ですよ。もう落ち着いてるみたいですし。それに、褒められたものじゃないんで云いにくいですが、これは僕の癖みたいなものです」
「癖、と云いますと?」
「こういう事件が起きたとき、できるだけ話を聞いて回らないと気が済まないんです。被害者が二人も出て、僕も変なスイッチが入ってしまいました」
「ああ、小説家として、ですか」
ついさっき僕だけが普通で安心した、と云ってくれた出雲さんを裏切るようで心が痛んだが、彼女は別段気にしていなさそうだった。
「それじゃあ、また後で」
「はい。お気を付けて」
僕と出雲さんは螺旋階段で別れ、それぞれ上と下へ向かった。香奈美ちゃんのいる八階は少し遠いが、ひとりでエレベーターを利用するのは何だか嫌な感じがしたのでやめた。螺旋階段なら誰かが近づいてくれば音で分かるし、片面が隙間だらけなのでちょっとした安心感がある。
僕はこの事件を小説に書くだろうか。これまでの中でも奇怪さにおいては頭ひとつ抜けたシチュエーションなので、単純に小説映えするだろうとは思う。我ながら実に不謹慎な考えで、これでは枷部さんや杭原さんを責められたものじゃないが、こればかりは長年そうやって生きてきただけに仕方がない。それに、小説にするのなら生半可な気持ちで臨んではいけない。誠心誠意、このような悲劇が二度と起きないようにという願いも籠めて、真摯な姿勢で事件の全貌を綴る必要がある。それは未熟ながらも小説家としての僕の譲れない部分だ。
ただ、と思う。ただ、僕が小説を書けるとしたら、それはこの事件を僕が生き抜いたらの話なのだ。この事件ではおそらく、桜野と僕も標的の内に入れられている。命を狙われた事件も過去にはあったが、はじめからその目的で呼ばれたような経験はなかった。警戒心は常に持っていよう、と僕は自分に云い聞かす。
香奈美ちゃんは義治くんと二人で八〇一号室を使用していたようだが、その部屋はもう血まみれでとても使える状態ではないので、いまの香奈美ちゃんは八〇二号室に移っている。義治くんの死体は八〇一号室に置かれたままだ。胴体はあの後すぐに、首が置かれていたベッドの下から発見された。なぜか意図的に隠されていたのだ。
「失礼するよ、香奈美ちゃん」
扉を少し開けたところで、何かにつっかえた。ソファーのひとつがバリケードのように使われているのだ。これは先ほど、杭原さんが用心のために提案したことだった。
「なに。香奈美を殺しに来たの?」
低く沈んだ声が、奥の方から聞こえてくる。
「違うよ。話をしに来たんだ。僕は犯人じゃない。どうしても信用できないなら、この扉を開けたままにしておこう。僕が何かしたら、大声で僕の名前を叫んでしまえばいい」
返答はなく、しばらく居心地の悪い静寂が訪れる。諦めるべきかと思ったとき、ズズズとソファーを引きずる音がして、扉が開くようになった。
「ありがとう」
香奈美ちゃんの目は虚ろで、その顔には生気が宿っていなかった。ニット帽は被っていない。髪と衣服も乱れたままで、見るからに痛々しい。あまり刺激しない方が良さそうだ。
「話って何」
そう訊かれて初めて、考えなしに此処まで来てしまったと気付いた。
「えーっと、とりあえず奥で座っていい?」
このまま立ち話というのもやりづらい。
香奈美ちゃんは無言で、奥の方へ歩いて行く。僕もそれに続いた。香奈美ちゃんがベッド、僕がその向かいまで椅子を動かしてそこに座った。
「僕はもう誰にも殺されて欲しくないんだ。そのためには犯人に関する手がかりを得て、対抗策を練らないといけない」
「探偵の真似事? あんたって桜野美海子のおまけなんじゃなかったの?」
「桜野は能動的に情報を集めて回るってことをあまりやらないタイプでね、少なくともエンジンがかかるまでは。だから僕がそういう役回りになる場合が多いんだよ」
僕がいなくても桜野はひとりで事件を解決できるし、必要と判断した情報に関しては収集を怠らないので、大抵は僕の行いに意味はないのだが。
「ふぅん。でも、もうどうでもいいよ。義治は死んじゃったんだもん。みんな殺されればいいんじゃない?」
投げやりな言葉だが、その口調には棘があるように感じられる。
「それはいけないよ。第一、香奈美ちゃんだって危ないんだ。一時の感傷で自分を粗末にしちゃあ――」
「一時の感傷! ねぇ、あんたそれ本気で云ってんの?」
香奈美ちゃんの腰が浮きかけて、僕は失言だったと悟った。
「ごめん。でも自暴自棄になっちゃ駄目だ。絶対に駄目だ。それこそ犯人の思う壺だよ」
「あんたの言葉って薄っぺらね。流行ってたから香奈美もあんたの小説読んだことあるけど、全然心を打たれなかった。あんたも、他の探偵共もみんな死ねばいいのに」
香奈美ちゃんの語気が段々と強まっていく。
「探偵もあんたみたいな小説家も、最低よ。人の大事な部分に土足で這入ってきては踏み荒らして。偉そうにご高説垂れて、自分達がどんなに酷いことしてるか考えようともしない。殺人犯と変わらないわ。どっちも人殺しをゲームみたいに扱う異常な連中よ」
義治は違った、と云って香奈美ちゃんは僕を睨む。その眼光は年齢不相応に強く、鋭い。僕は椅子に縫い付けられたみたいに硬直してしまった。
「義治は口が悪いけど、心は誰よりも綺麗なんだ。だから義治は人の秘密を詮索したりしないし、いつも距離を取って傷付けないようにしてるんだ。そうして孤独になっちゃって……香奈美はそんな義治を好きになったのよ」
その瞳が涙で潤んでいく。今にも一筋、頬を伝いそうだ。ベッドのシーツを握り締める手は小刻みに震えている。
「あんたらは全員偽善者なんだ。謎解き謎解きって、結局は自分が楽しむことしか考えてない。散々みんなを傷付けた後で、謎を解いて英雄扱いされる自分は高笑いしながら去って行く。どうしてあんたらが無事で、義治が殺されなきゃいけないの!」
そこで少し咳き込んだ後、香奈美ちゃんは俯き「それが悔しくて堪らない……」と呟いた。消え入りそうな声だった。
「……君は立派だよ、香奈美ちゃん。義治くんのことも、僕は誤解していた。……彼の活躍については僕も何度も耳にしていたよ。間違いなく、彼も立派な探偵……立派な人物だった。君の悔しさは何も間違ってない。正しくて、大事な気持ちだ」
拙くも、僕は素直な感想を口にした。香奈美ちゃんには僕の言葉なんて底が浅くて響かないのかも知れないけれど、それでも誠意だけは伝わって欲しい。
「……ふん、そういう説教が嫌いだって云ってんの」
その言葉とは裏腹に、先ほどまでの敵愾心は消えていた。僕にはそう見えた。
「そもそも、香奈美は死ぬつもりなんてないし。……義治はそれを嫌がるって分かってるから」
「うん、その通りだ。余計な説教をしてしまったね」
「別に。……それで、何が訊きたいの?」
香奈美ちゃんは質問に答える気になってくれたらしい。
「義治くんは僕らの前で披露した以外に、事件について何か洩らしていなかったかな」
香奈美ちゃんは考えるような仕草を見せた。
「……特に何も。義治は出雲って女が犯人だって云ってただけで……でも、香奈美にも分かるよ、それは義治の勘違いだったって。香奈美が料理をつくるために義治から離れてる間、あの女はずっとあんた達といたからね。さっきは疑うようなこと云ったけど、同じ理由であんたも犯人じゃない」
香奈美ちゃんがもう出雲さんを疑っていないと知り、僕は驚いた。生前の義治くんの推理だから、もっと固執するものと思っていたのだ。
「義治くんと同じで、香奈美ちゃんも合理的に物事を考えられるんだね」
「当たり前じゃん。結婚を前提とした付き合いなんだから」
云ってから、香奈美ちゃんの表情が陰った。今は何を云っても、もう義治くんはいない、という事実に向き合わなければならない。それはまだ高校生の女の子にとって、あまりに酷だ。
「まぁ結婚は香奈美が勝手に云ってただけなんだけどね。義治ってば、素直じゃないんだから……」
香奈美ちゃんは肩を震わせ、ひっそりと泣き出した。泣き声を必死で押し殺そうとしているのは、霊堂義治の恋人としての抵抗なのかも知れない。
どうやらこれ以上話をするのは、香奈美ちゃんにとって悪い効果しか生まなさそうだ。
「ごめんね、僕は出直すとするよ。香奈美ちゃん、ゆっくり休むんだ。ちゃんと扉は開かないようにしてね」
ひとりできちんと泣くべきなのだ。一生のうちで人は、そうやって乗り越えるしかない試練をいくつか経験しなければならない。それは途轍もなく辛いけれど、当人にとって何より大切なことで、他の人間なんかが干渉しては絶対にいけないのである。
部屋を出ようとしたとき、香奈美ちゃんに「待って」と呼び止められた。
「ひとつだけ……ひとつだけ、義治が云ってた」
「教えてくれるかな」
香奈美ちゃんは眉を顰め、その名前を口にするのが恐ろしくて堪らないというふうに、告げた。
「枷部って男には気を付けろ、って」
「痛てててっ……」
「あ、動いちゃ駄目ですよ」
僕が使用している五〇二号室には今、僕の他に出雲さんの姿もあった。香奈美ちゃんに噛まれた際にできた傷の手当てをしてもらっているのだ。義治くんの血にまみれてしまった服は既に着替えてある。
「こんなに肉が抉れて……すごい力だったんですね……」
「香奈美ちゃんが怒るのも無理はありませんよ。恋人が殺されたうえ、その首をあんなふうに扱われて」
枷部さんのふざけた演説――本人はふざけていないにしても、香奈美ちゃんにはそう映っただろう――はあまりにも配慮に欠けていた。それに香奈美ちゃんはまだ高校生なのだ。朝に能登さんの死体を見せられ、塔に閉じ込められるかたちとなってなおも気丈に振る舞っていたのだって、相当に無理をしていたのだろう。それがあのとき、とうとう臨界点を越してしまったという話である。
「ごめんなさい、私、何もできませんでした……」
「いいんですよ。それに出雲さんがあの香奈美ちゃんに近づいていたら危険だったと思います」
消毒が終わり、出雲さんは僕の腕に包帯を巻く。
「優しいですね、塚場さんは」
出雲さんの安堵したようなその微笑みが不意に魅力的に感じられて、僕は少しドキドキした。
「そんなことないです」
「ありますよ。塚場さんがいて、良かったです。私、本気でそう思うんです。だって此処の人達は、その……皆様とても変わってますでしょ? 塚場さんだけが、あ、いえ、平凡とかそういう意味じゃなくて、塚場さんも立派な小説家の方ですけど、それでも素朴と云いますか……」
気を遣い過ぎてとても喋りにくそうだった。
「たしかに人畜無害なんてはよく云われますね」
「えーっと、そういう畏まった言葉でもなくて……やっぱり、優しいんだと思います。あ、桜野さんも良い人だし面白いですけど」
「まぁ桜野も無害ですけど、あいつの場合は何を考えてるのか分からないところがありますからね。そもそも何も考えていないのかも」
桜野は今、杭原さん達とサロンにいる。手当てが済んだらすぐに向かうから先に行っててくれ、と僕が云ったからだ。
「ずっと読書なさってますよね。私が読んだ小説、これは塚場さんが書いた桜野さんの小説ですけど、その中でも事件中によく読書していましたね」
「どんな日でも一定以上は推理小説を読まないと気が狂う病気なんですよ、桜野は。此処では獅子谷氏の蔵書に希少なものがたくさん見つかって、いつもより過剰になってますけど」
「そうなんですね。……はい、下手ですが、いちおう私なりに手当てできました」
「ありがとうございます」
僕は礼を述べて、立ち上がった。
「出雲さんは先にサロンに戻っていてください。僕は香奈美ちゃんに会ってから行きます。何だか心配なので」
「えっ、危険じゃありませんか?」
「大丈夫ですよ。もう落ち着いてるみたいですし。それに、褒められたものじゃないんで云いにくいですが、これは僕の癖みたいなものです」
「癖、と云いますと?」
「こういう事件が起きたとき、できるだけ話を聞いて回らないと気が済まないんです。被害者が二人も出て、僕も変なスイッチが入ってしまいました」
「ああ、小説家として、ですか」
ついさっき僕だけが普通で安心した、と云ってくれた出雲さんを裏切るようで心が痛んだが、彼女は別段気にしていなさそうだった。
「それじゃあ、また後で」
「はい。お気を付けて」
僕と出雲さんは螺旋階段で別れ、それぞれ上と下へ向かった。香奈美ちゃんのいる八階は少し遠いが、ひとりでエレベーターを利用するのは何だか嫌な感じがしたのでやめた。螺旋階段なら誰かが近づいてくれば音で分かるし、片面が隙間だらけなのでちょっとした安心感がある。
僕はこの事件を小説に書くだろうか。これまでの中でも奇怪さにおいては頭ひとつ抜けたシチュエーションなので、単純に小説映えするだろうとは思う。我ながら実に不謹慎な考えで、これでは枷部さんや杭原さんを責められたものじゃないが、こればかりは長年そうやって生きてきただけに仕方がない。それに、小説にするのなら生半可な気持ちで臨んではいけない。誠心誠意、このような悲劇が二度と起きないようにという願いも籠めて、真摯な姿勢で事件の全貌を綴る必要がある。それは未熟ながらも小説家としての僕の譲れない部分だ。
ただ、と思う。ただ、僕が小説を書けるとしたら、それはこの事件を僕が生き抜いたらの話なのだ。この事件ではおそらく、桜野と僕も標的の内に入れられている。命を狙われた事件も過去にはあったが、はじめからその目的で呼ばれたような経験はなかった。警戒心は常に持っていよう、と僕は自分に云い聞かす。
香奈美ちゃんは義治くんと二人で八〇一号室を使用していたようだが、その部屋はもう血まみれでとても使える状態ではないので、いまの香奈美ちゃんは八〇二号室に移っている。義治くんの死体は八〇一号室に置かれたままだ。胴体はあの後すぐに、首が置かれていたベッドの下から発見された。なぜか意図的に隠されていたのだ。
「失礼するよ、香奈美ちゃん」
扉を少し開けたところで、何かにつっかえた。ソファーのひとつがバリケードのように使われているのだ。これは先ほど、杭原さんが用心のために提案したことだった。
「なに。香奈美を殺しに来たの?」
低く沈んだ声が、奥の方から聞こえてくる。
「違うよ。話をしに来たんだ。僕は犯人じゃない。どうしても信用できないなら、この扉を開けたままにしておこう。僕が何かしたら、大声で僕の名前を叫んでしまえばいい」
返答はなく、しばらく居心地の悪い静寂が訪れる。諦めるべきかと思ったとき、ズズズとソファーを引きずる音がして、扉が開くようになった。
「ありがとう」
香奈美ちゃんの目は虚ろで、その顔には生気が宿っていなかった。ニット帽は被っていない。髪と衣服も乱れたままで、見るからに痛々しい。あまり刺激しない方が良さそうだ。
「話って何」
そう訊かれて初めて、考えなしに此処まで来てしまったと気付いた。
「えーっと、とりあえず奥で座っていい?」
このまま立ち話というのもやりづらい。
香奈美ちゃんは無言で、奥の方へ歩いて行く。僕もそれに続いた。香奈美ちゃんがベッド、僕がその向かいまで椅子を動かしてそこに座った。
「僕はもう誰にも殺されて欲しくないんだ。そのためには犯人に関する手がかりを得て、対抗策を練らないといけない」
「探偵の真似事? あんたって桜野美海子のおまけなんじゃなかったの?」
「桜野は能動的に情報を集めて回るってことをあまりやらないタイプでね、少なくともエンジンがかかるまでは。だから僕がそういう役回りになる場合が多いんだよ」
僕がいなくても桜野はひとりで事件を解決できるし、必要と判断した情報に関しては収集を怠らないので、大抵は僕の行いに意味はないのだが。
「ふぅん。でも、もうどうでもいいよ。義治は死んじゃったんだもん。みんな殺されればいいんじゃない?」
投げやりな言葉だが、その口調には棘があるように感じられる。
「それはいけないよ。第一、香奈美ちゃんだって危ないんだ。一時の感傷で自分を粗末にしちゃあ――」
「一時の感傷! ねぇ、あんたそれ本気で云ってんの?」
香奈美ちゃんの腰が浮きかけて、僕は失言だったと悟った。
「ごめん。でも自暴自棄になっちゃ駄目だ。絶対に駄目だ。それこそ犯人の思う壺だよ」
「あんたの言葉って薄っぺらね。流行ってたから香奈美もあんたの小説読んだことあるけど、全然心を打たれなかった。あんたも、他の探偵共もみんな死ねばいいのに」
香奈美ちゃんの語気が段々と強まっていく。
「探偵もあんたみたいな小説家も、最低よ。人の大事な部分に土足で這入ってきては踏み荒らして。偉そうにご高説垂れて、自分達がどんなに酷いことしてるか考えようともしない。殺人犯と変わらないわ。どっちも人殺しをゲームみたいに扱う異常な連中よ」
義治は違った、と云って香奈美ちゃんは僕を睨む。その眼光は年齢不相応に強く、鋭い。僕は椅子に縫い付けられたみたいに硬直してしまった。
「義治は口が悪いけど、心は誰よりも綺麗なんだ。だから義治は人の秘密を詮索したりしないし、いつも距離を取って傷付けないようにしてるんだ。そうして孤独になっちゃって……香奈美はそんな義治を好きになったのよ」
その瞳が涙で潤んでいく。今にも一筋、頬を伝いそうだ。ベッドのシーツを握り締める手は小刻みに震えている。
「あんたらは全員偽善者なんだ。謎解き謎解きって、結局は自分が楽しむことしか考えてない。散々みんなを傷付けた後で、謎を解いて英雄扱いされる自分は高笑いしながら去って行く。どうしてあんたらが無事で、義治が殺されなきゃいけないの!」
そこで少し咳き込んだ後、香奈美ちゃんは俯き「それが悔しくて堪らない……」と呟いた。消え入りそうな声だった。
「……君は立派だよ、香奈美ちゃん。義治くんのことも、僕は誤解していた。……彼の活躍については僕も何度も耳にしていたよ。間違いなく、彼も立派な探偵……立派な人物だった。君の悔しさは何も間違ってない。正しくて、大事な気持ちだ」
拙くも、僕は素直な感想を口にした。香奈美ちゃんには僕の言葉なんて底が浅くて響かないのかも知れないけれど、それでも誠意だけは伝わって欲しい。
「……ふん、そういう説教が嫌いだって云ってんの」
その言葉とは裏腹に、先ほどまでの敵愾心は消えていた。僕にはそう見えた。
「そもそも、香奈美は死ぬつもりなんてないし。……義治はそれを嫌がるって分かってるから」
「うん、その通りだ。余計な説教をしてしまったね」
「別に。……それで、何が訊きたいの?」
香奈美ちゃんは質問に答える気になってくれたらしい。
「義治くんは僕らの前で披露した以外に、事件について何か洩らしていなかったかな」
香奈美ちゃんは考えるような仕草を見せた。
「……特に何も。義治は出雲って女が犯人だって云ってただけで……でも、香奈美にも分かるよ、それは義治の勘違いだったって。香奈美が料理をつくるために義治から離れてる間、あの女はずっとあんた達といたからね。さっきは疑うようなこと云ったけど、同じ理由であんたも犯人じゃない」
香奈美ちゃんがもう出雲さんを疑っていないと知り、僕は驚いた。生前の義治くんの推理だから、もっと固執するものと思っていたのだ。
「義治くんと同じで、香奈美ちゃんも合理的に物事を考えられるんだね」
「当たり前じゃん。結婚を前提とした付き合いなんだから」
云ってから、香奈美ちゃんの表情が陰った。今は何を云っても、もう義治くんはいない、という事実に向き合わなければならない。それはまだ高校生の女の子にとって、あまりに酷だ。
「まぁ結婚は香奈美が勝手に云ってただけなんだけどね。義治ってば、素直じゃないんだから……」
香奈美ちゃんは肩を震わせ、ひっそりと泣き出した。泣き声を必死で押し殺そうとしているのは、霊堂義治の恋人としての抵抗なのかも知れない。
どうやらこれ以上話をするのは、香奈美ちゃんにとって悪い効果しか生まなさそうだ。
「ごめんね、僕は出直すとするよ。香奈美ちゃん、ゆっくり休むんだ。ちゃんと扉は開かないようにしてね」
ひとりできちんと泣くべきなのだ。一生のうちで人は、そうやって乗り越えるしかない試練をいくつか経験しなければならない。それは途轍もなく辛いけれど、当人にとって何より大切なことで、他の人間なんかが干渉しては絶対にいけないのである。
部屋を出ようとしたとき、香奈美ちゃんに「待って」と呼び止められた。
「ひとつだけ……ひとつだけ、義治が云ってた」
「教えてくれるかな」
香奈美ちゃんは眉を顰め、その名前を口にするのが恐ろしくて堪らないというふうに、告げた。
「枷部って男には気を付けろ、って」
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