虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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果てなき虚無へと堕ちる幕切れ

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 いまや夜のとばりが降りて、街灯は明かりをともしていた。

 商店街に入って戸倉ビルに近づくにつれ、何かざわざわと騒がしいものを感じるようになった。そりゃあいまの火津路町は盛り上がっているけど、そうじゃなく、嫌な予感みたいなものを……。

 それは的中して、戸倉ビルは表通りから引っ込んだ場所にあるというのに、遠目にも人だかりが確認できた。昼間より明るいライトの洪水、スピーカー越しの声に被さる数々の野次――後ろの黄昏が「ちょっと。もしかしてあそこ? 囲まれてんじゃん」と腹をパシパシ叩く――でも僕は止まるつもりも引き返すつもりもなかった。冷や汗が噴き出す。心拍数が上がる。こめかみが締め付けられるみたいに痛い。

「刹先輩、まずいって。止まってよ、ねぇ」

 抗議の声にも構ってられない。これは危機だ――姉さんの危機だ。間に合わなかったのか? 嘘だろう? 失敗したのか僕は? あんなに頑張ったのに?

 状況は一目瞭然だった。人だかりの寸前まで乗り付けて急ブレーキ。自転車から飛び降りた。周りの人たちと黄昏が「きゃあ」だの「うわっ」だのと少しざわめいたが、その他大勢の声、この場の喧騒けんそうにかき消される。人々は所詮、周りの周りを取り巻いてるに過ぎない――戸倉ビルを包囲しているのは警察だった。

 すべてのライト、人々の視線は戸倉ビルの最上階、そのベランダに集中していた。其処には眼下を見下ろす二つの人影。片方は阿弥陀だった。いつもの気取った余裕なんぞ見る影なく、血相を変えて何やら喚き立てているが――こいつはどうでもいい。それよりも、阿弥陀が半ば抱くようにしてナイフの切っ先を首元に突き付けてる人物――――それは何百年かぶりに見る、姉さんの姿だった。

「あ、あっ、ああ、あ、あっ、あああ、あ、あっ」

 僕はどもっちまって、思うように声が出なかった――でも何を云おうとしてるのかも分からなかったし、僕のこともやっぱりどうでもいいんだ。姉さんだよ。姉さんが生きてたんだ――やっぱり! しかも生首なんかじゃない――ちゃんと身体がある! 顔も髪型も何も変わってない。僕が知るままの姉さん――会いたくて会いたくて死んでしまいそうだった、焦がれ続けてきた姉さんそのものだ! 完璧に!

「刹先輩っ、馬鹿っ、戻ろうっ、何してんのっ」

 黄昏が耳元で小うるさく云いながら、腕を引っ張ってくる。しかし僕はもう、姉さんから目を離せない。ずっとずっと会いたかったんだ。やっと会えたんだよ。

「ね、ね、姉さんだ、姉さんだよ、き、君も見ろ、ほら、あそこ、」

「は? あの女の子? 生首じゃないよ?」

「身体を得たんだよ、見れば分かるだろ、首の周りに縫い付けた痕がある、はは、そうだよ――可能なんだ、首を切断した直後の胴体に、神経や血管なんかが合うようにくっ付ければ、そのまま生命活動が持続されるんだ――姉さんの首も下のとこを新たに薄く切ってね、サイズが合うそれ――拒絶反応が起こらないそれさえ見つけられたなら――きっと百合莉の胴体だ、そう云えばあいつの首回りの感じとか、実に誂え向きだった――姉さんはついに、完全に復活を遂げたっ」

「なに云ってんだよ? おかしくなったの? 刹先輩ってば!」

 その時だった。姉さん――嗚呼、どうしてそんな、泣き出しそうな顔になってるんだい? 僕まで胸が苦しくなるよ――姉さんは天を仰ぐと、不安いっぱいの眼差しを宙に彷徨わせ、振り絞るかのように叫んだ。

「刹くぅーーーーーーんっ!」

 ああっ! 姉さんの声だ! 懐かしい姉さんの声、でも姉さんのこんなに大きな、しかも痛切な声を聞くのははじめてだったな! なんていじらしい叫び声なんだろう!

「どこなのぉーーーーっ! 刹くぅーーーーーーんっ!」

「ねっ、ね、ねぇ、ね、ねぇっ――」

 姉さん、此処だ!と叫びたいのに、舌がもつれる。全身がガタガタ震えて、立っているのもやっとなくらいだ。姉さんが僕を呼んでいるのに! 応えてやらないと、応えてやらないと!

「刹くぅーーーーんっ! 助けてぇーーーーっ、刹くぅーーーーーーんっ!」

 助ける、今助ける、今助けるよ姉さん! どんなことをしてでも!

「た、黄昏、手榴弾を持ってるな? か、貸してくれ」「は? 何する気?」後ろの方からププーッ!プププーッ!と車のクラクションみたいなのが聞こえる。「いいから貸してくれよっ! 分からないのか? こいつら全員消し飛ば――」「馬鹿! できるわけないでしょ。戻るよっ、どうしちゃったの本当に!」「うるせえな! 黙って貸――」

 ギュギュギュギュギュギュッ!と強く擦れるみたいな音がすぐ背後でして――背中を何かがかすめ――反射的に振り返って、車だ――と思った直後、身体が浮いた――思い切り引っ張り上げられたんだ。一瞬の出来事だった。僕は背中を打ち付けた。口から空気がごばあっと洩れて――視界に映っているのは天井だった。

 さらに右と左からそれぞれ、見知った餓鬼の顔が覗き込んでいた。

「回収完了だなー」

「こんばんわ、お兄さん」

 瑞屋憐と、珠井宮だ。此処は車内――今も走行中――しかも戸倉ビルに背を向けて!

「馬鹿かっ! 僕じゃなくて姉さんを――」と訴える途中で、髪の毛を掴まれて持ち上げられて直後にガンッと叩き付けられた。「だあっ!」視界が明滅する。その中に、上からぬぅっと、これは見たこともない男の顔が現れた。

「騒ぐんじゃねぇよ。いいなぁ?」

 ゾッとした。そいつは岩みたいな顔面をしたスキンヘッドの男で、半開きの瞼から覗いてる両目は真っ赤で、その目元も口元もニタニタと気色悪い笑みに歪んでいた。こちらの常識だの価値観だのの枠外にいる人物だと、一目で分かった。僕を車内に引っ張り上げた怪力の持ち主も、こいつだ……。

「……で、でも、阿弥陀が姉さんを、人質ひとじちにしてやがったんだ! あれじゃあ――」

「安心しろよ」

 これは瑞屋。相変わらず、餓鬼のくせにこちらを見下してくる。

「あんなの時間稼ぎのためのポーズだよ。捕まったって何てことねぇしな」

「ほら、あたし達には〈アウフヘーベン〉がついてますから。承吉さんもお兄さんのお姉さんも、上手く解放してくれますよ。またすぐ会えますって」

「……………………」

 嗚呼……僕は急激に、熱が冷めていく感覚を覚えた。

 何をムキになってたんだろうか……僕らしくない……。

 それに、安心したのも事実だった。はは、失念していたよ……〈アウフヘーベン〉という規格外の味方がいるんだ……。姉さんにはまた、会える……。それでもあの、胸をつんざくような叫びを思い出すと、苦しくなったけど……今は我慢、我慢するしかない……。聞き分けのない子供じゃあ、ないんだからな……。

 いくらか冷静さを取り戻した僕は、眼球だけ動かして車内を観察した。ワンボックスカー……でも先程ちらと見えた車体は黒塗りじゃなくて白だったと思う……黒塗りワンボックスカーがマークされているという情報を得て、変えたんだろう。それでも窓には色が入っていて、外から中の様子が見えないようになっている。運転席と助手席より後ろの座席はすべて畳まれていて、其処に膝を折って仰向けで寝かされている僕の左右を瑞屋と珠井、後ろをスキンヘッド男が囲んでいるという格好だった。他にも段ボール箱やボストンバッグやゴルフバッグなんかが雑多に犇めいていて、それから煙草臭い……。

「それで、僕らは火津路町を出ようとしてるんだな……?」

「そーゆーこと。次の活動拠点は決まってんだ。これも〈アウフヘーベン〉が用意してくれた」

「〈夜の夢〉も本格始動ですね。楽しくなりますよー」

「……どうして、黄昏も一緒に回収してくれなかったんだ。そうする約束だっただろ?」

「知らねぇよー。どうでもいいじゃねぇか、あんな女」

「定員オーバーです。あの人は〈夜の夢〉じゃありませんしねー」

「………………」

 諦めた。今から戻れと云って戻れるわけもない。黄昏だって、既にあそこにはいないだろう。ああ……彼女は僕に、幻滅したかな。姉さんを目にした瞬間、僕にとっても彼女は眼中になかったし……まぁ、こういうものだ。ちょっと親しくなったような気になっては、呆気なく離れていく。結局はそれだけのことなんだ。

 ならばもう、こいつら……〈夜の夢〉の方が、僕の性根に合ってるのかも知れない。こいつらを好きになることなんて絶対にないから、かえって気が楽だろう。こういう利害の一致でつるむ関係の方が、長続きしたりもするしな……アダム・スミスも云っていた。博愛心に期待しても無駄、それよりも『自分に有利になるように仲間の自愛心を刺激すること』と、それが『仲間自身の利益にもなるということを、仲間に示すこと』だとか……。

「しっかし、あいつにはやられたなー。海老川蝶子だっけ」

 瑞屋が舌打ちした。なるほど、戸倉ビルについて警察に垂れ込んだのはあの人か。

「女探偵さんですね。前に一度訪ねてきましたけど、あのときに殺しとくべきでしたねー」

「海老川さんなら、」

 いちおう、報告しておくことにした。

「僕が殺したよ。ついさっき」

 ひゅう♪と口笛を吹く瑞屋。

「やるじゃん」

「……まだ、海老川蜂美なんて人もいるらしいけどね」

 すると後ろのドアに凭れているらしいスキンヘッド男が突然、「蝶のように舞いゆらりゆら、蜂のように刺すブンブンバァ」なんて歌い出した。大丈夫かこいつ?

「お手柄ですね、お兄さん。あ、そうですそうです、此処にいるメンバーを紹介しますね」

「ああ……起き上がってもいいかい?」

「どうぞどうぞ」

 身を起こすと軽く眩暈。後頭部がズキズキと痛む。窓外を見れば、車は片側二車線の国道に出ていた。

「じゃあまず改めてあたしから……珠井宮です。たまQって呼んで欲しいですけど、今のところ誰も呼んでくれないんですよねー」

「だってだせぇもん」

 瑞屋が口を挟む。

「俺は瑞屋憐な。基本的には俺と珠井とで殺しはやる。よろしくな」

「ださくないですし、可愛いですし」

 珠井は頬を膨らませたが、すぐに無邪気な笑顔に戻ると今度は運転席を指さした。

「阿弥陀麗水れいすいさん。承吉さんのお兄さんで、あたし達の運転手です」

「へぇ……」

 阿弥陀に兄がいるというのは……前に聞いた気もするが聞かなかった気もする。窓に映った顔はひどく不愛想で、自分が紹介されてても我関せずといった態度……歳は二十歳くらいだろうか……無言でハンドルを握っていた。今にも貧血で倒れそうな顔色、体型は痩せぎす、口には煙草を咥えている。

「麗水さんは全っ然喋らないんです。ヘビースモーカーで――」

「セブンスターを一日三箱開けるんだ」

 瑞屋が引き取った。

「この銘柄からも分かるが、綾辻行人の愛読者だよ」

「でも『十角館』は大嫌いだそうなんで、気を付けてください。あ、『十角館』しか読んでない〈にわか〉が嫌いなんでしたっけ?」

「そんであっちが――」

 瑞屋が後方のスキンヘッド男を顎で示す。

「――柴城しばしろ愛一郎あいいちろうさんだ。〈夜の夢〉の用心棒。半開きの真っ赤な目ん玉、薄笑いのガンジャマンだな」

 その通りニタニタと薄笑いを浮かべ、「仲良くしようぜぇ」と云う芝城。たしかに筋肉隆々の体型で、腕っぷしは強そうだ。仲良くしたくはないが。

「名前から亜愛一郎が好きなのかと思いきや、海外ミステリしか読まないそうです」

「ブラウン神父が好きなんだとよ。意外だろ?」

 いや、分かってはいたけどさ……変態しかいないじゃねぇか……。

「そーしーてー、お兄さんっ!」

 珠井はぐいっと身を乗り出してきた。

「蟹原刹。あたし達の〈首将〉ですね!」

「……………………」

 時間が止まったかと思った――が、そこで不意に「おい芝城っ!」と阿弥陀麗水が怒鳴り声を上げた。

「此処はお前の焚き部屋じゃねえ!」

 ……喋らないんじゃなかったのかよ。

「いいだろぉ、別に」

 芝城は胡坐あぐらをかいた中に首の長い大きなフラスコみたいなものを置いて、傍らの鞄を漁りながら何やら準備に取り掛かっていた。

「火気厳禁なら、お前も煙草やめるんだなぁ」

 そういやガンジャマンと云っていたな……つまり大麻か。真後ろでそんなもの吸われちゃ僕も嫌だったけれど、いや、そんなことはいいんだ。それよりも、

「珠井、」

「たまQって呼んでくださいよー」

「珠井、僕が〈首将〉だとか云わなかったかい?」

「はい、云いましたよ」

「勘違いだよ。僕は新入りなんだか――」

「お兄さん、それはもういいじゃないですか。面倒臭いんで、これからは〈こっち〉で通してくださいよ」

「………………」

 二の句が、継げなくなった。

「そうだぜ、〈首将〉」

 瑞屋が馴れ馴れしく肩を組んでくる。

「もう二重生活でもないんだし、〈首将〉の方だけで充分じゃねぇか」

「……離せ。僕に触るな」

「は。よく分かんねぇけど、二重人格なんだっけ? そんなんでこれから、どうやってい――」

「はっはっはっは!」

 笑っちまった。笑っちまったよ。だってこいつらまで、海老川さんみたいなことを云うもんだからさ。

「勘違いしてるよ君達! 〈首将〉は僕じゃなくて、僕の姉さんなんだ! 知らなかったのかい!」

「ばーか。あんたの姉さんはさっき〈完成〉したところだろうが。白樺百合莉をつくり変えてよー」

「違う!」

「違くねぇよ。そのための催眠術と整形手術だろ? 声帯までいじくっ――」

「やめろ! それ以上云うんじゃ――」

「あのよォ! しっかりしてくれよ頼むから! 〈首将〉はあんただ! 全部あんたの指示なんだよ! 〈夜の夢〉はあんたがつくっ――」

「うわああああああああああああああああ!」

 僕は瑞屋を振り払って突き飛ばした。さらに掴み掛かって殴ろうとして――「やめてください!」――珠井が飛びついてくる――バランスを崩した僕は後ろの柴城にぶち当たり、彼がガチャガチャ準備していた器具ごと豪快にひっくり返る。「あっ! 何するんだてめぇ!」熱い――何かが燃えていると思った矢先――白い煙がモクモクモクと視界を包み込んできた。「おいおいおい!」「うひゃあ!」「芝城っ、何してやがんだっ!」「俺じゃねぇ!」あっと云う間に車内が煙でいっぱいになる。くそ、何だこのにおい――目が開けられない――「どうにかしろよ!」「げほっ、ま、窓開けろっ!」「ごっ、ほ――げほっ」「窓! 窓!」「まずいんじゃねぇか、こ――」その時、

 ゴシャアアアアア!という物凄い轟音と衝撃とが、すべてを閉ざした。

 何が起きたのか、理解する暇さえ与えられなかった。


    ○


 次の記憶は病室のベッドの上から始まる。始まると云うか、もう終わりだけどね。

 僕は意識不明の重体なんかには陥らず、覚醒直後も別に普通だった。左腕を肘のあたりから失った他は、せいぜいちょっと縫うくらいの切り傷と打撲、いくつかの軽い骨折だけ。何か後遺症が残るような心配も、とりあえずはないらしい。

 一体、何が起きてどうなったのか――医者は説明してくれなかったし僕も訊ねなかったけれど、そんなのは訊ねなくたって分かるね。交通事故に遭って病院に搬送されたってだけだ。同じ車に乗っていた他の連中がどうなったのかってことに関しては、知らなくてもいいし、むしろ知りたくない。僕はこれ以上、何も知りたくないんだから。

 目が覚めたのは昨日の話で、幸い〈面会謝絶〉の措置を取ってくれた。これは助かったよ。早いか遅いかの違いしかないとはいえ、すぐに警察の質問責めなんかにさらされたら憂鬱で仕方ない……。医者と看護師も必要な仕事をこなすだけで、あとは僕を避けてるのか、部屋に這入ってはこなかった。僕は比較的、落ち着いた時間を過ごすことができた。

 ……いや、これは強がりだね。うん……正直なところ、果てしない絶望感に沈んでいたんだ。この荒涼とした病室が、奈落の底みたく感じられてさ……空気がぐぅぅと重たく圧し掛かってきて、吐き気がして、息ができなくて……死ぬほど心細かったな。まるで世界に僕ひとりきりになったみたいに静まり返ってると思ったら、次には世界中の雑音が一気に襲い掛かってきて、とにかく僕を責め立てるんだよ。何度か、発狂しそうになった。こういうときに限って時間は全然進んでくれないし……僕はこれが、永遠に続くんだって思った。本気でそんなことを思ってたんだ……。

 そして、はじめての客人がやって来たのが今日の夜――いや、もうとっくに昨日か。うん、もちろんまだ〈面会謝絶〉だったんだけど、彼女は消灯後になってこっそりと忍び込んできた。最初にも述べたよね……僕はこのときに全身の力がすぅっと抜けて、その安心感から泣き出しそうにさえなった。救われたって、そう思ったんだ。それに、もしその面構えがひどく辛気臭かったりしたら僕もいくらか気が滅入ってしまったかも知れないけど――さすが彼女、そのあたりは心得ていて、以前と変わらない気さくな感じだったから、本当に有難くて、懐かしくて、もう堪らなかった。

「やっほ。トラックと正面衝突したんだってね? 『デス・プルーフ』みたく――って、映画の例えはやめた方がいいんだったか。いひひ……」

 天織黄昏――――ああ、君だよ。
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