虚無式サマーバニラスカイ

凛野冥

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束の間の日々を通り過ぎて

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    ○


 朝になってリビングに出ると、海老川さんは昨日の服のままソファーで寝ていた。ハングリー精神だか緊張感だか知らないけど、なるほど、眉間に皺を寄せて険しい寝顔だったよ。

 窓の外は引き続き雨。火津路町の退廃的な様が、やや隔たった感じで一望できた。うん、このホテルは市街地からちょっと外れたところにあるんだ。近くを高速道路が走っていてね。

 ほどなくして午前九時――携帯電話がアラーム音を鳴らし、目を覚ました持ち主は欠伸あくびをしながら、のろのろとシャワールームに這入って行った。しかしさすがと云うべきか、出てきたときには服も新しくして化粧も済ませ、完全にいつものモードに仕上がっていた。

「おはよう、蟹原くん。よく眠れた?」

「はい、おかげさまで」

 それからノートパソコンや携帯電話をしばらく操作して「新しい死体は見つかっていないようね。他の進展も特になし」と頷く。よく頑張るねぇ……。

 朝食はホテルの食堂でやっているブッフェだった。いつも朝は抜いている僕だから、バラエティ豊かに食いまくってる他の連中を見て少し呆れちまったな。人間ってのはそんなに食わなくてもいいんだぜ?

 海老川さんは食後のコーヒーを啜りながら、これからまた出掛けて行くと云った。

「でも蟹原くんは、今日はまだ休んでなさい」

「分かりました」

 ……『今日はまだ』?

「顔の腫れも、明日には引くでしょう。ふふ、その状態の君を連れて歩いてたら、あらぬ誤解を受けかねないものね」

 どうやら当たり前の如く、明日からは海老川さんの探偵活動に随伴することになるらしかった。まぁ、分かっていたけどね。こうして世話もしてもらってるんだし、付き合うさ。

 この日は他に、語るべきことはない。僕はずっと部屋にいた。まさかひとりでプールで泳いだりビリアードに興じたりしたわけないだろう? かと云って部屋にいてもすることはなかったけれど、時間を無為むいに過ごすのには慣れてるからね。何もしなくたって過ぎてくれるというのが、時間ってやつの良いところだよ。

 夜になると海老川さんが帰ってきて、ルームサービスで夕食を取った。それから彼女は煙草をスパスパ吸いつつ、寝るまでノートパソコンや紙の資料と睨めっこしていた。途中、僕に対して事件のこれまでを総まとめして、クイズ形式で推理や疑問点などを整理する一幕もあったな。そして就寝。


    ○


 翌日は予定通り、海老川さんに連れられて探偵活動に繰り出した。まぁ僕はただついて回っていたに過ぎず、車中でひとり待機している時間も長かったけどね。

 早朝に連続首切り殺人の新たな被害者が発見されたんで、最初の仕事はその、捜査官や野次馬たちで溢れかえってる現場をチェックすることだった。いつぞやの〈犯人は現場に帰ってくる〉理論から野次馬たちをよく観察し、近辺をざっと見て回り、住民に簡単な訊き込みもおこなった。大した成果がなかったのは云うまでもない。

 また海老川さんは一日中、方々に電話を掛けては情報収集をしていた。繋がりがあるのは警察だけじゃないらしい。そのあたりはお決まりの「大人には色々あるのよ」で誤魔化されたが、僕だって別に関心はないんだよな。電話した相手の内、何人かにはそれぞれ小時間、直截会って話していた。往来だったりカフェだったり自宅だったり路地裏だったり――僕が待機を食らったというのは大半がこのときだ。

 話が前後したけれど、連続首切り殺人の新たな被害者というのは高校生カップルだった。だから被害者たちと云うのが正しく、六人目と七人目がほぼ同時に殺されたことになる。現場は昼間でも人気が少ない小さなトンネルで、彼氏の方が住む団地に近いとの話。二人とも素行が悪くて深夜徘徊は当たり前、度々補導もされていたとのことだが、連続殺人の真っ只中だってのに……この手の馬鹿には関係ないんだろうな。ただしこの二人、最後に目撃されたのが夕方頃らしいから、もしかすると〈夜の夢〉は百合莉の妹のときみたく、前もって彼らを拉致していたのかも知れない。そして都合の良い時間、都合の良い場所で殺す……通り魔殺人のイメージからすると盲点となる手口だし、警戒態勢が敷かれている中ではかなり有効だろう。

「やっぱり犯人はひとりじゃなかったんだわ」

 海老川さんは路肩に停めた車の中、コンビニで買ったサンドウィッチを食べながら云った。

「ひとりで二人を手際良く殺すというのは、いくら手馴れてきたからといっても無理がある。少なくとも、犯人側も二人は必要でしょう」

 僕はあの生意気な餓鬼――瑞屋憐と珠井宮を思い出した。二人が最後に歌っていた歌が脳内で勝手に流れ始めて、鬱陶しかったな。タンゴ、タンゴ、黒猫のタンゴ……。

「前に、犯人が別人かも知れないって疑いが出たのは憶えてる?」

「たしか……絞殺の角度が違ったって話ですよね」

「ええ、手口はまったく同じなのにね。あの後の被害者は今回の二人も含めて皆、絞殺の痕がまるまる持ち去られた首の方らしくて、この身長云々の話は出てないんだけど……ともかくこれも、複数犯なら説明が付くわ。身長の異なる犯人たち……そもそも模倣犯でないなら、そう考えるしかなかったのよ」

 それにね――と海老川さんは人差し指を立てた。

「有力な証言が全然集まらないこの事件だけど、さすがに六人目七人目となるといくつか浮上してくる。特に注目されているのが、黒塗りのワンボックスカーなの。過去数件の現場付近で、犯行時刻の前後に目撃されている――もっともこの程度の証言は似たようなのが沢山あるんだけど、これが他と違うのは、連続密室殺人の方でもそれと思しき証言が出ていること」

「玖恩寺家に行ったとき、哲典さんが話してましたね」

「そう、それよ。あのときは気に留めてなかったけどね……。捜査関係者の中では、この犯人が車を移動手段にしてるんじゃないかって話は前から出ていた。ただ車っていうのは便利なようでいて、デメリットも多い――それが複数犯ならだいぶ解消されるのよ。つまり運転係がいるんだから、殺す役割の人間をさっと降ろして、犯行後にまたさっと回収できる。その間、車の方は現場から遠のいていられる。神出鬼没なこの犯人のイメージにぴったりだわ。ええ、事件の背後に黒幕的集団がいるっていう私の推理が、いよいよ真実味を帯び――」

 そこでトントンと、窓を叩かれた。見れば警察官が中を覗き込んでいた。路上駐車を咎められ、簡単な職務質問を受けた後に車を発進させる海老川さん。

「はぁ……いまはすぐこれね。犯人がこんな派手な車に乗ってるわけないじゃない。黒塗りのワンボックスカー……よく見つからないものだわ」

「犯行に及ぶとき以外は、火津路町の外にいるのかも知れませんよ」

「大いにあり得るわね。最初から長期の連続殺人を起こすつもりだったに違いないんだから、そう遠くはないだろうけど、火津路町の人間でさえないかも。しかし、まずいわ……」

「何がですか?」

「黒塗りのワンボックスカー云々は、警察の人海戦術の助けにはなっても、私のやり方にはあまり役立たないでしょう? 詰まらない幕引きだけはご免よ。何としても私が、名探偵として犯人共を追い詰めないと」

 さぁ……その黒塗りのワンボックスカーが阿弥陀たちに関係あるのかどうかは知らないし、海老川さんが果たして〈首将〉なのかも定かじゃないが……いずれにしたって、事件の終幕は意外に近くまで迫ってるのかも知れないな、と僕は思った。



 こんなふうにして海老川さんは忙しく動き回り、ホテルに戻ってからも資料をまとめたり電話を掛けたり黙考したり、推理とも妄想とも付かない考えを取り留めもなく述べ立てたりした。僕はその相手になったり、コーヒーを淹れてあげたり、肩を揉んであげたり、弟子なのか助手なのかよく分からないことをしていた。

「蟹原くんがいるとはかどるわぁ」

 大して役には立ってないはずだが、海老川さんは嬉しそうにそう云った。

「邪魔になってなければいいんですけど」

「とんでもない。ずっといて欲しいくらいよ。ふふ、愛想には欠けるけど、その方が一緒にいるには疲れないし、それに案外、素直だものね、蟹原くん」

「はじめて云われました」

 本当に。

「話しやすいのよね。何でもちゃんと聞いてくれるし、理解してくれるでしょう? ええ、頭が良いのに、それでいて変なプライドとかはないから衝突にならない。私は弟が欲しいって思ってた時期があったんだけど、そうね、君が弟だったら良かったのに」

「褒めすぎですよ……やめてください……」

「ふふ、良いじゃない。弟子っていう字も弟を含んでるし――なんて云って、実のところ私はまだまだ弟子なんて取れる人間じゃないわ。ただ君を放っておけなかったから無理矢理そうしただけで……でも、どうかしら? 火津路町の事件が終わったら私は出て行く。君との関係をどうしようかは決めてないけど、数年後、君もまた海老川になっていたりするのかしら?」

「さあ。ないと思いますけど」

「ちょっと。寂しいこと云わないでよ。面白いじゃない……その場合、蜂、蝶ときて次だから……モハメド・アリに掛けて蟻? 海老川蟻夫ありおとかかしら? ああ、そうしたらアリョーシャって呼ぶわね?」

 勘弁してくれ。

「ところで海老川さん、もう僕が連続脳姦殺人の犯人かも知れないとは、疑ってないんですか?」

「あら、もしかして気にしてた? そうよね、たしかに有耶無耶うやむやにしていたわ」

 彼女は真っ直ぐ僕の目を見て、柔和に微笑んだ。

「疑ってないわよ。情が移ったからじゃなく――連続脳姦殺人の犯人は女で間違いない。そしていまの私の考えでは、これは他の連続殺人とは独立していて単独犯なの。君を疑う余地はもう、どこにもないわ」

「そうですか……少し、安心しましたよ。じゃあ僕はそろそろ、寝ることにします」

「ええ、おやすみ。また明日もよろしくね」

「はい、こちらこそ。おやすみなさい」

 奇妙なことだ。最初に会ったときには思ってもみなかったけれど、このホテル暮らしが始まって、僕と海老川さんとの距離が縮まっているというのは事実だった。とても良くしてもらってるし、そりゃあ僕だって感謝の気持ちが芽生えはする――こういうところを『案外、素直』と云われてるのかね?

 でも先程の、弟という発言は、冗談にしたってやめて欲しかった。姉という言葉は、僕にとってはあまりにも特別で、重い意味を持ってるんだから。

 僕の姉さんはひとりだけ。これまでも、これからも、絶対に変わらない。


    ○


 次の日もまた、海老川さんの探偵活動に随伴した。内容は前日と変わらないものだったが、昼過ぎ、独自に築いたネットワークによっていち早く、連続脳姦殺人の五人目の被害者が出たという報せが届いた。これまでと比べて時刻が遅かったのは、今度の現場が被害者の自宅だったために発見が遅れたせいだった。

「この男、まだ三十代なのに社長らしいわ。独身だけど、数年前になかなか立派な一戸建てを買ってる――喜久岡家や玖恩寺家があるのと同じ住宅地ね。出社してこないし連絡も付かないしで、合鍵を持ってる秘書が昼に様子を見に行き、死体を見つけた」

 天織については僕も幾分か気になっていたから、これは興味のある報告だった。数十分後には、もう少し詳しい情報がもたらされた。

「自宅の金庫が開け放たれて、中が空っぽになっていたそうよ。おそらく犯人が、被害者を殺す前に脅して開けさせたんでしょう。でも少し妙ね……この犯人は今までも被害者の財布から金を抜いてはいたけど、ここまで明確に金銭目的をにおわせはしなかったのに……。今回は自宅に這入り込めたから、ついでにってことなのかしら?」

 うん、僕は知っているが、それは逃亡生活に備えて資金が必要だからだ。偶然か、それとも今回はあらかじめ標的を定めていたのか――ともかく、社長の金庫ならシケた額じゃなかっただろう。もしかすると、目標金額に達したかも知れない。

 ならば環を完成させ、彼女がこの町を出て行く日は近い。『また来る?』の問いに首を縦に振った僕だけれど、この分だとその約束が果たされることはなさそうだった。ああ、それがいい……これから旅立とうという彼女は、僕みたいな無気力な人間と会っちゃ駄目だ。そこにはどんな意味も価値もないんだからね。

 ……いや、本心を云うと、僕の方がもう、彼女と会うには卑屈な気分になり過ぎていたんだな。橋の下で寝たあの夜だよ……〈叛逆〉することを選んだ彼女と、何も選べず朽ちるだけの僕……その決定的な違いが、急にしみじみと自覚された。あの暗闇の中で考えたとき、天織黄昏は眩し過ぎたんだ。

 彼女のことは応援している。足を引っ張るつもりはない。ただ黙って、その犯行のゆく末を見守ろうと思う。そう、思っていたんだが…………、

 予想していなかったねぇ。翌日、天織は失敗したんだ。


 皆が、いよいよ終焉へ向かい始める。
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