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菫の虚偽を暴けるとしたら⑥
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6
僕が〈イリアスB〉を出たとき、既にムツミの姿は付近になかった。彼女は携帯なんて持っていない。どう探したらよいものか。
しばし考えていると、遠くからパトカーか何かのサイレンが聞こえてきた。それ自体は茜条斎では日常茶飯事だけれども、ある思い付きを喚起してくれた。
事件だ。椿の華が開けば、ムツミは否が応でも事件に引き寄せられる。とにかくリアルタイムで起きている事件を調べて、片っ端から現場を回っていくしかない。
こういうときにSNSは役に立つ。ユーザーが身の回りの出来事や所感等を自由に書き込みする〈ロゼッタ・ボックス〉に携帯からアクセスして『茜条斎』『事件』でサーチをかけた結果、まさに歓楽街の一角が大騒ぎになっていると知った。
十分もかからずに駆け付けると、通りは警官や野次馬でごった返していた。耳が痛くなる大騒ぎだ。みなが一様に見上げている七階建てのビルに、その原因は吊るされていた。
繋げられた、複数の人間である。男もいれば女もいる。全員が衣服を身に纏っておらず、首がない。さらには上半身と下半身を切断されたうえ、バラバラに繋ぎ直されている。別人の上半身同士を繋げられ、別人の下半身同士を繋げられ、それらが入れ違いの格好で、それぞれ手首と足首を繋ぐことによって長く伸びているのだ。ビルの最上階の窓から出て、まっすぐ地上まで――まるで梯子のように。
犯人はあの烏瓜の女だ。見た瞬間に思い至った。街灯やネオンに照らされているとはいえ僕の位置からでは距離があってよく見えないけれど、あんな結合は烏瓜の能力でなければ無理だ。あの女がまた現れた。しかもこんなに派手な犯行!
だが今はムツミを見つけなければならない。きっと彼女はこの近くにいる。因縁ある烏瓜の女絡みの事件となれば、なおさら引き寄せられている可能性は高い。
人混みを掻き分けて、緋色のベレー帽に濃い藍色の制服、そのうえ黒のランドセルを背負った女子中学生を探す。果たして彼女は、野次馬の群れから少し離れた場所にいた。異様な人体梯子が遠くに見える、ビルとビルの隙間の細く薄暗い路地で、膝を抱えてうずくまっていた。その姿を見つけたとき、僕の心はまた締め付けられるように痛んだ。
どうしよう。めちゃくちゃ気まずい。自業自得だ。
「あのー……ムツミさん?」
名前を呼ぶと、彼女はびくっと震えて顔を上げた。声は発さない。ただ僕に対する恐怖と警戒が貼り付いていた。ああ、僕はこの子のことが大嫌いだ。もう一秒だって一緒に暮らすのが嫌なのだ。鶴姫が云っていた通り……しかし……
「良かった。無事に見つけられて、本当に安心してる」
彼女の隣に屈み込む。この子をこんなふうに怯えさせたくなくて、一緒に暮らせるように叔父さんに頼んだのは僕ではないか。おかしい。僕自身も話しながら混乱している。
「帰ってきてくれないか? さっきは変なことを云って、申し訳ない……」
ムツミは首を小さく横に振った。おかっぱ頭の毛先が揺れる。身体を傾けて、僕から逃れようとしているのが分かる。それが堪らなくつらい。
一体どうなっている? ムツミを連れ戻したい。どこかに行ってほしくない。そう感じているのは本当なのだ。しかし、二度と戻ってこないよう、彼女の精神を徹底的に痛めつけるのが僕の義務……義務って何だ? 義務だからって、絶対にやらないといけないのか? やりたくもないことを? いいや、僕はやりたいと思っているはず……鶴姫の云うことは間違っていない……。
あれ? 鶴姫の云うことは間違っていないけれど、それってなぜだろう? どうして彼女に僕の心の内が完璧に分かるんだ? 実際、それは僕の気持ちを云い当てているが……。
やはり、鶴姫の云うことそのものは、どうしたって間違っていない。疑問を挟む余地もない。ただし〈鶴姫の云うことは間違っていない〉ということの方を、僕はもっと疑わないといけないんじゃないか……? これじゃあまるで云いなりだ。蘭果さんの薔薇の支配みたく……鶴姫は咲いていないが……
「あっ!」
その発想は不意にやって来た。僕は昂奮して、ムツミの肩を掴んでいた。
「分かった! 催眠だよ、ムツミ! さっきの言動はあの坤鶴姫に催眠をかけられたせいなんだ――多分!」
彼女は浮かない表情のまま、ぱちりぱちりと瞬きする。
「他人のせいにして誤魔化そうとしているんじゃない。信じてくれ。でないと絶対におかしいよ。僕はこんなにも、君に帰ってきてほしいと望んでいるんだからな!」
「たしかに……」
視線を脇に逸らすムツミ。
「あの人は咲いているようでしたが……」
「いいや、咲いてはいないんだ。咲いてはいないが、そういう催眠の使い手に違いない」
「成程……咲いてないと信じるように、催眠をかけられているんですね」
「え? そうなのかな……いや、やっぱり鶴姫は咲いてないよ。根拠はないけど!」
それよりムツミが会話をしてくれて、ひとまず安心した。僕は彼女が何を云おうとも聞く耳を持ったら駄目なのだが、まぁ駄目でもやってしまうのは仕方がない。車が来ていないときに赤信号で横断歩道を渡ったり、修学旅行で消灯時間過ぎにまだ起きていたり……それらと変わらないだろう。
「だけど、本当に全部、催眠で云わされていたことなんでしょうか」
ムツミは依然として物憂げな態度である。歯切れもあまり良くない。
「そうだよ。あんなの僕じゃない。思い出すだけで恥ずかしいよ」
「でも私、馬米さんに甘えていたと云いますか、図々しいと思うんです。馬米さんの生活を邪魔してる、わけですし。嫌われても仕方ないのかなと……」
まさかそこまで真剣に受け止めていたとは。いや当然だ。死ねとまで怒鳴ったんだぞ。
そう云えば土下座して謝ると決めていたのだった。急いでアスファルトの上に手と膝と頭をつける。
「済まなかった! 催眠にかけられたのは僕の落ち度だ。鶴姫に近づかれて良い気になっていたんだろうな。調子に乗っていたせいでこんなことになった! 情けない!」
「やめてくださいよ。周りの人に見られたら恥ずかしいです」
僕の肩に手をあてて持ち上げようとするムツミ。しかしこれでは僕の気が収まらない。
「僕はムツミのことが大好きなんだ。君がいなくなってしまったら後悔してもしきれない。こんな僕だけど、どうかもう一度信じてくれないか!」
「ちょっと、馬米さん、」
顔を上げた。それからムツミの小さな手を握った。
「好きだよムツミ。嫌いだとか邪魔だとか、そんなの全部どうでもよくなるくらい好きだ。むしろ今回のことで好きが増したな。君が出て行ってしまったとき、本気で立ち眩みがしたよ。ちょっと図々しいくらいが何だ。その程度のことで君を疎むような器の小さな人間じゃないぜ、僕は。これからも大いに図々しくしてくれよ。僕は君のお願いなら、すべて叶えてあげたいと考えている。こんなの、君が好きでないと云えないことだと思わ――」
一気呵成にまくし立てているところだったが、空いている方の手で口を塞がれた。
見ると、ムツミは眉根を寄せ、かつてないほど困った表情をしている。顔が赤い。
「馬鹿じゃないですか。馬米さんは本当にデリカシーがないです」
なに! また失言をしたのか僕は!
「自覚がないんですか。恥ずかしいんですよ」
「は――」
身体を起こしてムツミの手から逃れる。
「恥ずかしいって、ムツミが?」
「どうして分からないんですか。そんな面と向かって好き、好きと連呼されたら……」
僕を睨んでいた目が、また脇の方へ逸れる。まるで屈辱に耐えるかのような仕草だ。
「私だって、恥ずかしくなりますよ……」
「……ごめんなさい。僕が馬鹿でした。だけど本当の気持ちで――」
「もういいですよ。馬米さんが馬鹿で、安心しましたし」
まだ拗ねたような顔をしているけれど、許してはくれたようだ。良かった……。
やはりムツミには、たくさん生意気を云っていてもらわないとな。
「えーっと……じゃあ、帰ろうか?」
こくりと頷くムツミ。僕は胸を撫で下ろしすぎて肺まで抉れるんじゃないかと思った。そのくらい安堵したのである。そして立ち上がる最中に思い出す。
「さっき、ミシンが欲しいと話していたよな。あと生地だっけ? 買ってから帰ろう」
「いきなり優しくしてくれなくても大丈夫ですよ」
「い、いきなりなんてことないだろ。本来の僕に戻っただけで……」
振り返って歩き出そうとした。すると、路地の出口を女の人が塞いでいた。建物に背中と右足の裏をつけて、頭だけこちらに向けている。知らない人だと思ったが、
「ビーンゴ。馬米逸見と伊升ムツミだァ」
紫色に染めた髪をツインテールにしている女。病的なアイメイクも相まって、ひどく目付きが悪い。黒のコーチジャケットにショートデニム。そこから伸びる細長い脚。気だるそうな声に聞き覚えがあると思った直後、戦慄と共に思い至る。
「もしかして烏瓜の……」
「月豹由布って名前なの。憶えてね」
彼女がコーチジャケットのポケットに突っ込んでいた右手を出すと、カッターが握られていた。僕は一歩退いたが、しかし彼女は左の袖をまくって、カッターの刃を手首に突き刺す。それから肘まで一直線に切り裂く――が、出血しない。代わりにぱっぱっぱっと、ヒトデみたいな形の白い華が咲いていく。
爪先から頭の天辺まで鳥肌が立った。でも臆してはいられない。僕の後ろにはムツミがいて、僕のシャツの裾を摘まんでいるのが分かる。
「どういうつもりですか。僕が大声を出せば、通りにいる大勢が注目しますよ」
「そーかねえ。みんなあの死体たちに興味津々で、それどころじゃないと思うけど」
烏瓜の女――月豹由布はカッターをポケットに仕舞った。左腕の烏瓜の華を一輪一輪むしり取りながら、ローテンションで話を続ける。
「ま、襲ったりしないから安心しろよ。事件を起こせば来ると思った。会いたかったよォー実際」
「そのためだけに、あんな大量殺人を……」
「十三人は大量って程じゃないな。それに目的は他にもあって、あんたらはついで。あんたらもさァー、あたしに訊きたいこととかあるだろ。あるよな?」
その剣呑な目が、僕の背後にいるムツミへと向いた。
「そいつの親を殺したのはあたし」
「……どうして、殺したんですか」
喉が渇いて声を出しにくい。足が震え出しそうなのを、必死に堪えている。
「あっあー、今夜は長話する気ないんだ。こんな場所だしさァ。これ、受け取って」
月豹由布が新たにポケットから取り出したのは、一枚の便箋だった。軽い調子で差し出されて、僕はどうしたものか戸惑う。
「受け取れよ。なんもしねーよ」
手を伸ばして、受け取った。皺だらけの便箋だ。ちらと確認してみれば、汚い字で電話番号が書いてある。
「今週中だ。夜がまるっと空いてる日――どうせ毎日暇だろーけど、空いてる日に電話するんだよ。あんたらふたり、馬米と伊升だけで、あたしと話をするのさ。ゆっくりとね」
「電話でですか。それとも、また直接会って?」
訊ねると、月豹由布は舌打ちした。口調に滲む気だるさが倍になる。
「直接会うから待ち合わせの方法を電話で決める。他の人間には話すなよ? 矢韋駄創儀とか警察とかさァー。それか電話がないまま次の日曜になったら、今度は大量の人間を殺すわ。そのときはあんたのせいだからな。あんたが殺したってことだからな、馬米。何の罪もない一般人……かは知らんけど。ま、快適に目覚められなくなるんじゃない?」
なんて勝手な云い分……反駁したいが、どうにもできない。こんなふうにいきなり再会することになるなんて、思ってもみなかったのだ。それにこの場は大人しく従っておけば、とりあえず危害を加えられることはなさそうな流れじゃないか。
悔しい。僕はビビっているだけだ。何か、何かひとつでも今、有益な情報を――
「またね。その番号、出るのはあたしじゃないけど話を合わせろ。月豹由布を指名すれば、あとは向こうが決めてくれる。聞いてる? 忘れるなよ? 月豹由布ってあたしの名前、云ってみ?」
「月豹由布ですね……分かりましたよ」
――駄目だ。いくら態度だけ強がったところで、見透かされているに違いない。
月豹由布は最後に鼻で笑って、夜の街の中へ消えていった。
7
鶴姫の菫乃幼少帰咲は、舌に咲いた華を相手に見せれば、後に述べる一連の言葉を何でも信用させられるそうだ。咲いたのは高校一年生の夏頃。普段は舌の中心線にできた割れ目の中に格納されていて、自由に出し入れできる。ただし時折、意図しないタイミングで出てきてしまうことがあるため、咲いて以来マスクをつけているのだと云う。
ムツミの注文通り、鶴姫は菫の能力を用いて僕に信じらせた嘘をすべて撤回した後に帰って行った。撤回というのはまた菫を見せて、嘘の内容を本当の内容で上書きする方法が採られた。本当にすべてなのか確かめる術はないが、反省している様子だったから信じたいところだ。
蓋を開けてみれば案の定、僕はムツミが嫌いではないし、追い出したいとも思っていないし、死ねだなんてとんでもなかった。僕と鶴姫ははじめから恋人同士になっていない。彼女には虚言癖があり、読書家ではなく、弁当は彼女の母親が拵えたものだった。
さらには驚くべきことに、彼女は花天月高校に通う生徒全員に不治枝蘭果は自滅だったという嘘を信じさせて、僕の活躍をなかったことにしていた。多少の漏れはあるかも知れないが、会う人会う人に手当たり次第、菫の能力を行使して回ったらしい。自分と同じ動機で僕に迫る異性がいないようにするためだったとのこと。
話題の人物をモノにして周囲にアピールするためだとか、そういう目的ではなかったことの証左とは云えるかも分からないけれど、それにしたって常軌を逸した行動だ。と云うか無茶すぎる。後に混乱に繋がりそうなので、明日からこれも撤回して回るよう頼んでおいた。
「まったく、とんでもない人でしたね。あの調子では胸も偽乳ですよ」
スレンダーなムツミはそう云いながら、テーブルの上に制服の生地を並べている。
昨晩、月豹由布から接触を受けた帰り道に、僕のお小遣いで生地やミシン、その他裁縫道具を揃えてあげたのだ。ムツミは「いいですよ。そういう気分じゃないでしょ」と云ったが、僕が譲らなかった。「こういうときだからこそ意に介さず、決めたことはやらないと向こうのペースだ」月豹由布を前に何もできなかった僕の、せめてもの抵抗だった。
とはいえムツミもこうして、制服づくりを始める気になったらしい。卓上には熊のぬいぐるみ――モチナスを置いて見守らせている。実家にいた頃から、この手のひとり遊びや妄想ばかりしている子なのだろう。
月豹由布から渡された番号には、まだ電話を掛けていない。どうするか決めてもいない。期限は今週中……あと三日だ。のんびり構えてもいられないけれど……また明日、考えることにしよう。
「叔父さんの助手は順調なのか?」
最近は話を聞けていなかったと思い、キッチンから訊ねた。ちなみに今日は肉じゃがをつくる。僕は家庭的な料理こそ得意なのだ。
「順調ですよ」
「どんな事件を解決したか、話してくれよ」
「別にいいじゃないですか。仕事の話はしたくありません」
「夫みたいなことを云うな」
誰が妻だ。
「気になるじゃないか。叔父さんの助手なんて、なりたくたってなれるものじゃないんだぞ」
「馬米さんは探偵になりたいんですか」
「そうだなぁ……まぁ憧れるよね。快刀乱麻を断つが如く、この街の謎を暴いていく……」
「馬米さんが探偵になったら、私が助手してあげてもいいですよ」
えらく上から目線である。助手としては一人前のつもりなのだろうか。しかし助手で一人前というのも変な話だ。
結局、彼女は直近の成果については語らなかった。仕事が仕事なので、陰惨な内容も多いのだろう。たしかに楽しく語るものではないかも知れないと思い、僕もしつこくは訊かないことにした。気が利く妻だなぁ、僕って。
妻じゃないが。
僕が〈イリアスB〉を出たとき、既にムツミの姿は付近になかった。彼女は携帯なんて持っていない。どう探したらよいものか。
しばし考えていると、遠くからパトカーか何かのサイレンが聞こえてきた。それ自体は茜条斎では日常茶飯事だけれども、ある思い付きを喚起してくれた。
事件だ。椿の華が開けば、ムツミは否が応でも事件に引き寄せられる。とにかくリアルタイムで起きている事件を調べて、片っ端から現場を回っていくしかない。
こういうときにSNSは役に立つ。ユーザーが身の回りの出来事や所感等を自由に書き込みする〈ロゼッタ・ボックス〉に携帯からアクセスして『茜条斎』『事件』でサーチをかけた結果、まさに歓楽街の一角が大騒ぎになっていると知った。
十分もかからずに駆け付けると、通りは警官や野次馬でごった返していた。耳が痛くなる大騒ぎだ。みなが一様に見上げている七階建てのビルに、その原因は吊るされていた。
繋げられた、複数の人間である。男もいれば女もいる。全員が衣服を身に纏っておらず、首がない。さらには上半身と下半身を切断されたうえ、バラバラに繋ぎ直されている。別人の上半身同士を繋げられ、別人の下半身同士を繋げられ、それらが入れ違いの格好で、それぞれ手首と足首を繋ぐことによって長く伸びているのだ。ビルの最上階の窓から出て、まっすぐ地上まで――まるで梯子のように。
犯人はあの烏瓜の女だ。見た瞬間に思い至った。街灯やネオンに照らされているとはいえ僕の位置からでは距離があってよく見えないけれど、あんな結合は烏瓜の能力でなければ無理だ。あの女がまた現れた。しかもこんなに派手な犯行!
だが今はムツミを見つけなければならない。きっと彼女はこの近くにいる。因縁ある烏瓜の女絡みの事件となれば、なおさら引き寄せられている可能性は高い。
人混みを掻き分けて、緋色のベレー帽に濃い藍色の制服、そのうえ黒のランドセルを背負った女子中学生を探す。果たして彼女は、野次馬の群れから少し離れた場所にいた。異様な人体梯子が遠くに見える、ビルとビルの隙間の細く薄暗い路地で、膝を抱えてうずくまっていた。その姿を見つけたとき、僕の心はまた締め付けられるように痛んだ。
どうしよう。めちゃくちゃ気まずい。自業自得だ。
「あのー……ムツミさん?」
名前を呼ぶと、彼女はびくっと震えて顔を上げた。声は発さない。ただ僕に対する恐怖と警戒が貼り付いていた。ああ、僕はこの子のことが大嫌いだ。もう一秒だって一緒に暮らすのが嫌なのだ。鶴姫が云っていた通り……しかし……
「良かった。無事に見つけられて、本当に安心してる」
彼女の隣に屈み込む。この子をこんなふうに怯えさせたくなくて、一緒に暮らせるように叔父さんに頼んだのは僕ではないか。おかしい。僕自身も話しながら混乱している。
「帰ってきてくれないか? さっきは変なことを云って、申し訳ない……」
ムツミは首を小さく横に振った。おかっぱ頭の毛先が揺れる。身体を傾けて、僕から逃れようとしているのが分かる。それが堪らなくつらい。
一体どうなっている? ムツミを連れ戻したい。どこかに行ってほしくない。そう感じているのは本当なのだ。しかし、二度と戻ってこないよう、彼女の精神を徹底的に痛めつけるのが僕の義務……義務って何だ? 義務だからって、絶対にやらないといけないのか? やりたくもないことを? いいや、僕はやりたいと思っているはず……鶴姫の云うことは間違っていない……。
あれ? 鶴姫の云うことは間違っていないけれど、それってなぜだろう? どうして彼女に僕の心の内が完璧に分かるんだ? 実際、それは僕の気持ちを云い当てているが……。
やはり、鶴姫の云うことそのものは、どうしたって間違っていない。疑問を挟む余地もない。ただし〈鶴姫の云うことは間違っていない〉ということの方を、僕はもっと疑わないといけないんじゃないか……? これじゃあまるで云いなりだ。蘭果さんの薔薇の支配みたく……鶴姫は咲いていないが……
「あっ!」
その発想は不意にやって来た。僕は昂奮して、ムツミの肩を掴んでいた。
「分かった! 催眠だよ、ムツミ! さっきの言動はあの坤鶴姫に催眠をかけられたせいなんだ――多分!」
彼女は浮かない表情のまま、ぱちりぱちりと瞬きする。
「他人のせいにして誤魔化そうとしているんじゃない。信じてくれ。でないと絶対におかしいよ。僕はこんなにも、君に帰ってきてほしいと望んでいるんだからな!」
「たしかに……」
視線を脇に逸らすムツミ。
「あの人は咲いているようでしたが……」
「いいや、咲いてはいないんだ。咲いてはいないが、そういう催眠の使い手に違いない」
「成程……咲いてないと信じるように、催眠をかけられているんですね」
「え? そうなのかな……いや、やっぱり鶴姫は咲いてないよ。根拠はないけど!」
それよりムツミが会話をしてくれて、ひとまず安心した。僕は彼女が何を云おうとも聞く耳を持ったら駄目なのだが、まぁ駄目でもやってしまうのは仕方がない。車が来ていないときに赤信号で横断歩道を渡ったり、修学旅行で消灯時間過ぎにまだ起きていたり……それらと変わらないだろう。
「だけど、本当に全部、催眠で云わされていたことなんでしょうか」
ムツミは依然として物憂げな態度である。歯切れもあまり良くない。
「そうだよ。あんなの僕じゃない。思い出すだけで恥ずかしいよ」
「でも私、馬米さんに甘えていたと云いますか、図々しいと思うんです。馬米さんの生活を邪魔してる、わけですし。嫌われても仕方ないのかなと……」
まさかそこまで真剣に受け止めていたとは。いや当然だ。死ねとまで怒鳴ったんだぞ。
そう云えば土下座して謝ると決めていたのだった。急いでアスファルトの上に手と膝と頭をつける。
「済まなかった! 催眠にかけられたのは僕の落ち度だ。鶴姫に近づかれて良い気になっていたんだろうな。調子に乗っていたせいでこんなことになった! 情けない!」
「やめてくださいよ。周りの人に見られたら恥ずかしいです」
僕の肩に手をあてて持ち上げようとするムツミ。しかしこれでは僕の気が収まらない。
「僕はムツミのことが大好きなんだ。君がいなくなってしまったら後悔してもしきれない。こんな僕だけど、どうかもう一度信じてくれないか!」
「ちょっと、馬米さん、」
顔を上げた。それからムツミの小さな手を握った。
「好きだよムツミ。嫌いだとか邪魔だとか、そんなの全部どうでもよくなるくらい好きだ。むしろ今回のことで好きが増したな。君が出て行ってしまったとき、本気で立ち眩みがしたよ。ちょっと図々しいくらいが何だ。その程度のことで君を疎むような器の小さな人間じゃないぜ、僕は。これからも大いに図々しくしてくれよ。僕は君のお願いなら、すべて叶えてあげたいと考えている。こんなの、君が好きでないと云えないことだと思わ――」
一気呵成にまくし立てているところだったが、空いている方の手で口を塞がれた。
見ると、ムツミは眉根を寄せ、かつてないほど困った表情をしている。顔が赤い。
「馬鹿じゃないですか。馬米さんは本当にデリカシーがないです」
なに! また失言をしたのか僕は!
「自覚がないんですか。恥ずかしいんですよ」
「は――」
身体を起こしてムツミの手から逃れる。
「恥ずかしいって、ムツミが?」
「どうして分からないんですか。そんな面と向かって好き、好きと連呼されたら……」
僕を睨んでいた目が、また脇の方へ逸れる。まるで屈辱に耐えるかのような仕草だ。
「私だって、恥ずかしくなりますよ……」
「……ごめんなさい。僕が馬鹿でした。だけど本当の気持ちで――」
「もういいですよ。馬米さんが馬鹿で、安心しましたし」
まだ拗ねたような顔をしているけれど、許してはくれたようだ。良かった……。
やはりムツミには、たくさん生意気を云っていてもらわないとな。
「えーっと……じゃあ、帰ろうか?」
こくりと頷くムツミ。僕は胸を撫で下ろしすぎて肺まで抉れるんじゃないかと思った。そのくらい安堵したのである。そして立ち上がる最中に思い出す。
「さっき、ミシンが欲しいと話していたよな。あと生地だっけ? 買ってから帰ろう」
「いきなり優しくしてくれなくても大丈夫ですよ」
「い、いきなりなんてことないだろ。本来の僕に戻っただけで……」
振り返って歩き出そうとした。すると、路地の出口を女の人が塞いでいた。建物に背中と右足の裏をつけて、頭だけこちらに向けている。知らない人だと思ったが、
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「もしかして烏瓜の……」
「月豹由布って名前なの。憶えてね」
彼女がコーチジャケットのポケットに突っ込んでいた右手を出すと、カッターが握られていた。僕は一歩退いたが、しかし彼女は左の袖をまくって、カッターの刃を手首に突き刺す。それから肘まで一直線に切り裂く――が、出血しない。代わりにぱっぱっぱっと、ヒトデみたいな形の白い華が咲いていく。
爪先から頭の天辺まで鳥肌が立った。でも臆してはいられない。僕の後ろにはムツミがいて、僕のシャツの裾を摘まんでいるのが分かる。
「どういうつもりですか。僕が大声を出せば、通りにいる大勢が注目しますよ」
「そーかねえ。みんなあの死体たちに興味津々で、それどころじゃないと思うけど」
烏瓜の女――月豹由布はカッターをポケットに仕舞った。左腕の烏瓜の華を一輪一輪むしり取りながら、ローテンションで話を続ける。
「ま、襲ったりしないから安心しろよ。事件を起こせば来ると思った。会いたかったよォー実際」
「そのためだけに、あんな大量殺人を……」
「十三人は大量って程じゃないな。それに目的は他にもあって、あんたらはついで。あんたらもさァー、あたしに訊きたいこととかあるだろ。あるよな?」
その剣呑な目が、僕の背後にいるムツミへと向いた。
「そいつの親を殺したのはあたし」
「……どうして、殺したんですか」
喉が渇いて声を出しにくい。足が震え出しそうなのを、必死に堪えている。
「あっあー、今夜は長話する気ないんだ。こんな場所だしさァ。これ、受け取って」
月豹由布が新たにポケットから取り出したのは、一枚の便箋だった。軽い調子で差し出されて、僕はどうしたものか戸惑う。
「受け取れよ。なんもしねーよ」
手を伸ばして、受け取った。皺だらけの便箋だ。ちらと確認してみれば、汚い字で電話番号が書いてある。
「今週中だ。夜がまるっと空いてる日――どうせ毎日暇だろーけど、空いてる日に電話するんだよ。あんたらふたり、馬米と伊升だけで、あたしと話をするのさ。ゆっくりとね」
「電話でですか。それとも、また直接会って?」
訊ねると、月豹由布は舌打ちした。口調に滲む気だるさが倍になる。
「直接会うから待ち合わせの方法を電話で決める。他の人間には話すなよ? 矢韋駄創儀とか警察とかさァー。それか電話がないまま次の日曜になったら、今度は大量の人間を殺すわ。そのときはあんたのせいだからな。あんたが殺したってことだからな、馬米。何の罪もない一般人……かは知らんけど。ま、快適に目覚められなくなるんじゃない?」
なんて勝手な云い分……反駁したいが、どうにもできない。こんなふうにいきなり再会することになるなんて、思ってもみなかったのだ。それにこの場は大人しく従っておけば、とりあえず危害を加えられることはなさそうな流れじゃないか。
悔しい。僕はビビっているだけだ。何か、何かひとつでも今、有益な情報を――
「またね。その番号、出るのはあたしじゃないけど話を合わせろ。月豹由布を指名すれば、あとは向こうが決めてくれる。聞いてる? 忘れるなよ? 月豹由布ってあたしの名前、云ってみ?」
「月豹由布ですね……分かりましたよ」
――駄目だ。いくら態度だけ強がったところで、見透かされているに違いない。
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鶴姫の菫乃幼少帰咲は、舌に咲いた華を相手に見せれば、後に述べる一連の言葉を何でも信用させられるそうだ。咲いたのは高校一年生の夏頃。普段は舌の中心線にできた割れ目の中に格納されていて、自由に出し入れできる。ただし時折、意図しないタイミングで出てきてしまうことがあるため、咲いて以来マスクをつけているのだと云う。
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蓋を開けてみれば案の定、僕はムツミが嫌いではないし、追い出したいとも思っていないし、死ねだなんてとんでもなかった。僕と鶴姫ははじめから恋人同士になっていない。彼女には虚言癖があり、読書家ではなく、弁当は彼女の母親が拵えたものだった。
さらには驚くべきことに、彼女は花天月高校に通う生徒全員に不治枝蘭果は自滅だったという嘘を信じさせて、僕の活躍をなかったことにしていた。多少の漏れはあるかも知れないが、会う人会う人に手当たり次第、菫の能力を行使して回ったらしい。自分と同じ動機で僕に迫る異性がいないようにするためだったとのこと。
話題の人物をモノにして周囲にアピールするためだとか、そういう目的ではなかったことの証左とは云えるかも分からないけれど、それにしたって常軌を逸した行動だ。と云うか無茶すぎる。後に混乱に繋がりそうなので、明日からこれも撤回して回るよう頼んでおいた。
「まったく、とんでもない人でしたね。あの調子では胸も偽乳ですよ」
スレンダーなムツミはそう云いながら、テーブルの上に制服の生地を並べている。
昨晩、月豹由布から接触を受けた帰り道に、僕のお小遣いで生地やミシン、その他裁縫道具を揃えてあげたのだ。ムツミは「いいですよ。そういう気分じゃないでしょ」と云ったが、僕が譲らなかった。「こういうときだからこそ意に介さず、決めたことはやらないと向こうのペースだ」月豹由布を前に何もできなかった僕の、せめてもの抵抗だった。
とはいえムツミもこうして、制服づくりを始める気になったらしい。卓上には熊のぬいぐるみ――モチナスを置いて見守らせている。実家にいた頃から、この手のひとり遊びや妄想ばかりしている子なのだろう。
月豹由布から渡された番号には、まだ電話を掛けていない。どうするか決めてもいない。期限は今週中……あと三日だ。のんびり構えてもいられないけれど……また明日、考えることにしよう。
「叔父さんの助手は順調なのか?」
最近は話を聞けていなかったと思い、キッチンから訊ねた。ちなみに今日は肉じゃがをつくる。僕は家庭的な料理こそ得意なのだ。
「順調ですよ」
「どんな事件を解決したか、話してくれよ」
「別にいいじゃないですか。仕事の話はしたくありません」
「夫みたいなことを云うな」
誰が妻だ。
「気になるじゃないか。叔父さんの助手なんて、なりたくたってなれるものじゃないんだぞ」
「馬米さんは探偵になりたいんですか」
「そうだなぁ……まぁ憧れるよね。快刀乱麻を断つが如く、この街の謎を暴いていく……」
「馬米さんが探偵になったら、私が助手してあげてもいいですよ」
えらく上から目線である。助手としては一人前のつもりなのだろうか。しかし助手で一人前というのも変な話だ。
結局、彼女は直近の成果については語らなかった。仕事が仕事なので、陰惨な内容も多いのだろう。たしかに楽しく語るものではないかも知れないと思い、僕もしつこくは訊かないことにした。気が利く妻だなぁ、僕って。
妻じゃないが。
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その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。
寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない!
スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
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図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
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カクヨムでも同内容で公開しています。
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