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薔薇の支配にどう抗うのか⑤
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公立花天月高等学校は〈イリアスB〉から歩いて十五分。茜条斎駅を挟んで歓楽街とは反対側に広がるオフィス街のなか、狭い土地に八階建ての校舎ビルと体育館とグラウンドと駐車場とがギュウギュウに押し込まれている。僕が所属する二年アネモネ組は六階にあって、生徒がだらだらと行列をなすエスカレーターをいつも登ることになる。
今朝、僕が登校するつもりだと知ったムツミは不満そうにしていた。「どうして行くんですか」「どうしてって、学生だからだよ。僕は編入してから皆勤賞なんだぜ」「状況が分かってないんですか」「僕が考えもなしに行動する奴に見えるか」「見えてますよ、今」「君がいつ意識を失って徘徊し始めるか知れないのは承知してる。既に対策済みだ」「どう対策したんですか」「玄関の錠をトンカチで破壊した。内側のつまみをガツンとな」「何やってるんですか」「分からないか? これで外から鍵で施錠すると、内側からは開けられなくなるんだよ」「矢韋駄さんに怒られないんですか」「怒られるかも……」「問題はもうひとつあります」「何だ」「昨日の薔薇の人、同じ学校なんですよね。殺されますよ」「よくぞ訊いてくれた」「何も訊いてません」
優等生である蘭果さんが学校を休むとは考えにくい。そして学校では周りの目があるため、派手な行動には出られないはずだ。これはチャンスである。僕は是非とも学校へ行って、彼女の機先を制するべきだ。
叔父さんには電話が繋がらない。メールも返ってこない。警察が僕の話を真面目に取り合ってくれるとは思えない。蘭果さんには薔薇の能力があるから、下手に誰かを頼ることで被害が拡大する惧れもある。
僕がやるしかない。手をこまねいていたら、蘭果さんから襲撃されるかも知れないのだ。
蘭果さんの犯罪の証拠を掴む。放課後までに校内で彼女に接触し、〈人間モグラ叩き〉の犯人であることを認めさせる。それを隠し持ったボイスレコーダーで録音する。証拠さえ押さえてしまえばこちらのものだ。
「うまくいきますか?」とムツミは胡散臭そうにしていたけれど、僕ならやれる。昨日だって危機的状況から脱してみせた。「あれはまぐれだったと思います」「いいから君はお留守番しててくれ。完璧にこなしてくる」
そういうわけで学校に来ているのだった。いつもは憂鬱な朝なのに、全然違って感じられる。蘭果さんのもとへはまだ行かないつもりだが、今のうちから緊張しているらしい。
落ち着きを取り戻すため、僕は窓外へ目を向けた。窓際の席なので、茜条斎の街並みが一望できる。今日はカラッとした快晴だ。駅から吐き出された通勤・通学中の人々が、歩道や交差点の上で器用に互いを避けつつ歩いている。一方で駅の向こう側に広がる歓楽街は就寝中。酔い潰れた者がまだ道端で眠っていたり、浮浪者がゴミを漁っていたり、大学生やフリーターのカップルが疲れた顔でホテルから出てきたりしていることだろう。
昨晩はあまり眠れなかった。欠伸をしつつ、鞄から文庫本を取り出す。僕は暇さえあれば本を読む人間だ。耳にはクラスメイトの話し声が入ってきて、〈人間モグラ叩き〉の新たな被害者が発見されたことを知る。被害者はひとりだけらしい。僕らに逃げられたことで、蘭果さんもあの後すぐに現場を立ち去ったのだろう。であれば、僕らは被害者の数を抑えることができたのかも知れない。
その時、周りがにわかに騒がしくなった。複数のどよめきが起こり、小さな悲鳴まであがる。本から顔を上げてみれば、全員が一様に教室の後ろの方へ向いて、目を丸くしていた。何だろうと思って、僕も自然とそちらへ振り向いてしまう。
其処では蘭果さんが制服の左側を大胆にずり下ろし、左胸に咲いた薔薇を露わにして立っている。
「立ち上がりなさい。両手を頭の上に乗せて、その場から一歩も動かないことね」
油断していた。思ってもみなかった。まさか朝の教室で仕掛けてくるなんて!
あちこちで机や椅子がひっくり返る音。みなが一斉に立ち上がったのだ。「うおお」「うああ」「きゃあ」勝手に動く身体に驚き戸惑う人々。僕もまた同じく背中に針金でも入れられたみたいにピンと立って、両手を頭の上に乗せている。蘭果さんの左胸を覆い隠すようにして咲き誇る巨大な薔薇に焦点を結び、両の瞳はもう動かない。
「私の許可なく声を発するんじゃないわよ」
その一言を以て、騒ぎはピタリと静まった。蘭果さんは手近な机を引き寄せるとその上に腰を下ろし、長い足を組む。左手で髪を払い、邪悪な笑みを僕へと向ける。
「馬米くんと云ったわよね。お前は喋っていいわよ。昨晩はどうも」
「どういうつもりですか。咲いていることを、この場の全員に知られてしまって」
「正直に答えなさい。私が〈人間モグラ叩き〉の犯人であることを誰かに喋ったかしら?」
正直にという命令のせいで、駆け引きの余地も奪われた。
「喋ってないです」
「へぇ……じゃあお前とあの中学生とこの場の連中が死ねば解決ねえ」
恐ろしいことを平然と云ってのける蘭果さん。もはや隠そうともしない。自らの安心や満足のために他人が死ぬことに対して、彼女はわずかばかりの躊躇もない。
視界の端に、教室に新たに這入ってくる男子生徒が映った。僕は「来るな!」と云ったが間に合わない。彼は蘭果さんの薔薇に釘付けとなり、同じように命令を受ける。
「あは。もっと早くにこうしておけば良かったわ。どうして私がお前ら如きに媚びへつらって優等生を演じ続けなければならなかったのか、まるで分からないんだから。ねえ! 廊下で見てるお前らも這入ってきなさい。みんなと同じようにするのよ。お利口にね」
ぞろぞろと動く人の気配が分かる。誰もが大混乱の真っ只中にも拘わらず静まり返っている。理解した。蘭果さんは後先考えない捨て身の行動に出たのかと思ったけれど違う。彼女は極めて安全だ。異変に気付く者がいたとしても、蘭果さんの薔薇を視ずしてこの状況を把握し他へ報せられる可能性は絶望的に低いじゃないか。
「馬米くん、右手は下ろしていいわ。あの中学生に電話しなさい。今すぐ花天月高校に来るよう呼ぶのよ」
逆らえない。この感覚を何と表現すべきか。薔薇の華に釘付けとなった僕は、彼女の命令に従うことに夢中になっている。ブレザーのポケットから携帯を手に取り、〈イリアスB〉五〇五号室の固定電話にかける。しかしムツミは電話に出るだろうか。他人の家の電話だ。
『もしもし』
出るのかよ。蘭果さんが「そいつを呼ぶ以外、余計なことを云ったら駄目よ」と命じる。
「馬米だ。いきなりで悪いんだが、今すぐ花天月高校まで来てくれないか」
『何云ってるんですか。無理ですよ。玄関が開けられないんですから』
内心で胸を撫で下ろす。それでいいんだ。呼ぶだけ呼んだのだから僕は通話を切ろうとしたが、そこに蘭果さんから追加の指示。
「来ることを確かめられるまで切らないでね」
さすが学校一の秀才だけあって抜かりない。僕は「それでも来てくれ」と云わざるを得ない。
『なんでですか』
「頼む。急ぎなんだ」
『理由くらい話してくださいよ』
「いいから。花天月高校の場所は分かるだろう」
『もしかして馬米さん、薔薇の人に操られてます?』
おお、気付いてくれたか!
『すぐ行きます』
何でだよ!
ムツミの方から通話が切られた。錠を破壊してあるのにどうやって来るつもりなんだ。
「彼女、来るって?」
蘭果さんからの問いに、僕は苦々しく「はい」と返事する。蘭果さんは勝ち誇ったように嗤う。また新しく教室に這入ってきた生徒に「黙れ動くな」と簡潔に命じつつ、机の上にのぼった。
ずっと堅い着こなしの制服の下に隠されていた柔肌とそこに咲いた薔薇を誇らしげに晒して、僕らを愉快そうに見下ろす。
「私――不治枝蘭果は知っての通り、裕福な家庭に恵まれた容姿で生を受けました。英才教育を施されて、文武両道、模範的な優等生として常に振舞ってきました。お前らは私を特別と云いますね。だけど私は分かっているのです、その構造。お前らが私を特別と云うのは、自分の怠惰を正当化するためでしょう? 私を自分達と同じ人間とは認めない。私が積み重ねている数々の努力を認めない。気付いていないと思いました? かたちだけで周囲から褒められて羨ましがられて、良い気になっていると思いました? それで私が幸せだと思いました? 馬鹿にしないで頂戴。そんなわけないでしょう。たったひとつのミスさえ許されない私が毎日毎日どれだけ苦しいか想像もせずに、だらだらだらだら生きているだけのお前らを一体どれだけブチ殺したいと思ったことかしらねえええええ」
いつもの流れるようなスピーチとは違い、粗野で乱暴で、一言一言吐き捨てるように語る彼女。しかしその姿には咲き乱れたかの如き、禍々しい魅力があった。本来の自分を解放すること。それが咲くということなのだろうか。
「いいのよ。どうせお前らは理解できない。だから――」
彼女は溜息まじりに告げた。飽きたかのように。
「――全員、そこの窓から頭を下にして落下しなさい」
一同、息を呑む。次の瞬間には一斉に動き始めている。視線の先は薔薇に固定されたまま、机や椅子をがらがら鳴らして、みなが窓際に殺到する。
「あはは、あは、その使い終わったトイレットペーパーの芯ほども価値のない命は私の愉しみのために消費されるべきだわ。そういうことよね、そういうことよ。私のクソ輝かしい完璧な人生の代償として、世界のバランスをとってもらわないとなんだわあ。今日は休校になるかしら。でもきっと習い事には行かないとね。習い事にはねえ。私の塾や習い事一回につき五十人死んでくれないと帳尻が合わないじゃないのよお」
僕の右手は窓の錠を開けている。他の者は両手を頭の上に乗せていなければならないから、肩や背中を思い切りぶつけて窓ガラスを割ろうとしている。いよいよまずい。大惨事になる。「落下中は存分に叫び声をあげていいわよお前らあああ」なんて唄っている蘭果さんが今更になって命令を撤回するはずがない。ここは六階だ。全員死ぬじゃないか!
鳥肌が立っている。心臓が胸を叩くほど暴れている。
ああ、やりたくなかった。本当にやりたくなかったんだけどな!
僕は窓を開け放った後の右手をすかさず自分の顔へ向かわせる。昨日はじめて蘭果さんの能力を体験したときに色々と試していたのが幸いだった。手で自分の目を塞ぐことはできるのだ。もちろん薔薇の支配から脱し得るほどの時間を塞ぎ続けることはできないが、こういう動きができるとは分かっていた。中指の爪で左目、親指の爪で右目の――柔らかい眼球をえぐる! 表面から〇・五ミリ程度の厚さにあるのは角膜だ。これが決定的に傷つくと眼球は光を正常に取り入れることが不能となる。
「痛ああああああああああああッ!」
想像を絶する激痛と共に、僕の視界は黒い霧にかかりバラバラになった。何がどんなふうに映ったらこうなるんだろうか。途端に吐き気がこみ上げて、平衡感覚が失われかける――が、悶えている場合じゃない。チャンスは一瞬しかない。既に僕は窓辺に群がる生徒達を押し退けつつ駆け出している。駆け出すことができている。実のところ保証はなかったのだが、まぁ眼球がそもそもまともにモノを見れなくなってしまえば、釘付けも何もない。蘭果さんの支配は〈釘付け状態〉が大前提となっているのだから、これで支配を解除できるのは理にかなったやり方だ。
泥の入った万華鏡を覗き込んだかのような出鱈目な視界だけれど、蘭果さんの位置は分かる。先刻までずっと釘付けにされて確かめていたのだ。僕の跳び蹴りが彼女が乗っている机の角に命中した手応えならぬ足応え。
「きゃっ!」
落ちてくる蘭果さんを受け止めようとするが、人間ひとりを受け止めるというのは想像以上に重い衝撃なうえ、彼女の顎が運悪く僕の鼻づらに命中したらしい。僕は蘭果さんごと後ろへ倒れ込んでいく。そうしながらしっかりと蘭果さんの細い身体を捕まえておく。そのせいで受け身も取れずに背中を床に打ち付けて口から酸素が一挙に吐き出されるのも構わない。蘭果さんの左胸の薔薇を手で探り当てて、鷲掴みにする。
「てっ、てめえええええええッ!」
その甲高い叫び声で耳まで駄目にされてしまいそうだけれど、こちらだって必死なのだ。思いのほか柔らかくて、そして温かい薔薇の華を僕は強引にむしりとった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
断末魔めいた悲鳴をあげる蘭果さん。僕もまた怒鳴る。
「この人を抑えてくれええええ!」
視界はいよいよ黒い霧の占める割合が大きくなってきて、このまま完全に失明するらしく思われた。涙が滝みたいに溢れてくる。鼻血も出ている。もう死にそうなくらい気分が悪くて、力も全然入らなくなる。しかし蘭果さんの方も先程の絶叫を最後にして、嘘みたいに大人しくなってしまった。気絶したのだろうか。どうして?
クラスメイト達は大騒ぎしている。薔薇の支配は解けたのだ。自分達を襲った異常な出来事を飲み込めずパニックになっているらしい。そりゃあそうだ。しかしこういう場合に必要な行動が何か考えようとする者もちゃんといるようで、先生を呼んでくるだとか警察に通報しようだとか救急車も呼ぼうだとかいう声が聞こえるので少し安心する。驚いたことに、僕の周りに寄り添って心配してくれる人達もいた。
「馬米くん、大丈夫!」「いま救急車呼ぶから!」「目、見えなくなってないよね!」「すぐに先生来るから!」「私達に何かできることある?」「これタオル、鼻おさえて!」「目にもタオルあてておく?」「濡らして来た方がいい?」等々、声を掛けてくれる。僕は頭が痛くて痛くて一言も発したくなかったけれど、ひとつだけ訊ねた。
「誰も落ちなかった……?」
「うん、落ちなかったよ! みんな無事!」
なら良かった。そもそも僕が状況を軽視して、登校して来てしまったのが原因なのだ。
痛い目を見るのは当然だろう。
公立花天月高等学校は〈イリアスB〉から歩いて十五分。茜条斎駅を挟んで歓楽街とは反対側に広がるオフィス街のなか、狭い土地に八階建ての校舎ビルと体育館とグラウンドと駐車場とがギュウギュウに押し込まれている。僕が所属する二年アネモネ組は六階にあって、生徒がだらだらと行列をなすエスカレーターをいつも登ることになる。
今朝、僕が登校するつもりだと知ったムツミは不満そうにしていた。「どうして行くんですか」「どうしてって、学生だからだよ。僕は編入してから皆勤賞なんだぜ」「状況が分かってないんですか」「僕が考えもなしに行動する奴に見えるか」「見えてますよ、今」「君がいつ意識を失って徘徊し始めるか知れないのは承知してる。既に対策済みだ」「どう対策したんですか」「玄関の錠をトンカチで破壊した。内側のつまみをガツンとな」「何やってるんですか」「分からないか? これで外から鍵で施錠すると、内側からは開けられなくなるんだよ」「矢韋駄さんに怒られないんですか」「怒られるかも……」「問題はもうひとつあります」「何だ」「昨日の薔薇の人、同じ学校なんですよね。殺されますよ」「よくぞ訊いてくれた」「何も訊いてません」
優等生である蘭果さんが学校を休むとは考えにくい。そして学校では周りの目があるため、派手な行動には出られないはずだ。これはチャンスである。僕は是非とも学校へ行って、彼女の機先を制するべきだ。
叔父さんには電話が繋がらない。メールも返ってこない。警察が僕の話を真面目に取り合ってくれるとは思えない。蘭果さんには薔薇の能力があるから、下手に誰かを頼ることで被害が拡大する惧れもある。
僕がやるしかない。手をこまねいていたら、蘭果さんから襲撃されるかも知れないのだ。
蘭果さんの犯罪の証拠を掴む。放課後までに校内で彼女に接触し、〈人間モグラ叩き〉の犯人であることを認めさせる。それを隠し持ったボイスレコーダーで録音する。証拠さえ押さえてしまえばこちらのものだ。
「うまくいきますか?」とムツミは胡散臭そうにしていたけれど、僕ならやれる。昨日だって危機的状況から脱してみせた。「あれはまぐれだったと思います」「いいから君はお留守番しててくれ。完璧にこなしてくる」
そういうわけで学校に来ているのだった。いつもは憂鬱な朝なのに、全然違って感じられる。蘭果さんのもとへはまだ行かないつもりだが、今のうちから緊張しているらしい。
落ち着きを取り戻すため、僕は窓外へ目を向けた。窓際の席なので、茜条斎の街並みが一望できる。今日はカラッとした快晴だ。駅から吐き出された通勤・通学中の人々が、歩道や交差点の上で器用に互いを避けつつ歩いている。一方で駅の向こう側に広がる歓楽街は就寝中。酔い潰れた者がまだ道端で眠っていたり、浮浪者がゴミを漁っていたり、大学生やフリーターのカップルが疲れた顔でホテルから出てきたりしていることだろう。
昨晩はあまり眠れなかった。欠伸をしつつ、鞄から文庫本を取り出す。僕は暇さえあれば本を読む人間だ。耳にはクラスメイトの話し声が入ってきて、〈人間モグラ叩き〉の新たな被害者が発見されたことを知る。被害者はひとりだけらしい。僕らに逃げられたことで、蘭果さんもあの後すぐに現場を立ち去ったのだろう。であれば、僕らは被害者の数を抑えることができたのかも知れない。
その時、周りがにわかに騒がしくなった。複数のどよめきが起こり、小さな悲鳴まであがる。本から顔を上げてみれば、全員が一様に教室の後ろの方へ向いて、目を丸くしていた。何だろうと思って、僕も自然とそちらへ振り向いてしまう。
其処では蘭果さんが制服の左側を大胆にずり下ろし、左胸に咲いた薔薇を露わにして立っている。
「立ち上がりなさい。両手を頭の上に乗せて、その場から一歩も動かないことね」
油断していた。思ってもみなかった。まさか朝の教室で仕掛けてくるなんて!
あちこちで机や椅子がひっくり返る音。みなが一斉に立ち上がったのだ。「うおお」「うああ」「きゃあ」勝手に動く身体に驚き戸惑う人々。僕もまた同じく背中に針金でも入れられたみたいにピンと立って、両手を頭の上に乗せている。蘭果さんの左胸を覆い隠すようにして咲き誇る巨大な薔薇に焦点を結び、両の瞳はもう動かない。
「私の許可なく声を発するんじゃないわよ」
その一言を以て、騒ぎはピタリと静まった。蘭果さんは手近な机を引き寄せるとその上に腰を下ろし、長い足を組む。左手で髪を払い、邪悪な笑みを僕へと向ける。
「馬米くんと云ったわよね。お前は喋っていいわよ。昨晩はどうも」
「どういうつもりですか。咲いていることを、この場の全員に知られてしまって」
「正直に答えなさい。私が〈人間モグラ叩き〉の犯人であることを誰かに喋ったかしら?」
正直にという命令のせいで、駆け引きの余地も奪われた。
「喋ってないです」
「へぇ……じゃあお前とあの中学生とこの場の連中が死ねば解決ねえ」
恐ろしいことを平然と云ってのける蘭果さん。もはや隠そうともしない。自らの安心や満足のために他人が死ぬことに対して、彼女はわずかばかりの躊躇もない。
視界の端に、教室に新たに這入ってくる男子生徒が映った。僕は「来るな!」と云ったが間に合わない。彼は蘭果さんの薔薇に釘付けとなり、同じように命令を受ける。
「あは。もっと早くにこうしておけば良かったわ。どうして私がお前ら如きに媚びへつらって優等生を演じ続けなければならなかったのか、まるで分からないんだから。ねえ! 廊下で見てるお前らも這入ってきなさい。みんなと同じようにするのよ。お利口にね」
ぞろぞろと動く人の気配が分かる。誰もが大混乱の真っ只中にも拘わらず静まり返っている。理解した。蘭果さんは後先考えない捨て身の行動に出たのかと思ったけれど違う。彼女は極めて安全だ。異変に気付く者がいたとしても、蘭果さんの薔薇を視ずしてこの状況を把握し他へ報せられる可能性は絶望的に低いじゃないか。
「馬米くん、右手は下ろしていいわ。あの中学生に電話しなさい。今すぐ花天月高校に来るよう呼ぶのよ」
逆らえない。この感覚を何と表現すべきか。薔薇の華に釘付けとなった僕は、彼女の命令に従うことに夢中になっている。ブレザーのポケットから携帯を手に取り、〈イリアスB〉五〇五号室の固定電話にかける。しかしムツミは電話に出るだろうか。他人の家の電話だ。
『もしもし』
出るのかよ。蘭果さんが「そいつを呼ぶ以外、余計なことを云ったら駄目よ」と命じる。
「馬米だ。いきなりで悪いんだが、今すぐ花天月高校まで来てくれないか」
『何云ってるんですか。無理ですよ。玄関が開けられないんですから』
内心で胸を撫で下ろす。それでいいんだ。呼ぶだけ呼んだのだから僕は通話を切ろうとしたが、そこに蘭果さんから追加の指示。
「来ることを確かめられるまで切らないでね」
さすが学校一の秀才だけあって抜かりない。僕は「それでも来てくれ」と云わざるを得ない。
『なんでですか』
「頼む。急ぎなんだ」
『理由くらい話してくださいよ』
「いいから。花天月高校の場所は分かるだろう」
『もしかして馬米さん、薔薇の人に操られてます?』
おお、気付いてくれたか!
『すぐ行きます』
何でだよ!
ムツミの方から通話が切られた。錠を破壊してあるのにどうやって来るつもりなんだ。
「彼女、来るって?」
蘭果さんからの問いに、僕は苦々しく「はい」と返事する。蘭果さんは勝ち誇ったように嗤う。また新しく教室に這入ってきた生徒に「黙れ動くな」と簡潔に命じつつ、机の上にのぼった。
ずっと堅い着こなしの制服の下に隠されていた柔肌とそこに咲いた薔薇を誇らしげに晒して、僕らを愉快そうに見下ろす。
「私――不治枝蘭果は知っての通り、裕福な家庭に恵まれた容姿で生を受けました。英才教育を施されて、文武両道、模範的な優等生として常に振舞ってきました。お前らは私を特別と云いますね。だけど私は分かっているのです、その構造。お前らが私を特別と云うのは、自分の怠惰を正当化するためでしょう? 私を自分達と同じ人間とは認めない。私が積み重ねている数々の努力を認めない。気付いていないと思いました? かたちだけで周囲から褒められて羨ましがられて、良い気になっていると思いました? それで私が幸せだと思いました? 馬鹿にしないで頂戴。そんなわけないでしょう。たったひとつのミスさえ許されない私が毎日毎日どれだけ苦しいか想像もせずに、だらだらだらだら生きているだけのお前らを一体どれだけブチ殺したいと思ったことかしらねえええええ」
いつもの流れるようなスピーチとは違い、粗野で乱暴で、一言一言吐き捨てるように語る彼女。しかしその姿には咲き乱れたかの如き、禍々しい魅力があった。本来の自分を解放すること。それが咲くということなのだろうか。
「いいのよ。どうせお前らは理解できない。だから――」
彼女は溜息まじりに告げた。飽きたかのように。
「――全員、そこの窓から頭を下にして落下しなさい」
一同、息を呑む。次の瞬間には一斉に動き始めている。視線の先は薔薇に固定されたまま、机や椅子をがらがら鳴らして、みなが窓際に殺到する。
「あはは、あは、その使い終わったトイレットペーパーの芯ほども価値のない命は私の愉しみのために消費されるべきだわ。そういうことよね、そういうことよ。私のクソ輝かしい完璧な人生の代償として、世界のバランスをとってもらわないとなんだわあ。今日は休校になるかしら。でもきっと習い事には行かないとね。習い事にはねえ。私の塾や習い事一回につき五十人死んでくれないと帳尻が合わないじゃないのよお」
僕の右手は窓の錠を開けている。他の者は両手を頭の上に乗せていなければならないから、肩や背中を思い切りぶつけて窓ガラスを割ろうとしている。いよいよまずい。大惨事になる。「落下中は存分に叫び声をあげていいわよお前らあああ」なんて唄っている蘭果さんが今更になって命令を撤回するはずがない。ここは六階だ。全員死ぬじゃないか!
鳥肌が立っている。心臓が胸を叩くほど暴れている。
ああ、やりたくなかった。本当にやりたくなかったんだけどな!
僕は窓を開け放った後の右手をすかさず自分の顔へ向かわせる。昨日はじめて蘭果さんの能力を体験したときに色々と試していたのが幸いだった。手で自分の目を塞ぐことはできるのだ。もちろん薔薇の支配から脱し得るほどの時間を塞ぎ続けることはできないが、こういう動きができるとは分かっていた。中指の爪で左目、親指の爪で右目の――柔らかい眼球をえぐる! 表面から〇・五ミリ程度の厚さにあるのは角膜だ。これが決定的に傷つくと眼球は光を正常に取り入れることが不能となる。
「痛ああああああああああああッ!」
想像を絶する激痛と共に、僕の視界は黒い霧にかかりバラバラになった。何がどんなふうに映ったらこうなるんだろうか。途端に吐き気がこみ上げて、平衡感覚が失われかける――が、悶えている場合じゃない。チャンスは一瞬しかない。既に僕は窓辺に群がる生徒達を押し退けつつ駆け出している。駆け出すことができている。実のところ保証はなかったのだが、まぁ眼球がそもそもまともにモノを見れなくなってしまえば、釘付けも何もない。蘭果さんの支配は〈釘付け状態〉が大前提となっているのだから、これで支配を解除できるのは理にかなったやり方だ。
泥の入った万華鏡を覗き込んだかのような出鱈目な視界だけれど、蘭果さんの位置は分かる。先刻までずっと釘付けにされて確かめていたのだ。僕の跳び蹴りが彼女が乗っている机の角に命中した手応えならぬ足応え。
「きゃっ!」
落ちてくる蘭果さんを受け止めようとするが、人間ひとりを受け止めるというのは想像以上に重い衝撃なうえ、彼女の顎が運悪く僕の鼻づらに命中したらしい。僕は蘭果さんごと後ろへ倒れ込んでいく。そうしながらしっかりと蘭果さんの細い身体を捕まえておく。そのせいで受け身も取れずに背中を床に打ち付けて口から酸素が一挙に吐き出されるのも構わない。蘭果さんの左胸の薔薇を手で探り当てて、鷲掴みにする。
「てっ、てめえええええええッ!」
その甲高い叫び声で耳まで駄目にされてしまいそうだけれど、こちらだって必死なのだ。思いのほか柔らかくて、そして温かい薔薇の華を僕は強引にむしりとった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
断末魔めいた悲鳴をあげる蘭果さん。僕もまた怒鳴る。
「この人を抑えてくれええええ!」
視界はいよいよ黒い霧の占める割合が大きくなってきて、このまま完全に失明するらしく思われた。涙が滝みたいに溢れてくる。鼻血も出ている。もう死にそうなくらい気分が悪くて、力も全然入らなくなる。しかし蘭果さんの方も先程の絶叫を最後にして、嘘みたいに大人しくなってしまった。気絶したのだろうか。どうして?
クラスメイト達は大騒ぎしている。薔薇の支配は解けたのだ。自分達を襲った異常な出来事を飲み込めずパニックになっているらしい。そりゃあそうだ。しかしこういう場合に必要な行動が何か考えようとする者もちゃんといるようで、先生を呼んでくるだとか警察に通報しようだとか救急車も呼ぼうだとかいう声が聞こえるので少し安心する。驚いたことに、僕の周りに寄り添って心配してくれる人達もいた。
「馬米くん、大丈夫!」「いま救急車呼ぶから!」「目、見えなくなってないよね!」「すぐに先生来るから!」「私達に何かできることある?」「これタオル、鼻おさえて!」「目にもタオルあてておく?」「濡らして来た方がいい?」等々、声を掛けてくれる。僕は頭が痛くて痛くて一言も発したくなかったけれど、ひとつだけ訊ねた。
「誰も落ちなかった……?」
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