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薔薇の支配にどう抗うのか②
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華乃幼少帰咲とは、十年ほど前から茜条斎の周辺地域で限定的に確認されている奇病だ。
症状としては身体のどこかに華が咲き、神懸かりになるというものである。患者数は十年間で百人にも及ばず、どうやら感染性の病気ではないらしい。そもそも原因が不明ではあるものの、精神疾患として扱うのが正しいと聞く。発病する大半が思春期の女子であることも、心因性であることを間接的に裏付けする。
ムツミの華は椿だった。この場合、彼女は椿乃幼少帰咲と呼ばれる。咲いた人間は理性を失って突飛な行動に出るとのことだ。早く捕まえなければ、どんな事態を招くか分からない。はじめから地に足がついていないような佇まいではあったけれども、ベレー帽が脱げた彼女は明らかに異様だった。何かに憑かれたかのような……。
〈イリアスB〉の階段を駆け下りて表に出た僕は幸い、遠くを駆けて行くムツミの後ろ姿を見とめられた。此処は歓楽街のはずれに位置しており、彼女はまさにその歓楽街の中へと這入って行く。あるいは、飲み込まれていくようにも見える。
真っ赤に染まった夕焼け空と、同じ色に染め抜かれているビル群。
眠らない街という表現があるが、正確ではない。それは単に夜が活動時間というだけで、昼間はがっつり眠っている。今はその狭間、つまり起床時間にあたる。夜の帳が降りていくにつれ、ネオンの灯りがひとつふたつと増え始め、人々が集まり、喧噪が生まれ、この街本来の顔が現れるのだ。
そんななかを駆けて行くムツミは当然、人目を惹いた。すれ違う者はみな一様に、頭に華が咲いた女子中学生へ振り向いてざわめきを上げた。ムツミの不安定な走りは、どうして転ばないのか不思議なくらいだった。前方にほとんど倒れ込むような格好で、遅れて両脚が動いている有様。弛緩した両腕はぶらぶらと揺れるに任されている。
あんな走り方なのに、迷いは一切感じられない。何か、見えない力に引っ張られている?
やがて彼女は、狭い路地裏へと這入って行った。先刻から一向に追い付けない理由は簡単だ。僕は専らの頭脳派なので、身体を動かすことには覚えがない。もう息が上がって、肺が痛くて、筋肉が鉛に変わっていくみたいに動かなくなりつつある。
沈みゆく陽の光は、この路地裏の中までは届かない。僕は何かにつまずいて、前方にあった大きなバケツ型のゴミ箱をひっくり返しながら盛大に転んだ。なんて無様な……。生ゴミを被った状態で顔を上げると、遠くでムツミが建物の裏口をくぐるところだった。
あそこが彼女の実家ということはなさそうだ。この辺りは飲み屋が密集しているから、その内のひとつだろう。いずれにせよ、中学生がひとりで這入るようなところではない。僕はゴミを払いつつも急ぎ足で彼女を追い、同じ裏口をくぐる。
案の定、そこは小さくて汚い和風居酒屋だった。這入ったところは厨房で、カウンター越しにホールが一望できる。まだ準備中らしく、厨房の照明が点いているのみだ。薄暗いホールに立っている人影。その後ろ姿はしかし、ムツミではなかった。
レインコートを被ったその人物はなかなかの長身で、ステンレス製の大型ゴミ箱みたいな物体の前にいる。大型ゴミ箱は、テーブルや椅子をひっくり返して空いたスペースに、不自然に設置されている。僕はそれに見覚えがある。
〈人間モグラ叩き〉――その現場を僕は一度、野次馬として観ていた。今、人影の向こうにあるのは、あれと同じモグラ叩き台だ。上蓋には規則正しく四列二行の穴が開いていて、びしゃびしゃと音を立てながら絶えず水が溢れ出している。厨房にある水道に嵌められたホースがカウンターを跨ぎ、モグラ叩き台の底まで繋がっているのだ。
どんな偶然だ、これは。何パーセントの確率で起こり得る?
連続殺人事件の犯行現場と犯人に遭遇するなんて!
ムツミはすぐ隣にいた。直立不動で、レインコートの人物を見詰めている。僕は固唾を飲んで、慎重に彼女の手を掴んだ。彼女はびくりと震えて、こちらに振り向いた。
「あれ。どこですか此処」
憑き物が落ちたかのように、不思議そうに周囲を見回すムツミ。やはり今まで正体を失っていたのか。ああ、まずいことになった。
「あらあら。あらあらあら。いらっしゃいませ、と云うべきかしら」
レインコートの人物に気取られた。その身体がゆらりと、こちらへ向いた。僕は咄嗟に、ムツミと繋いでいない方の手を広げて前方に突き出した。
「失礼しました。は、二十歳になってから、また来ます」
「あらあら。未成年だから良いんじゃない。いけないことをするから良いのよ」
女だ。底知れず冷徹な声だ。隣ではムツミが「馬米さん、もしかして私――」なんて喋っているが、僕はレインコートの女から目を離せない。女は目深に被っていたフードをとり、薄暗闇の中に顔をさらした。そして僕はさらなる驚きに撃たれる。
「あっ! 蘭果さん――ですよね?」
「その制服、花天月高校ね。女の子は中学生? 付き合っているの?」
彼女はボタンをぷちぷちと外していき、レインコートの前を開ける。その下に着ていたのは花天月高校の制服だった。フルネームはたしか不治枝蘭果。僕よりひとつ上の三年生だ。
右手にはハンマーが握られていて、レインコートには少量の返り血が付着している。
「貴女が〈人間モグラ叩き〉の犯人なんですか」
口に出しても実感が追いついてこない。僕が彼女を知っているのは、彼女が有名人だからだ。しかし妖しく微笑する彼女の姿は、僕が知るそれとあまりに異なっていた。モデルみたいなスタイルと美貌、才色兼備、品行方正――花天月高校きっての優等生が不治枝蘭果なのである。生徒会副会長として、全校集会などの場で見事な司会を務める姿を何度か目にしている。
「ごめんなさい馬米さん」
ムツミの声。
「私、またやってしまったんですね」
目だけ動かしてムツミの様子を窺う。彼女は虚ろでもなければ、無表情でもなかった。何か、苦しみをひとり噛み殺すような、複雑な表情を浮かべていた。
「意識を失って、気が付くと、殺人事件の現場にいるんです。今回は犯人まで……」
その頭の上では椿の華が垂れている。一体どういうことなのか。だがムツミの話を詳しく聞くのはどう考えたって後回しだ。僕らの前には連続殺人犯がいるのだ。
「あーー、あーー、あーーーー?」
蘭果さんは不意に、調子を確かめるみたいに続けて声を出した。
「分かるわよ。お前、疑問に思っているでしょう。私のようなお利口さんが、どうして殺人に手を染めているのか、想像することができないのでしょう」
「そりゃあ、そうですよ……」
「でしょうねえ。全員そうよ。私に完璧を求める。私は完璧で当たり前。私に理想を投影して、少しでも反することを許さない。それって私を上っ面で崇めたてながら、真実は何よりも下に見ているわよねえ。人間じゃない、お人形遊びの道具ってわけなんだから」
長い黒髪を左手で広げるように払うと、右手のハンマーを持ち上げる。片方の目尻に皺をつくり、口元は苛立たしげに歪んでいる。
「ストレス発散しないと、やってられないじゃない」
「成程……それでモグラ叩きですか」
僕に今、恐怖はなかった。何故なら、充分に逃げられると気付いたからだ。蘭果さんと僕らはカウンターを挟んでいる。僕らは踵を返して裏口から出て行って、表通りまで抜けてしまえばそれで勝利だ。叔父さんに〈人間モグラ叩き〉の犯人を教えよう。この事件の解決に、僕は大いに貢献したことになるではないか!
いっそ高揚してきた。ムツミの手を引いて一歩後退しつつ、格好良い台詞のひとつでも述べておきたい気分に駆られる。
「しかしゲームオーバーですね。貴女の場合、頭よりも尻尾を隠すべきでし――」
「調子に乗らないでください馬米さん。あの人は多分、咲いてます」
ムツミに邪魔された。だがそれよりもその言葉に引っ掛かった。『咲いてます』?
蘭果さんに再び目を向ける。彼女はセーラー服のリボンを解くと前方のチャックを下ろした。それからおもむろに左肩をはだけ、ブラジャーまで露わにした。え、何してんの――と思っているうちに、ブラジャーも強引にずり下げてしまった。
瞠目。そこには大きな赤い薔薇が、艶やかに花開いていた。
華乃幼少帰咲とは、十年ほど前から茜条斎の周辺地域で限定的に確認されている奇病だ。
症状としては身体のどこかに華が咲き、神懸かりになるというものである。患者数は十年間で百人にも及ばず、どうやら感染性の病気ではないらしい。そもそも原因が不明ではあるものの、精神疾患として扱うのが正しいと聞く。発病する大半が思春期の女子であることも、心因性であることを間接的に裏付けする。
ムツミの華は椿だった。この場合、彼女は椿乃幼少帰咲と呼ばれる。咲いた人間は理性を失って突飛な行動に出るとのことだ。早く捕まえなければ、どんな事態を招くか分からない。はじめから地に足がついていないような佇まいではあったけれども、ベレー帽が脱げた彼女は明らかに異様だった。何かに憑かれたかのような……。
〈イリアスB〉の階段を駆け下りて表に出た僕は幸い、遠くを駆けて行くムツミの後ろ姿を見とめられた。此処は歓楽街のはずれに位置しており、彼女はまさにその歓楽街の中へと這入って行く。あるいは、飲み込まれていくようにも見える。
真っ赤に染まった夕焼け空と、同じ色に染め抜かれているビル群。
眠らない街という表現があるが、正確ではない。それは単に夜が活動時間というだけで、昼間はがっつり眠っている。今はその狭間、つまり起床時間にあたる。夜の帳が降りていくにつれ、ネオンの灯りがひとつふたつと増え始め、人々が集まり、喧噪が生まれ、この街本来の顔が現れるのだ。
そんななかを駆けて行くムツミは当然、人目を惹いた。すれ違う者はみな一様に、頭に華が咲いた女子中学生へ振り向いてざわめきを上げた。ムツミの不安定な走りは、どうして転ばないのか不思議なくらいだった。前方にほとんど倒れ込むような格好で、遅れて両脚が動いている有様。弛緩した両腕はぶらぶらと揺れるに任されている。
あんな走り方なのに、迷いは一切感じられない。何か、見えない力に引っ張られている?
やがて彼女は、狭い路地裏へと這入って行った。先刻から一向に追い付けない理由は簡単だ。僕は専らの頭脳派なので、身体を動かすことには覚えがない。もう息が上がって、肺が痛くて、筋肉が鉛に変わっていくみたいに動かなくなりつつある。
沈みゆく陽の光は、この路地裏の中までは届かない。僕は何かにつまずいて、前方にあった大きなバケツ型のゴミ箱をひっくり返しながら盛大に転んだ。なんて無様な……。生ゴミを被った状態で顔を上げると、遠くでムツミが建物の裏口をくぐるところだった。
あそこが彼女の実家ということはなさそうだ。この辺りは飲み屋が密集しているから、その内のひとつだろう。いずれにせよ、中学生がひとりで這入るようなところではない。僕はゴミを払いつつも急ぎ足で彼女を追い、同じ裏口をくぐる。
案の定、そこは小さくて汚い和風居酒屋だった。這入ったところは厨房で、カウンター越しにホールが一望できる。まだ準備中らしく、厨房の照明が点いているのみだ。薄暗いホールに立っている人影。その後ろ姿はしかし、ムツミではなかった。
レインコートを被ったその人物はなかなかの長身で、ステンレス製の大型ゴミ箱みたいな物体の前にいる。大型ゴミ箱は、テーブルや椅子をひっくり返して空いたスペースに、不自然に設置されている。僕はそれに見覚えがある。
〈人間モグラ叩き〉――その現場を僕は一度、野次馬として観ていた。今、人影の向こうにあるのは、あれと同じモグラ叩き台だ。上蓋には規則正しく四列二行の穴が開いていて、びしゃびしゃと音を立てながら絶えず水が溢れ出している。厨房にある水道に嵌められたホースがカウンターを跨ぎ、モグラ叩き台の底まで繋がっているのだ。
どんな偶然だ、これは。何パーセントの確率で起こり得る?
連続殺人事件の犯行現場と犯人に遭遇するなんて!
ムツミはすぐ隣にいた。直立不動で、レインコートの人物を見詰めている。僕は固唾を飲んで、慎重に彼女の手を掴んだ。彼女はびくりと震えて、こちらに振り向いた。
「あれ。どこですか此処」
憑き物が落ちたかのように、不思議そうに周囲を見回すムツミ。やはり今まで正体を失っていたのか。ああ、まずいことになった。
「あらあら。あらあらあら。いらっしゃいませ、と云うべきかしら」
レインコートの人物に気取られた。その身体がゆらりと、こちらへ向いた。僕は咄嗟に、ムツミと繋いでいない方の手を広げて前方に突き出した。
「失礼しました。は、二十歳になってから、また来ます」
「あらあら。未成年だから良いんじゃない。いけないことをするから良いのよ」
女だ。底知れず冷徹な声だ。隣ではムツミが「馬米さん、もしかして私――」なんて喋っているが、僕はレインコートの女から目を離せない。女は目深に被っていたフードをとり、薄暗闇の中に顔をさらした。そして僕はさらなる驚きに撃たれる。
「あっ! 蘭果さん――ですよね?」
「その制服、花天月高校ね。女の子は中学生? 付き合っているの?」
彼女はボタンをぷちぷちと外していき、レインコートの前を開ける。その下に着ていたのは花天月高校の制服だった。フルネームはたしか不治枝蘭果。僕よりひとつ上の三年生だ。
右手にはハンマーが握られていて、レインコートには少量の返り血が付着している。
「貴女が〈人間モグラ叩き〉の犯人なんですか」
口に出しても実感が追いついてこない。僕が彼女を知っているのは、彼女が有名人だからだ。しかし妖しく微笑する彼女の姿は、僕が知るそれとあまりに異なっていた。モデルみたいなスタイルと美貌、才色兼備、品行方正――花天月高校きっての優等生が不治枝蘭果なのである。生徒会副会長として、全校集会などの場で見事な司会を務める姿を何度か目にしている。
「ごめんなさい馬米さん」
ムツミの声。
「私、またやってしまったんですね」
目だけ動かしてムツミの様子を窺う。彼女は虚ろでもなければ、無表情でもなかった。何か、苦しみをひとり噛み殺すような、複雑な表情を浮かべていた。
「意識を失って、気が付くと、殺人事件の現場にいるんです。今回は犯人まで……」
その頭の上では椿の華が垂れている。一体どういうことなのか。だがムツミの話を詳しく聞くのはどう考えたって後回しだ。僕らの前には連続殺人犯がいるのだ。
「あーー、あーー、あーーーー?」
蘭果さんは不意に、調子を確かめるみたいに続けて声を出した。
「分かるわよ。お前、疑問に思っているでしょう。私のようなお利口さんが、どうして殺人に手を染めているのか、想像することができないのでしょう」
「そりゃあ、そうですよ……」
「でしょうねえ。全員そうよ。私に完璧を求める。私は完璧で当たり前。私に理想を投影して、少しでも反することを許さない。それって私を上っ面で崇めたてながら、真実は何よりも下に見ているわよねえ。人間じゃない、お人形遊びの道具ってわけなんだから」
長い黒髪を左手で広げるように払うと、右手のハンマーを持ち上げる。片方の目尻に皺をつくり、口元は苛立たしげに歪んでいる。
「ストレス発散しないと、やってられないじゃない」
「成程……それでモグラ叩きですか」
僕に今、恐怖はなかった。何故なら、充分に逃げられると気付いたからだ。蘭果さんと僕らはカウンターを挟んでいる。僕らは踵を返して裏口から出て行って、表通りまで抜けてしまえばそれで勝利だ。叔父さんに〈人間モグラ叩き〉の犯人を教えよう。この事件の解決に、僕は大いに貢献したことになるではないか!
いっそ高揚してきた。ムツミの手を引いて一歩後退しつつ、格好良い台詞のひとつでも述べておきたい気分に駆られる。
「しかしゲームオーバーですね。貴女の場合、頭よりも尻尾を隠すべきでし――」
「調子に乗らないでください馬米さん。あの人は多分、咲いてます」
ムツミに邪魔された。だがそれよりもその言葉に引っ掛かった。『咲いてます』?
蘭果さんに再び目を向ける。彼女はセーラー服のリボンを解くと前方のチャックを下ろした。それからおもむろに左肩をはだけ、ブラジャーまで露わにした。え、何してんの――と思っているうちに、ブラジャーも強引にずり下げてしまった。
瞠目。そこには大きな赤い薔薇が、艶やかに花開いていた。
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