そして誰もいなクマった

凛野冥

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 熊だ。

 三嶋みしまは脇目も振らず、木々の間を縫い、雑草を踏み倒し、走った。自分の身体が一箇の心臓になったかの如き激しい心拍音と息遣い。遠く後方で続いていた、耳をつんざくような清水しみずの悲鳴が止まったが、振り返る余裕はない。極度の混乱状態でありながら、三嶋は〈逃走〉という指向性に全存在を集中させていた――集中。彼の平凡な人生において、今この時ほどのそれは一度としてなかった。

 すぐ後ろを、他の面々がついて来ているのは分かっている。誰も声を発する者はいない。強烈な死の危険に際して個となった彼らは、ただ我武者羅がむしゃらに、山の中を走り続けた。


    2


 夏休みも終わりが差し掛かったこの日、六名の男女が秩父ちちぶの廃村を目指して山を登っていた。みな、同じ××大学のミステリ研究会のメンバーであった。

 雲ひとつない快晴で、時折爽やかな風が吹く、絶好の登山日和だった。事実、登山は順調だった。以前にその廃村を訪れたという先輩から入念に話を聞いていたため、途中から道なき道となっても、幹が二股に分かれた特徴的な大樹や鏡餅の形をした苔むした岩などの〈目印〉を辿り、迷うこともなく、昼過ぎには目的地に到着できるかと思われた。

 しかし彼らは、熊と出遭った。

 談笑の最中に三嶋が、行く手にたたずむその灰色の影を見とめた。目を合わせるな……背中を向けず、静かに、ゆっくりと後退しろ……三嶋はそう指示しかけた。そこで絶叫したのが、一年生の清水だった。熊が動いた。三嶋はほとんど反射的に身をひるがえして駆け出した。一度だけ振り返ると、清水ひとりが腰を抜かして取り残されていた。咽喉のどが張り裂けんばかりの声で喚きたてている彼に、ずんぐりとした熊が飛び掛かる瞬間だった。三嶋は息を呑み、それによって咳き込み、肺がキリキリ痛むのに耐えながら、あとは前だけを見て逃げた。

 時間は射られた矢のように一瞬の内に過ぎた。逃走中の三嶋は何も思考できなかったし、何も意識できなかった。よって、熊と遭遇した次には、劇の場面転換に似た断続性で〈そこ〉に行き着いたふうに感じられた。

 鬱蒼とした森は野放図のほうずに伸びた樹々が陽光を遮って薄暗かったが、それが不意に開けたのである。〈そこ〉はまるで十円禿げみたいに木が生えておらず、代わりに一軒の家が建っていた。壁には蔦が這っており色も褪せていたが、みすぼらしい小屋なんかでは全然なく、石造り二階建ての、シッカリした構えであった。

 三嶋は息切れ寸前で、とても声は出せなかった。玄関扉に飛びつくと、ノックもせずに開けようと試みた。果たして、扉は開いた。三嶋は駆け込んだ。彼について来ていた他の四人も続き、すかさず扉を閉めると、錠をかけた。

 助かった! 奇蹟だ! 心の内でそう叫ぶや否や、三嶋は脱力し、その場に倒れ込んだのだった。
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