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教団〈桜生の会〉・桜生塔編
11~13「甘井無果汁の正体」
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11
矢衣蒲うらめが男子であったことに信者のひとりが気付いて「嘘!」「どういうこと!」「私達を騙してたってことでしょう」「〈桜生の会〉は女しか入れないから?」「男子にだって桜野美海子様になりたいと願う自由はあるものねぇ」「可哀想なうらめ」「嘘ついてたんだよ? もっと怒ろうよ」「死人に怒っても……」なんてひとしきり騒がれた後に、血まみれだった人達はシャワーを浴びて着替えて、それから皆はサロンに集合してアリバイ確認が行われた。
結果は芳しくなかった。単独で行動していた者も多くいたし、誰かといた者もずっとそうだったわけではなかったり、二人だけではアリバイとして弱かったり、そもそも皆が時計に気を遣ってはいなかったせいで細部が曖昧で、錯綜しており、確かなことは全然云えなかったのだ。これだけ人数がいればそうもなるだろう。
加えて、矢衣蒲うらめの奇妙な行動も皆の頭を悩ませた。
「どうして死んだ振りなんか?」
「あれじゃないですか、殺される前に死んでしまえば殺されないっていう」
「でも犯人は自分が殺したんじゃないって分かるんだから、後で確認に来られるかもよ?」
「現にバレたその場で殺されたし」
「リスキーだなぁ。それだったら塔から逃げ出すでしょ」
「考えが及ばなかったんじゃない?」
「って云うか話戻りますけど、男だったんですね……」
「全然気付かなかったぁ。しかも義手だよ?」
「矢衣蒲にどんなドラマがあったのか」
「雑談をやめなさい。矢衣蒲を殺したのは犯人でしょ? あのときに周りにいたのは?」
「えー、煙で何も見えませんでしたよ」
「みんな動き回ってたから分からないですねぇ」
「返り血を浴びた人が怪しいんじゃない?」
「その絞り方は危険だよ。犯人が逆サイドから手を回すようにして首を切ったなら?」
「そもそも煙で周りが見えなかったのは犯人も同じだったはず。なのにどうやって……」
「矢衣蒲は出口に向かって突っ走ってたから、ぶつかられたかなんかして分かったんじゃないですか?」
「たしかに! 私、矢衣蒲さんに突進されたの分かったもん!」
「どうでもいいよ。どうせ、そこからも容疑者は絞れないんだからさ」
「埒が明かないです」
矢衣蒲うらめがスパイ・杭原あやめであったとは、誰も思い付かないようだった。
彼がどうして殺された振りなんてしたのかは、分からなくもない。
犯人を誘い出そうとしたのだ。後で彼の〈死の状況〉を不審に思った犯人がひとりで確認しに来たところを、押さえるつもりだったのだろう。そのときには犯人はきっと凶器も一緒に持っているはずで、それを証拠にしようと考えたわけだ。
彼の目的は白生塔事件の真相を暴くことと〈桜生の会〉を壊滅させることだったはずだけれど、連続殺人事件が起きて優先順位が変わったのか。それとも、この事件が本来の目的とも繋がると考えたのか。
自分が死んだと思わせて、敵役に定めていた僕――塚場壮太を油断させようという魂胆もあったのかも知れない。信者のひとりに扮しているのではどうしても行動が制限されるが、〈死人〉になればそこから解放されるのだし、それで色々と探ろうとしていたとも考えられる。
いずれにせよ、それが手段を選ばない〈闇探偵〉のやり方ということだろう。
死んだ振りがすぐに見破られるとは、考えてなかったに違いない。あくまでも犯人は不審に思う程度だと想定していたはずだ。
なぜなら、彼はこの事件に犯人が二人いると知っていたからである。『桜野美海子の最期』をなぞる犯人と、そこに余分な殺人を付け加えた犯人。そのある種の混迷に、彼は〈自分の殺人〉をまぎれ込ませようとしたのだ。
まさかあんなに早く僕に看破されて、さらに皆がいる前で指摘されるとは、思ってもみなかった――それが彼の敗因だった。
ちょっと自信家が過ぎたのだろう。
12
ああ、
〈その時〉が迫ってきたな。
13
一旦解散となり、僕と無果汁ちゃんは九〇三号室に戻っていた。もう夕刻だけれど、桜生塔の中には昼も夜もない。
「矢衣蒲うらめの行動は抜いて考えて良さそうです。逃げ出そうとした彼を犯人が殺害したのは不可抗力的でしたし。……となると、やはり事件は依然として白生塔事件をなぞっており、次は〈枷部・ボナパルト・誠一〉ですか」
ソファーに腰掛けて紅茶を飲みながら、無果汁ちゃんは呟いている。横顔には疲労が浮かんでいて、俯き気味だ。
僕はその隣に座った。彼女は少しドキッとしたふうにこちらを見た。
「無果汁ちゃん、戸倉麻耶を〈雪の密室〉を装って殺したのは君だろう?」
「え……」
カップが床に落ち、紅茶が零れた。無果汁ちゃんは慌ててそれを拾おうとしたが、僕がその手を掴んで止める。
怯えを湛えた瞳が、再び僕の方に向く。
「あの殺人は白生塔事件をなぞってなんかいない。皆は戸倉麻耶が〈桜野美海子〉役だったから排除されたとか、戸倉の〈くら〉が獅子谷敬蔵に通じるから〈真の第一の殺人〉だったんだとか変な解釈を付けてるけど、あの犯人にはそんなつもりなかったんだ。だっていずれの場合も、あれを〈雪の密室〉にする理由がない」
「…………で、でも、私は今朝に着いたばかりで、」
「それは嘘だよ。なぜなら君が乗って来た車のタイヤ痕がなかった」
無果汁ちゃんは引きつるように息を吸って、噎せ返った。
皆が見て確認していたことだ。車から玄関まで無果汁ちゃんが歩いた足跡があるだけで、他は一面の処女雪――タイヤ痕なんて、なかった。
「付け加えるなら、君の車の上には雪が残っていた。どういうことだろうね? 答えは簡単だ。昨晩に一度止んだ後、雪はもう一度降ったんだ。君はこれも嘘を付いていた。君が此処に着いたのはその雪が降り止む前で、その雪がタイヤ痕と、そして君の足跡を消した――戸倉麻耶を殺して死体をあそこまで運んだ、その一連の跡をね。犯行を終えた君は車の中で待ち、雪が止んでから再び桜生塔の玄関まで真っ直ぐ歩いて、インターホンを押した。ああ、真っ直ぐ――これも変な話だったよ。君は塔の脇にある死体を見つけたのに、近寄ろうともしなかったって云うんだから」
無果汁ちゃんは〈雪の密室〉とそこに関係する足跡のことばかり考えて、タイヤ痕や他のおかしな点に気が回っていなかったのだ。
今にも泣き出しそうな彼女に、僕はなおも続ける。
「君がそんなことをした理由は、探偵として活躍するためだろう。あの〈雪の密室〉にはそれしか意味がない。桜生塔の仕組みを利用したトリック――君はそれを思い付いて、来る前から実行を決めていた。だから鉄球なんて持って来ていたんだ。あれは辻能乃を撲殺した凶器とは違う。ただ電磁石を利用したトリックを君が推理するための、それだけのための〈証拠〉でしかなかった」
「し――仕方なかったんですっ」
無果汁ちゃんは勢い良く立ち上がった。
「慣れない山道で雪も降ってて、予定より大幅に遅れて、私が着いたのは深夜の三時頃でした。そうしたら玄関の前に人――あの戸倉さんが倒れていて――気絶していたんです。揺すって起こして、朦朧としている彼女から事情を聞きました。〈桜野美海子〉役として〈能登〉役の辻さんと〈C〉を使ってサロンに這入ろうとしたとき、扉を開けたらいきなり何者かに襲われて、気絶させられたんだって。今ここにいるってことは自分だけ放り出されたらしいって。私が玄関扉を開けようとしてみたら〈C〉の壁に塞がれていて――何が起きたのか分からない。でも何か異常な事態になっている。戸倉さんはインターホンを鳴らそうとしました――それを私、止めたんです」
そこまでは立て板に水とばかりにまくし立てた無果汁ちゃんだったが、愕然としたように言葉を切り、口調がゆっくりになった。
「……はい、私は用意して来ていました。信者の誰か適当なひとりを殺してお腹を開いて鉄球を入れて塔の脇に捨てて雪で足跡を消して……でも何か理由をつけて雪は降ってなかったことにして〈雪の密室〉をつくって、私が考えた密室トリックを私が解こうと……。戸倉さんがインターホンを押そうとしたとき、今がチャンスなんじゃないかって……咄嗟に思って、押すのを止めさせて……戸倉さんを森に少し這入ったところまで連れて行きました。其処でお腹を包丁で刺して殺して、腸を取り出して地面に埋めて、鉄球を入れて……。朝になって雪が止んだから、インターホンを押して……」
声も、消え入りそうなほど小さくなっていく。涙まで滲んでいる。
「……探偵としての能力を、見せたかったんです。そのためには事件が起こらないといけないから、自分で起こすしかなかったんです。だって千載一遇の機会だったから。塚場さんがいて、甘施無花果がいない……此処でなら、私は……」
「うん。君は僕のファンなんだよね?」
無果汁ちゃんは顔を上げた。驚きで涙が止まった。
「し、知ってたんですか?」
「君の行動を見ていれば分かるよ。君は桜生塔に僕が招かれたのを知って、なおかつ其処に無花果がいないことも知っていて、やって来た。目的は僕だってことだ。この情報を掴めたのも、僕のことをいつも見張っていたからだろう」
探偵としてではなく、ストーカーとして。
「前に無花果のもとに弟子入りしようとしたのだって、僕の近くにいられるようにだよね。無花果の真似をしているのだって無花果をリスペクトしているからじゃない。僕がいつも一緒にいる無花果――すなわち僕の〈好み〉に合わせるためだ。憶えてるよ、君、昔は桜野のコスプレをして僕に話し掛けてきたことあるでしょ?」
ファン心理。大抵の場合は〈憧れの人〉に自分を近づけようとするだろう。しかしそこに病的な恋愛感情が合わさった場合、その人は〈憧れの人〉ではなく〈憧れの人の憧れの人〉に自分を近づける。
それが甘井無果汁の正体だ。
彼女はくずおれるように、再びソファーに沈みこんだ。
「…………嬉しいです」
泣いていた。彼女は歓喜に震えていた。
「憶えててくれたなんて憶えててくれたなんて憶えててくれたなんて嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しいっ、嬉しい、嬉しい嬉しいっ、嬉しいですっ。私、塚場さんのファンです。ずっとずっと塚場さんがデビューしたときから大好きで大好きで大好きで大好きで、いっつもいっつも塚場さんのことだけ考えてきました。愛してるんです。私のすべて。私のすべてです、塚場さんは。私には分かってるんです。塚場さんは自分を三下の間抜けとして小説では描くけれど、本当は誰よりも叡智を極めたお人なんだって。みんなみんな分からない。本質に気付かない。でも私だけは分かるんですよ。本当に塚場さんのこと愛してますから塚場さんのことが分かるんです。理解しているんです。嗚呼、好き、好き好き好き好き好き好き、好きです。伝わらないな、伝わらないな伝わらないな、どんなに言葉を重ねたって私の想いがどんなに大きいか深いか一ミクロンも伝わらないな………………」
溜息を吐く無果汁ちゃん。
「悩んでたんです。私はどうすれば塚場さんに見てもらえるかなって愛してもらえるかなって。桜野美海子になろうとしたり甘施無花果になろうとしたりするけど、それでいいのかなって。もっと本当の私を見てもらわないといけないんじゃないかなって。私が本当の塚場さんを見ているみたいに塚場さんも本当の私を見てくれないかなって。でも私には取柄がないし本当の私なんて塚場さんが愛してくれるか分からないし、じゃあやっぱり桜野美海子とか甘施無花果とかになるしかない。でも桜野美海子とか甘施無花果になっても、所詮は偽者じゃあ振り向いてもらえない。超えないといけない。でも私、名探偵を超えるなんてできないし。だからね、仕方なかったんですよ、自分で殺人事件起こして自分で解決するとかしないと……まぁこれも桜野美海子の二番煎じですけど、そうしないと私は事件なんて解決できないし、塚場さんに良いところ見せられないし、愛してもらえないし」
だけど――と、彼女の口元が綻ぶ。
「無用な心配でした。塚場さんは私を見てくれていたんですね。本当の私を見てくれていたんですね。馬鹿だったなぁ、私。嬉しいなぁ、幸せだなぁ」
彼女は僕に寄り掛かろうとした。
「私のこと、愛してくれますか? 塚場さん」
しかし僕はスルーして、立ち上がった。
空振りした無果汁ちゃんが、悲しそうに僕を見上げる。
「今からひとりで、薄桃セピアのところに行ってくるよ」
「え?」
私の質問の返事は? と云いたそうな顔だけれど、取り合わない。
「無果汁ちゃんは此処で待ってて。大丈夫。すぐに戻ってくるから。そうしたら、続きを話そう?」
「は、はい……分かりました」
戸惑いつつも、素直に頷く無果汁ちゃん。その頭を撫でてやると、顔が真っ赤になった。
「待ってます、お利口に」
期待の表情。餌の時間を前にした犬みたいだ。
「うん」
身を翻して、僕は部屋を出て行く。
事件を終わらせてしまおう。
矢衣蒲うらめが男子であったことに信者のひとりが気付いて「嘘!」「どういうこと!」「私達を騙してたってことでしょう」「〈桜生の会〉は女しか入れないから?」「男子にだって桜野美海子様になりたいと願う自由はあるものねぇ」「可哀想なうらめ」「嘘ついてたんだよ? もっと怒ろうよ」「死人に怒っても……」なんてひとしきり騒がれた後に、血まみれだった人達はシャワーを浴びて着替えて、それから皆はサロンに集合してアリバイ確認が行われた。
結果は芳しくなかった。単独で行動していた者も多くいたし、誰かといた者もずっとそうだったわけではなかったり、二人だけではアリバイとして弱かったり、そもそも皆が時計に気を遣ってはいなかったせいで細部が曖昧で、錯綜しており、確かなことは全然云えなかったのだ。これだけ人数がいればそうもなるだろう。
加えて、矢衣蒲うらめの奇妙な行動も皆の頭を悩ませた。
「どうして死んだ振りなんか?」
「あれじゃないですか、殺される前に死んでしまえば殺されないっていう」
「でも犯人は自分が殺したんじゃないって分かるんだから、後で確認に来られるかもよ?」
「現にバレたその場で殺されたし」
「リスキーだなぁ。それだったら塔から逃げ出すでしょ」
「考えが及ばなかったんじゃない?」
「って云うか話戻りますけど、男だったんですね……」
「全然気付かなかったぁ。しかも義手だよ?」
「矢衣蒲にどんなドラマがあったのか」
「雑談をやめなさい。矢衣蒲を殺したのは犯人でしょ? あのときに周りにいたのは?」
「えー、煙で何も見えませんでしたよ」
「みんな動き回ってたから分からないですねぇ」
「返り血を浴びた人が怪しいんじゃない?」
「その絞り方は危険だよ。犯人が逆サイドから手を回すようにして首を切ったなら?」
「そもそも煙で周りが見えなかったのは犯人も同じだったはず。なのにどうやって……」
「矢衣蒲は出口に向かって突っ走ってたから、ぶつかられたかなんかして分かったんじゃないですか?」
「たしかに! 私、矢衣蒲さんに突進されたの分かったもん!」
「どうでもいいよ。どうせ、そこからも容疑者は絞れないんだからさ」
「埒が明かないです」
矢衣蒲うらめがスパイ・杭原あやめであったとは、誰も思い付かないようだった。
彼がどうして殺された振りなんてしたのかは、分からなくもない。
犯人を誘い出そうとしたのだ。後で彼の〈死の状況〉を不審に思った犯人がひとりで確認しに来たところを、押さえるつもりだったのだろう。そのときには犯人はきっと凶器も一緒に持っているはずで、それを証拠にしようと考えたわけだ。
彼の目的は白生塔事件の真相を暴くことと〈桜生の会〉を壊滅させることだったはずだけれど、連続殺人事件が起きて優先順位が変わったのか。それとも、この事件が本来の目的とも繋がると考えたのか。
自分が死んだと思わせて、敵役に定めていた僕――塚場壮太を油断させようという魂胆もあったのかも知れない。信者のひとりに扮しているのではどうしても行動が制限されるが、〈死人〉になればそこから解放されるのだし、それで色々と探ろうとしていたとも考えられる。
いずれにせよ、それが手段を選ばない〈闇探偵〉のやり方ということだろう。
死んだ振りがすぐに見破られるとは、考えてなかったに違いない。あくまでも犯人は不審に思う程度だと想定していたはずだ。
なぜなら、彼はこの事件に犯人が二人いると知っていたからである。『桜野美海子の最期』をなぞる犯人と、そこに余分な殺人を付け加えた犯人。そのある種の混迷に、彼は〈自分の殺人〉をまぎれ込ませようとしたのだ。
まさかあんなに早く僕に看破されて、さらに皆がいる前で指摘されるとは、思ってもみなかった――それが彼の敗因だった。
ちょっと自信家が過ぎたのだろう。
12
ああ、
〈その時〉が迫ってきたな。
13
一旦解散となり、僕と無果汁ちゃんは九〇三号室に戻っていた。もう夕刻だけれど、桜生塔の中には昼も夜もない。
「矢衣蒲うらめの行動は抜いて考えて良さそうです。逃げ出そうとした彼を犯人が殺害したのは不可抗力的でしたし。……となると、やはり事件は依然として白生塔事件をなぞっており、次は〈枷部・ボナパルト・誠一〉ですか」
ソファーに腰掛けて紅茶を飲みながら、無果汁ちゃんは呟いている。横顔には疲労が浮かんでいて、俯き気味だ。
僕はその隣に座った。彼女は少しドキッとしたふうにこちらを見た。
「無果汁ちゃん、戸倉麻耶を〈雪の密室〉を装って殺したのは君だろう?」
「え……」
カップが床に落ち、紅茶が零れた。無果汁ちゃんは慌ててそれを拾おうとしたが、僕がその手を掴んで止める。
怯えを湛えた瞳が、再び僕の方に向く。
「あの殺人は白生塔事件をなぞってなんかいない。皆は戸倉麻耶が〈桜野美海子〉役だったから排除されたとか、戸倉の〈くら〉が獅子谷敬蔵に通じるから〈真の第一の殺人〉だったんだとか変な解釈を付けてるけど、あの犯人にはそんなつもりなかったんだ。だっていずれの場合も、あれを〈雪の密室〉にする理由がない」
「…………で、でも、私は今朝に着いたばかりで、」
「それは嘘だよ。なぜなら君が乗って来た車のタイヤ痕がなかった」
無果汁ちゃんは引きつるように息を吸って、噎せ返った。
皆が見て確認していたことだ。車から玄関まで無果汁ちゃんが歩いた足跡があるだけで、他は一面の処女雪――タイヤ痕なんて、なかった。
「付け加えるなら、君の車の上には雪が残っていた。どういうことだろうね? 答えは簡単だ。昨晩に一度止んだ後、雪はもう一度降ったんだ。君はこれも嘘を付いていた。君が此処に着いたのはその雪が降り止む前で、その雪がタイヤ痕と、そして君の足跡を消した――戸倉麻耶を殺して死体をあそこまで運んだ、その一連の跡をね。犯行を終えた君は車の中で待ち、雪が止んでから再び桜生塔の玄関まで真っ直ぐ歩いて、インターホンを押した。ああ、真っ直ぐ――これも変な話だったよ。君は塔の脇にある死体を見つけたのに、近寄ろうともしなかったって云うんだから」
無果汁ちゃんは〈雪の密室〉とそこに関係する足跡のことばかり考えて、タイヤ痕や他のおかしな点に気が回っていなかったのだ。
今にも泣き出しそうな彼女に、僕はなおも続ける。
「君がそんなことをした理由は、探偵として活躍するためだろう。あの〈雪の密室〉にはそれしか意味がない。桜生塔の仕組みを利用したトリック――君はそれを思い付いて、来る前から実行を決めていた。だから鉄球なんて持って来ていたんだ。あれは辻能乃を撲殺した凶器とは違う。ただ電磁石を利用したトリックを君が推理するための、それだけのための〈証拠〉でしかなかった」
「し――仕方なかったんですっ」
無果汁ちゃんは勢い良く立ち上がった。
「慣れない山道で雪も降ってて、予定より大幅に遅れて、私が着いたのは深夜の三時頃でした。そうしたら玄関の前に人――あの戸倉さんが倒れていて――気絶していたんです。揺すって起こして、朦朧としている彼女から事情を聞きました。〈桜野美海子〉役として〈能登〉役の辻さんと〈C〉を使ってサロンに這入ろうとしたとき、扉を開けたらいきなり何者かに襲われて、気絶させられたんだって。今ここにいるってことは自分だけ放り出されたらしいって。私が玄関扉を開けようとしてみたら〈C〉の壁に塞がれていて――何が起きたのか分からない。でも何か異常な事態になっている。戸倉さんはインターホンを鳴らそうとしました――それを私、止めたんです」
そこまでは立て板に水とばかりにまくし立てた無果汁ちゃんだったが、愕然としたように言葉を切り、口調がゆっくりになった。
「……はい、私は用意して来ていました。信者の誰か適当なひとりを殺してお腹を開いて鉄球を入れて塔の脇に捨てて雪で足跡を消して……でも何か理由をつけて雪は降ってなかったことにして〈雪の密室〉をつくって、私が考えた密室トリックを私が解こうと……。戸倉さんがインターホンを押そうとしたとき、今がチャンスなんじゃないかって……咄嗟に思って、押すのを止めさせて……戸倉さんを森に少し這入ったところまで連れて行きました。其処でお腹を包丁で刺して殺して、腸を取り出して地面に埋めて、鉄球を入れて……。朝になって雪が止んだから、インターホンを押して……」
声も、消え入りそうなほど小さくなっていく。涙まで滲んでいる。
「……探偵としての能力を、見せたかったんです。そのためには事件が起こらないといけないから、自分で起こすしかなかったんです。だって千載一遇の機会だったから。塚場さんがいて、甘施無花果がいない……此処でなら、私は……」
「うん。君は僕のファンなんだよね?」
無果汁ちゃんは顔を上げた。驚きで涙が止まった。
「し、知ってたんですか?」
「君の行動を見ていれば分かるよ。君は桜生塔に僕が招かれたのを知って、なおかつ其処に無花果がいないことも知っていて、やって来た。目的は僕だってことだ。この情報を掴めたのも、僕のことをいつも見張っていたからだろう」
探偵としてではなく、ストーカーとして。
「前に無花果のもとに弟子入りしようとしたのだって、僕の近くにいられるようにだよね。無花果の真似をしているのだって無花果をリスペクトしているからじゃない。僕がいつも一緒にいる無花果――すなわち僕の〈好み〉に合わせるためだ。憶えてるよ、君、昔は桜野のコスプレをして僕に話し掛けてきたことあるでしょ?」
ファン心理。大抵の場合は〈憧れの人〉に自分を近づけようとするだろう。しかしそこに病的な恋愛感情が合わさった場合、その人は〈憧れの人〉ではなく〈憧れの人の憧れの人〉に自分を近づける。
それが甘井無果汁の正体だ。
彼女はくずおれるように、再びソファーに沈みこんだ。
「…………嬉しいです」
泣いていた。彼女は歓喜に震えていた。
「憶えててくれたなんて憶えててくれたなんて憶えててくれたなんて嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しいっ、嬉しい、嬉しい嬉しいっ、嬉しいですっ。私、塚場さんのファンです。ずっとずっと塚場さんがデビューしたときから大好きで大好きで大好きで大好きで、いっつもいっつも塚場さんのことだけ考えてきました。愛してるんです。私のすべて。私のすべてです、塚場さんは。私には分かってるんです。塚場さんは自分を三下の間抜けとして小説では描くけれど、本当は誰よりも叡智を極めたお人なんだって。みんなみんな分からない。本質に気付かない。でも私だけは分かるんですよ。本当に塚場さんのこと愛してますから塚場さんのことが分かるんです。理解しているんです。嗚呼、好き、好き好き好き好き好き好き、好きです。伝わらないな、伝わらないな伝わらないな、どんなに言葉を重ねたって私の想いがどんなに大きいか深いか一ミクロンも伝わらないな………………」
溜息を吐く無果汁ちゃん。
「悩んでたんです。私はどうすれば塚場さんに見てもらえるかなって愛してもらえるかなって。桜野美海子になろうとしたり甘施無花果になろうとしたりするけど、それでいいのかなって。もっと本当の私を見てもらわないといけないんじゃないかなって。私が本当の塚場さんを見ているみたいに塚場さんも本当の私を見てくれないかなって。でも私には取柄がないし本当の私なんて塚場さんが愛してくれるか分からないし、じゃあやっぱり桜野美海子とか甘施無花果とかになるしかない。でも桜野美海子とか甘施無花果になっても、所詮は偽者じゃあ振り向いてもらえない。超えないといけない。でも私、名探偵を超えるなんてできないし。だからね、仕方なかったんですよ、自分で殺人事件起こして自分で解決するとかしないと……まぁこれも桜野美海子の二番煎じですけど、そうしないと私は事件なんて解決できないし、塚場さんに良いところ見せられないし、愛してもらえないし」
だけど――と、彼女の口元が綻ぶ。
「無用な心配でした。塚場さんは私を見てくれていたんですね。本当の私を見てくれていたんですね。馬鹿だったなぁ、私。嬉しいなぁ、幸せだなぁ」
彼女は僕に寄り掛かろうとした。
「私のこと、愛してくれますか? 塚場さん」
しかし僕はスルーして、立ち上がった。
空振りした無果汁ちゃんが、悲しそうに僕を見上げる。
「今からひとりで、薄桃セピアのところに行ってくるよ」
「え?」
私の質問の返事は? と云いたそうな顔だけれど、取り合わない。
「無果汁ちゃんは此処で待ってて。大丈夫。すぐに戻ってくるから。そうしたら、続きを話そう?」
「は、はい……分かりました」
戸惑いつつも、素直に頷く無果汁ちゃん。その頭を撫でてやると、顔が真っ赤になった。
「待ってます、お利口に」
期待の表情。餌の時間を前にした犬みたいだ。
「うん」
身を翻して、僕は部屋を出て行く。
事件を終わらせてしまおう。
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