甘施無花果の探偵遊戯

凛野冥

文字の大きさ
上 下
16 / 76
vsジェントル澄神・海野島編

9「誓いの夜」

しおりを挟む
    9


 日付が変わってから俺は部屋を出た。耳を澄ましても物音ひとつ聞こえない。廊下の電気も落とされていて、他の客人が使っている部屋の扉、その下端の隙間からも明かりは洩れ出ていない。皆、眠っている。

 騒ぎにはなっていない。まだ誰も死体を発見してはいない。これは当然だろう。有為城煌路は客人――おそらく播磨さんも含め――が無闇に館内を歩き回ることを禁じていたのだから、まだ一日目だし、そりゃあ誰もその部屋を訪れようとはしない。

 足音を殺し、まずは食堂横の厨房に行った。案の定、そう苦労せずに目的のゴム手袋を見つけ、それを両手に嵌める。そして有為城煌路の部屋へ向かう。場所は葵から聞いた。玄関から見えた、あの突き当たりの戸がそれだったらしい。つまり館の中央に位置しているわけだ。

 果たして問題の部屋に辿り着き戸を開けると、死体は真っ先に視界に飛び込んできた。

 真ん中に置かれたソファーの下で、床に仰向けで横たわっている彼。服装は晩餐のときに見た画家みたいなそれではなく、白い簡素な寝間着だ。白い頭髪が血で濡れている。とはいえ、流血はそれほどではなかった。すぐ傍には割れた花瓶。名前の分からない花が投げ出されているが、どうやら造花らしく、土や水はこぼれていない。

 一旦ゴム手袋を脱いで死体の手首に指先を当てると、たしかに脈は止まっている。もしかしたら気を失ったか何かで、まだ死んではいないんじゃないか――わずかながら抱いていたそんな希望はあっさりとついえる。

 初めて触れる、人間の死。それも他殺死体。

 いざ目の当たりにすると、身がすくんでしまう……。

 だが突っ立ってはいられない。

 俺は死体をどうにかする前に、まず室内を見回す。

 不思議な部屋だ。綺麗な正方形で、四隅には柱。真ん中にあるソファーとローテーブル(花瓶はその上にあったのだろう)、奥にこちらと向かい合うように置かれている大きめのデスク、他にいくつかチェストがある程度で、調度の類は極端に少ない。壁にもカレンダーや絵画は掛けられていないし……ただし、殺風景と云うのともまた違う。その理由は床の柄だ。

 床が、ひとつの大きな絵になっているのだ。絨毯はなく、床にじかに描かれている。絵というか、紋様? 色合いなんかがなんとなくインド風で抽象的……少なくとも風景画なんかではない。左右対称……いや、上下もだ。大きな円を核として、複雑な模様が配置されている形。そしてその中に、人間の女の子がまぎれ込んでいる……。

 目がチカチカして、観察をやめる。この悪趣味な床が何であろうと関係ないことだ。

 この部屋は館の中央なので窓はないが、俺が這入ってきた戸の他に、左右にもそれぞれひとつずつそれがあった。

 まず右を確かめる。其処も部屋になっていて、どうやら書斎らしい。三方の壁が本棚で塞がれている他、紙の束やデスクトップパソコンの乗っているデスクがある。

 次に左。こちらは寝室だった。ダブルベッドの上には織角ちゃんが眠っている。足音を忍ばせて近づくと、すやすやと寝息を立てている。晩餐の席ではどこか〈不気味の谷〉を連想させるような奇怪さがあったけれど、眠っている姿は年齢相応の女の子らしいものだった。まだ義父の死を知らない彼女。……それにしても、有為城煌路は彼女が眠っている隣の部屋で葵を犯そうとしたのか。

 寝室の奥にもまた扉があり、中は洗面所と擦り硝子の戸に隔てられた浴室になっていた。そこまで確認を終えた俺は、また元の部屋に戻る。なるほど、書斎も寝室も、この部屋を経由しないと行けないかたちなのだ。

「さて……」

 どうしようか。

 推理小説家の俺ならこの手の策を弄するのはお手の物というふうなことを葵にはのたまったが、この現実を前にして、何か奇想天外なトリックを思い付くようなことはない。結局のところミステリなんてものは絵空事に過ぎないのだと痛感させられる。

 だが、別にそれでいいんじゃないだろうか。

 考えてみれば、証拠さえなければ葵が有為城煌路を殺したとはおよそ露見し得ないと分かる。なにせ動機がない。有為城煌路が葵を犯そうとし、抵抗した葵が彼を殺してしまった……葵本人から聞いたのでなかったなら俺も到底信じられないし、思い付きすらしない話だ。俗世間を嫌い、一種高尚な存在ですらあった有為城煌路が――しかもかなりの高齢である――、齢二十三の女性を手籠めにしようとしたなんて、突拍子もないとすら云える。だからこそ葵がそれを訴えたところで信用は得られないわけだけれど、ならばそれを逆手にとって利用してしまえばいい。

 策もへったくれもない単純な隠蔽工作。しかし証拠さえ取り除いてしまえば、それで葵の立場ならおよそ安泰じゃないか。

 一人合点し、俺は行動を始めた。もう一度寝室に這入って棚から白いシーツを二枚拝借。死体の傍に戻って床にそれを重ねて敷き、その上に死体を移動させる。これで作業がしやすくなった。

 まずソファーの隙間と床にひとつずつ葵のパジャマのボタンを見つけ、自分の寝間着のポケットに仕舞う。彼女が現場に残したのはこれだけだという話だったが……髪の毛はどうだろう? 床を這うようにして探してみる。だが、それらしいものは数本しかなかった。それでさえ、葵ではなく織角ちゃんのものかも知れない。まぁ激しい揉み合いになったならともかく、そう何本も頭髪が抜けていた方がおかしいか。

 次に花瓶の破片をかき集め、これも一旦シーツの上へ。続いて、持って来ていたハンカチ(水で濡らしてある)を手に、ソファーや床、ローテーブルまで念入りに拭いていく。無論、葵の指紋を残さないためだ。戸の取っ手まで拭いて完了。

 完了……だよな?

 シーツの上の有為城煌路に目を移す。この死体はどうしよう。隠した方が良いのだろうか。せいぜい発見をちょっと遅らせる程度しかできないだろうが……いや、待てよ。

 有為城煌路がこの島で殺されたなら容疑者は俺らの中に限定されるわけだが、しかしその動機がないのは葵に限ったことじゃない。俗世間との関わりを絶ってきた有為城煌路に対して殺すまでの怨恨など、誰にも抱きようがないだろう。あるとすれば、同業者でありすなわち競争相手でもある小説家くらいか?

 それにしたって、有為城煌路の他殺死体がなければ、皆はまさか彼が死んだとは、まして殺人事件が起きたとは考えず、彼が自分の意思で姿を消したと考えるんじゃないだろうか。それも理由が分からないけれど、少なくともすぐに通報とはならないに違いない。

 ならばある程度、時間を稼げるということになる。

 いずれは大事が起こったのだと気付かれるだろうが、それから捜索されて死体が発見されたところで、その頃には俺も葵も心に余裕をいくらか持てているはずだし、色々と対策も講じられているはずだ。

 発見が遅れればそのぶん、様々な細部を有耶無耶にして誤魔化すこともできる。

 死体が新鮮でなくなればなくなるほど、司法解剖で得られる情報は少なくなり、死亡推定時刻にも幅が出るものだ。犯行の詳細を絞らせないに越したことはない。後に事情聴取を受ける際、あんまりピンポイントで指摘されては動揺が顔に出ないとも限らないのだし……。

 俺達の立場を優位にするためにも、死体を隠さない手はないか。幸い、床が絨毯でなかったおかげで血痕も綺麗に拭き取れている。

 俺は再び寝室に行って、棚の中で掛布団を縛っていた紐を解いて手に持ち、死体のもとに戻ってくる。死体とそれから花瓶の破片とをシーツで包んで、そこに紐をぐるぐると巻き――ちょっと思い付いて緩めに縛る。

 もう一度、室内を見渡す。此処でやり残したことは……ないな。

 死体を包んだシーツに両腕を回して引きずり、ちゃんと消灯して部屋を出る。死体は想像以上に重い。体重云々ではなく、一切の力を抜いた身体というのが厄介なのだろう。

 廊下を一直線に進む。向かう先――死体をどこに隠すかは決まっている。

 海に沈めるのが最も良い。

 玄関を出てさらに真っ直ぐ、船が着岸するための木製の桟橋へ。

 桟橋の先端まで辿り着いた俺は、紐を解いてシーツを広げた。それから桟橋を戻り島の外周部から手頃な大きさの石を集めてくる。それらを死体に乗せて、再びシーツで包み、紐で今度は堅く縛る。これらは無論、浮いてこないようにするためだ。

 脇腹を蹴るようにして転がし――じゃぼん。死体は呆気なく、海の中へと消えていった。

「…………」

 途端に心の内から湧き上がってきたのは、ひどく荒涼とした、空恐ろしい気持ちだった。

 ……これで良かったのだろうか?

 葵は間違ったことなんてしていないし、その葵を守るためにおこなったこの行為も間違っていないはず――と頭では考えられても、どうしても罪の意識が首をもたげる。

 ぞわり、と。

 急に寒気に襲われた。

 足がガタガタと震え始め、瞳の奥が熱くなる。

 正面には果てしなく、黒色に沈み静寂に支配された夜の海。それが俺を今にも飲み込もうとしているみたいに錯覚する。

 俺は慌てて踵を返して館に向かいつつも、途中、何度も振り返った。死体が浮かんでくるビジョンが脳裏をよぎるたび、そうせずにはいられなかった。

 これでいいんだ。もう後戻りはできないじゃないか。大丈夫。これで大丈夫。俺は冷静な思考ができていたし、最善の行動を取れた。あとは言動に気を付けさえすれば、誰も葵が有為城煌路を殺害したなんて思わない。

「これでいい……よくやった……大丈夫だ……大丈夫だ……」

 ああ、寒い。全身をゴシゴシとさすりながら、歯が震えてガタガタと音を立てるのを必死に噛み殺しながら、周囲をキョロキョロと執拗に見回しながら、館に這入って靴を靴箱に収めたところで――他の靴を目にしたことで――俺は思い至る。

 ジェントル澄神。

 優秀な名探偵。

 彼は有為城煌路が突然に行方をくらませれば、探偵ならではの経験則や観察眼によって、殺人事件が起きたと断定してしまうんじゃないだろうか? それを指摘されて俺が動揺をちらとでも見せた瞬間、たちまち俺の犯行を看破してしまうんじゃないだろうか?

 明日になれば、塚場壮太もやって来る。もしかしたら彼もまた、名探偵・甘施無花果を伴って来るかも知れない。

 名探偵が二人。それだけじゃない。そもそも此処にいるのは皆が並外れた才覚を持つ特殊な人ばかりだ。

 俺はその全員を欺けるのか?

 恐ろしい想像ばかりが次から次へと浮かび、ひとつも解消できないうちに絡まりもつれ、空回り始める。吐き気さえ覚えながら俺は自分の客室へとやっと帰り着き、

 真っ暗な室内、ベッドの上では、葵がまだ起きて俺を待っていた。

「終わった、の……?」

 その声を聞いた瞬間、張り詰めていた神経が急激に緩み、視界が滲んだ。

「ああ、終わ……」

 言葉を最後まで云えず、もう立っていられず、俺はもう片方のベッドの上にうつ伏せで倒れ込んだ。葵に泣き顔なんてさらしたくなかった。守ると宣言したのに、そんな情けないところは見せられなかった。だが、もう遅い。いくら耐えようとしても、涙が溢れてくるのを止められない。

「参助……」

 葵が立ち上がってこちらのベッド――俺の隣に座るのが気配で分かる。数時間前とは逆で、彼女が俺の背中をさする。小さな手で一生懸命に俺を安心させようとしているのが、じかに伝わる。

「私、眠れなくて……。こっちのベッドで一緒に寝ても、いいかな」

 やはり声は発せず、俺は首を縦に振ることで応えた。葵は俺に掛布団を掛けると自分もその中に身を入れて、身体をこちらに向けて横になった。互いの足が触れた。息遣いが、すぐ近くから聞こえる。

「参助……ごめんなさい、本当に、ごめんな、さ……」

 彼女も言葉に詰まり、どうやら泣き始めてしまったようだった。

 嗚呼、俺はなんて、不甲斐ない。彼女に謝らせてしまうなんて……。俺は「いいんだ。葵は何も悪くないんだから」と云ったが、泣き声と混じりながらなので、ちゃんと伝わったかは分からなかった。

 葵は俺の肩に額をつけた。「参助……」と、震えながら、また俺の名前を呼ぶ。俺もまた震える手で、彼女の頭を撫でた。そうしながら内心で、改めて堅く誓った。

 葵を絶対に守る。

 誰を相手に回したって――それが百戦錬磨の名探偵だって、俺はそれを上回る犯人として、欺き通してみせる。

 弱いところを葵に見せるのも、これが最後だ。

「強くなるよ……俺は強くなるから、だから葵、安心して。もう二度と、葵が泣かないようにしてみせるから」

 震えは止まっていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、私……」

「謝らなくていい。俺が思わず泣いちゃったのは、嬉しかったからだよ。葵が俺を頼ってくれて、嬉しかったんだ」

「うん……」

「これでいいんだ。葵は何も、悪くない」

 俺も身体を葵へ向け、懐で静かに泣く彼女を、その後も慰め続けた。

 ……だが、それだけだった。葵はもしかしたら、何か、それ以上のことを求めていたかも知れない。俺の名前を呼ぶ彼女の声には、そんな雰囲気があった。俺にもそれは分かっていた。けれど俺には、彼女を抱き締めることさえ、できなかった。そうしてあげたかったのに、身体が強張ってできなかった。

 未だに俺は〈あの記憶〉に縛られている……。葵は、どうなのだろうか……。

 八年前、葵はメールで俺に別れて欲しいと告げた。その理由は、本当は分かっていたのだ。俺達が最後に会ったとき、何があったのか。俺が何をしたのか。

 俺は葵の身体に触れた。葵の身体を、求めようとした。葵はそれを小さく、だがはっきりと拒絶した。あのときの彼女の怯えた顔は、いまでも夢に出てくる。

 有為城煌路は葵を犯そうとした。穢そうとした。だがそれは八年前の俺もまた、同じだったのだ。俺には有為城煌路を蔑む資格はない。俺も葵を傷付けてしまった人間。同族嫌悪なら覚えるが、それよりも自己嫌悪だ。

 だから俺は、葵に償わなければならない。葵のために何でもしてやるという義務が、俺にはある。この隠蔽工作でそれをいくらか、果たせただろうか?

 やがて葵は寝息を立て始めた。泣き疲れたみたいだった。

 その規則正しい呼吸音を聞いているうちに、俺も眠りの中へ落ちていった……。
しおりを挟む

処理中です...