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九「静かに微笑む三尊像」
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九
目覚めると、朝になっていた。
あの彼岸花畑の夢は見なかった。一度風櫛ちゃんに起こされたからだろうか……そう云えば、あのときはまさに彼岸花畑の夢を見ていた憶えがある。
起き上がると、少し頭痛がしていた。内容はよく思い出せないが、なにか別の夢を見ていた気がする。
思えば俺は昔からおかしな夢を見ることが多かった。どれもこれも恐ろしい夢で、目覚めたときにはもうその夢内容は潜在の領域に引っ込んでしまうのだけれど、とにかく恐ろしかったという感覚だけが残っている。昔はよく悩みもしたが、いつからか慣れて、あまり気に留めなくなっていた。
「紅郎様、もうお目覚めになったでしょうか?」
欄間に彫られた鶴をぼんやりと見上げていたところ、部屋の外から花帯さんの声がした。返事をすると「失礼します」と云って這入ってくる。朝餉を持ってきてくれたみたいだ。腕時計を確認してみれば、時刻は午前九時半。
「おはようございます。よくお眠りになれましたか?」
「はい、おかげさまで」
「それは良かったです」
朝餉の乗った盆を卓袱台の上に置き、さらに布団まで畳んでくれる花帯さんを見ながら、俺は曖昧な気持ちでいた。こうして親切にしてくれるのは本当に有難いのだが、感謝するだけでもいられない相手なのだ。彼女は咲乃……天波を白蓮の代わりとするために、妙な話を吹き込んで此処に留めさせている。それが信奉の対象としてであるから天波も嫌な思いはさせられていないけれど、手前勝手な理由から軟禁めいた真似をしていることに変わりはない。花帯さんは最年長であり、実質的に皆を取り仕切っているのも彼女だ。すなわち、天波は彼女の傀儡にさせられているようなものではないか。
俺は天波に咲乃としての記憶を取り戻させ、此処から連れて帰るつもりだ。きっとそのときに最大の障害となるのが花帯さんである。彼女が本尊を易々と手離すとは思えない。
と、こういう考えあって、今はまだ良好な関係を保ちたいものの、最終的に敵となる相手に対してどう接したものか、俺は決めかねているのだった。
「白蓮さんはどういう人なんですか?」
差し障りないように現在形で訊ねた。白蓮について知る必要……昨晩の風櫛ちゃんの様子を見て、それは俄然高まっていた。
「素晴らしい御方です」
それじゃあ分からない。
「私共を導いてくれた御方。私共を救ってくれた御方。と云いますのも、私共は皆、それぞれの事情で家族を失った天涯孤独の身の上であったのです。そんな私共に手を差し伸べてくださったのが白蓮様でした」
重い告白ではあるが、そう意外ではない。風櫛ちゃんや泡月ちゃんは当然として、花帯さんと綿鳥さんもまだ若すぎる。家族が健在であるなら、こんな山奥にひとりで出家するのが許されるとは考えにくい。
「白蓮様は真理を悟った御方です。白蓮様は私共ひとりひとりを真に見詰め、理解し、道を示してくださいました。これは白蓮様が仏教をお修めになっている証左のひとつでもあります。釈尊……ひいては仏様の説法というものは元来、相手を見て法を説くことを理念としています。この世に存在するものはすべて単独で存在するものはなく、必ず相互に関係し合って存在する……それが仏教の根本思想であり、仏教の多様性、寛容さの所以なのです。白蓮様はこれを体現なさっています。だからこそ私共は……そうですね、蒙を啓かれたとでも云いましょうか。俗世を捨て、白蓮様のもとへ、この彼岸邸へと出家することを決めました」
……しかし白蓮は花帯さん達を裏切って出て行った。一体なにが契機となったのかは訊けない。ただひとつ分かるのは、それでも彼女達の白蓮への心酔が揺らいでいないということである。
心酔。そう、心酔と云うのが正しいだろう。花帯さんの語り口は落ち着いてこそいるものの、酔いしれている感が拭えない。それに昨晩の風櫛ちゃんも……だがあれは心酔と呼ぶにも些か異常ではなかったか? 信仰の対象に夜這いなんて掛けるだろうか?
白蓮と四人の尼僧との関係は、本当に師弟のそれだったのか? あるいは、白蓮が出て行った理由とはそこに……。
「白蓮さんに会わせてはもらえないでしょうか?」
無理――なにせ彼はもう此処にいないのだから――とは知りつつも、花帯さんは彼が此処にいると主張しているのだし、駄目元で訊いてみた。
「それは成りません。……ですが、紅郎様は既に白蓮様がどのような御方か、よくご存知なのではありませんか?」
「えっ?」
突然の問い掛けに俺は困惑したが、花帯さんも自分の方こそ戸惑っていると云わんばかりの表情を浮かべた。
「紅郎様は私に訊ねたではありませんか。彼岸花畑のことを」
彼岸花畑……此処にやって来るそもそもの切っ掛けとなった夢の中で、俺と咲乃が立っている場所。だが、俺がそれをいつ話した?
「……そんなこと、訊いたでしょうか?」
いや、訊いたのだろう。そうでなければ、俺の夢の中の、しかも俺にすら心当たりのない彼岸花畑のことなんて、花帯さんが知り得るはずがない。
しかし、
「申し訳ありません。どうやら私の勘違いであったようです。大変な失礼を致しました」
花帯さんはあっさり手の平を返した。さらに頭まで下げられ、俺もそれ以上は突っ込めなくなってしまった。
どこか腑に落ちないものを抱えつつも、俺は朝餉を終えた。
「花帯さん達は何時ごろに食事を取っているんですか?」
「毎朝、九時と決めております」
「明日からは、俺もご一緒していいですか? いつまでも部屋まで運んできてもらっては恐縮ですし」
「お気になさらないで結構ですが、紅郎様がそうしたいと仰るなら、私共としましても是非にと思います。朝餉は囲炉裏の間で取っているので、そのお時間にお越しくだされば」
「分かりました」
「ただ、私共は朝餉だけと決めているのです。なので夕餉に関しましては変わらず、このお部屋までお持ちしますね」
「はい、よろしくお願いします」
花帯さんは盆を持って出て行った。俺は彼女が置いて行った法衣に着替える。……もしかして、この男物の法衣は白蓮が着ていたものなんじゃないだろうか。風櫛ちゃんが俺を白蓮と呼んだのも……いや、衣装が同じだと云うだけでそんな取り違えをするなんて馬鹿げている。彼女は酔っていたのだ。そう云えば酒を飲むのは五戒のうちのひとつ、不飲酒戒に相当するという話だったけれど、ならば単に寝惚けていたに違いない。
俺は部屋を出た。天波に会いに行くのである。此処に来てから不可解な謎が山積していく一方だが、俺の一番の目的は彼女に他ならない。彼女さえ無事に連れ出せるなら他の一切合財はどうでもいいとさえ云える。
階段のある通りでは風櫛ちゃんが雑巾がけをしていた。さらに、階段の前からは回廊の南東に当たる角までずっと中庭側を硝子戸が続いているため、東の通りで窓拭きをしている泡月ちゃんの姿まで見える。
「あっ……」
俺に気付いた風櫛ちゃんは気まずそうに視線を逸らした。俺の方はあえて、なんでもないふうに「おはよう。朝から掃除なんて偉いね」と話し掛ける。
「いえ、その、当然のことです……」
すっかり人見知りの彼女に戻っていて、俺は安心した。無理に話を続けて彼女を苛めるみたいになっても仕方ないので「頑張ってね」とだけ云って階段を上り始める。彼女が相手なら二階に行くところを見られても問題ないだろう。それより泡月ちゃんが俺を見つけて駆けてこないうちに離れた方が良い。
後ろから風櫛ちゃんの「頑張ります……ありがとうございます……」という照れたような返事が小さく聞こえた。
二階、突き当たりの部屋の前までやって来た俺は「紅郎ですけど、這入っていいですか」と呼び掛けた。しかしなかなか応答がない。聞こえなかったのかと思ってもう一度云っても同じだった。
まだ眠っているのか? 時刻は十時を回っている。きっと彼女にも花帯さんか誰かが朝餉を運んで行くのだろうから、起きているはずだが。
「這入りますよ」
戸の片側だけ開けて覗いてみると、中には誰もいなかった。御簾の向こうにも人影はない。ただ御簾の向こうの壁に戸があるのを俺は見とめた。一度振り返って廊下に誰もいないのを確認した後、少し迷ったが、部屋の中に這入った。そのまま奥に進み、御簾をくぐる。
部屋の右奥の角に二つの引き戸があった。奥へ通じるものと、右隣へ通じるものだ。
「天波さん、いますか」
此処で呼び掛けてみても返事はない。俺はまず奥へ通じる方の戸を開けた。
一見して寝間だと分かった。布団は既に畳まれている。他は壁に法衣が掛けられていたり、鏡台があったり。しかし肝心の天波の姿はない。寝間のさらに奥には擦り硝子の戸があって、どうやら風呂場らしい。もっとも誰かが入っている気配はなく、呼び掛けてみても応答はないので、そこまで這入って確認するのは自重した。
今度は右隣へ通じる方の戸を開けてみる。そこは神事に使われるような道具で溢れていた。廊下に出られる戸もある。御堂に繋がっている通路の一番手前にある部屋だから、おそらくそれで控えの間とでも云った役割を担っているのだろう。此処にも天波はいない。
どこに行ったのだろう……。俺は部屋を出て右手に進み、転生の泉がある裏庭を覗いた。そこにも天波はおらず、俺は他の部屋も順々に確かめた。二階はそう部屋数があるわけではない。物置部屋、厠、空き部屋、座敷、人形の間……それらをことごとく空ぶっていった挙句、残るのは御堂だけとなった。御堂へ通じる通路の両側は枯山水の庭となっており、片側には東屋もあったけれど、そこも無人だった。
両開きの木の扉を開ける。御堂の内装は絢爛たるものだった。全体的に明るい色合いをしており、特に金色が目立つ。中程に立った二本の太い柱の間――すなわち正面の奥には、天井まで達さんばかりの巨大な仏像が鎮座している。その両脇にもそれぞれ三分の二くらいの大きさとは云えども立派な像が並んでいる。中尊と脇侍……いわゆる三尊像というやつだろうか。
「天波さん、いませんか」
俺の声はだだっ広い御堂の中に空虚に響くのみ。ただ物云わぬ仏像が俺を見下ろしている。そこで俺の脳内に疑問が浮かんだ。この彼岸邸の本尊は白蓮ではなかったか? 寺院ではなく、もとは地方の大地主の邸宅でしかなかった此処を出家先とできたのは、生き仏である白蓮の存在あってこそだったはずだ。裏を返せば、白蓮がいた以上、此処に仏像は必要なかったということになる。仏像とは信仰対象である仏の姿を表現したものに過ぎず、生きた本物がいたのではお役御免となるのが道理だ。
なら、どうしてこんな立派な像が此処にあるのだ? 白蓮達が来る前――その大地主の一家がいたころからあったもので、そのまま残しているのか? 俺が仏教に明るくないから分からないだけで、本尊とは別にこういった仏像も必要になるのか? しかし、これだけの仏像があるのなら、白蓮がいなくなったところでこれを本尊とすれば事足りる……要するに、仏教の知識なんてろくに持っていない咲乃を強引に白蓮の代わりとして祀り上げなくてもいいじゃないか。
おかしい。きれいに筋が通らない。ちぐはぐなものを感じる。そしてこの些細な不整合の裏には、なにか重大な秘密があるような気が……。
目覚めると、朝になっていた。
あの彼岸花畑の夢は見なかった。一度風櫛ちゃんに起こされたからだろうか……そう云えば、あのときはまさに彼岸花畑の夢を見ていた憶えがある。
起き上がると、少し頭痛がしていた。内容はよく思い出せないが、なにか別の夢を見ていた気がする。
思えば俺は昔からおかしな夢を見ることが多かった。どれもこれも恐ろしい夢で、目覚めたときにはもうその夢内容は潜在の領域に引っ込んでしまうのだけれど、とにかく恐ろしかったという感覚だけが残っている。昔はよく悩みもしたが、いつからか慣れて、あまり気に留めなくなっていた。
「紅郎様、もうお目覚めになったでしょうか?」
欄間に彫られた鶴をぼんやりと見上げていたところ、部屋の外から花帯さんの声がした。返事をすると「失礼します」と云って這入ってくる。朝餉を持ってきてくれたみたいだ。腕時計を確認してみれば、時刻は午前九時半。
「おはようございます。よくお眠りになれましたか?」
「はい、おかげさまで」
「それは良かったです」
朝餉の乗った盆を卓袱台の上に置き、さらに布団まで畳んでくれる花帯さんを見ながら、俺は曖昧な気持ちでいた。こうして親切にしてくれるのは本当に有難いのだが、感謝するだけでもいられない相手なのだ。彼女は咲乃……天波を白蓮の代わりとするために、妙な話を吹き込んで此処に留めさせている。それが信奉の対象としてであるから天波も嫌な思いはさせられていないけれど、手前勝手な理由から軟禁めいた真似をしていることに変わりはない。花帯さんは最年長であり、実質的に皆を取り仕切っているのも彼女だ。すなわち、天波は彼女の傀儡にさせられているようなものではないか。
俺は天波に咲乃としての記憶を取り戻させ、此処から連れて帰るつもりだ。きっとそのときに最大の障害となるのが花帯さんである。彼女が本尊を易々と手離すとは思えない。
と、こういう考えあって、今はまだ良好な関係を保ちたいものの、最終的に敵となる相手に対してどう接したものか、俺は決めかねているのだった。
「白蓮さんはどういう人なんですか?」
差し障りないように現在形で訊ねた。白蓮について知る必要……昨晩の風櫛ちゃんの様子を見て、それは俄然高まっていた。
「素晴らしい御方です」
それじゃあ分からない。
「私共を導いてくれた御方。私共を救ってくれた御方。と云いますのも、私共は皆、それぞれの事情で家族を失った天涯孤独の身の上であったのです。そんな私共に手を差し伸べてくださったのが白蓮様でした」
重い告白ではあるが、そう意外ではない。風櫛ちゃんや泡月ちゃんは当然として、花帯さんと綿鳥さんもまだ若すぎる。家族が健在であるなら、こんな山奥にひとりで出家するのが許されるとは考えにくい。
「白蓮様は真理を悟った御方です。白蓮様は私共ひとりひとりを真に見詰め、理解し、道を示してくださいました。これは白蓮様が仏教をお修めになっている証左のひとつでもあります。釈尊……ひいては仏様の説法というものは元来、相手を見て法を説くことを理念としています。この世に存在するものはすべて単独で存在するものはなく、必ず相互に関係し合って存在する……それが仏教の根本思想であり、仏教の多様性、寛容さの所以なのです。白蓮様はこれを体現なさっています。だからこそ私共は……そうですね、蒙を啓かれたとでも云いましょうか。俗世を捨て、白蓮様のもとへ、この彼岸邸へと出家することを決めました」
……しかし白蓮は花帯さん達を裏切って出て行った。一体なにが契機となったのかは訊けない。ただひとつ分かるのは、それでも彼女達の白蓮への心酔が揺らいでいないということである。
心酔。そう、心酔と云うのが正しいだろう。花帯さんの語り口は落ち着いてこそいるものの、酔いしれている感が拭えない。それに昨晩の風櫛ちゃんも……だがあれは心酔と呼ぶにも些か異常ではなかったか? 信仰の対象に夜這いなんて掛けるだろうか?
白蓮と四人の尼僧との関係は、本当に師弟のそれだったのか? あるいは、白蓮が出て行った理由とはそこに……。
「白蓮さんに会わせてはもらえないでしょうか?」
無理――なにせ彼はもう此処にいないのだから――とは知りつつも、花帯さんは彼が此処にいると主張しているのだし、駄目元で訊いてみた。
「それは成りません。……ですが、紅郎様は既に白蓮様がどのような御方か、よくご存知なのではありませんか?」
「えっ?」
突然の問い掛けに俺は困惑したが、花帯さんも自分の方こそ戸惑っていると云わんばかりの表情を浮かべた。
「紅郎様は私に訊ねたではありませんか。彼岸花畑のことを」
彼岸花畑……此処にやって来るそもそもの切っ掛けとなった夢の中で、俺と咲乃が立っている場所。だが、俺がそれをいつ話した?
「……そんなこと、訊いたでしょうか?」
いや、訊いたのだろう。そうでなければ、俺の夢の中の、しかも俺にすら心当たりのない彼岸花畑のことなんて、花帯さんが知り得るはずがない。
しかし、
「申し訳ありません。どうやら私の勘違いであったようです。大変な失礼を致しました」
花帯さんはあっさり手の平を返した。さらに頭まで下げられ、俺もそれ以上は突っ込めなくなってしまった。
どこか腑に落ちないものを抱えつつも、俺は朝餉を終えた。
「花帯さん達は何時ごろに食事を取っているんですか?」
「毎朝、九時と決めております」
「明日からは、俺もご一緒していいですか? いつまでも部屋まで運んできてもらっては恐縮ですし」
「お気になさらないで結構ですが、紅郎様がそうしたいと仰るなら、私共としましても是非にと思います。朝餉は囲炉裏の間で取っているので、そのお時間にお越しくだされば」
「分かりました」
「ただ、私共は朝餉だけと決めているのです。なので夕餉に関しましては変わらず、このお部屋までお持ちしますね」
「はい、よろしくお願いします」
花帯さんは盆を持って出て行った。俺は彼女が置いて行った法衣に着替える。……もしかして、この男物の法衣は白蓮が着ていたものなんじゃないだろうか。風櫛ちゃんが俺を白蓮と呼んだのも……いや、衣装が同じだと云うだけでそんな取り違えをするなんて馬鹿げている。彼女は酔っていたのだ。そう云えば酒を飲むのは五戒のうちのひとつ、不飲酒戒に相当するという話だったけれど、ならば単に寝惚けていたに違いない。
俺は部屋を出た。天波に会いに行くのである。此処に来てから不可解な謎が山積していく一方だが、俺の一番の目的は彼女に他ならない。彼女さえ無事に連れ出せるなら他の一切合財はどうでもいいとさえ云える。
階段のある通りでは風櫛ちゃんが雑巾がけをしていた。さらに、階段の前からは回廊の南東に当たる角までずっと中庭側を硝子戸が続いているため、東の通りで窓拭きをしている泡月ちゃんの姿まで見える。
「あっ……」
俺に気付いた風櫛ちゃんは気まずそうに視線を逸らした。俺の方はあえて、なんでもないふうに「おはよう。朝から掃除なんて偉いね」と話し掛ける。
「いえ、その、当然のことです……」
すっかり人見知りの彼女に戻っていて、俺は安心した。無理に話を続けて彼女を苛めるみたいになっても仕方ないので「頑張ってね」とだけ云って階段を上り始める。彼女が相手なら二階に行くところを見られても問題ないだろう。それより泡月ちゃんが俺を見つけて駆けてこないうちに離れた方が良い。
後ろから風櫛ちゃんの「頑張ります……ありがとうございます……」という照れたような返事が小さく聞こえた。
二階、突き当たりの部屋の前までやって来た俺は「紅郎ですけど、這入っていいですか」と呼び掛けた。しかしなかなか応答がない。聞こえなかったのかと思ってもう一度云っても同じだった。
まだ眠っているのか? 時刻は十時を回っている。きっと彼女にも花帯さんか誰かが朝餉を運んで行くのだろうから、起きているはずだが。
「這入りますよ」
戸の片側だけ開けて覗いてみると、中には誰もいなかった。御簾の向こうにも人影はない。ただ御簾の向こうの壁に戸があるのを俺は見とめた。一度振り返って廊下に誰もいないのを確認した後、少し迷ったが、部屋の中に這入った。そのまま奥に進み、御簾をくぐる。
部屋の右奥の角に二つの引き戸があった。奥へ通じるものと、右隣へ通じるものだ。
「天波さん、いますか」
此処で呼び掛けてみても返事はない。俺はまず奥へ通じる方の戸を開けた。
一見して寝間だと分かった。布団は既に畳まれている。他は壁に法衣が掛けられていたり、鏡台があったり。しかし肝心の天波の姿はない。寝間のさらに奥には擦り硝子の戸があって、どうやら風呂場らしい。もっとも誰かが入っている気配はなく、呼び掛けてみても応答はないので、そこまで這入って確認するのは自重した。
今度は右隣へ通じる方の戸を開けてみる。そこは神事に使われるような道具で溢れていた。廊下に出られる戸もある。御堂に繋がっている通路の一番手前にある部屋だから、おそらくそれで控えの間とでも云った役割を担っているのだろう。此処にも天波はいない。
どこに行ったのだろう……。俺は部屋を出て右手に進み、転生の泉がある裏庭を覗いた。そこにも天波はおらず、俺は他の部屋も順々に確かめた。二階はそう部屋数があるわけではない。物置部屋、厠、空き部屋、座敷、人形の間……それらをことごとく空ぶっていった挙句、残るのは御堂だけとなった。御堂へ通じる通路の両側は枯山水の庭となっており、片側には東屋もあったけれど、そこも無人だった。
両開きの木の扉を開ける。御堂の内装は絢爛たるものだった。全体的に明るい色合いをしており、特に金色が目立つ。中程に立った二本の太い柱の間――すなわち正面の奥には、天井まで達さんばかりの巨大な仏像が鎮座している。その両脇にもそれぞれ三分の二くらいの大きさとは云えども立派な像が並んでいる。中尊と脇侍……いわゆる三尊像というやつだろうか。
「天波さん、いませんか」
俺の声はだだっ広い御堂の中に空虚に響くのみ。ただ物云わぬ仏像が俺を見下ろしている。そこで俺の脳内に疑問が浮かんだ。この彼岸邸の本尊は白蓮ではなかったか? 寺院ではなく、もとは地方の大地主の邸宅でしかなかった此処を出家先とできたのは、生き仏である白蓮の存在あってこそだったはずだ。裏を返せば、白蓮がいた以上、此処に仏像は必要なかったということになる。仏像とは信仰対象である仏の姿を表現したものに過ぎず、生きた本物がいたのではお役御免となるのが道理だ。
なら、どうしてこんな立派な像が此処にあるのだ? 白蓮達が来る前――その大地主の一家がいたころからあったもので、そのまま残しているのか? 俺が仏教に明るくないから分からないだけで、本尊とは別にこういった仏像も必要になるのか? しかし、これだけの仏像があるのなら、白蓮がいなくなったところでこれを本尊とすれば事足りる……要するに、仏教の知識なんてろくに持っていない咲乃を強引に白蓮の代わりとして祀り上げなくてもいいじゃないか。
おかしい。きれいに筋が通らない。ちぐはぐなものを感じる。そしてこの些細な不整合の裏には、なにか重大な秘密があるような気が……。
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