彼岸邸の殺人

凛野冥

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三(二)「泡月による案内」

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「あ、それより案内でしょ? ついて来てよ」

 すぐにもとの調子に戻り、回れ右して歩き始める泡月ちゃん。かなり張り切っているようで、大振りな動きに合わせておかっぱ頭が揺れる。

 だが具体的なビジョンは定まっていなかったらしく、廊下に出ると「どう回る?」と訊ねられた。

「とりあえず、左回りでお願いしようかな」

「分かった」

 左回りなら、はじめのうちは既に何度か通った区画になる。その方が流れとしては相応ふさわしいだろう。

「まず此処が書庫だよ」

 向かいの引き戸を開けて、泡月ちゃんは内部を見せた。そこは一度こっそり覗いていた部屋だったので「うん」と頷く。

「えーっと、詳しく見て行きたい? それともどんどん進む方が良い?」

「どんどん進む方でいいよ。気になる部屋があったら、そのときは云うから」

 泡月ちゃんは「はーい」と返事して、続いて左隣の部屋の前へと移動する。

「此処はお勉強したりするお部屋。中で書庫と繋がってて、本を取ったらこっちの部屋で読んだり、書き物したりするの」

 首だけ中に入れて覗いてみると、たしかに右手に書庫に続く戸があった。

 次に泡月ちゃんは、勉強部屋の向かい……俺が使わせてもらっている部屋の隣の戸を開ける。

「此処はお琴の間」

 内部の造りは俺が使わせてもらっている部屋と同じだ。敷居を挟んで手前と奥にそれぞれ八畳間があり、説明のとおり琴の道具――琵琶や三味線もあるけれど、それらは使っていないのだろうか――が綺麗に並べられている。欄間も彫刻欄間だが、絵柄は俺のところとは違って立派な竜の姿が描かれていた。

「泡月ちゃんも琴を弾けるの?」

「弾けるよ。綿鳥様に教えてもらってるんだ」

「綿鳥さん……。ねえ、綿鳥さんってどんな人?」

「え、どんな人って?」

「泡月ちゃんから見た印象って云うか、そういうことでいいんだけど」

 ひと目見て、俺は彼女からなにかを感じた。やはり思い出せはしないけれど、俺のよく知る誰かに似ている……あの雰囲気に憶えがある……。それは、この彼岸邸に対して抱いた既視感に通じるものだ。

「花帯様は厳しくてちょっと怖いところがあるけど、綿鳥様はなんだか、いつも透き通るみたいだよ」

「透き通るみたい……」

 えらく抽象的な表現だが、頷ける。彼女はどこか、存在が不確かな感じがした。

「あと難しいお話ばかりするから、そういうところはちょっと苦手」

「難しいお話ってどんな?」

「分かんない。だって難しいんだもん」

「ああ、そっか」

「じゃあ次ね。こっちは紅郎さんが使ってるところと同じで空き部屋だよ」

 泡月ちゃんは琴の間の隣に進んだ。

「それでこっちは着物の間。綺麗な着物が沢山あるけど、私達が着ることは滅多にないから全然使われてないの」

 着物の間は空き部屋の向かいで、勉強部屋の隣である。

 これで廊下がT字になっている地点まで来た。玄関の方から見て回廊の左辺には、両側にそれぞれ三部屋ずつ並んでいる格好だ。

「右に曲がると風呂場と厠だよね。この辺はもう知ってるから、左に進んでいいよ」

「はーい」

 台所と囲炉裏の間の戸を素通りし、玄関に通じる廊下のところまでやって来る。左手は中庭に面しているがずっと壁が続いており、此処にだけ丸窓がある。

「玄関に着くまでに右側にはお部屋が二つあって、囲炉裏の間と客間ね。左側は中が敷居で区切られてて、全部ひっくるめて大広間。あんまり使わないけど」

「そう云えば、泡月ちゃんも見た? 昨日の雷で木が倒れて、正門が潰されちゃったんだよ」

「うん、見たよ。でも門が壊れちゃったのも残念だけど、それより菩提樹が倒れちゃったことの方が大変なの。大事な木だったから」

「たしかに立派だったね」

 だからこそ避雷針となったのだろうが。

「菩提樹はその下でお釈迦様が妙覚を悟られた特別な木なの。妙覚は菩薩五十二位の最上位だよ」

「ああ、菩提樹は仏教と関わりが深いんだったね。名前の由来もそこだっけか」

「うん。サンスクリット語で〈完全なる英知〉とか〈悟り〉を意味するbodhiからきてて、菩提樹は〈悟りの木〉ってこと」

「へえ……」

 このくらいで感心しては失礼かも知れないが、泡月ちゃんも仏教徒のひとりなのだと意識させられた。

「あ、案内だったよね。次はこっちだよ」

 彼女はまた歩き始めた。どうやら案内役という点をかなり気負っているようで、なによりも優先させている観がある。俺としては雑談に乗じて話を聞き出すのも重視したいのだけれど。

「私の部屋だよ」

 曲がり角まで来ると、右の最も手前にある戸を指して彼女はそう云った。

「この通りには私達の私室が並んでるの。私、風櫛様、綿鳥様、花帯様の順ね。左側は中庭」

 中庭を見ると、向かい側……琴の間の窓があるあたりに木の梯子はしごが掛かっていて、屋根の上では花帯さんが掃除をしていた。一瞬危なっかしいと思ったが実際はそんなことなく、着実な仕事ぶりである。相変わらず、動きがいちいち優美で見惚れてしまう。

「尼さん達の中では、花帯さんが最年長なの?」

「うん、そうだよ」

 ならばきっと、皆の母親みたいな存在なのだろう。指導者はその白蓮という人らしいが、そちらはさしずめ父親か……。俺はふと、まだ会ってもない白蓮に対して軽く嫉妬していることに気付いた。

「正面に見えてる戸からは裏庭に出られるの」

 泡月ちゃんは廊下を進み、突き当たりの硝子戸を開けた。回廊において右上の角にあたる位置だ。

「出てみる?」

「うん」

 沓脱石くつぬぎいしの上にあった草履を適当に履き、俺と泡月ちゃんは外に出る。真っ先に目を惹いたのは、正面に聳えている崖だった。彼岸邸の裏手が崖になっているとは知らなかったが、あまり高いものではない。五メートル強といったところだろうか……。太陽の位置を見るに崖が続いているのは北側であり、裏庭はその陰になっていない。

「あれって階段だよね?」

「そうだよ」

 左手は屋敷が続いているが、その屋根から箱状の通路が崖の上まで真っ直ぐに伸びている。崖の上がどうなっているかは分からないけれど、外に出ることなく彼岸邸の中から上がっていけるらしい。通路を支える柱が何本もあって無理をしている観はあるものの、なんと云うか、ダイナミックな造りだ。

「崖の上には、なにがあるの?」

「お屋敷が続いてるんだよ。二階って呼んでるけど」

 離れと云った方が適切な気もするが、なるほど、おそらく生き仏たる白蓮の生活空間がそこなんじゃないだろうか。いかにも相応しい感じがする。

「あ、風櫛様だ」

 泡月ちゃんのその言葉に今度は右手に目を向けると、箒を手に持った白衣姿の少女が立っていた。風櫛……思っていたよりも歳は低く、たぶん女子高生くらいじゃないだろうか。

 彼女は俺と目が合うと、箒を握り締めてうつむいた。なにやら怯えてしまっているらしい。

「風櫛様、この人が例のお客様だよ」

「御津川紅郎って云います。よろしくね」

 なるたけ優しい声音を心掛けたが、風櫛ちゃんはちらちらと見上げてはくれるものの、緊張を解いてくれそうにはない。顔が真っ赤になっているが、恥ずかしがり屋なのだろうか。しばらくしてやっと「よ、よろしく……お願いします。風櫛です……」と蚊の鳴くような声で云ったかと思えば、頭を小さく下げた後に逃げるように屋敷の中へと這入っていってしまった。その際、それほど長くはない髪を高い位置で結わえているために綺麗なうなじが見え、それが印象的だった。

「風櫛様は大人しい人なの」

「そうみたいだね」

 改めて風櫛ちゃんが掃き掃除をしていたあたりを見ると、二階建ての土蔵がひとつ建っている。土蔵の先は小さな畑になっていて、その向こうは鬱蒼とした森だ。裏庭には他に目立ったものはなかった。

「ねえ泡月ちゃん、次はその二階を案内してよ」

「あ、花帯様がそれは駄目だって」

 泡月ちゃんはすかさず云った。

「どうして?」

「えーっと、大事な場所が多いからかな。とにかく、二階は駄目って云われたよ」

「じゃあ、こっそり連れて行ってよ」

「え!」

 泡月ちゃんが声を上げたので、俺は人差し指を口の前で立てた。

「内緒でだよ。花帯さんは掃除中だったし、黙っていれば平気だろう?」

「でも駄目って云われたし……」

「泡月ちゃんが冬に白衣の下に重ね着してるのだって同じじゃないか」

「う……紅郎さん、そんな意地悪云うんだね」

 痛いところを突かれて狼狽うろたえる泡月ちゃん。予想していたとおり、彼女をぎょするのは簡単そうだ。

 しかし、彼女はそこで首を横にぶんぶんと振り、もう一度「駄目」と云った。

「どうしても?」

「どうしても。いくら紅郎さんのお願いでも、それは聞けないよ」

 ……撤回する。俺は泡月ちゃんを軽く見すぎていたようだ。今の彼女の態度は毅然きぜんとして、芯の強さを感じさせられる。諦めるしかない。

「分かった。じゃあ、一階? の続きを案内してよ」

 すると彼女はまた相好を崩し、「うんっ」と頷いて歩き出した。彼女は彼女で一筋縄ではいかない……。

 屋敷の中に戻り、泡月ちゃんと俺は回廊の上辺を進む。裏庭に出る硝子戸の左隣にある部屋は仏間とのことだった。崖の上へと続く階段はその仏間のさらに隣、中庭に面している硝子戸が終わる地点の向かいにあったが、そこは仕方なく素通りする。

「此処は広間。大広間と違って、こっちはたまに修行に使うよ」

 仏間と対になって階段を挟んでいる部屋の戸を差し、泡月ちゃんはそう云った。

「仏教にも色々と宗派があると思うんだけど、泡月ちゃん達はどれにあたるの?」

「大元になってるのは大乗仏教だよ。教典は『般若経』『十地経』『法華経』『無量寿経』とかだけど、主に『法華経』かな」

「法華経……聞いたことはあるな」

「正しくは『妙法蓮華経』だよ。サッダルマ・プンダリーカ・スートラ。〈至上最高の蓮の花に喩えられるような優れた教えを説く教典〉が直訳だね」

「目的はやっぱり、悟りを開くことなんだよね」

「うん。悟りを開いて、彼岸に到達すること」

「彼岸……」

「私達が輪廻転生を続けるこの迷いの世界が此岸しがんで、生死の海を渡って到達する悟りの世界が彼岸。パーラミター。仏界だよ」

 そこで俺達は回廊の左上の角……もとの場所まで戻ってきた。残すは広間の左隣にある戸のみとなったが、その戸を見た瞬間、俺は身体が硬直した。

「紅郎さん、どうしたの?」

「いや……」

 ……今一瞬、金縛りにでも遭ったかのような感覚がしたが、どこかに飛んでいってしまった。なんだったのだろうか。

「この戸は?」

「此処は錠が掛かってるから開けられないよ」

 見ると、戸にはたしかに鍵穴があった。隣にある広間の広さからして、この開かずの間の内部はあまり広くないみたいだが……。

「中には、なにがあるの?」

「え? えーっと……」

 泡月ちゃんは逡巡しゅんじゅんするように視線を宙に漂わせた後、「これでもう、ひと回りしちゃったことになるねっ」とかなり強引に誤魔化した。

「……そうだね」

 こうなった泡月ちゃんが意外に堅いのは学習済みである。

「うーん、じゃあ私、お掃除に戻らないと。紅郎さん、私の案内、ちゃんとできてた?」

「ああ、文句のつけようがないよ」

「やったあ」

 泡月ちゃんは嬉しそうに笑うと、いきなり俺に抱きついてきた。無邪気で天真爛漫な性格の彼女とはいえ、俺は少しどぎまぎしてしまった。

「紅郎さん、好き。またお話ししようね」

 彼女はそう云って俺から身を離し、回れ右して去っていく。

 紅郎さん、好き……か。いや、それは額面どおりの、なんてことのない意味だとは分かるが。

「あ、泡月ちゃん、ひとつ訊いていい?」

 思い付いて、俺は彼女の背中に声を掛けた。「なーに?」と彼女は振り向いた。

「二階に行っちゃいけないのは、そこに白蓮様がいるから?」

 それほど深い意図があっての質問ではなかった。単なる確認のつもりだった。しかし、

「白蓮様はそこにはいないよ」

 泡月ちゃんの表情が、かげる。

「白蓮様は私達を置いて、出て行っちゃったから」
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