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二「彼岸邸で初めての夜」
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二
屋敷の玄関は横に長かった。這入るとまず長方形の土間となっており、一段高くなった板張りの床に囲まれている。正面には奥にまっすぐ廊下が伸びていて、遠い突き当たりにある丸窓が外で雷が光るたびにその輪郭を露わにする。
さて、どうしよう。はっきりとは見えないものの、やはり荒れ果てているという感じではない。人が使っている可能性は高いだろう。とすると、靴は脱ぐにしても、雨や泥で汚れたまま廊下を進んでいくのはさすがに躊躇われる。
そんなふうに立ち往生していると、正面に突然、橙色の柔らかそうな明かりがぼおっと浮かび上がった。明かりの向こうには、丸窓を背にひとりの女性の姿が見える。俺はぎょっとしたが、なんのことはない、廊下は突き当たりで左右に折れていて、そこから小型の行灯を手に持った女性が現れたのだ。
「夜分遅くにすみません。山で遭難してしまって、彷徨い歩いていたところでこの屋敷を見つけまして……」
慌てて説明を試みたが、女性は俺を訝しんでいる感じではなかった。
「それは災難でしたね。ようこそ、歓迎いたします」
女性は玄関までやって来た。楚々とした歩き方で、話し方も落ち着いている。それに美人だった。年齢は二十代半ば……俺より少し上くらいだろうか。白い長襦袢を着ており、長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。その格好も相まって、純和風な佇まいが実に様になっていた。
「有難いです」
そう云いかけて、俺は思わずくしゃみをしてしまった。安心感から気が緩んだのか、身体がぶるぶると震え始めた。
「早速で申し訳ないんですが、風呂を貸してもらえますか?」
だが女性は、これには悩ましげに眉を寄せた。
「風呂の火はもう落としてしまっていて……お時間がかかりますが、宜しいですか?」
言葉の意味が一瞬分からなかったが、すぐに思い至る。女性が行灯を提げているところからも分かるけれど、天井にざっと視線を走らせてみても案の定、照明類はない。此処には電気もガスも通っていないのだ。
「なら身体を拭くものをもらえますか? このままでは上がれませんし……」
「少々お待ちください。……お着替えもお持ちした方が良いですか?」
「あ、お願いします。荷物も山の中でなくしてしまいまして」
「分かりました」
女性は軽く頭を下げ、また廊下を戻っていった。挙動のひとつひとつが洗練されている印象だ。旅館の若女将という言葉が浮かんだが、しかし此処は少なくとも旅館というふうではない。……どうしてあんなに若くて綺麗な人が、こんなところで暮らしているのだろうか。
しばらく待っていると女性が戻ってきて、手拭いを渡してくれた。着替えは腰巻と肌襦袢、それから女性が着ているのと同じ長襦袢だった。
女性はなにも云わずに床の上に正座すると、反対側を向いた。その意図を察し、俺は少々気恥ずかしさを覚えながらも衣服を脱いで身体を拭き、着替えた。
それにしてもこの時代に腰巻とは……。履き心地は決して良いとは云えないのだが、きっとこれしかないのだろう。文句を云ってはいられない。身体を拭いてみるとあちこちに擦り傷や切り傷、腫れている箇所があると分かったが、血も止まっていたので、これについても黙っていることにした。あまり次から次に注文するのは気が引ける。
「ありがとうございます。上がってもいいですか?」
女性は振り返ると「もちろんです。どうぞ」と云いつつ立ち上がった。俺は脱いだ衣服と手拭いをまとめて抱え、裸足で板張りの床に上がる。すると入れ違いに、女性が草履を履いて土間に下りた。どうしたのかと思って見ていると、彼女は玄関戸を開けて外の様子を窺った。そこで俺は納得する。彼女はあの菩提樹が倒れるのを見たか、そうでなくともそれに気付いて玄関まで来たのだ。とすると、俺の姿を見てなんの動揺もなかったのが不思議だが……。
「俺が門をくぐった直後に、あの木に雷が落ちたみたいで、その惨状に……」
「そうですか」
女性は門が菩提樹の下敷きになって潰れているのを見ても動じなかった。未練がましい様子も見せずに戸を閉め、「こちらへどうぞ」と云って俺の前を歩き始める。俺はどこか不可解に感じつつも、その後に続いた。
「あの……貴女の名前は、なんと云うんですか?」
女性は歩みを止めないまま「花帯と申します」と答えた。
「花帯さんは、此処に住んでいるんですよね」
「ええ」
「此処は花帯さんの実家……なんですか?」
「いいえ、此処は〈彼岸邸〉です」
「彼岸邸……?」
訊き返したが、花帯さんはそこで立ち止まって左手の引き戸を開け、俺にその中に這入るよう促した。俺が這入ると彼女も後から続き、後ろ手で戸を閉めた。
中央に囲炉裏がある間だった。花帯さんは囲炉裏を囲む座布団のひとつを俺に薦め、自分は囲炉裏に火を熾し始めた。
「お腹が空いてはいませんか?」
「あ、実は昨日から、なにも食べていなくて……」
云われてみると、急に空腹が意識された。
「すぐにお出ししますね」
火を熾した花帯さんは、この囲炉裏の間に隣接している台所へと襖を開けて這入っていった。台所は奥の半分が土間になっており、走りや竈が見えている。室内なのに井戸もある。
俺は火にあたって冷えきった身体を温めながら、周囲を見回した。室内はぼんやりと照らされているのみで、隅には重苦しい闇が居座っている。その中に佇んでいる調度の数々はどれも年季が入っている。上に目を向けると梁や垂木が見えている。
前時代的とまでは云わないが、随分と古い建物であるのは間違いない。ただ、造りはしっかりしているようだ。激しい雨風の音はなにか得体の知れぬ怪物の唸りであるかのように絶えずくぐもって聞こえているが、この屋敷はびくともしていない。
しかし、遭難から助かって、さらに花帯さんのような綺麗でよく気が付く人と会えた安心感とは裏腹に、俺は一抹の心細さも感じるのだった。この屋敷の中は、どこか落ち着かない。薄暗いせいばかりではないだろう。不気味……得体が知れないと云うなら、この屋敷こそ、なににもまして奇怪な妖しさに満ちている……。
「簡素なもので申し訳ありませんが」
花帯さんが戻ってきた。俺の左斜め前に行儀良く正座した彼女が差し出した皿の上には、形の整った握り飯が五つ乗っている。俺の空腹のほどを考え、速さを優先してくれたらしい。
「いえ、とんでもない。いただきます」
塩結びだが、今の俺には天からの恵みを思わせた。握り飯をこんなに美味く感じるのは初めてかも知れない。あっという間に平らげた。すると花帯さんは茶を煎れようとしてくれたが、遠慮して水をもらった。
空腹を満たして一段落したところで、また探りを入れることにした。
「此処に住んでいる他の人達は……?」
「皆、寝ております」
そうだろうと思ってはいたが、住人は他にもいるらしい。だが彼女は先刻、此処は実家ではないとも云っていた。
「その人達は、家族ではないのでしょうか」
「違いますね。此処で生活している者は私も含め、皆が尼僧でございます」
「花帯さん、尼さんなんですか?」
少なからず面食らった。たしかに奥ゆかしい感じがそれらしいと云えなくもないけれど、僧侶とは予想だにしていなかった。
「と云うことは、此処は寺なんですか?」
もっとも、今いるこの建物は僧房ということになるのだろうが……。
しかし花帯さんは首を横に振った。
「寺院と申しますと少し異なります。奥に御堂はありますが、もとはこの地方を治めていた大地主の屋敷であったのを、私共が僧堂として使用しているという事情なのです」
「寺ではない……。でも花帯さん達は此処に出家しているんですよね」
「そうなります」
寺ではない以上、参拝客が訪れることはないのだろう。つまり花帯さん達はこの山奥の屋敷を使って修行生活をしている……俺は仏教にあまり造詣が深くはないので滅多なことは云えないが、それは特殊な事例ではないだろうか。
「あの……それで正しい修行が行えるものなんでしょうか?」
「問題ありません」
花帯さんは断言した。
「あ、奥に御堂があると云いましたね。じゃあ本尊はそこに……」
「白蓮様!」
俺の台詞は、不意に右手から聞こえてきたその声に遮られた。そちらに振り向くと、俺が這入ってきたのとは別の引き戸が開いており、そこに肌襦袢のみを身に着けた少女が行灯を提げて立っていた。彼女は目を丸くして俺を見詰めている。
「白蓮様……」
少女がまたそう呟いたとき、今度は「泡月!」と鋭い叱咤の声が響いた。見れば花帯さんが居住まいはそのままに目つきだけを厳しくし、少女を睨んでいる。かなりの気迫が感じられ、俺まで萎縮してしまった。
「このかたはお客様です。山で遭難していたところで此処に辿り着かれたのです」
泡月というらしい少女は事態が上手く呑み込めないようで、混乱がありありと表情に表れている。
「それから泡月、この時間にどうして起きて来たのですか」
「え、えーっと、お小水に……あ、そうだったっ」
当初の目的を思い出した泡月ちゃんは、戸も閉めないままとたとたと廊下を駆けていった。おそらくその途中で話し声を耳にして此処を覗いたのだろう。
「みっともない姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」
花帯さんは一度立ち上がって戸を閉めてから、頭を下げた。
「いえ、そんな……。でも、あんなに若い子も此処に出家を?」
泡月ちゃんは背も低ければ顔立ちも幼く、可愛らしいおかっぱ頭も手伝って、下手をすればまだ小学生じゃないかと思われた。実際は中学生くらいだろうが、それでも俗世間を捨てるには早すぎる。
「ええ。此処にいる者の中では泡月が最年少です」
「親御さんに連れられて来たんでしょうか?」
「いいえ、彼女に親はありません。彼女は自分でこの道を見出したのです」
どうやら複雑な事情がありそうだ。今の一幕だけでは、そんな重いものを背負っているようには見えなかったが。
そこで俺は、花帯さんも此処に家族はいないと云ったことを思い出す。それについて訊いてみると、
「私や泡月に限らず、此処にいるのは皆がひとりで自ずから仏門に入った者です。白蓮様に導かれてではありますが」
白蓮様……。泡月ちゃんもその名前を口にしていた。寝惚けていたのか、俺をその人と勘違いした様子だった。
「白蓮とは……その、花帯さん達の指導者なんですか?」
「指導者としての一面も否定はできませんが、白蓮様こそが此処の本尊様にあたるのです」
「……どういうことでしょう?」
「白蓮様は菩薩様であられるのです。これはもとの意味である〈修行者として仏道に励む者〉ではなく、まさしく如来様になられる資格をお持ちの、真理を悟ったお人……あの、まだ貴方のお名前を伺っていませんでしたね。失礼しました。お聞きしても宜しいですか?」
「紅郎です……御津川紅郎」
「紅郎様は仏教……殊に大乗仏教にはお詳しいですか?」
「いえ、情けないですけど、その方面は不勉強でして……」
「ならば分かりやすく、白蓮様は仏様であると申した方が良いですね」
俺は絶句した。突拍子もない話が次々に出てくると思っていたが、今度ばかりはすぐには受け入れられなかった。
「その白蓮という人は、この屋敷にいるんですよね……?」
「ええ」
つまりは現人神ではないか。仏と神は違うだろうが、俺にとっては似たようなものだ。花帯さんには悪いけれど、どうしても胡散臭さを感じてしまう。此処は新興宗教の本拠地なのでは……?
花帯さんは俺の疑惑を察したのか、しかしそれでも気を悪くした様子はなく、なおも丁寧な口調で続けた。
「大乗仏教の云う〈悉有仏性〉そして〈悉皆成仏〉というものですよ。人は皆、本来的に仏様としての本性を持っており、真理に目覚めて悟りを開ければ仏様になれるのです。もちろん、そこに至るのは生半可な道程ではなく、私などはまだまだですが」
そう聞かされてみると、少しは分かったような気になった。聞きかじりの知識でしかないけれど、大乗仏教は多仏思想なのだ。それでも此処に生き仏がいますなんて話、いくら花帯さんがちゃんとした人に見えても、そう簡単に鵜呑みにはできないが……。
と、そこで引き戸が開き、小水を済ませたらしい泡月ちゃんが顔を覗かせた。彼女は俺の顔をまじまじと見ながら部屋に這入る。
「泡月、戸を閉めなさい」
「あっ、うん」
年齢のことを考慮しても、泡月ちゃんは少々間が抜けているみたいだ。動作も花帯さんと比べるとややぎこちない。此処に来て日が浅いのかも知れない。
「花帯様、この人、本当にただのお客様なの?」
「泡月、その云い方は失礼ですよ」
「いえ、俺のことはそんなに気遣わないで大丈夫ですから……」
いちいち注意を受ける泡月ちゃんが不憫に思われたのもあって、俺は彼女を庇うかたちとなった。
「えーっと、じゃあ貴方のお名前はなんて云うの?」
泡月ちゃんは俺の右斜め前……花帯さんの向かいに正座し、くりくりとした目を俺に向けた。俺が御津川紅郎と答えると、小声で二度ほど反復した。それからまたなにか云おうとしたが、花帯さんが「泡月」と遮った。
「貴女はもう寝なさい」
「でも……」
「でもじゃありません。……紅郎様も、今晩はもうお休みになった方が良いですよね。お疲れでしょう?」
「ああ、はい、すみません……そうさせてもらえると有難いです」
正直、握り飯を食べた後から眠気に襲われていた。
「空いている部屋がありますので、ご案内します。……泡月は自分の部屋に戻りなさい」
「うん……分かった……」
泡月ちゃんは不服そうに唇を尖らせながら、自分の行灯を持ってとぼとぼと部屋を出て行った。花帯さんも「手拭いとお脱ぎになった衣服は、そこに置いたままで結構です」と述べながら立ち上がる。
俺は云われたとおりにして、彼女に続いて部屋を出た。泡月ちゃんが通ったのと同じ、俺が這入ってきたそれとは別の戸だ。玄関から伸びた廊下は突き当たりでT字になっており、囲炉裏の間は左側の角にあった。だから俺が出たのは丁度、廊下を左に曲がった地点であり、花帯さんはさらにそのまま奥へ進む。
しばらく行くと廊下は前方向と右方向とに分かれた。前方向はすぐに行き止まりとなっており、花帯さんは右方向に曲がった。左右に引き戸が等間隔で並んでいる廊下をさらに進み、やがて花帯さんが立ち止まったのはまた廊下が右に折れるそのすぐ手前だった。彼女は右側……つまり角に相当する部屋の戸を開いた。
「このお部屋で宜しいでしょうか」
空き部屋というのは本当で、物が少ないためにやけに広々とした八畳間だった。さらに敷居を挟んだ向こう側にも、もうひとつ八畳間が見えている。すなわち十六畳間ということで、充分すぎる広さだった。
「はい、ありがとうございます」
「只今、奥に布団をお敷きしますね」
花帯さんは押し入れから布団を引っ張り出し、てきぱきと敷いた後、枕元の有明行灯に火を灯してくれた。
「なにか足りないものはありませんか?」
「いえ、至れり尽くせりで感謝の言葉もないくらいですよ」
「それは良かったです」
花帯さんはうっすら微笑んだ。それがあまりに魅力的で、俺はにわかに緊張した。
「私の部屋は此処を出てすぐ右手の曲がり角を折れ、真っ直ぐ進んだ正面です。どんな些細なご用でも構いません、いつでもお申し付けください。それと厠ですが、此処を出て左に進んだ後、突き当たりを右に折れて一番奥の戸です」
「はい、分かりました」
「それではお休みなさいませ」
丁寧に頭を下げてから、花帯さんは踵を返して部屋を出て行った。俺はなんだか肩の力が抜けた。花帯さんの心配りは嬉しい反面、恐縮してしまうのもまた事実だった。
外から雷鳴が聞こえてくる。
とにかく今は寝ようと思い、布団に横になった。考えたい事柄は山ほどあるけれど、休まなければ頭が働きそうにない。なにはともあれ、命は助かったのだ。
これが吉と出るか凶と出るかは、神のみぞ知るところである。
あるいは仏……その白蓮という人の導きか?
屋敷の玄関は横に長かった。這入るとまず長方形の土間となっており、一段高くなった板張りの床に囲まれている。正面には奥にまっすぐ廊下が伸びていて、遠い突き当たりにある丸窓が外で雷が光るたびにその輪郭を露わにする。
さて、どうしよう。はっきりとは見えないものの、やはり荒れ果てているという感じではない。人が使っている可能性は高いだろう。とすると、靴は脱ぐにしても、雨や泥で汚れたまま廊下を進んでいくのはさすがに躊躇われる。
そんなふうに立ち往生していると、正面に突然、橙色の柔らかそうな明かりがぼおっと浮かび上がった。明かりの向こうには、丸窓を背にひとりの女性の姿が見える。俺はぎょっとしたが、なんのことはない、廊下は突き当たりで左右に折れていて、そこから小型の行灯を手に持った女性が現れたのだ。
「夜分遅くにすみません。山で遭難してしまって、彷徨い歩いていたところでこの屋敷を見つけまして……」
慌てて説明を試みたが、女性は俺を訝しんでいる感じではなかった。
「それは災難でしたね。ようこそ、歓迎いたします」
女性は玄関までやって来た。楚々とした歩き方で、話し方も落ち着いている。それに美人だった。年齢は二十代半ば……俺より少し上くらいだろうか。白い長襦袢を着ており、長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。その格好も相まって、純和風な佇まいが実に様になっていた。
「有難いです」
そう云いかけて、俺は思わずくしゃみをしてしまった。安心感から気が緩んだのか、身体がぶるぶると震え始めた。
「早速で申し訳ないんですが、風呂を貸してもらえますか?」
だが女性は、これには悩ましげに眉を寄せた。
「風呂の火はもう落としてしまっていて……お時間がかかりますが、宜しいですか?」
言葉の意味が一瞬分からなかったが、すぐに思い至る。女性が行灯を提げているところからも分かるけれど、天井にざっと視線を走らせてみても案の定、照明類はない。此処には電気もガスも通っていないのだ。
「なら身体を拭くものをもらえますか? このままでは上がれませんし……」
「少々お待ちください。……お着替えもお持ちした方が良いですか?」
「あ、お願いします。荷物も山の中でなくしてしまいまして」
「分かりました」
女性は軽く頭を下げ、また廊下を戻っていった。挙動のひとつひとつが洗練されている印象だ。旅館の若女将という言葉が浮かんだが、しかし此処は少なくとも旅館というふうではない。……どうしてあんなに若くて綺麗な人が、こんなところで暮らしているのだろうか。
しばらく待っていると女性が戻ってきて、手拭いを渡してくれた。着替えは腰巻と肌襦袢、それから女性が着ているのと同じ長襦袢だった。
女性はなにも云わずに床の上に正座すると、反対側を向いた。その意図を察し、俺は少々気恥ずかしさを覚えながらも衣服を脱いで身体を拭き、着替えた。
それにしてもこの時代に腰巻とは……。履き心地は決して良いとは云えないのだが、きっとこれしかないのだろう。文句を云ってはいられない。身体を拭いてみるとあちこちに擦り傷や切り傷、腫れている箇所があると分かったが、血も止まっていたので、これについても黙っていることにした。あまり次から次に注文するのは気が引ける。
「ありがとうございます。上がってもいいですか?」
女性は振り返ると「もちろんです。どうぞ」と云いつつ立ち上がった。俺は脱いだ衣服と手拭いをまとめて抱え、裸足で板張りの床に上がる。すると入れ違いに、女性が草履を履いて土間に下りた。どうしたのかと思って見ていると、彼女は玄関戸を開けて外の様子を窺った。そこで俺は納得する。彼女はあの菩提樹が倒れるのを見たか、そうでなくともそれに気付いて玄関まで来たのだ。とすると、俺の姿を見てなんの動揺もなかったのが不思議だが……。
「俺が門をくぐった直後に、あの木に雷が落ちたみたいで、その惨状に……」
「そうですか」
女性は門が菩提樹の下敷きになって潰れているのを見ても動じなかった。未練がましい様子も見せずに戸を閉め、「こちらへどうぞ」と云って俺の前を歩き始める。俺はどこか不可解に感じつつも、その後に続いた。
「あの……貴女の名前は、なんと云うんですか?」
女性は歩みを止めないまま「花帯と申します」と答えた。
「花帯さんは、此処に住んでいるんですよね」
「ええ」
「此処は花帯さんの実家……なんですか?」
「いいえ、此処は〈彼岸邸〉です」
「彼岸邸……?」
訊き返したが、花帯さんはそこで立ち止まって左手の引き戸を開け、俺にその中に這入るよう促した。俺が這入ると彼女も後から続き、後ろ手で戸を閉めた。
中央に囲炉裏がある間だった。花帯さんは囲炉裏を囲む座布団のひとつを俺に薦め、自分は囲炉裏に火を熾し始めた。
「お腹が空いてはいませんか?」
「あ、実は昨日から、なにも食べていなくて……」
云われてみると、急に空腹が意識された。
「すぐにお出ししますね」
火を熾した花帯さんは、この囲炉裏の間に隣接している台所へと襖を開けて這入っていった。台所は奥の半分が土間になっており、走りや竈が見えている。室内なのに井戸もある。
俺は火にあたって冷えきった身体を温めながら、周囲を見回した。室内はぼんやりと照らされているのみで、隅には重苦しい闇が居座っている。その中に佇んでいる調度の数々はどれも年季が入っている。上に目を向けると梁や垂木が見えている。
前時代的とまでは云わないが、随分と古い建物であるのは間違いない。ただ、造りはしっかりしているようだ。激しい雨風の音はなにか得体の知れぬ怪物の唸りであるかのように絶えずくぐもって聞こえているが、この屋敷はびくともしていない。
しかし、遭難から助かって、さらに花帯さんのような綺麗でよく気が付く人と会えた安心感とは裏腹に、俺は一抹の心細さも感じるのだった。この屋敷の中は、どこか落ち着かない。薄暗いせいばかりではないだろう。不気味……得体が知れないと云うなら、この屋敷こそ、なににもまして奇怪な妖しさに満ちている……。
「簡素なもので申し訳ありませんが」
花帯さんが戻ってきた。俺の左斜め前に行儀良く正座した彼女が差し出した皿の上には、形の整った握り飯が五つ乗っている。俺の空腹のほどを考え、速さを優先してくれたらしい。
「いえ、とんでもない。いただきます」
塩結びだが、今の俺には天からの恵みを思わせた。握り飯をこんなに美味く感じるのは初めてかも知れない。あっという間に平らげた。すると花帯さんは茶を煎れようとしてくれたが、遠慮して水をもらった。
空腹を満たして一段落したところで、また探りを入れることにした。
「此処に住んでいる他の人達は……?」
「皆、寝ております」
そうだろうと思ってはいたが、住人は他にもいるらしい。だが彼女は先刻、此処は実家ではないとも云っていた。
「その人達は、家族ではないのでしょうか」
「違いますね。此処で生活している者は私も含め、皆が尼僧でございます」
「花帯さん、尼さんなんですか?」
少なからず面食らった。たしかに奥ゆかしい感じがそれらしいと云えなくもないけれど、僧侶とは予想だにしていなかった。
「と云うことは、此処は寺なんですか?」
もっとも、今いるこの建物は僧房ということになるのだろうが……。
しかし花帯さんは首を横に振った。
「寺院と申しますと少し異なります。奥に御堂はありますが、もとはこの地方を治めていた大地主の屋敷であったのを、私共が僧堂として使用しているという事情なのです」
「寺ではない……。でも花帯さん達は此処に出家しているんですよね」
「そうなります」
寺ではない以上、参拝客が訪れることはないのだろう。つまり花帯さん達はこの山奥の屋敷を使って修行生活をしている……俺は仏教にあまり造詣が深くはないので滅多なことは云えないが、それは特殊な事例ではないだろうか。
「あの……それで正しい修行が行えるものなんでしょうか?」
「問題ありません」
花帯さんは断言した。
「あ、奥に御堂があると云いましたね。じゃあ本尊はそこに……」
「白蓮様!」
俺の台詞は、不意に右手から聞こえてきたその声に遮られた。そちらに振り向くと、俺が這入ってきたのとは別の引き戸が開いており、そこに肌襦袢のみを身に着けた少女が行灯を提げて立っていた。彼女は目を丸くして俺を見詰めている。
「白蓮様……」
少女がまたそう呟いたとき、今度は「泡月!」と鋭い叱咤の声が響いた。見れば花帯さんが居住まいはそのままに目つきだけを厳しくし、少女を睨んでいる。かなりの気迫が感じられ、俺まで萎縮してしまった。
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「それから泡月、この時間にどうして起きて来たのですか」
「え、えーっと、お小水に……あ、そうだったっ」
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「みっともない姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」
花帯さんは一度立ち上がって戸を閉めてから、頭を下げた。
「いえ、そんな……。でも、あんなに若い子も此処に出家を?」
泡月ちゃんは背も低ければ顔立ちも幼く、可愛らしいおかっぱ頭も手伝って、下手をすればまだ小学生じゃないかと思われた。実際は中学生くらいだろうが、それでも俗世間を捨てるには早すぎる。
「ええ。此処にいる者の中では泡月が最年少です」
「親御さんに連れられて来たんでしょうか?」
「いいえ、彼女に親はありません。彼女は自分でこの道を見出したのです」
どうやら複雑な事情がありそうだ。今の一幕だけでは、そんな重いものを背負っているようには見えなかったが。
そこで俺は、花帯さんも此処に家族はいないと云ったことを思い出す。それについて訊いてみると、
「私や泡月に限らず、此処にいるのは皆がひとりで自ずから仏門に入った者です。白蓮様に導かれてではありますが」
白蓮様……。泡月ちゃんもその名前を口にしていた。寝惚けていたのか、俺をその人と勘違いした様子だった。
「白蓮とは……その、花帯さん達の指導者なんですか?」
「指導者としての一面も否定はできませんが、白蓮様こそが此処の本尊様にあたるのです」
「……どういうことでしょう?」
「白蓮様は菩薩様であられるのです。これはもとの意味である〈修行者として仏道に励む者〉ではなく、まさしく如来様になられる資格をお持ちの、真理を悟ったお人……あの、まだ貴方のお名前を伺っていませんでしたね。失礼しました。お聞きしても宜しいですか?」
「紅郎です……御津川紅郎」
「紅郎様は仏教……殊に大乗仏教にはお詳しいですか?」
「いえ、情けないですけど、その方面は不勉強でして……」
「ならば分かりやすく、白蓮様は仏様であると申した方が良いですね」
俺は絶句した。突拍子もない話が次々に出てくると思っていたが、今度ばかりはすぐには受け入れられなかった。
「その白蓮という人は、この屋敷にいるんですよね……?」
「ええ」
つまりは現人神ではないか。仏と神は違うだろうが、俺にとっては似たようなものだ。花帯さんには悪いけれど、どうしても胡散臭さを感じてしまう。此処は新興宗教の本拠地なのでは……?
花帯さんは俺の疑惑を察したのか、しかしそれでも気を悪くした様子はなく、なおも丁寧な口調で続けた。
「大乗仏教の云う〈悉有仏性〉そして〈悉皆成仏〉というものですよ。人は皆、本来的に仏様としての本性を持っており、真理に目覚めて悟りを開ければ仏様になれるのです。もちろん、そこに至るのは生半可な道程ではなく、私などはまだまだですが」
そう聞かされてみると、少しは分かったような気になった。聞きかじりの知識でしかないけれど、大乗仏教は多仏思想なのだ。それでも此処に生き仏がいますなんて話、いくら花帯さんがちゃんとした人に見えても、そう簡単に鵜呑みにはできないが……。
と、そこで引き戸が開き、小水を済ませたらしい泡月ちゃんが顔を覗かせた。彼女は俺の顔をまじまじと見ながら部屋に這入る。
「泡月、戸を閉めなさい」
「あっ、うん」
年齢のことを考慮しても、泡月ちゃんは少々間が抜けているみたいだ。動作も花帯さんと比べるとややぎこちない。此処に来て日が浅いのかも知れない。
「花帯様、この人、本当にただのお客様なの?」
「泡月、その云い方は失礼ですよ」
「いえ、俺のことはそんなに気遣わないで大丈夫ですから……」
いちいち注意を受ける泡月ちゃんが不憫に思われたのもあって、俺は彼女を庇うかたちとなった。
「えーっと、じゃあ貴方のお名前はなんて云うの?」
泡月ちゃんは俺の右斜め前……花帯さんの向かいに正座し、くりくりとした目を俺に向けた。俺が御津川紅郎と答えると、小声で二度ほど反復した。それからまたなにか云おうとしたが、花帯さんが「泡月」と遮った。
「貴女はもう寝なさい」
「でも……」
「でもじゃありません。……紅郎様も、今晩はもうお休みになった方が良いですよね。お疲れでしょう?」
「ああ、はい、すみません……そうさせてもらえると有難いです」
正直、握り飯を食べた後から眠気に襲われていた。
「空いている部屋がありますので、ご案内します。……泡月は自分の部屋に戻りなさい」
「うん……分かった……」
泡月ちゃんは不服そうに唇を尖らせながら、自分の行灯を持ってとぼとぼと部屋を出て行った。花帯さんも「手拭いとお脱ぎになった衣服は、そこに置いたままで結構です」と述べながら立ち上がる。
俺は云われたとおりにして、彼女に続いて部屋を出た。泡月ちゃんが通ったのと同じ、俺が這入ってきたそれとは別の戸だ。玄関から伸びた廊下は突き当たりでT字になっており、囲炉裏の間は左側の角にあった。だから俺が出たのは丁度、廊下を左に曲がった地点であり、花帯さんはさらにそのまま奥へ進む。
しばらく行くと廊下は前方向と右方向とに分かれた。前方向はすぐに行き止まりとなっており、花帯さんは右方向に曲がった。左右に引き戸が等間隔で並んでいる廊下をさらに進み、やがて花帯さんが立ち止まったのはまた廊下が右に折れるそのすぐ手前だった。彼女は右側……つまり角に相当する部屋の戸を開いた。
「このお部屋で宜しいでしょうか」
空き部屋というのは本当で、物が少ないためにやけに広々とした八畳間だった。さらに敷居を挟んだ向こう側にも、もうひとつ八畳間が見えている。すなわち十六畳間ということで、充分すぎる広さだった。
「はい、ありがとうございます」
「只今、奥に布団をお敷きしますね」
花帯さんは押し入れから布団を引っ張り出し、てきぱきと敷いた後、枕元の有明行灯に火を灯してくれた。
「なにか足りないものはありませんか?」
「いえ、至れり尽くせりで感謝の言葉もないくらいですよ」
「それは良かったです」
花帯さんはうっすら微笑んだ。それがあまりに魅力的で、俺はにわかに緊張した。
「私の部屋は此処を出てすぐ右手の曲がり角を折れ、真っ直ぐ進んだ正面です。どんな些細なご用でも構いません、いつでもお申し付けください。それと厠ですが、此処を出て左に進んだ後、突き当たりを右に折れて一番奥の戸です」
「はい、分かりました」
「それではお休みなさいませ」
丁寧に頭を下げてから、花帯さんは踵を返して部屋を出て行った。俺はなんだか肩の力が抜けた。花帯さんの心配りは嬉しい反面、恐縮してしまうのもまた事実だった。
外から雷鳴が聞こえてくる。
とにかく今は寝ようと思い、布団に横になった。考えたい事柄は山ほどあるけれど、休まなければ頭が働きそうにない。なにはともあれ、命は助かったのだ。
これが吉と出るか凶と出るかは、神のみぞ知るところである。
あるいは仏……その白蓮という人の導きか?
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
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女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
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カクヨムでも同内容で公開しています。
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
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寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
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スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
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白崎アイド
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「あの人、私が
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