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らふぁえる章:暗き昏木クラミジア
The Dream
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・・・・
昼に時間を無駄にしたツケで帰りは二十三時を回ったが、由莉亜は起きていた。
体操着なので、風呂は済ませたようだ。額にまた冷却シートが貼られている。
「お疲れ様。……なに持ってるの?」
「ワインだよ。営業やってる同期からもらったんだ」
「コップしかないけど、いい?」
「いいよ。どうせワインの味なんて分からないし」
由莉亜は水洗いしたコップを二つ持ってきた。まあ堅いことを云う必要もないかと思い、コルクを抜いて両方に紫色の液体を注ぐ。一口飲むと、彼女は目をしばたたかせた。
「なんか酸っぱい……?」
「若いワインはこういうものらしいよ」
「そう……飲んでるうちに慣れるのかな」
コップを口に着けたままの姿勢で、ちびちびと飲み続ける由莉亜。
「無理しないでいいよ。そんなに有難いものでもないだろ」
「ううん、大丈夫。それより来須さん、煙草吸わないの?」
「いや……どうしてそんなに吸わせたがるんだ」
「来須さん、しばらく吸ってないと少し苛々してるから」
「本当に? そんな、見て分かるほどなのか?」
頷く由莉亜。そこまで煙草に依存しているつもりはないのだが……。
ショックを受けている様子が面白かったのか、由莉亜はくすりと笑った。
「他の人には分からないと思う。うちはずっと来須さんのこと見てるから」
たしかに彼女は俺のことを子細に観察し、時折フィードバックしてくる。まつ毛が長いとか、煙草を人差し指と親指で挟むとか、よく自分の手を触っているとか。
「じゃあ吸わせてもらうけど、由莉亜といるときは苛々してないはずだよ」
シガレットケースに詰めておいたぶんが切れたので、鞄から新しい箱を取って開封。一本抜き取って、火を点ける。
由莉亜は相変わらずワインをちびちび飲みながら、俺が喫煙するのを眺めていた。吸殻を灰皿に放るのと同時くらいに、彼女のコップも空になった。
「さっきの半分だけ」と云われて、注いでやる。色白の彼女だけれど、頬がほんのりと朱くなっている。
「今日は、同じクラスだった于綾さんと三芳くんが死んだって」
「ああ……ニュースか何かになってたのか」
「電話してきた人から聞いたの」
「電話?」
「援助したいって電話。断ったよ」
「相手は花天月高校の生徒か」
「そう。今日も二人が死んだけど、自分は噂のことは気にしないって云ってた」
「毛ほどの想像力もない奴だな……」
お前が気にしなくても、由莉亜が気にするかもという発想に至らないのだろうか? 至らないのだろうな。そういう阿呆は束にしたって捨てきれないほどいる。
「普通の人達はきっと、うちにこそ死んで欲しいだろうね」
ぽつりと、由莉亜の口から意外な言葉が漏れた。
「そんなことないだろ」と応えたが、あまり力のある否定にはならなかった。
怨恨、嫉妬、羨望、不信、それら未満の野次馬精神……彼女に多くの悪意が向けられているのは事実だ。普通の人達かはさておき、死を望む者、殺そうとする者もいる。
「いいの。死んでもいいって、うち自身が思ってるから」
いつにもまして、とろんとした目が俺を見詰める。
酔っているのだろうか。しかし、だからこそ本心とも考えられる。
「ずっと、不思議に思ってる。どうして、死ぬのは悪いことみたく云われるのかな? 本当はみんな、抜け駆けされるのが嫌なだけに見えるよ」
「死んだ方がいいと認めたら、苦労して生きているのがアホらしくなるからか」
「うん。みんな行き着くところなんだから、何も特別じゃないのにね」
「みんな行き着くところだから、特別なんじゃないか? まあ死を忌避するのと同じくらい、死に変な幻想を抱くのもどうかと思うけどな。ただ死ぬだけだろ」
自分のコップにワインを足す。瓶の中身はまだ半分ほどある。
「これ、飲みきれないな」
「……ごめんね。来須さんはうちのこと、助けてくれてるのに」
由莉亜は俯いた。一緒にいるうちに分かったことだ。飄々として、周りの物事に無関心なようでいて、実はよく気を遣っている。それだけ抱え込みやすい。
「うち、あんまり生きることに執着がない。本当は、死にたいのかも」
「別にいいよ。死にたいなら、それを否定したって仕方ないし」
俺にも、ずっと死にたいとばかり思っていた時期があった。いまだって時折そう思う。その時その時には本気のつもりなのに、結局は死なずに、生きているわけだが。それらが一過性の気持ちだと思われることの苦しみも、知っているつもりだ。
ワインの瓶を持って立ち上がる。流しに行って、蛇口をひねって、排水口に向けて瓶を逆さにした。後ろから「棄てちゃうの?」という問い掛け。
「大して美味くもないだろ。由莉亜もそのくらいにしておけよ、未成年なんだから」
詰まらないことを云ってしまったと思いつつ、ついでにもうひとつ話すことにした。
「死ぬのを悪いこととは思わないけど、生きてたっていいんじゃないか。生きてりゃ良いことがある――かは分からない。生きてるだけつらい思いをするだけかも知れない。でも死んだら、もう生きることはできない。当たり前だけどさ」
空になった瓶を、積まれたカップ焼きそばの隣に立てて、蛇口を逆にひねる。振り返ると、由莉亜は赤くなった顔で俺を見上げている。
「生きているうちは、生きるか死ぬか、いつでも選べる。死に対しても生に対しても優位だ。だけど死んだら選べない。劣位だな。それって何だか、癪な話だと思わないか」
「……そんなこと云ってくれる人、今までいなかったよ」
由莉亜は思案顔で、壁の方を見ると黙り込んだ。感銘でも受けたのだろうか。
俺は遅れて、後ろめたくなった。俺はこんな悟ったようなことを云える人間か……?
『妥協していまの詰まんない生活してるんでしょ。軽蔑するよ。あんたは終わった人間だ』
あまねが遺した言葉は魚の小骨のように、俺の胸の奥に引っ掛かったままだ。
・・・・
由莉亜に「行ってらっしゃい」と見送られて部屋を出る。早朝の寒さにコートの前を掻き合わせ、通路を進んでエレベーターに乗り、一階に下りると、フロントから外へ。
日の出にはまだ早い。通りには街灯が灯っていて、吐く息は白く、薄闇に映える。
最寄り駅の方向へと歩き出したとき、背後に気配を感じて振り向いた。
俺の首筋に――いきなりの手。鋭い痛みが奔る。握られているのは――注射器?
「な――」
反射的に突き飛ばそうとして、思い止まる。視界に捉えられない角度だが、確実に刺されている。肉が突っ張ったような感覚がする。針が中で折れたらどうするんだ?
相手は黒いパーカーのフードを目深にかぶって、そのうえマスクとサングラスのせいで人相が不明だ。背が低いけれどこのくらいの大人だっているし、男か女かも分からない。
注射針が引き抜かれる。雑な刺し方のせいで、どろりと血が垂れる。相手のチビは身を翻す。俺はその腕を掴む。チビが再び注射器を持った手を振りかぶって、俺は咄嗟に手を離してしまう。すかさず走り出すチビ。
「おい、待てよ!」
俺は追いかける。すぐ追いつけるかと思ったが、チビは意外とすばしっこい。小さい路地に這入って行かれる。距離が開いていく。針を刺された首から流れる血がコートの下のジャケットとシャツを濡らしていく。息も上がる。見失ってしまった。
苦しくて駄目だ。石垣に寄り掛かって、呼吸を整える。自分の身体がこんなに動かなくなっているとは知らなかった。大学生のころから運動なんてしていないし、煙草ばかり吸っていたからな……。
首の痛みが酷い。ハンカチをあてて押さえる。救急車……は、呼ぶほどではないか。しかし、何を注射されたんだ? やはり医者に診てもらう必要はあるかも知れない。
通行人はまばらだ。出勤中のサラリーマンと、帰宅中の夜職の女性がすれ違う。ランニング中のオッサン、どこかで飲み明かしたらしい若者が二人連れ。俺に一瞥をくれる奴もいるが、そのまま興味なさげに通り過ぎていく。まあいい。震える手でライターを握って、咥えた煙草に火を点けた。
考えろ。今のは何だ? 意味が分からない。新手の通り魔か? マンションを出た直後、背後からだった。出入口の脇に控えていた。待ち伏せされていたのか?
誰だあのチビは。心当たりはない。注射……注射……まさかインフルエンザの予防接種をしてくれたのではないだろう。じゃあ毒でも入れられたのか? とにかく今は息が荒いが、これは久々の全力疾走のせいだし、他の異常は分からない。毒――
煙草を口に運ぶ手が止まる。
――毒じゃなくて、ウイルスか? 今のが無差別でなく、俺が狙われたのだとしたら、俺の周りで最近起こった出来事が関係していると考えるのは順当だろう。
クラキ・クラミジア。
性病である以上、きっと血液とか精液とか膣分泌液で感染するのだ。その交換が起こるのが主に性行為というだけで、それ以外にも直接、飲ませたり注射したりすれば……。
煙草を噛む。ジュウウウウと一気に吸い込んで、馬鹿みたいに噎せた。
この推測が当たっていたとして、もう手遅れだ。ウイルスは全身の血管を駆け巡っている最中。今更、抜き取れるものではない。治療法など確立されていない、新種の感染症。
「あああ…………」
そういうことだったのか。
俺は死ぬのか。死ぬ。死ぬということ。本当に?
いまいち実感が湧かないが、こんなものか?
震える身体は駅へは向かわず、マンションへと引き返した。
あと数日の命。もしもそうなら、俺の人生って何だったんだろう? いや、別にこのまま生きていたところで、何にもならなかっただろうが。動揺しているな、俺は。
こんな状態で何かを考えようとしても無駄だ。何も考えず、何も感じず、自らを完全な状態に置け。自分の命も人生も、とっくに諦めていたはずだ。死ぬときがきたなら死ぬ。ただ死ぬだけだって、昨日この口で云っていたじゃないか。
涙が出てきた。嘘だろ? しかし、怪我をして痛かったら泣いても不思議はない。
〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉に帰って来た。パネルで暗証番号を押してフロントを通過し、エレベーターで十三階へ上って、通路を歩いて13D室の扉を合鍵を使い開錠する。
「来須さん?」
由莉亜はまだ体操着のまま。布団の上に座って『虚無への供物』を読んでいた。
「首、どうしたの? 血が出てるの?」
「ああ、いや、大したことはないんだけどな……」
洗面所に這入って蛇口を目一杯ひねって水を出す。コートを脱いでジャケットを脱いで、ネクタイを引き千切るかのように緩めて、シャツのボタンは本当に引き千切って、首元をバシャバシャと洗う。痛いし冷たいし最悪だが、みっともない声は上げないよう耐える。
「来須さん、これ絆創膏」
「ああ、置いといて……」
「痛いの? 大丈夫?」
鏡越しに、俺の後ろで心配そうに立っている由莉亜と目が合う。
「タオルと着替えも持って来てくれるか。スウェットでいいから」
「うん。会社は、お休みするの?」
「そうだな。連絡は……別にいいか」
どうせ死ぬんじゃあな。こうなってみると、頑張って働いていたのは何だったんだろうな? だから何でもなかったんだって。顔にも冷水をかけてゴシゴシとこする。
血をだいたい洗い流して、タオルで拭いて、出血も収まったので絆創膏を貼った。脱いだものは脱ぎっぱなし。スウェットを着て、洗面所を出た。涙も止まっている。よかった。
「何があったの? 誰かに、襲われたの?」
由莉亜は廊下に立っていた。切実そうに質問が重ねられる。
「湯浦さんみたく、うちを狙って来た人?」
「誰にも襲われてないよ。まあ何かに引っ掛けたんだろうな」
雑な答えで察したのか、彼女は黙った。ああ、そういうつもりじゃなかったのだが……しかし正直に話したら、また胸が苦しくなりそうだ。
「ごめん……少し寝るよ。暖房の温度、上げてくれるか」
体調が悪い、気がする。これは気のせいかも知れないけれど。布団の上で横になった。足元で丸まっていた掛布団を引っ張って、首まで覆った。由莉亜が隣で正座して、覗き込んでくる。悩ましげに寄った眉。下唇を少し、噛んでいるみたいだ。
「うちにできること、何かない?」
「そうだな……じゃあ、抱き締めさせてくれるか? どうにも寒くてさ……」
由莉亜はすぐ、同じ掛布団の中に入ってきた。俺は戸惑いを覚えた。頼んだのは俺なのにな。すると彼女の方から、俺の背中に細い腕を回して、胸板に顔を押し付けた。
「うち、体温低いかもだけど……大丈夫かな」
「……温かいよ、充分」
俺も彼女の華奢な身体を抱き締めた。しばらくすると、震えは止まった。
昼に時間を無駄にしたツケで帰りは二十三時を回ったが、由莉亜は起きていた。
体操着なので、風呂は済ませたようだ。額にまた冷却シートが貼られている。
「お疲れ様。……なに持ってるの?」
「ワインだよ。営業やってる同期からもらったんだ」
「コップしかないけど、いい?」
「いいよ。どうせワインの味なんて分からないし」
由莉亜は水洗いしたコップを二つ持ってきた。まあ堅いことを云う必要もないかと思い、コルクを抜いて両方に紫色の液体を注ぐ。一口飲むと、彼女は目をしばたたかせた。
「なんか酸っぱい……?」
「若いワインはこういうものらしいよ」
「そう……飲んでるうちに慣れるのかな」
コップを口に着けたままの姿勢で、ちびちびと飲み続ける由莉亜。
「無理しないでいいよ。そんなに有難いものでもないだろ」
「ううん、大丈夫。それより来須さん、煙草吸わないの?」
「いや……どうしてそんなに吸わせたがるんだ」
「来須さん、しばらく吸ってないと少し苛々してるから」
「本当に? そんな、見て分かるほどなのか?」
頷く由莉亜。そこまで煙草に依存しているつもりはないのだが……。
ショックを受けている様子が面白かったのか、由莉亜はくすりと笑った。
「他の人には分からないと思う。うちはずっと来須さんのこと見てるから」
たしかに彼女は俺のことを子細に観察し、時折フィードバックしてくる。まつ毛が長いとか、煙草を人差し指と親指で挟むとか、よく自分の手を触っているとか。
「じゃあ吸わせてもらうけど、由莉亜といるときは苛々してないはずだよ」
シガレットケースに詰めておいたぶんが切れたので、鞄から新しい箱を取って開封。一本抜き取って、火を点ける。
由莉亜は相変わらずワインをちびちび飲みながら、俺が喫煙するのを眺めていた。吸殻を灰皿に放るのと同時くらいに、彼女のコップも空になった。
「さっきの半分だけ」と云われて、注いでやる。色白の彼女だけれど、頬がほんのりと朱くなっている。
「今日は、同じクラスだった于綾さんと三芳くんが死んだって」
「ああ……ニュースか何かになってたのか」
「電話してきた人から聞いたの」
「電話?」
「援助したいって電話。断ったよ」
「相手は花天月高校の生徒か」
「そう。今日も二人が死んだけど、自分は噂のことは気にしないって云ってた」
「毛ほどの想像力もない奴だな……」
お前が気にしなくても、由莉亜が気にするかもという発想に至らないのだろうか? 至らないのだろうな。そういう阿呆は束にしたって捨てきれないほどいる。
「普通の人達はきっと、うちにこそ死んで欲しいだろうね」
ぽつりと、由莉亜の口から意外な言葉が漏れた。
「そんなことないだろ」と応えたが、あまり力のある否定にはならなかった。
怨恨、嫉妬、羨望、不信、それら未満の野次馬精神……彼女に多くの悪意が向けられているのは事実だ。普通の人達かはさておき、死を望む者、殺そうとする者もいる。
「いいの。死んでもいいって、うち自身が思ってるから」
いつにもまして、とろんとした目が俺を見詰める。
酔っているのだろうか。しかし、だからこそ本心とも考えられる。
「ずっと、不思議に思ってる。どうして、死ぬのは悪いことみたく云われるのかな? 本当はみんな、抜け駆けされるのが嫌なだけに見えるよ」
「死んだ方がいいと認めたら、苦労して生きているのがアホらしくなるからか」
「うん。みんな行き着くところなんだから、何も特別じゃないのにね」
「みんな行き着くところだから、特別なんじゃないか? まあ死を忌避するのと同じくらい、死に変な幻想を抱くのもどうかと思うけどな。ただ死ぬだけだろ」
自分のコップにワインを足す。瓶の中身はまだ半分ほどある。
「これ、飲みきれないな」
「……ごめんね。来須さんはうちのこと、助けてくれてるのに」
由莉亜は俯いた。一緒にいるうちに分かったことだ。飄々として、周りの物事に無関心なようでいて、実はよく気を遣っている。それだけ抱え込みやすい。
「うち、あんまり生きることに執着がない。本当は、死にたいのかも」
「別にいいよ。死にたいなら、それを否定したって仕方ないし」
俺にも、ずっと死にたいとばかり思っていた時期があった。いまだって時折そう思う。その時その時には本気のつもりなのに、結局は死なずに、生きているわけだが。それらが一過性の気持ちだと思われることの苦しみも、知っているつもりだ。
ワインの瓶を持って立ち上がる。流しに行って、蛇口をひねって、排水口に向けて瓶を逆さにした。後ろから「棄てちゃうの?」という問い掛け。
「大して美味くもないだろ。由莉亜もそのくらいにしておけよ、未成年なんだから」
詰まらないことを云ってしまったと思いつつ、ついでにもうひとつ話すことにした。
「死ぬのを悪いこととは思わないけど、生きてたっていいんじゃないか。生きてりゃ良いことがある――かは分からない。生きてるだけつらい思いをするだけかも知れない。でも死んだら、もう生きることはできない。当たり前だけどさ」
空になった瓶を、積まれたカップ焼きそばの隣に立てて、蛇口を逆にひねる。振り返ると、由莉亜は赤くなった顔で俺を見上げている。
「生きているうちは、生きるか死ぬか、いつでも選べる。死に対しても生に対しても優位だ。だけど死んだら選べない。劣位だな。それって何だか、癪な話だと思わないか」
「……そんなこと云ってくれる人、今までいなかったよ」
由莉亜は思案顔で、壁の方を見ると黙り込んだ。感銘でも受けたのだろうか。
俺は遅れて、後ろめたくなった。俺はこんな悟ったようなことを云える人間か……?
『妥協していまの詰まんない生活してるんでしょ。軽蔑するよ。あんたは終わった人間だ』
あまねが遺した言葉は魚の小骨のように、俺の胸の奥に引っ掛かったままだ。
・・・・
由莉亜に「行ってらっしゃい」と見送られて部屋を出る。早朝の寒さにコートの前を掻き合わせ、通路を進んでエレベーターに乗り、一階に下りると、フロントから外へ。
日の出にはまだ早い。通りには街灯が灯っていて、吐く息は白く、薄闇に映える。
最寄り駅の方向へと歩き出したとき、背後に気配を感じて振り向いた。
俺の首筋に――いきなりの手。鋭い痛みが奔る。握られているのは――注射器?
「な――」
反射的に突き飛ばそうとして、思い止まる。視界に捉えられない角度だが、確実に刺されている。肉が突っ張ったような感覚がする。針が中で折れたらどうするんだ?
相手は黒いパーカーのフードを目深にかぶって、そのうえマスクとサングラスのせいで人相が不明だ。背が低いけれどこのくらいの大人だっているし、男か女かも分からない。
注射針が引き抜かれる。雑な刺し方のせいで、どろりと血が垂れる。相手のチビは身を翻す。俺はその腕を掴む。チビが再び注射器を持った手を振りかぶって、俺は咄嗟に手を離してしまう。すかさず走り出すチビ。
「おい、待てよ!」
俺は追いかける。すぐ追いつけるかと思ったが、チビは意外とすばしっこい。小さい路地に這入って行かれる。距離が開いていく。針を刺された首から流れる血がコートの下のジャケットとシャツを濡らしていく。息も上がる。見失ってしまった。
苦しくて駄目だ。石垣に寄り掛かって、呼吸を整える。自分の身体がこんなに動かなくなっているとは知らなかった。大学生のころから運動なんてしていないし、煙草ばかり吸っていたからな……。
首の痛みが酷い。ハンカチをあてて押さえる。救急車……は、呼ぶほどではないか。しかし、何を注射されたんだ? やはり医者に診てもらう必要はあるかも知れない。
通行人はまばらだ。出勤中のサラリーマンと、帰宅中の夜職の女性がすれ違う。ランニング中のオッサン、どこかで飲み明かしたらしい若者が二人連れ。俺に一瞥をくれる奴もいるが、そのまま興味なさげに通り過ぎていく。まあいい。震える手でライターを握って、咥えた煙草に火を点けた。
考えろ。今のは何だ? 意味が分からない。新手の通り魔か? マンションを出た直後、背後からだった。出入口の脇に控えていた。待ち伏せされていたのか?
誰だあのチビは。心当たりはない。注射……注射……まさかインフルエンザの予防接種をしてくれたのではないだろう。じゃあ毒でも入れられたのか? とにかく今は息が荒いが、これは久々の全力疾走のせいだし、他の異常は分からない。毒――
煙草を口に運ぶ手が止まる。
――毒じゃなくて、ウイルスか? 今のが無差別でなく、俺が狙われたのだとしたら、俺の周りで最近起こった出来事が関係していると考えるのは順当だろう。
クラキ・クラミジア。
性病である以上、きっと血液とか精液とか膣分泌液で感染するのだ。その交換が起こるのが主に性行為というだけで、それ以外にも直接、飲ませたり注射したりすれば……。
煙草を噛む。ジュウウウウと一気に吸い込んで、馬鹿みたいに噎せた。
この推測が当たっていたとして、もう手遅れだ。ウイルスは全身の血管を駆け巡っている最中。今更、抜き取れるものではない。治療法など確立されていない、新種の感染症。
「あああ…………」
そういうことだったのか。
俺は死ぬのか。死ぬ。死ぬということ。本当に?
いまいち実感が湧かないが、こんなものか?
震える身体は駅へは向かわず、マンションへと引き返した。
あと数日の命。もしもそうなら、俺の人生って何だったんだろう? いや、別にこのまま生きていたところで、何にもならなかっただろうが。動揺しているな、俺は。
こんな状態で何かを考えようとしても無駄だ。何も考えず、何も感じず、自らを完全な状態に置け。自分の命も人生も、とっくに諦めていたはずだ。死ぬときがきたなら死ぬ。ただ死ぬだけだって、昨日この口で云っていたじゃないか。
涙が出てきた。嘘だろ? しかし、怪我をして痛かったら泣いても不思議はない。
〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉に帰って来た。パネルで暗証番号を押してフロントを通過し、エレベーターで十三階へ上って、通路を歩いて13D室の扉を合鍵を使い開錠する。
「来須さん?」
由莉亜はまだ体操着のまま。布団の上に座って『虚無への供物』を読んでいた。
「首、どうしたの? 血が出てるの?」
「ああ、いや、大したことはないんだけどな……」
洗面所に這入って蛇口を目一杯ひねって水を出す。コートを脱いでジャケットを脱いで、ネクタイを引き千切るかのように緩めて、シャツのボタンは本当に引き千切って、首元をバシャバシャと洗う。痛いし冷たいし最悪だが、みっともない声は上げないよう耐える。
「来須さん、これ絆創膏」
「ああ、置いといて……」
「痛いの? 大丈夫?」
鏡越しに、俺の後ろで心配そうに立っている由莉亜と目が合う。
「タオルと着替えも持って来てくれるか。スウェットでいいから」
「うん。会社は、お休みするの?」
「そうだな。連絡は……別にいいか」
どうせ死ぬんじゃあな。こうなってみると、頑張って働いていたのは何だったんだろうな? だから何でもなかったんだって。顔にも冷水をかけてゴシゴシとこする。
血をだいたい洗い流して、タオルで拭いて、出血も収まったので絆創膏を貼った。脱いだものは脱ぎっぱなし。スウェットを着て、洗面所を出た。涙も止まっている。よかった。
「何があったの? 誰かに、襲われたの?」
由莉亜は廊下に立っていた。切実そうに質問が重ねられる。
「湯浦さんみたく、うちを狙って来た人?」
「誰にも襲われてないよ。まあ何かに引っ掛けたんだろうな」
雑な答えで察したのか、彼女は黙った。ああ、そういうつもりじゃなかったのだが……しかし正直に話したら、また胸が苦しくなりそうだ。
「ごめん……少し寝るよ。暖房の温度、上げてくれるか」
体調が悪い、気がする。これは気のせいかも知れないけれど。布団の上で横になった。足元で丸まっていた掛布団を引っ張って、首まで覆った。由莉亜が隣で正座して、覗き込んでくる。悩ましげに寄った眉。下唇を少し、噛んでいるみたいだ。
「うちにできること、何かない?」
「そうだな……じゃあ、抱き締めさせてくれるか? どうにも寒くてさ……」
由莉亜はすぐ、同じ掛布団の中に入ってきた。俺は戸惑いを覚えた。頼んだのは俺なのにな。すると彼女の方から、俺の背中に細い腕を回して、胸板に顔を押し付けた。
「うち、体温低いかもだけど……大丈夫かな」
「……温かいよ、充分」
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