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第二章:結鷺觜也の黙示録
7/4「神は死に、そして」
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7/4
舞游を残して部屋を出た。彼女には僕が出たらすぐに内側からバリケードを築き、誰も中に這入ってこられないようにしろと云ってある。これで僕が有寨さんの殺害に成功すれば、その時点で彼女だけは救われる。
有寨さん達は此処を真実の世界と云うけれど、僕らからすれば此処こそが偽りの世界だ。楽園なんてものにはほど遠い、煉獄でしかない。
有寨さん達の思想も主義も、とても崇高で立派なものだ。それは認めざるを得ない。僕は彼らの話を聞いて、有無を云わさず思い知らされてしまった。僕みたいな平凡な人間ではその是非を評定しようとするのすらおこがましいくらいの真実がそこにはあった。
だが、違うのだ。彼らの思想や主義がどんなに高尚なものであっても、僕は愛する人がその犠牲とされるようなら断固否定するのだ。哲学をぶつけて勝負しようなんて思わない。ただ単に僕の勝手なエゴ……彼らにとってはいかにも低俗で浅ましくて愚かしく映るのだろうそれによって、僕はこの環楽園を否定するのだ。
これこそが僕の辿り着いた〈真実〉である。真実とは、そういうものだろう。ひとつに決められはしないけれど、個々人の中に確かに存在しているもの。
僕は僕の真実に則って、環楽園という真実を破壊する。
有寨さんを襲うなら彼が浴室にいるときだろうと考えた。そのときが一番無防備だからである。もしかしたら恋人の霧余さんと一緒に入ったり、あるいは杏味ちゃんがついていたりするというのも大いにあり得るけれど、それらの場合にしても彼女らだって無防備であるのに変わりはなく、よって大した障害にはならない。有寨さんを殺してしまえば、僕が彼を切断するのを彼女達は止めるわけにはいかないのだ。それに、どうせ僕がやるのは不意打ちなのだから、それを最大限に発揮できるタイミングを狙うのこそが最善とは疑いようもなかった。
もっとも、有寨さんが風呂に入る前に行動(舞游に自分を殺させるための策)を開始する場合だって考えられる。そうなれば、僕も場所を選んではいられない。その時点で彼に襲い掛かるつもりだ。
ともあれ、まずは様子見に徹することである。殺害に使う凶器として肉切り包丁は既に調理室から拝借してきた。身体を縦に切断するのに一丁ではなかなか立ち行かないだろうと思い(なにせ人体の構造を無視して骨までも切断する必要があるのだから)、手に持ったそれの他にもさらに二丁を、刃にカバーをつけた状態でベルトに引っ掛けている。
有寨さんと霧余さんが使っている部屋の場所は舞游から聞いていた。僕と舞游の部屋から間に三部屋挟んだそれだ。扉に耳をつけてみると中からうっすらと話し声が聞こえ、どうやら二人は中にいるようだと分かった。
柱の陰に身を隠しつつ見張り続けていると、やがて扉が開いて有寨さんが廊下に出てきた。彼は僕のいる方とは反対方向に廊下を進んでいく。続いて霧余さんが出てくるような様子はない。
僕は包丁の柄を握る右手に力を籠めた。いまなら殺せる。……だが、僕と有寨さんとの間は既に十メートル近く離れてしまっている。いくら足音を忍ばせたところで、途中で気付かれてしまうリスクは大きい。しかも有寨さんは片手に衣服の類を抱えていた。きっとこれから風呂に入るところなのだ。……なんと都合が良いのだろうか。僕はなにか、天から後押しされているようにさえ感じた。ならば想定していたとおりに浴室で襲うのが最善というものである。
柱の陰から陰に少しずつ移りながら有寨さんを追う。彼は東端の階段を下り、一階の廊下を進んでいき、脱衣所の扉を開けて中に這入っていった。ひとりだ。やれる――と僕は確信した。この機を逃してはならない。それどころか、これこそがラストチャンスに他ならない。
だがそんな思いとは裏腹に、僕の足はどうしようもなく震えてしまい、なかなか前に進むことができなくなる。心臓が痛いくらいに大きく鼓動している。包丁の柄を握る手はもとより、全身から汗が噴き出す。
怖気づいているのか? 舞游の前であれだけ格好付けておきながら、いざこの時がくると人を殺すことに躊躇いを覚えていると、そう云うのか?
ふざけるな。僕は内心で一喝した。躊躇なんてものをして良い段階はとうに過ぎている。僕はその段階において、やると決意したのだ。後戻りなんていう選択肢はもはや存在しない。
舞游のためだ。彼女を守るため。彼女を救うため。僕を送り出してくれた彼女の顔を思い出す。不安でないはずがないのに、彼女はそれを決して表に出さず、僕を信じてくれた。それに応えられないなんて、それこそが最も恐ろしいことじゃないか。
震えは、止まっていた。
僕は汗の滲んだ掌と包丁の柄をシャツの裾で拭った後にもう一度強く握り直し、歩き出した。脱衣所の前までやって来て扉に耳をつけ、もう有寨さんが浴室に這入っただろうと確信してからそれを開け、中に這入った。正面の擦りガラスの扉の向こうからシャワーの音が聞こえている。有寨さんは身体を洗っている最中なのだろう。
慎重に、足音を殺して擦りガラスの扉の前まで進む。だが扉に手を掛けたそのとき、今更になってある疑念が脳内に浮かんだ。
……僕が殺すのは、この有寨さんで正しいのか?
有寨さんは二人いるのだ。今日が七日目――〈八日目〉の有寨さんと、四日目――〈四日目〉の有寨さん。僕が殺すのは〈八日目〉の有寨さんでなければならない。
いま、この扉の向こうにいる有寨さんはどちらだ?
きっと〈八日目〉の有寨さんで合っていると思う。〈四日目〉の有寨さんというのは僕から身を隠しているから、ああして部屋を利用していた有寨さんは〈八日目〉の彼なのだと考えるのが自然だ。けれど根拠といったらそのくらいで、断定するには足りていない。本人に直截問うわけにもいかない。彼を襲うのは不意打ちでなければならない。いくら僕が凶器を持っていると云っても、体格の差もあることだし、正面から彼と組み合って勝てる自信はないからだ。
……いや、迷ってなんていられない。僕は半ば吹っ切れた。だいたい、舞游の代わりに僕が有寨さんを殺すという時点で殺人リレーの順序というものはもはや関係がなくなっているではないか。僕が〈四日目〉の有寨さんを殺したとしても、そうなれば、皆はそこから新たに殺人リレーを始めなければ環楽園を維持できなくなる。僕のセンターラインを切断しなければならなくなるのは同じだ。むしろその方が環楽園を破壊するという僕の目的に合致していると云えるじゃないか。
手をこまねいていては、舞游に危険が及んでしまう。もう時間はない。
僕は浴室の扉を開け放ち、風呂椅子に座ってこちらに背中を向けている有寨さんを見とめるや否や、その頭頂部目掛けて思いきり包丁を振り下ろした。
包丁の切っ先が有寨さんの頭にわずかに埋まり――頭蓋骨に直撃したのだろう、硬い岩を殴りでもしたかのように直撃の衝撃が僕の手にも跳ね返ってくる――「ぐあっ」と呻いて頭を抱える有寨さん――もう一瞬たりとも止まってはいけない――僕は間髪入れずに再び振り上げた包丁を今度はその背中へ――中央より左寄りだ――刃は肉を裂き、その中に食い込んだ――僕はそのまま包丁を奥へ奥へ押し込む――有寨さんが人間のものとは思えない叫びをあげながら暴れる――僕はほとんど抱きつくような格好で片腕を彼の首に回し、彼の動きを固定しようとする――だが有寨さんはなお暴れ、僕は有寨さんの首に腕を回したまま後ろ向きに倒れた――有寨さんもまた風呂椅子から後ろ向きに落下し、背中に突き刺さったままだった包丁の柄が浴室の床に――ズプズプズプッという嫌な音がした気がした――包丁の刃がさらに有寨さんの中に埋まっていったのだ――それが上手く骨の間を通ったのか、骨を破壊して突き進んだのか――包丁の先端がわずかに、有寨さんの左胸から飛び出た――貫通した――背中から胸にかけて――それはおそらく心臓を致命的に破壊した――噴き出す鮮血で視界が赤一色に染まる――有寨さんは見るもおぞましい痙攣を数回繰り返し――そしてその後――とうとう、完全に停止した。
「――はあ――はあ――はあ――はあ――」
僕の荒い呼吸音とシャワーから出る湯が床を叩く音だけが、浴室に響いている。外からは不気味な吹雪の音も……。
僕は上半身を起こし、傍らに仰向けで倒れている有寨さんを見た。あの常に理知的で、爽やかな微笑を浮かべていた顔は、驚愕と苦痛とに歪んだそのままで止まっている。有り得ないくらい開かれた目と口……舌が千切れかけているのは自分で噛んでしまったのだろうか、そのために咥内は血で満たされている。左胸からは包丁の先端が飛び出ていて、そこから水風船が割れたかのように大量の血液が湧いてくる。浴室の床も、壁すらも、血まみれだった。僕もまた、つい先程まで有寨さんの全身を駆け巡っていた鮮血で全身を濡らしている……。
殺した。有寨さんを、あの絶対的な存在であった彼を、こんなにも簡単に……。
環楽園の神は、死んだ。
「――はあ……はあ…………はあ…………」
まだ終わりではない。有寨さんのセンターラインを切断するという大仕事が残っている。僕は立ち上がろうとしたが、なぜか足に力が入らなかった。自分で決め、自分でやったとはいえ、人を殺したという事実が僕に及ぼしたショックは相当に大きいらしい。
立ち上がるのは一旦諦めた。僕は血でべたべたになった衣服を脱いで、這うように移動してシャワーを手に取り、頭からそれを浴びた。生暖かい血を熱いシャワーで流すというのは、かえって身が冷えてしまうような気持ち悪い感覚をもたらした。
シャワーは湯を出したまま床に放置し、僕はベルトに引っ掛けていた肉切り包丁を一丁手に取った。手の力もうまく入らないのだけれど、こればかりは無理矢理にでもやるしかない。
手始めに、その刃を有寨さんの臍の上あたりに突き刺す。一度引き抜くと、たちまちそこから血が噴き出した。だが構ってはいられない。また同じ箇所に包丁の刃を入れ、前後に動かしながら傷を下向きに広げていく。とめどなく血が溢れ返ってくる。艶やかな人間の腸が徐々に見え始める。
「――ああああああああっ――ああああああああああああっ!」
無言でいるなんて無理だった。僕は傷口から何度も何度も目を逸らし、しかしそれでは作業を続けられないために何度も何度も直視し、奇声を発しながら、切り難くて仕方がない人間の身体を徐々に徐々に切断していった。いまだけは理性を崩壊させるしかなかった。一心不乱に、なにも考えずに作業に没頭するしかなかった。それでもどうしても先の作業について想像してしまい、何度やめそうになってしまったか知れない。身体の表面はまだいい。だが顔面……脳……五臓六腑を切り裂いていくこと……しかもそれらは想像では終わらず、すべて実際にやらなければならないことなのだ……。血潮にまみれながら、泣き叫びながら、僕は何度も嘔吐した。だが、作業の放棄は許されなかった。最後までやるしかなかった。そうでないと僕はこの地獄絵図に今後一生つきまとわれる気がした。センターラインの切断さえ完遂できれば、この行為にも意味が生まれる。意義が生まれる。だが途中でやめれば、これは意味なんてない、残酷なだけの凶行になってしまう。切断しなければ……ただただ、この身体を縦に切断しなければ……。
……どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は、やり遂げていた。
ほとんど放心状態のていで、僕は目の前の死体……右半身と左半身に分断された、かつて馘杜有寨と呼ばれたその肉塊を眺めている。
精神的には云わずもがな、肉体的にもこれほど過酷なことはなかった。僕の身体はいたるところが悲鳴をあげており、腕なんてもうとても動かせなかった。気力だけでここまでやり果せられたのが自分でも信じられなかった。
それでも、なんとか終えられた。終えられたのだ。いや、まだ終わりと云うには全然早いのだけれど、しかし、少なくともこれで舞游は解放されたはずだ。僕は彼女を救うことができた。それを再認識した僕は安堵の息を――――
そのとき、後頭部に衝撃を受けた。
脳が揺さぶられ、僕の意識はたちまち飛びそうになる――だが辛うじて残ったそれが、自分が何者かによってなんらかの鈍器で殴れられたらしいと思考する――すると、また同じ後頭部に二撃目が食らわされた――今度こそ、僕の意識は遥か彼方に遠のいてしまったのだが――
「觜也、ちょっとだけ眠ってね」
――その寸前に僕の視界が捉えたのは、僕を見下ろす、舞游の満面の笑みだった。
どうして彼女が此処に……………………
舞游を残して部屋を出た。彼女には僕が出たらすぐに内側からバリケードを築き、誰も中に這入ってこられないようにしろと云ってある。これで僕が有寨さんの殺害に成功すれば、その時点で彼女だけは救われる。
有寨さん達は此処を真実の世界と云うけれど、僕らからすれば此処こそが偽りの世界だ。楽園なんてものにはほど遠い、煉獄でしかない。
有寨さん達の思想も主義も、とても崇高で立派なものだ。それは認めざるを得ない。僕は彼らの話を聞いて、有無を云わさず思い知らされてしまった。僕みたいな平凡な人間ではその是非を評定しようとするのすらおこがましいくらいの真実がそこにはあった。
だが、違うのだ。彼らの思想や主義がどんなに高尚なものであっても、僕は愛する人がその犠牲とされるようなら断固否定するのだ。哲学をぶつけて勝負しようなんて思わない。ただ単に僕の勝手なエゴ……彼らにとってはいかにも低俗で浅ましくて愚かしく映るのだろうそれによって、僕はこの環楽園を否定するのだ。
これこそが僕の辿り着いた〈真実〉である。真実とは、そういうものだろう。ひとつに決められはしないけれど、個々人の中に確かに存在しているもの。
僕は僕の真実に則って、環楽園という真実を破壊する。
有寨さんを襲うなら彼が浴室にいるときだろうと考えた。そのときが一番無防備だからである。もしかしたら恋人の霧余さんと一緒に入ったり、あるいは杏味ちゃんがついていたりするというのも大いにあり得るけれど、それらの場合にしても彼女らだって無防備であるのに変わりはなく、よって大した障害にはならない。有寨さんを殺してしまえば、僕が彼を切断するのを彼女達は止めるわけにはいかないのだ。それに、どうせ僕がやるのは不意打ちなのだから、それを最大限に発揮できるタイミングを狙うのこそが最善とは疑いようもなかった。
もっとも、有寨さんが風呂に入る前に行動(舞游に自分を殺させるための策)を開始する場合だって考えられる。そうなれば、僕も場所を選んではいられない。その時点で彼に襲い掛かるつもりだ。
ともあれ、まずは様子見に徹することである。殺害に使う凶器として肉切り包丁は既に調理室から拝借してきた。身体を縦に切断するのに一丁ではなかなか立ち行かないだろうと思い(なにせ人体の構造を無視して骨までも切断する必要があるのだから)、手に持ったそれの他にもさらに二丁を、刃にカバーをつけた状態でベルトに引っ掛けている。
有寨さんと霧余さんが使っている部屋の場所は舞游から聞いていた。僕と舞游の部屋から間に三部屋挟んだそれだ。扉に耳をつけてみると中からうっすらと話し声が聞こえ、どうやら二人は中にいるようだと分かった。
柱の陰に身を隠しつつ見張り続けていると、やがて扉が開いて有寨さんが廊下に出てきた。彼は僕のいる方とは反対方向に廊下を進んでいく。続いて霧余さんが出てくるような様子はない。
僕は包丁の柄を握る右手に力を籠めた。いまなら殺せる。……だが、僕と有寨さんとの間は既に十メートル近く離れてしまっている。いくら足音を忍ばせたところで、途中で気付かれてしまうリスクは大きい。しかも有寨さんは片手に衣服の類を抱えていた。きっとこれから風呂に入るところなのだ。……なんと都合が良いのだろうか。僕はなにか、天から後押しされているようにさえ感じた。ならば想定していたとおりに浴室で襲うのが最善というものである。
柱の陰から陰に少しずつ移りながら有寨さんを追う。彼は東端の階段を下り、一階の廊下を進んでいき、脱衣所の扉を開けて中に這入っていった。ひとりだ。やれる――と僕は確信した。この機を逃してはならない。それどころか、これこそがラストチャンスに他ならない。
だがそんな思いとは裏腹に、僕の足はどうしようもなく震えてしまい、なかなか前に進むことができなくなる。心臓が痛いくらいに大きく鼓動している。包丁の柄を握る手はもとより、全身から汗が噴き出す。
怖気づいているのか? 舞游の前であれだけ格好付けておきながら、いざこの時がくると人を殺すことに躊躇いを覚えていると、そう云うのか?
ふざけるな。僕は内心で一喝した。躊躇なんてものをして良い段階はとうに過ぎている。僕はその段階において、やると決意したのだ。後戻りなんていう選択肢はもはや存在しない。
舞游のためだ。彼女を守るため。彼女を救うため。僕を送り出してくれた彼女の顔を思い出す。不安でないはずがないのに、彼女はそれを決して表に出さず、僕を信じてくれた。それに応えられないなんて、それこそが最も恐ろしいことじゃないか。
震えは、止まっていた。
僕は汗の滲んだ掌と包丁の柄をシャツの裾で拭った後にもう一度強く握り直し、歩き出した。脱衣所の前までやって来て扉に耳をつけ、もう有寨さんが浴室に這入っただろうと確信してからそれを開け、中に這入った。正面の擦りガラスの扉の向こうからシャワーの音が聞こえている。有寨さんは身体を洗っている最中なのだろう。
慎重に、足音を殺して擦りガラスの扉の前まで進む。だが扉に手を掛けたそのとき、今更になってある疑念が脳内に浮かんだ。
……僕が殺すのは、この有寨さんで正しいのか?
有寨さんは二人いるのだ。今日が七日目――〈八日目〉の有寨さんと、四日目――〈四日目〉の有寨さん。僕が殺すのは〈八日目〉の有寨さんでなければならない。
いま、この扉の向こうにいる有寨さんはどちらだ?
きっと〈八日目〉の有寨さんで合っていると思う。〈四日目〉の有寨さんというのは僕から身を隠しているから、ああして部屋を利用していた有寨さんは〈八日目〉の彼なのだと考えるのが自然だ。けれど根拠といったらそのくらいで、断定するには足りていない。本人に直截問うわけにもいかない。彼を襲うのは不意打ちでなければならない。いくら僕が凶器を持っていると云っても、体格の差もあることだし、正面から彼と組み合って勝てる自信はないからだ。
……いや、迷ってなんていられない。僕は半ば吹っ切れた。だいたい、舞游の代わりに僕が有寨さんを殺すという時点で殺人リレーの順序というものはもはや関係がなくなっているではないか。僕が〈四日目〉の有寨さんを殺したとしても、そうなれば、皆はそこから新たに殺人リレーを始めなければ環楽園を維持できなくなる。僕のセンターラインを切断しなければならなくなるのは同じだ。むしろその方が環楽園を破壊するという僕の目的に合致していると云えるじゃないか。
手をこまねいていては、舞游に危険が及んでしまう。もう時間はない。
僕は浴室の扉を開け放ち、風呂椅子に座ってこちらに背中を向けている有寨さんを見とめるや否や、その頭頂部目掛けて思いきり包丁を振り下ろした。
包丁の切っ先が有寨さんの頭にわずかに埋まり――頭蓋骨に直撃したのだろう、硬い岩を殴りでもしたかのように直撃の衝撃が僕の手にも跳ね返ってくる――「ぐあっ」と呻いて頭を抱える有寨さん――もう一瞬たりとも止まってはいけない――僕は間髪入れずに再び振り上げた包丁を今度はその背中へ――中央より左寄りだ――刃は肉を裂き、その中に食い込んだ――僕はそのまま包丁を奥へ奥へ押し込む――有寨さんが人間のものとは思えない叫びをあげながら暴れる――僕はほとんど抱きつくような格好で片腕を彼の首に回し、彼の動きを固定しようとする――だが有寨さんはなお暴れ、僕は有寨さんの首に腕を回したまま後ろ向きに倒れた――有寨さんもまた風呂椅子から後ろ向きに落下し、背中に突き刺さったままだった包丁の柄が浴室の床に――ズプズプズプッという嫌な音がした気がした――包丁の刃がさらに有寨さんの中に埋まっていったのだ――それが上手く骨の間を通ったのか、骨を破壊して突き進んだのか――包丁の先端がわずかに、有寨さんの左胸から飛び出た――貫通した――背中から胸にかけて――それはおそらく心臓を致命的に破壊した――噴き出す鮮血で視界が赤一色に染まる――有寨さんは見るもおぞましい痙攣を数回繰り返し――そしてその後――とうとう、完全に停止した。
「――はあ――はあ――はあ――はあ――」
僕の荒い呼吸音とシャワーから出る湯が床を叩く音だけが、浴室に響いている。外からは不気味な吹雪の音も……。
僕は上半身を起こし、傍らに仰向けで倒れている有寨さんを見た。あの常に理知的で、爽やかな微笑を浮かべていた顔は、驚愕と苦痛とに歪んだそのままで止まっている。有り得ないくらい開かれた目と口……舌が千切れかけているのは自分で噛んでしまったのだろうか、そのために咥内は血で満たされている。左胸からは包丁の先端が飛び出ていて、そこから水風船が割れたかのように大量の血液が湧いてくる。浴室の床も、壁すらも、血まみれだった。僕もまた、つい先程まで有寨さんの全身を駆け巡っていた鮮血で全身を濡らしている……。
殺した。有寨さんを、あの絶対的な存在であった彼を、こんなにも簡単に……。
環楽園の神は、死んだ。
「――はあ……はあ…………はあ…………」
まだ終わりではない。有寨さんのセンターラインを切断するという大仕事が残っている。僕は立ち上がろうとしたが、なぜか足に力が入らなかった。自分で決め、自分でやったとはいえ、人を殺したという事実が僕に及ぼしたショックは相当に大きいらしい。
立ち上がるのは一旦諦めた。僕は血でべたべたになった衣服を脱いで、這うように移動してシャワーを手に取り、頭からそれを浴びた。生暖かい血を熱いシャワーで流すというのは、かえって身が冷えてしまうような気持ち悪い感覚をもたらした。
シャワーは湯を出したまま床に放置し、僕はベルトに引っ掛けていた肉切り包丁を一丁手に取った。手の力もうまく入らないのだけれど、こればかりは無理矢理にでもやるしかない。
手始めに、その刃を有寨さんの臍の上あたりに突き刺す。一度引き抜くと、たちまちそこから血が噴き出した。だが構ってはいられない。また同じ箇所に包丁の刃を入れ、前後に動かしながら傷を下向きに広げていく。とめどなく血が溢れ返ってくる。艶やかな人間の腸が徐々に見え始める。
「――ああああああああっ――ああああああああああああっ!」
無言でいるなんて無理だった。僕は傷口から何度も何度も目を逸らし、しかしそれでは作業を続けられないために何度も何度も直視し、奇声を発しながら、切り難くて仕方がない人間の身体を徐々に徐々に切断していった。いまだけは理性を崩壊させるしかなかった。一心不乱に、なにも考えずに作業に没頭するしかなかった。それでもどうしても先の作業について想像してしまい、何度やめそうになってしまったか知れない。身体の表面はまだいい。だが顔面……脳……五臓六腑を切り裂いていくこと……しかもそれらは想像では終わらず、すべて実際にやらなければならないことなのだ……。血潮にまみれながら、泣き叫びながら、僕は何度も嘔吐した。だが、作業の放棄は許されなかった。最後までやるしかなかった。そうでないと僕はこの地獄絵図に今後一生つきまとわれる気がした。センターラインの切断さえ完遂できれば、この行為にも意味が生まれる。意義が生まれる。だが途中でやめれば、これは意味なんてない、残酷なだけの凶行になってしまう。切断しなければ……ただただ、この身体を縦に切断しなければ……。
……どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は、やり遂げていた。
ほとんど放心状態のていで、僕は目の前の死体……右半身と左半身に分断された、かつて馘杜有寨と呼ばれたその肉塊を眺めている。
精神的には云わずもがな、肉体的にもこれほど過酷なことはなかった。僕の身体はいたるところが悲鳴をあげており、腕なんてもうとても動かせなかった。気力だけでここまでやり果せられたのが自分でも信じられなかった。
それでも、なんとか終えられた。終えられたのだ。いや、まだ終わりと云うには全然早いのだけれど、しかし、少なくともこれで舞游は解放されたはずだ。僕は彼女を救うことができた。それを再認識した僕は安堵の息を――――
そのとき、後頭部に衝撃を受けた。
脳が揺さぶられ、僕の意識はたちまち飛びそうになる――だが辛うじて残ったそれが、自分が何者かによってなんらかの鈍器で殴れられたらしいと思考する――すると、また同じ後頭部に二撃目が食らわされた――今度こそ、僕の意識は遥か彼方に遠のいてしまったのだが――
「觜也、ちょっとだけ眠ってね」
――その寸前に僕の視界が捉えたのは、僕を見下ろす、舞游の満面の笑みだった。
どうして彼女が此処に……………………
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