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第二章:結鷺觜也の黙示録
6/7、6/8「終わらない楽園」
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6/7
北館の浴室は南館の浴場と比べると数段手狭だったが、それでも二人で窮屈するようなそれではなかった。しかし洗い場はひとつしかなかったので、まず舞游に使わせてから僕が使うことになった。よっていまは僕が洗い場で身体を洗っており、舞游はジェットバスで泡風呂を楽しんでいる。
「私の身体って貧相だと思う?」
出し抜けに舞游がそんな質問をしてきた。
「知らないよ。女子の平均的な身体つきも知らないし、お前の身体つきだって知らない」
「さっきまで観察してたんじゃなかったの?」
「するわけないだろ。なんだ、コンプレックスでもあるのか?」
「別にー。でも霧余さんを見てるとちょっと惨めにはなるよ」
そう云えば舞游は初日の晩に霧余さんと入浴を共にしたのだったか。
「あの人は特別なんじゃないか。大人だし……ああ、でも舞游の歳でも成長はほとんど終わってるのか」
そのとき、ふと脳裏によぎったのは、霧余さんの切断された死体の映像だった。あれで僕は彼女の裸体を目にしたことがあるとは云えるわけで、そこから連想してしまったのだ。それに舞游の死体も……。少し気分が悪くなったけれど、悟られたくないので舞游から顔を背ける。
「觜也は……普通だね。中肉中背で」
「じろじろ見るな」
腰にはタオルを巻いているけれど、それでもあまり観察されたいものではない。舞游はわざと舐めるような視線を向けてくるので尚更だ。
「身体つきはどうでもいいけど、身長だったら僕も有寨さんと並ぶとなんとも云えない気持ちになるよ」
「お兄ちゃんは昔から高かったね。どうして妹の私が平凡な身長に落ち着いたのか、ちょっと納得がいかない」
僕は改めて舞游を見た。彼女は胸元から上(当然身体にタオルを巻いている)を浴槽から出し、ふちに両肘をつけて頬杖としている。手首の傷が文字のように見える。
「ん、どうしたの?」
「いや……舞游は顔も有寨さんとあまり似てないな」
濡れた髪を後ろに流しているので普段よりも顔全体がよく見えるが、男女の違いはあれども、兄妹ならもう少し似ていてもいいのではと思った。二人とも目鼻立ちが整っているのは共通しているけれど、有寨さんが大人っぽい美形であるのに対して舞游は幼さのある可憐なそれという感じで、タイプは別だ。
「よく云われたよ、それ。強いて理由をあげるなら、異母兄妹だからかな、やっぱり」
「ああ……そういうことか」
舞游が物心ついたころには、離婚によって既に馘杜家に母親はいなかったらしい。さらにそれが舞游の父親にとって再婚の相手であったとも聞いている。詳しい事情については僕も訊かなかったので知らないけれど、有寨さんはひとり目の妻との子供であり、舞游は二人目の妻とのそれであったという話なのだろう。
他に聞いたのは、父親は仕事であまり家にいなかったために主に有寨さんが家事全般をこなして舞游の面倒も見ていたということ。さらにその有寨さんも高校入学と同時に自分が大学に進むための資金を貯める目的でアルバイトを始めたので、舞游は完全にひとりきりになってしまった。
……いや、いまなら分かるけれど、有寨さんが面倒を見てくれていたときだって彼女は決して幸福ではなかったのだろう。険悪な仲の兄妹ではないけれど、舞游は内心では兄に対して恐れを抱いているし、有寨さんだって自分の理想のために妹に人を殺してさらに人から殺されることを強制するような人物である……そして大した説明も受けないままに従ってしまう舞游……この二人の関係はとても尋常ではない。きっと両親の目というものがなかったからこそ、有寨さんは舞游を云わば自分の傀儡のように扱えるようになったのだ。
家庭環境がこれでは、舞游が突飛な言動を取らなければ自分の存在を確立できないと考え、ある種の奇行に傾倒していったとしても無理はない。むしろ真っ当とさえ云えるだろう。つまるところ、これこそが馘杜舞游のバックグラウンドだった。
「……で、僕はこのまま入っていいのか?」
「いいよ。結構広いし、遠慮はいらないよ」
身体を洗い終えた僕は、舞游と同じ浴槽に入った。お互いタオルを巻いているとはいえ、泡風呂なのは幸いだった。
端と端に、向かい合うように座る僕と舞游。広いとは云ってもこの体勢だと互いの足が湯の中で接する。すると舞游はニヤニヤしながら僕の脛を自分の足の指でくすぐるようにしてきた。反応したら負けと思って、僕はなにも云わないことにした。
だがこうして一度黙ってしまうと、この状況が予想以上に気まずいものであると知った。異性の友達と同じ湯に浸かって向かい合っているのだから当然だ。舞游も不意にそれを意識させられたのか、僕と同じく黙ってしまった。無言で見詰め合う奇妙な時間が続く。ジェットバスの湯を噴出する機能はいまは止めてあるので、水の滴る音と、外の吹雪が屋敷を震わす音だけが変に浮いた感じに聞こえている。
友達……。そう、僕と舞游の関係はあくまでも友達だ。二人で口にしてそう決めたのだし、以降ずっと友達として一緒に過ごしてきた。だがそれが、特にこの環楽園での数日間のうちに変容しつつあるとは、僕だけでなく、彼女も感じているだろう。僕と彼女は互いを愛している……と云うと気恥ずかしいけれど、好きであるということを云い合ったし、キスも交わした。もうただの友達というのはそぐわない。
しかし、ならば恋人か? それも違う気がする。僕と彼女の関係が恋人と形容されるのは、なんだか居心地が悪い。それに今更という感もある。今更、友達という関係を恋人という関係に進めるのは、むしろ関係性を安易なものに落とすことにしかならない気がする。
では、なんと呼ぶのが正しいのだろう。友達でも恋人でもないと云うなら、僕と舞游はなんという関係で繋がっている?
そのとき、浴室の扉がいきなり開けられた。
「もしかして邪魔してしまいましたでしょうか」
僕は驚き、それから慌てて目を逸らした。一糸纏わぬ姿の杏味ちゃんが浴室に、しかも堂々と這入ってきたのだ。
「僕らが這入ってるのは分かったはずだけど?」
脱衣所に脱いだ衣服や着替えが置かれているのだから。
「ええ、分かりましたわ。ですが私は他人に見られて恥ずかしいような身体はしていませんので、特に不都合は感じませんでしたの」
気品溢れる佇まいの杏味ちゃんだけれど、乙女らしい奥ゆかしさや恥じらいといったようなものとは無縁らしかった。これまでの彼女の行動を思い返してみれば、たしかに頷けなくはない。
「でも杏味ちゃんの身体つきって結構幼くない?」
舞游の無遠慮な質問に眉を顰める杏味ちゃんの顔が、見てはいないけれど容易に想像できる。
「不必要にいやらしかったり、だらしなかったりするより格段に良いですわ」
澄ましたふうに答えてはいるが、少しむきになっているのが分かった。こういうところはまだ十六歳の女の子らしい。
かなり意表を衝かれたのは確かだけれど、僕は同時に、内心で杏味ちゃんに感謝していた。彼女は邪魔をしてしまったかと訊いたが、気まずい雰囲気になっているところに彼女が登場してくれたのは助け舟に他ならなかったからだ。
裸の女子が二人いるところに長居するのも躊躇われて、僕はその後すぐに浴室から出た。
6/8
寝間着に着替えた僕と舞游は揃って廊下に出たが、するとどこかからピアノの演奏が聞こえてくるのに気付いた。三度目ともなるとさすがに憶えており、それが『大地の歌』だとすぐに分かる。
と、その瞬間、僕は足もとからゾクゾクゾクッと全身を戦慄が駆け抜けていくのを感じた。心臓の鼓動が不穏に早まり、腕に嫌な鳥肌が立つ。
有り得ないはずの疑い。脳内に浮かんでしまったそれに突き動かされるように、僕の足は食堂に向かって進み始めた。「觜也……」と後方から僕を呼び掛ける舞游の声も、彼女もまた僕と同じ疑念を抱いて混乱していることを物語っている。
ピアノの音は確かに食堂の中から洩れてきている。あのグランドピアノを誰かが弾いているのだ。こんなにもよどみなく、綺麗な音色で『大地の歌』を……。
食堂の正面までやって来て、僕の緊張は頂点に達する。これから解放されるためには、早く自分の疑いが杞憂だったと知るしかない。僕は固唾を飲んで、食堂の扉を開いた。
しかし杞憂には、終わらなかった。
ピアノを弾く杏味ちゃんの姿がそこにはあった。
「杏味ちゃん!」
僕は怒鳴っていた。その声で僕に気付いたらしく、杏味ちゃんは演奏を中断し、水を差されてさぞ不愉快といった表情を浮かべてこちらを見た。だが彼女の心情に気を配っていられる余裕なんてものが、いまの僕にあるわけがない。
「どういうことだ! ど、どういうことか説明してくれ!」
杏味ちゃんに詰め寄る。しかし彼女は動じず、作り物めいた相貌を見せるだけだ。けれどこの彼女が人形ということはない。生きている。本物の、正真正銘の巻譲杏味――いまは浴室で湯に浸かっているはずの巻譲杏味、その人なのだ。
「どうして君が二人いる!」
二人いる。生きている彼女が現在、別々の場所に別個に存在している。杏味ちゃんは確実にまだ浴室の中にいなければならない。僕と舞游は彼女より先に浴室を出て、脱衣所で抜かされもしなかった。屋敷の一階はほとんど雪に埋まっているため、僕らが脱衣所にいる間に外を回ることもできない。いますぐに引き返しでもすれば、まだ浴室にいる彼女を見つけられるだろう。なのに、それなのに、此処にも杏味ちゃんがいる。杏味ちゃんが湯に浸かっている間、別の杏味ちゃんがピアノを弾いていたのだ。
アフガン・バンド・トリックによって、僕以外の皆はこの屋敷に到着した瞬間から二人に分岐した。それはもはや否定できない。僕も受け入れたことである。しかし、その片方は既に殺されたのだ。だからいまはもう皆、ひとりずつしか生存していない。ではこうして生きている杏味ちゃんが二人いるのはどうしてだ? これじゃあ、死体と合わせて三人の巻譲杏味がいることになってしまうではないか……。
「まさか……また、やったのか? 僕の知らない間に、君はまた殺され、身体を縦に切断されたのか?」
「ご名答ですわ」
さして感心するふうでもなく、杏味ちゃんは平然と答えた。
北館の浴室は南館の浴場と比べると数段手狭だったが、それでも二人で窮屈するようなそれではなかった。しかし洗い場はひとつしかなかったので、まず舞游に使わせてから僕が使うことになった。よっていまは僕が洗い場で身体を洗っており、舞游はジェットバスで泡風呂を楽しんでいる。
「私の身体って貧相だと思う?」
出し抜けに舞游がそんな質問をしてきた。
「知らないよ。女子の平均的な身体つきも知らないし、お前の身体つきだって知らない」
「さっきまで観察してたんじゃなかったの?」
「するわけないだろ。なんだ、コンプレックスでもあるのか?」
「別にー。でも霧余さんを見てるとちょっと惨めにはなるよ」
そう云えば舞游は初日の晩に霧余さんと入浴を共にしたのだったか。
「あの人は特別なんじゃないか。大人だし……ああ、でも舞游の歳でも成長はほとんど終わってるのか」
そのとき、ふと脳裏によぎったのは、霧余さんの切断された死体の映像だった。あれで僕は彼女の裸体を目にしたことがあるとは云えるわけで、そこから連想してしまったのだ。それに舞游の死体も……。少し気分が悪くなったけれど、悟られたくないので舞游から顔を背ける。
「觜也は……普通だね。中肉中背で」
「じろじろ見るな」
腰にはタオルを巻いているけれど、それでもあまり観察されたいものではない。舞游はわざと舐めるような視線を向けてくるので尚更だ。
「身体つきはどうでもいいけど、身長だったら僕も有寨さんと並ぶとなんとも云えない気持ちになるよ」
「お兄ちゃんは昔から高かったね。どうして妹の私が平凡な身長に落ち着いたのか、ちょっと納得がいかない」
僕は改めて舞游を見た。彼女は胸元から上(当然身体にタオルを巻いている)を浴槽から出し、ふちに両肘をつけて頬杖としている。手首の傷が文字のように見える。
「ん、どうしたの?」
「いや……舞游は顔も有寨さんとあまり似てないな」
濡れた髪を後ろに流しているので普段よりも顔全体がよく見えるが、男女の違いはあれども、兄妹ならもう少し似ていてもいいのではと思った。二人とも目鼻立ちが整っているのは共通しているけれど、有寨さんが大人っぽい美形であるのに対して舞游は幼さのある可憐なそれという感じで、タイプは別だ。
「よく云われたよ、それ。強いて理由をあげるなら、異母兄妹だからかな、やっぱり」
「ああ……そういうことか」
舞游が物心ついたころには、離婚によって既に馘杜家に母親はいなかったらしい。さらにそれが舞游の父親にとって再婚の相手であったとも聞いている。詳しい事情については僕も訊かなかったので知らないけれど、有寨さんはひとり目の妻との子供であり、舞游は二人目の妻とのそれであったという話なのだろう。
他に聞いたのは、父親は仕事であまり家にいなかったために主に有寨さんが家事全般をこなして舞游の面倒も見ていたということ。さらにその有寨さんも高校入学と同時に自分が大学に進むための資金を貯める目的でアルバイトを始めたので、舞游は完全にひとりきりになってしまった。
……いや、いまなら分かるけれど、有寨さんが面倒を見てくれていたときだって彼女は決して幸福ではなかったのだろう。険悪な仲の兄妹ではないけれど、舞游は内心では兄に対して恐れを抱いているし、有寨さんだって自分の理想のために妹に人を殺してさらに人から殺されることを強制するような人物である……そして大した説明も受けないままに従ってしまう舞游……この二人の関係はとても尋常ではない。きっと両親の目というものがなかったからこそ、有寨さんは舞游を云わば自分の傀儡のように扱えるようになったのだ。
家庭環境がこれでは、舞游が突飛な言動を取らなければ自分の存在を確立できないと考え、ある種の奇行に傾倒していったとしても無理はない。むしろ真っ当とさえ云えるだろう。つまるところ、これこそが馘杜舞游のバックグラウンドだった。
「……で、僕はこのまま入っていいのか?」
「いいよ。結構広いし、遠慮はいらないよ」
身体を洗い終えた僕は、舞游と同じ浴槽に入った。お互いタオルを巻いているとはいえ、泡風呂なのは幸いだった。
端と端に、向かい合うように座る僕と舞游。広いとは云ってもこの体勢だと互いの足が湯の中で接する。すると舞游はニヤニヤしながら僕の脛を自分の足の指でくすぐるようにしてきた。反応したら負けと思って、僕はなにも云わないことにした。
だがこうして一度黙ってしまうと、この状況が予想以上に気まずいものであると知った。異性の友達と同じ湯に浸かって向かい合っているのだから当然だ。舞游も不意にそれを意識させられたのか、僕と同じく黙ってしまった。無言で見詰め合う奇妙な時間が続く。ジェットバスの湯を噴出する機能はいまは止めてあるので、水の滴る音と、外の吹雪が屋敷を震わす音だけが変に浮いた感じに聞こえている。
友達……。そう、僕と舞游の関係はあくまでも友達だ。二人で口にしてそう決めたのだし、以降ずっと友達として一緒に過ごしてきた。だがそれが、特にこの環楽園での数日間のうちに変容しつつあるとは、僕だけでなく、彼女も感じているだろう。僕と彼女は互いを愛している……と云うと気恥ずかしいけれど、好きであるということを云い合ったし、キスも交わした。もうただの友達というのはそぐわない。
しかし、ならば恋人か? それも違う気がする。僕と彼女の関係が恋人と形容されるのは、なんだか居心地が悪い。それに今更という感もある。今更、友達という関係を恋人という関係に進めるのは、むしろ関係性を安易なものに落とすことにしかならない気がする。
では、なんと呼ぶのが正しいのだろう。友達でも恋人でもないと云うなら、僕と舞游はなんという関係で繋がっている?
そのとき、浴室の扉がいきなり開けられた。
「もしかして邪魔してしまいましたでしょうか」
僕は驚き、それから慌てて目を逸らした。一糸纏わぬ姿の杏味ちゃんが浴室に、しかも堂々と這入ってきたのだ。
「僕らが這入ってるのは分かったはずだけど?」
脱衣所に脱いだ衣服や着替えが置かれているのだから。
「ええ、分かりましたわ。ですが私は他人に見られて恥ずかしいような身体はしていませんので、特に不都合は感じませんでしたの」
気品溢れる佇まいの杏味ちゃんだけれど、乙女らしい奥ゆかしさや恥じらいといったようなものとは無縁らしかった。これまでの彼女の行動を思い返してみれば、たしかに頷けなくはない。
「でも杏味ちゃんの身体つきって結構幼くない?」
舞游の無遠慮な質問に眉を顰める杏味ちゃんの顔が、見てはいないけれど容易に想像できる。
「不必要にいやらしかったり、だらしなかったりするより格段に良いですわ」
澄ましたふうに答えてはいるが、少しむきになっているのが分かった。こういうところはまだ十六歳の女の子らしい。
かなり意表を衝かれたのは確かだけれど、僕は同時に、内心で杏味ちゃんに感謝していた。彼女は邪魔をしてしまったかと訊いたが、気まずい雰囲気になっているところに彼女が登場してくれたのは助け舟に他ならなかったからだ。
裸の女子が二人いるところに長居するのも躊躇われて、僕はその後すぐに浴室から出た。
6/8
寝間着に着替えた僕と舞游は揃って廊下に出たが、するとどこかからピアノの演奏が聞こえてくるのに気付いた。三度目ともなるとさすがに憶えており、それが『大地の歌』だとすぐに分かる。
と、その瞬間、僕は足もとからゾクゾクゾクッと全身を戦慄が駆け抜けていくのを感じた。心臓の鼓動が不穏に早まり、腕に嫌な鳥肌が立つ。
有り得ないはずの疑い。脳内に浮かんでしまったそれに突き動かされるように、僕の足は食堂に向かって進み始めた。「觜也……」と後方から僕を呼び掛ける舞游の声も、彼女もまた僕と同じ疑念を抱いて混乱していることを物語っている。
ピアノの音は確かに食堂の中から洩れてきている。あのグランドピアノを誰かが弾いているのだ。こんなにもよどみなく、綺麗な音色で『大地の歌』を……。
食堂の正面までやって来て、僕の緊張は頂点に達する。これから解放されるためには、早く自分の疑いが杞憂だったと知るしかない。僕は固唾を飲んで、食堂の扉を開いた。
しかし杞憂には、終わらなかった。
ピアノを弾く杏味ちゃんの姿がそこにはあった。
「杏味ちゃん!」
僕は怒鳴っていた。その声で僕に気付いたらしく、杏味ちゃんは演奏を中断し、水を差されてさぞ不愉快といった表情を浮かべてこちらを見た。だが彼女の心情に気を配っていられる余裕なんてものが、いまの僕にあるわけがない。
「どういうことだ! ど、どういうことか説明してくれ!」
杏味ちゃんに詰め寄る。しかし彼女は動じず、作り物めいた相貌を見せるだけだ。けれどこの彼女が人形ということはない。生きている。本物の、正真正銘の巻譲杏味――いまは浴室で湯に浸かっているはずの巻譲杏味、その人なのだ。
「どうして君が二人いる!」
二人いる。生きている彼女が現在、別々の場所に別個に存在している。杏味ちゃんは確実にまだ浴室の中にいなければならない。僕と舞游は彼女より先に浴室を出て、脱衣所で抜かされもしなかった。屋敷の一階はほとんど雪に埋まっているため、僕らが脱衣所にいる間に外を回ることもできない。いますぐに引き返しでもすれば、まだ浴室にいる彼女を見つけられるだろう。なのに、それなのに、此処にも杏味ちゃんがいる。杏味ちゃんが湯に浸かっている間、別の杏味ちゃんがピアノを弾いていたのだ。
アフガン・バンド・トリックによって、僕以外の皆はこの屋敷に到着した瞬間から二人に分岐した。それはもはや否定できない。僕も受け入れたことである。しかし、その片方は既に殺されたのだ。だからいまはもう皆、ひとりずつしか生存していない。ではこうして生きている杏味ちゃんが二人いるのはどうしてだ? これじゃあ、死体と合わせて三人の巻譲杏味がいることになってしまうではないか……。
「まさか……また、やったのか? 僕の知らない間に、君はまた殺され、身体を縦に切断されたのか?」
「ご名答ですわ」
さして感心するふうでもなく、杏味ちゃんは平然と答えた。
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