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序章:福音
2「のちに神となる人々」
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2
年の終わりが迫るにつれて世間が慌ただしさを増していくなか、学生である僕らは一足先に冬休みに入った。クリスマスが終了しての十二月二十六日、僕と舞游は新幹線に乗って都心の駅までやって来ていた。
「思いの外、なんにもないね。ビルはやたら高いけど」
迷路のような駅構内に苦戦しながらもどうにか外に出られて、舞游がまばらに建った高層ビル群を見上げつつ述べた感想はそんなものだった。約束の午前十一時まではあと五分ほどある。
「こっち側は皇居のある方だしな、落ち着いてるんだろ。舞游はあまり来たことないのか?」
「小さいころにパパの運転する車で何度か来たことはあったと思うけど、よくは憶えてないかな。この辺には来なかったと思うし」
そんなところだろうと察しはついていた。彼女は新幹線の利用の仕方すらよく分かっていなかったので、ここまでの道中も全面的に僕が面倒を見てきたところである。僕だって慣れているわけではなかったし、都心に子供だけで来るのは初めてだが。
「んー、寒いなー」
効果があるのか怪しいけれど、舞游はその場で小さくピョンピョンと跳ねている。彼女は学校の制服の上から赤いダッフルコートを羽織っていた。曰く「私服の持ち合わせがあんまりないから、初日はこれでいいかって思ってさ」とのことである。
「これからもっと寒い場所に行くんだろ。その別荘、夏は避暑地で良いだろうけど、冬にわざわざ過ごそうってのはやっぱり相当おかしいよな」
「良いじゃん良いじゃん、通例に反旗を翻す感じ」
「僕はお前ほどひねくれ者じゃない。……まあ、これから会う三人はきっとお前寄りなんだろうけど」
「お兄ちゃんは私よりぶっち切ってるよ。他の二人もお兄ちゃんと親しくなれる以上、尋常な人格じゃないだろうね」
変わり者は舞游ひとりで充分なのだが……先が思いやられる話だ。
雑談をしているうちに、僕らの目の前に一台の車が停まった。白のワンボックスカーである。運転席から下りてきた男性を見た舞游は右手をぶんぶん振り回して「お兄ちゃん、久しぶり!」と云った。待ち合わせは上手くいったようだ。
「やあ、舞游。髪がだいぶ伸びて、女の子らしくなったね」
背の高い人だった。百八十センチはあるだろう。藍色のコートがよく似合っている。黒い髪にはゆるいパーマをかけていて、端正な顔つきは中性的。挙動や口調は流れるようで、想像していたよりもずっと爽やかな雰囲気をまとっていた。舞游だって容姿は優良な方だが、まさかお兄さんがここまで格好良い人だったとは……。
名前は聞いている。馘杜有寨。
有寨さんは僕に目を向けると、ニヤニヤと笑った。これも嫌らしい感じではなく、やはりどこまでも自然だ。
「結鷺觜也くんだね。舞游から話は聞いているよ。今回はよく来てくれた。まず礼を述べておこう」
「いえ、そんな。こちらこそ、しばらくお世話になります」
軽く頭を下げると、隣で舞游が「うわ、觜也、私といるときと全然違う!」なんて余計な言葉を発した。……相手は三つも年上なんだから当然だろ。
「はは、そう堅くならないでも結構だよ。四日間生活を共にするんだ、その調子じゃお互い息が詰まる」
有寨さんは車のトランクを開けた。
「さあ、こんなところで話していても始まらない。早速出発しよう。荷物はここに入れてくれ」
僕と舞游は指示どおりに荷物を収め、車の後部座席に乗り込んだ。舞游が運転席の後ろ、僕が助手席の後ろである。助手席には既に女性が座っていて、こちらに振り向くと「私が霧余。よろしくね」と云った。
華際霧余。有寨さんの恋人らしい。ボブカットの黒髪、切れ長の目、高い鼻、微笑を浮かべた口元、どこか蠱惑的な化粧。有寨さんと同じ二十歳だというが、それ以上に大人びた印象である。パリッと乾いた白シャツを着ており、肩には黒の革ジャンをかけている。
「わあ、写真で見るよりさらに美人さん」
舞游が感心したように洩らすと、霧余さんはくすりと笑った。
「貴女もキュートよ」
舞游は得意そうな顔を僕に向けて「私、キュートだって」と自分を指差した。云われなくても聞いてたよ。
車が発進した。
「これから最後のひとり、杏味を迎えに行かなきゃならない。彼女を拾って初めて役者が揃うわけだ」
有寨さんの運転は安定していた。舞游から散々、有寨さんは変人と聞かされていたけれど、いまのところはいたって普通、それどころかかなりしっかりしている。会ったばかりで判断するのは早計かも知れないが、現時点では彼が舞游を凌いで『ぶっち切って』いるとは想像もつかない。となると、舞游はいたずらに僕の不安を煽って楽しんでいただけなのだろうか。当の彼女は運転席と助手席の間から顔を出して、
「ねえ霧余さん、お兄ちゃんと付き合ってて楽しい?」
えらく無遠慮な質問をぶつけている。霧余さんの方はそれでも動揺したところはなく「そうね。貴女のお兄さんは素敵よ」と答えた。大人の余裕というのもあるだろうが、元来が飄々とした性格らしい。しかし彼女も彼女で、やはり奇人と呼ぶまではいかないふうに思われる。
「貴女の彼の方はどうなの?」
霧余さんの切り返しにより、突如として僕が話題の対象とされた。
「觜也? あは、彼だなんて」
「あら、違うの?」
霧余さんは僕に視線を投じた。「友達ですよ」と答える。
「それに觜也を素敵とは逆立ちしたって云えないからなー。觜也って根暗だし根性なしだしユーモアが分からないしニヒリストだしクールぶってるくせにどっか抜けてるとこあるし友達甲斐もないしダメダメだもん」
「でも好きなんでしょう?」
「え?」
舞游は虚を衝かれたように間抜けな声をあげ、それから「んー」と首を傾げた。
「そりゃあ好きだけど。友達だし」
「その友達というのだって、今後どう変わるかは分からないわよ。もっとも……」
霧余さんは含みありげに微笑んだ。
「永遠に変わらないものだって、あるけれどね」
巻譲杏味ちゃんの家は豪邸だった。いわゆる高級住宅街の中にあって、それでもひときわ立派であった。有寨さんがインターホンを押して五分ほど経った後に正門から現れたのはいかにも上等そうな毛皮のコートを着た女の子と、その母親らしき綺麗な女性。もうひとり恰幅の良い中年女性がいるが、この人はお手伝いさんなのだろう、荷物を抱えているのも彼女だった。
「お人形さんみたいな子だね」
舞游が僕の膝に乗り上げて窓に顔をつけ、女の子を眺めている。彼女の云うとおり、女の子――杏味ちゃんはいささか作り物めいた感すらある、見るからに生粋のお嬢様だった。佇まいからして育ちの良さを窺わせる清潔さがあって、笑うときにさりげなく手を口元にあてる仕草ひとつ取っても優雅である。
「私はあの子には嫌われているみたいなのよね」
霧余さんが呟くように云った。
「そうなの? どうして?」
「前に一度だけ会ったのだけれど、はじめから好感は持たれていなかったわ。私の性格がどうこうというより、有寨の恋人だってポジションを面白く思ってないんでしょうね。いずれにせよ、難しい子よ。気を付けるといいわ」
杏味ちゃんは現在高校一年生で僕と舞游よりひとつ下ということだが、僕らのような一般庶民があのひと目で高貴な身分と分かる女の子にどう接したら良いかというのはたしかに難しい。舞游はきっとなにも気にせず、四日間で数えきれないほどの粗相を起こしそうだが。
杏味ちゃんと彼女の母親と有寨さんはしばらく正門の前で話していた。いい加減に舞游が退屈退屈とうるさくなってきたころにようやく母親とお手伝いさんは家の中へ戻っていき、荷物を受け取った有寨さんと杏味ちゃんが車にやって来た。
扉が開かれ、僕は杏味ちゃんが座れるように奥に詰める。彼女は僕と、僕越しに舞游とを一瞥、さらに霧余さんを見てから再度僕に目を向けるとぺこりと頭を下げた。
「巻譲杏味です。よろしくお願いしますわ」
嘲笑でもされるのではと思っていたが、考えてみればしっかりとした教育を受けているに違いない彼女がそんな礼を失した真似をするはずもなかった。霧余さんが嫌われているみたいだと云ったのだって、面と向かってそう告げられたのではないだろう。
僕も自己紹介を返そうとしたが、それは舞游の「おお、絵に描いたようなお嬢様だ」という失礼極まりないひと言に遮られた。
杏味ちゃんは少し眉を顰めつつ、コートを脱いで綺麗に畳み、僕の隣に座った。コートの下には可愛らしいふりふりのついた割合子供っぽい服を着ていた。間近で見ると、ほど良く肉のついた腕や脚は透き通るように白い。腰のあたりまで伸びた痛みとは無縁そうな黒い髪といい、背中に針金でも入れているのかと疑うほどに綺麗な姿勢といい、苺等の果実を連想させる小さな唇といい、長い睫毛といい、本当に人形のようである。
「なにか?」
僕が矯めつ眇めつしているのを不審に思ったのか、杏味ちゃんは怪訝そうに見上げてきた。
「いや、なんでも。僕は結鷺觜也。今回は君の別荘にお邪魔させてもらうわけだけど、何卒よろしく」
「正しくはお爺様の別荘です。私が所有者のように振る舞うのはお門違いとなりますわ」
舞游がそこで「お金持ちなんだねー。どんな悪いことしてるの?」と問い掛け、杏味ちゃんはまたしても眉を顰めた。こんなに非常識な人間を見るのはもしかして初めてなんじゃないだろうか。
舞游の質問には再び車を発進させた有寨さんが答えた。彼はこの国に住む人なら誰でも知っている大企業の名前を述べ、その前社長が杏味ちゃんの祖父であり、現社長が叔父、杏味ちゃんの父親も幹部のひとりなのだと話した。想像を遥かに上回る事実に、僕はにわかに緊張した。そんな大人物と関わることになるなんて聞いていない。舞游もいままで知らなかったらしく「すごいなあ」なんて呑気に云っている。
「よくお兄ちゃんみたいなのが家庭教師なんてできたね」
「身にあまる話だよ。別荘を貸してくれるというのも、願ってもないご厚意だ。甘えさせてもらうことにはしたが、はじめ聞いたときは萎縮してしまった」
杏味ちゃんが「ご謙遜を」を割り込んだ。
「私の先生は有寨先生以外に有り得ませんでしたわ。私の方こそ、先生と出逢えたのは僥倖でした。今回のこともほんの恩返しのひとつでしかありません」
……なんだろうか。僕はこのとき、なにかうすら寒いものを感じた。しかしその正体が分からないうちに、舞游の「環楽園も立派なお屋敷なの?」という声で不穏な思考は断ち切られた。
「俺と霧余は下見を済ませてあるが、立派だよ。この人数では持て余してしまうだろうな」
「その環楽園というのは有寨さんの命名と聞いたんですけど、外見にちなんでいたりするんですか? たとえば敷地が円状であるとか」
気になっていたことを訊いてみた。
「そうだね。構造が環状であるから、そこから取っている」
「環状……と云うと建物がドーナツ型なんですか?」
霧余さんがくすくすと笑った。
「そんなユニークじゃないわよ。形はそうね、――の形をしているわ」
肝心なところがよく聞き取れなかった。だがそれで訊き返そうとしたところで「すぐ分かるわよ、結鷺くんにも」と云われてしまい、その話はそれきりとなった。
年の終わりが迫るにつれて世間が慌ただしさを増していくなか、学生である僕らは一足先に冬休みに入った。クリスマスが終了しての十二月二十六日、僕と舞游は新幹線に乗って都心の駅までやって来ていた。
「思いの外、なんにもないね。ビルはやたら高いけど」
迷路のような駅構内に苦戦しながらもどうにか外に出られて、舞游がまばらに建った高層ビル群を見上げつつ述べた感想はそんなものだった。約束の午前十一時まではあと五分ほどある。
「こっち側は皇居のある方だしな、落ち着いてるんだろ。舞游はあまり来たことないのか?」
「小さいころにパパの運転する車で何度か来たことはあったと思うけど、よくは憶えてないかな。この辺には来なかったと思うし」
そんなところだろうと察しはついていた。彼女は新幹線の利用の仕方すらよく分かっていなかったので、ここまでの道中も全面的に僕が面倒を見てきたところである。僕だって慣れているわけではなかったし、都心に子供だけで来るのは初めてだが。
「んー、寒いなー」
効果があるのか怪しいけれど、舞游はその場で小さくピョンピョンと跳ねている。彼女は学校の制服の上から赤いダッフルコートを羽織っていた。曰く「私服の持ち合わせがあんまりないから、初日はこれでいいかって思ってさ」とのことである。
「これからもっと寒い場所に行くんだろ。その別荘、夏は避暑地で良いだろうけど、冬にわざわざ過ごそうってのはやっぱり相当おかしいよな」
「良いじゃん良いじゃん、通例に反旗を翻す感じ」
「僕はお前ほどひねくれ者じゃない。……まあ、これから会う三人はきっとお前寄りなんだろうけど」
「お兄ちゃんは私よりぶっち切ってるよ。他の二人もお兄ちゃんと親しくなれる以上、尋常な人格じゃないだろうね」
変わり者は舞游ひとりで充分なのだが……先が思いやられる話だ。
雑談をしているうちに、僕らの目の前に一台の車が停まった。白のワンボックスカーである。運転席から下りてきた男性を見た舞游は右手をぶんぶん振り回して「お兄ちゃん、久しぶり!」と云った。待ち合わせは上手くいったようだ。
「やあ、舞游。髪がだいぶ伸びて、女の子らしくなったね」
背の高い人だった。百八十センチはあるだろう。藍色のコートがよく似合っている。黒い髪にはゆるいパーマをかけていて、端正な顔つきは中性的。挙動や口調は流れるようで、想像していたよりもずっと爽やかな雰囲気をまとっていた。舞游だって容姿は優良な方だが、まさかお兄さんがここまで格好良い人だったとは……。
名前は聞いている。馘杜有寨。
有寨さんは僕に目を向けると、ニヤニヤと笑った。これも嫌らしい感じではなく、やはりどこまでも自然だ。
「結鷺觜也くんだね。舞游から話は聞いているよ。今回はよく来てくれた。まず礼を述べておこう」
「いえ、そんな。こちらこそ、しばらくお世話になります」
軽く頭を下げると、隣で舞游が「うわ、觜也、私といるときと全然違う!」なんて余計な言葉を発した。……相手は三つも年上なんだから当然だろ。
「はは、そう堅くならないでも結構だよ。四日間生活を共にするんだ、その調子じゃお互い息が詰まる」
有寨さんは車のトランクを開けた。
「さあ、こんなところで話していても始まらない。早速出発しよう。荷物はここに入れてくれ」
僕と舞游は指示どおりに荷物を収め、車の後部座席に乗り込んだ。舞游が運転席の後ろ、僕が助手席の後ろである。助手席には既に女性が座っていて、こちらに振り向くと「私が霧余。よろしくね」と云った。
華際霧余。有寨さんの恋人らしい。ボブカットの黒髪、切れ長の目、高い鼻、微笑を浮かべた口元、どこか蠱惑的な化粧。有寨さんと同じ二十歳だというが、それ以上に大人びた印象である。パリッと乾いた白シャツを着ており、肩には黒の革ジャンをかけている。
「わあ、写真で見るよりさらに美人さん」
舞游が感心したように洩らすと、霧余さんはくすりと笑った。
「貴女もキュートよ」
舞游は得意そうな顔を僕に向けて「私、キュートだって」と自分を指差した。云われなくても聞いてたよ。
車が発進した。
「これから最後のひとり、杏味を迎えに行かなきゃならない。彼女を拾って初めて役者が揃うわけだ」
有寨さんの運転は安定していた。舞游から散々、有寨さんは変人と聞かされていたけれど、いまのところはいたって普通、それどころかかなりしっかりしている。会ったばかりで判断するのは早計かも知れないが、現時点では彼が舞游を凌いで『ぶっち切って』いるとは想像もつかない。となると、舞游はいたずらに僕の不安を煽って楽しんでいただけなのだろうか。当の彼女は運転席と助手席の間から顔を出して、
「ねえ霧余さん、お兄ちゃんと付き合ってて楽しい?」
えらく無遠慮な質問をぶつけている。霧余さんの方はそれでも動揺したところはなく「そうね。貴女のお兄さんは素敵よ」と答えた。大人の余裕というのもあるだろうが、元来が飄々とした性格らしい。しかし彼女も彼女で、やはり奇人と呼ぶまではいかないふうに思われる。
「貴女の彼の方はどうなの?」
霧余さんの切り返しにより、突如として僕が話題の対象とされた。
「觜也? あは、彼だなんて」
「あら、違うの?」
霧余さんは僕に視線を投じた。「友達ですよ」と答える。
「それに觜也を素敵とは逆立ちしたって云えないからなー。觜也って根暗だし根性なしだしユーモアが分からないしニヒリストだしクールぶってるくせにどっか抜けてるとこあるし友達甲斐もないしダメダメだもん」
「でも好きなんでしょう?」
「え?」
舞游は虚を衝かれたように間抜けな声をあげ、それから「んー」と首を傾げた。
「そりゃあ好きだけど。友達だし」
「その友達というのだって、今後どう変わるかは分からないわよ。もっとも……」
霧余さんは含みありげに微笑んだ。
「永遠に変わらないものだって、あるけれどね」
巻譲杏味ちゃんの家は豪邸だった。いわゆる高級住宅街の中にあって、それでもひときわ立派であった。有寨さんがインターホンを押して五分ほど経った後に正門から現れたのはいかにも上等そうな毛皮のコートを着た女の子と、その母親らしき綺麗な女性。もうひとり恰幅の良い中年女性がいるが、この人はお手伝いさんなのだろう、荷物を抱えているのも彼女だった。
「お人形さんみたいな子だね」
舞游が僕の膝に乗り上げて窓に顔をつけ、女の子を眺めている。彼女の云うとおり、女の子――杏味ちゃんはいささか作り物めいた感すらある、見るからに生粋のお嬢様だった。佇まいからして育ちの良さを窺わせる清潔さがあって、笑うときにさりげなく手を口元にあてる仕草ひとつ取っても優雅である。
「私はあの子には嫌われているみたいなのよね」
霧余さんが呟くように云った。
「そうなの? どうして?」
「前に一度だけ会ったのだけれど、はじめから好感は持たれていなかったわ。私の性格がどうこうというより、有寨の恋人だってポジションを面白く思ってないんでしょうね。いずれにせよ、難しい子よ。気を付けるといいわ」
杏味ちゃんは現在高校一年生で僕と舞游よりひとつ下ということだが、僕らのような一般庶民があのひと目で高貴な身分と分かる女の子にどう接したら良いかというのはたしかに難しい。舞游はきっとなにも気にせず、四日間で数えきれないほどの粗相を起こしそうだが。
杏味ちゃんと彼女の母親と有寨さんはしばらく正門の前で話していた。いい加減に舞游が退屈退屈とうるさくなってきたころにようやく母親とお手伝いさんは家の中へ戻っていき、荷物を受け取った有寨さんと杏味ちゃんが車にやって来た。
扉が開かれ、僕は杏味ちゃんが座れるように奥に詰める。彼女は僕と、僕越しに舞游とを一瞥、さらに霧余さんを見てから再度僕に目を向けるとぺこりと頭を下げた。
「巻譲杏味です。よろしくお願いしますわ」
嘲笑でもされるのではと思っていたが、考えてみればしっかりとした教育を受けているに違いない彼女がそんな礼を失した真似をするはずもなかった。霧余さんが嫌われているみたいだと云ったのだって、面と向かってそう告げられたのではないだろう。
僕も自己紹介を返そうとしたが、それは舞游の「おお、絵に描いたようなお嬢様だ」という失礼極まりないひと言に遮られた。
杏味ちゃんは少し眉を顰めつつ、コートを脱いで綺麗に畳み、僕の隣に座った。コートの下には可愛らしいふりふりのついた割合子供っぽい服を着ていた。間近で見ると、ほど良く肉のついた腕や脚は透き通るように白い。腰のあたりまで伸びた痛みとは無縁そうな黒い髪といい、背中に針金でも入れているのかと疑うほどに綺麗な姿勢といい、苺等の果実を連想させる小さな唇といい、長い睫毛といい、本当に人形のようである。
「なにか?」
僕が矯めつ眇めつしているのを不審に思ったのか、杏味ちゃんは怪訝そうに見上げてきた。
「いや、なんでも。僕は結鷺觜也。今回は君の別荘にお邪魔させてもらうわけだけど、何卒よろしく」
「正しくはお爺様の別荘です。私が所有者のように振る舞うのはお門違いとなりますわ」
舞游がそこで「お金持ちなんだねー。どんな悪いことしてるの?」と問い掛け、杏味ちゃんはまたしても眉を顰めた。こんなに非常識な人間を見るのはもしかして初めてなんじゃないだろうか。
舞游の質問には再び車を発進させた有寨さんが答えた。彼はこの国に住む人なら誰でも知っている大企業の名前を述べ、その前社長が杏味ちゃんの祖父であり、現社長が叔父、杏味ちゃんの父親も幹部のひとりなのだと話した。想像を遥かに上回る事実に、僕はにわかに緊張した。そんな大人物と関わることになるなんて聞いていない。舞游もいままで知らなかったらしく「すごいなあ」なんて呑気に云っている。
「よくお兄ちゃんみたいなのが家庭教師なんてできたね」
「身にあまる話だよ。別荘を貸してくれるというのも、願ってもないご厚意だ。甘えさせてもらうことにはしたが、はじめ聞いたときは萎縮してしまった」
杏味ちゃんが「ご謙遜を」を割り込んだ。
「私の先生は有寨先生以外に有り得ませんでしたわ。私の方こそ、先生と出逢えたのは僥倖でした。今回のこともほんの恩返しのひとつでしかありません」
……なんだろうか。僕はこのとき、なにかうすら寒いものを感じた。しかしその正体が分からないうちに、舞游の「環楽園も立派なお屋敷なの?」という声で不穏な思考は断ち切られた。
「俺と霧余は下見を済ませてあるが、立派だよ。この人数では持て余してしまうだろうな」
「その環楽園というのは有寨さんの命名と聞いたんですけど、外見にちなんでいたりするんですか? たとえば敷地が円状であるとか」
気になっていたことを訊いてみた。
「そうだね。構造が環状であるから、そこから取っている」
「環状……と云うと建物がドーナツ型なんですか?」
霧余さんがくすくすと笑った。
「そんなユニークじゃないわよ。形はそうね、――の形をしているわ」
肝心なところがよく聞き取れなかった。だがそれで訊き返そうとしたところで「すぐ分かるわよ、結鷺くんにも」と云われてしまい、その話はそれきりとなった。
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