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Alice from Hell
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割れた頭を戻してあげよう
ーーーー流れた血は戻らない
閉じた瞼を開いてみせよう
ーーーー赤く染まった瞳はそのままに
まだ夢を見ることはできる
ーーーー喪われたものは還らないが
道化となって地獄から唯一つの希望を待ち続けよう
目が覚める。
上体を起こす。
見下ろすと、体がある筈の辺りに朧げな影が何も無い空間に漂っていた。
少しの間、何が起きているのか分からなくて思考が止まった。
ただ現在の状況と考え得る最後の記憶が繋がった時、「ああ、やっと出来たんだ」と息をついた。実際には息をついたつもりで口元辺りの黒い靄がすぅと辺りを燻って霧散する。
自分が置かれた世界を段々と知覚する。何も無い、としか言いようがない領域に、落ちることも浮かぶことも無くただそこに在るだけだ。
何も触れるものが無い。否、何かあったところで感覚はあるのだろうか。このままここに在り続けるのかと思うと、いつか気がおかしくなるのを想像して恐怖心が湧いてくる。
だがここであれば自分によって何かが傷つけられることも壊されることも無い。
そう思うと悲しみと安心が胸中を襲ってきて耐えられず涙がホトホトと落ちていった。実際には黒い靄が震えて雫らしき形状の何かが上とも横とも取れない方向へ消えていくだけだったが。
(良かった。これで良かった。やっと正解を引けた。)
誰もが幸せになる選択だった。
自分の死を知って安心と幸福に綻ぶ人々の顔が浮かぶ。
否、あるいは自分が消えた程度では何も変わらないかもしれない。ただ自分によって生まれていた歪みはもう生まれない。今後一切ない。
良かった。
願わくばこのまま彼岸に溶けて存在が消えたい。それが終わりなのだとしたらーーどれだけーー
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今聴覚に届いたものが何なのか理解が追いつかない。
電子音のようだった。
無の中に音波が現れしばらく鳴り続けたかと思うと、やがて消えていた。
それが止むと、静寂が来る間もなく今度は別のものが自分の意識の表層を揺すり始めた。
揺蕩うだけの意識に何かが訴えかける。それは「起きろ。起きろ」と自分に促しているように感じられた。
だが理解できない。
何故。ここには何も無い。誰が。何を求めているのか。
ただその何かは死とか消滅とかではなく、自分に何らかの行動を起こす事を要求していた。
理解できないノイズが意識の上を走っては思考が混乱させられる中、それだけは直感で悟った。その概念的な接触が意味を持った言葉になりつつあると同時に、何も無い場所に空間を感じられるようになってきた。
何かは靄である自分に対して言葉の羅列を投げかけてきて、段々とそれは意味のある文の形を取り始めた。
「其の望みを詳らかにし、其の願いを以てこの彼岸を世界たらしめよ。存在を、夢を、陰府の渦中に在らしめよ。現れよ。現れよ。世界を回しただ夢を寿がん。現れよ。現れよ」
自分の思考に別の思考がぶつかってくる。それは意志を持って自分に何かをさせようとする。だがそれは如何に言葉として流れ込んできても悠斗には具体的に何を求めているのか理解できなかった。
『何を言っているか分からない』
「ただ願い。ただ望みを明らかにせよ」
『望みなんて無い。怖い。怖い』
「恐れるものは無い。お前に危害を加えない。お前を攻撃しない。望むなら、お前の思う姿にもなる」
『何を言ってるんだ。お前は何なんだ』
「理解できないのなら、分かりやすいものになってやろう」
何かが光った。何も無い世界で何かがチカチカと明滅した。
それは青い光だった。光は姿を変えてやがて青い猫となった。
『猫だ……」
「そう。己はチェシャ猫という」
悠斗は自分の声が音として聞こえた事に驚いた。チェシャ猫の声も音声として耳に届いている。曖昧模糊とした影はぼんやりとしたまま人型を創り始めていた。
「どうして猫が居るんだ……何だこれは?ここは地獄じゃないのか?」
「その淵に居るようなものだ」
「じゃあもう死んだようなものか」
「故にこれはお前にとって最後の機会だ」
「最後の機会?」
「お前が望みを果たす最後の機会だ」
「だから、望みなんて無いよ。ただここに居れば自ずと地獄に行くんじゃないのか?俺は大人しくそれを待っていたい」
「お前に望みが無いという事は無い」
「俺の何を知ってるって言うんだ。大体お前は何だ?何だか納得しかけたけど、おかしいよな。チェシャ猫ってなんだ?不思議の国のアリスだろ。死の淵に出てくるってことはお前は悪魔みたいなものか?」
「お前、忘れたのか?最期に何を願ったか」
「願った?さいご……」
脊髄反射的に巡らされた真新しい消えかけの記憶の中から1つの可能性が掘り起こされる。暗闇に浮かぶ数多の光。屋上を吹き荒ぶ冬の風。宙に踏み出した浮遊感。そして、最期にーーーー
「どうだ、思い出したか?どうして睨むんだ?」
「何度でも言うけど、俺に望みは無い。あんなのは、望みでも何でも無い」
「そうか」
「俺に何を期待しているか知らないけど俺は何も出来ないよ」
「そうなのか」
「そうだ。強いて望みを言うならもう誰も巻き込みたくない。このまま1人で死にたいだけだ」
「そうか、そうか。まあ」
悠斗はその時違和感を覚えた。胸の内から湧いてくるこの情動は何だ。
最期に何を思ったか。兄に1つ、下らない恨み言を言ってやりたい、と思った。
些末でどうでも良いことだ。何よりもう1ミリ足りとも巻き込みたくはない。だからこそあそこから足を踏み出したとも言える。そうだ、感情が昂るのも頷ける。
第一、どう思ったところで、
兄さんは俺を見たってもう何とも思わないだろうに。
「うっ……はぁっ…………なん、で…………どうして…………」
「まあ、関係ないんだけどな。お前が口でどう言おうと」
ガクン、と何かが身体を通り抜けていく感覚。じりじりと足の先から焼けていく感覚。
身体を見下ろすと、朧げな影ーーではなくて、確かな実体がそこに立っていて、掌が、存在を確かめるように眼前に持ち上げられる。足が大地とは異なる空間を踏み締める。息遣いが耳のすぐ横から聞こえてくる。
「さあ、世界を創造しよう!世界を創ろう!闇と荒野を越えるものよ!現れよ!現れよ!」
チェシャ猫は口角を限界まで引き上げてニンマリと笑った。アリスはそれが何なのかーー悪魔なのかーー天使なのかーー無意味なことに意識を巡らせて、世界の底にへたり込んだ。
「へっへっへ。大丈夫だ。難しく考えることは無い。ただお前の内から世界が投影される。全てを形造り始めている。お前が終わりたいと口で言っても最早大して関係が無い」
「何を言っているんだ?」
「ほら、見ろ!現れるぞ!」
チェシャ猫は高らかに声を上げた。
その時、この領域に何かが生まれた。
まずは2人を囲うように緑の高い壁が世界を破るように現れた。それが押し広げられて出来た空間に、荘厳な白亜の城が建ち上がった。
その城は見た事も無い城だった。
だというのにそれが何を表すのか、悠斗は不思議と瞬時に理解できた。自分のイメージが投影されたと言うのなら、あれは家だ。あの家以外の何物でも無い。悠斗は確信を持って予感できた。
そして同時にその城に棲む者も想像がつく。あの城に棲む者はあの人をおいて他に無い。
否、自分のイメージから生まれるのなら、むしろ自分がそう思った時点でそれは決まったのかもしれない。
その城の正面には重厚な白い扉が佇んでいる。
扉の中心に引かれた縦線が割れて徐々に開いていく。広がっていく隙間から徐々に奥の様子が見えていく。暗い闇の中に鮮明な赤が踊り出す。
その奥からは煌びやかな衣装を纏った赤いドレスの女が姿を現した。
「あ……ああ…………」
その女を悠斗は知っていた。
それは自分が想像した顔と寸分違わない。彼女が自分を見る目も、表情も、次に発される言葉も全て想像がつく。赤い口紅に彩られた唇が開く様がスローモーションに見えた。
「まだ生きているの」
「…………」
「私の事が憎いの?」
「…………」
「お前なんか産まれなければ良かった」
女の右手には箱があった。
トランプの箱だ。
女が箱を開いてバラバラとトランプを捲りばら撒いていく。バラバラと捲られたトランプは宙に飛び出し旋回する。
ハートの6、スペードの4、ダイヤの9、何枚もの舞い上がったトランプ達が目の錯覚のように肥大して手足を生やす。人のような手足と頭を携えてそれらは女と悠斗の間に立ちはだかった。
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「なんなりと御命令を、ハートの女王様」
それは予想外の展開だった。だが納得もできた。これは仕組みだ。裁きを下す者と裁かれるべき者が居て、ハートの女王という形をとったのならば、断罪するための仕組みが生まれるのも必然と言えた。それがトランプ兵という姿を選んだのは城、ハートの女王から連想されたのだろうか。チェシャ猫もアリスの夢の世界のものだった。
ハートの女王の左手にはいつの間にか帳面が握られていた。黒々とした背表紙しか窺えないが、それが何なのか、何が書かれているのか分かる気がした。
閻魔帳という物がある。地獄の裁判官、閻魔様が持つ死者の善悪が記された手帳だ。
想像したことがある。例えばこの世の罪人を記した帳面があるとしたら、間違いなく自分の名が刻まれている。然ながらそれは罪人帳とも言うべきものだ。
「裁きを受けろ。その罪をもって罰を受けろ。罪人だ。罪人は処刑されなさい」
だから自分は罰を受けるのだ。
トランプ兵は悠斗を捕らえた。ハートの女王の手には黒い剣が握られていた。その剣は間近で見ると緩く湾曲していて、1箇所短い爪のある不思議な形をしていた。それが何を示唆しているのか悠斗は何となく察しがついた。黒いハンガーを畳んで握り込むとあんな形になる。それが今は剣の姿をしているのだ。
ハートの女王の前へ引っ立てられた悠斗に向かってその剣が斜めに振り下ろされる。
「ううゔっっ……!」
体に走る痛みが現実的で目が覚めそうになる。しかし世界は変わらない。ここが現実とは思えないがただの贋でも無さそうだ。袈裟懸けに斬られた傷口がじくじく傷んで赤い血が流れ出す。そのまま消滅を受け入れそうになっているとトランプ兵に体を持ち上げられて何処かへと移動させられる。
(どこへ行くっていうんだ…………)
痛みに朦朧とする意識から浮上して目を開けると白亜の壁に囲まれた中庭に居た。庭の中央には四角い木の板で作られた舞台が建っていた。木の階段を上がった舞台上には縄で出来た輪が吊るされている。絞首台だ。
このまま放っておいてくれたって死ねるのに。
ああ、処刑か。
断罪だ。
女王の決めた事に従わなくては。
「おい。いつまでそうしてるんだ」
点々と自分の通った道に赤い筋が続いている。それは一段、一段と登らされる階段の上にも等しく落ちていく。そんな足元より遥か高みから声がする。青いチェシャ猫が宙空に浮いて口元だけを歪めていた。悠斗は見上げてそれを視認する。
「ああ、この為にこんな世界をみているのか俺は。罰を受けるのか。最期まで地獄みたいだ」
「違う違う。おかしいな。イメージが先行しすぎだ。止まれ!止まれ!」
チェシャ猫が両手を広げて叫ぶとトランプ兵達の動きが止まった。絞首台の前に立っていたハートの女王だけは怪訝そうに首を傾げた。
「どうなってるんだ。ちょっと待て」
「はぁっ……なんだ、トラブルでも起きたのか」
「へっへっへ。そうだな。この世界の全権をお前に握らせるのはどうも上手くいかないらしい」
「全権なんて……要らないよ」
「お前の望みは複雑だな。何で意識が別れてるんだ?相反した望みを同時に持つなんて変な奴だな」
「……勝手に変な事を始めて文句を言われても」
「とにかくこのままでは足りない」
「…………」
「この世界を回すための核が決められないんだ。別に用意するしかない」
「……」
「そのためにもっと馴染んでもらう」
チェシャ猫がそう言うと絞首台の上を黒い靄が包んだ。悠斗は先程までの自分の体を思い出す。チェシャ猫と悠斗だけがその空間に居た。
「このままではただお前の悪夢が創造されて幻影に苛まれながら死を待つ事になるぞ」
「どうしろって言うんだ」
「抵抗しろ。当たり前だろ。自分を攻撃するものに反撃しろ」
「しない」
「分かってないのか?これは現実じゃないんだぜ」
チェシャ猫は張り付いた笑みを絶やさない。靄がチェシャ猫の元に集っていき塊になった。それは捏ねられてボコボコと形を変え人間のような姿になった。影が色づいてそれはまるで誰かによく似たものになった。
「っ……なんで……」
「似ているか?」
「ま……しろ……」
チェシャ猫の元に弟が現れた。眞白は狐につままれたような表情でこちらを見ている。
「兄さん?」
「眞白!どうしてこんなところに!」
「へっへっへ。しっかりらしくなっているな。これを、こうする」
息をする間も無くチェシャ猫は大きな口を突然あんぐりとあけて眞白に食らいついた。眞白はギャッと悲鳴を上げると噛みつかれたところから流血しそのままチェシャ猫の口に飲み込まれていった。
「……………………は?」
目の前で起きた行為を理解するのが遅れる。
この世界をずっと理解できないでいる。
ただ自分が見た光景に、気味の悪い感触が胃の腑から上がってくる。頭が冷たくなって血の気が引き叫び出したくなる。感情が沸騰して体内を燃やしている。
「うっ……おえぇっっ」
胃から迫り上がった何かが喉元を越えて口から吐き出される。
「はぁ……はぁ……はぁ……ぅっ」
「なんだ。大丈夫か」
「うっ……ぐ……この……お前!!」
「ほら、怒るな」
ポン、と間抜けな音がして、目線を上げた先にはまた眞白が居た。
「はぁ……ぁ……?」
「な、分かるか?これはな、よく似てるけど本人じゃない。ただの夢なんだ」
「っ……う……」
「だから何をしたって現実に影響はない。遠慮する事はない」
「だからって……!」
「何だ?もう一回やってみようか?」
「やめろ……!やめろ…………やめてくれ……」
チェシャ猫はニヤニヤと笑みを絶やさない。
チェシャ猫の口があんぐりと開いていく。
走ってチェシャ猫に向かっていくと既の所で煙のように姿を消した。辺りを見回すとチェシャ猫と眞白が離れて背後に現れる。
そしてチェシャ猫の口に眞白がまた飲み込まれていく。
「はぁ……はぁ……うっ……ぐ……」
吐き気が止まらない。体が上手く動かない。
チェシャ猫がまるで全能に見える。
どれだけ嫌でも自分には止める事が出来ない。
この感覚を知っている気がした。
どうしたら良いんだ。
何が正解なんだ。
また次の眞白が現れる。
反抗する?
戦う?
何に対して?
反抗ってどうやったら良いんだ?
思考がまとまらないうちに眞白の悲鳴が聞こえ、瞬きすると新しい眞白が現れる。
悠斗は目眩がして頭の痛みに思わず俯いた。
「分かってるのか?お前は死んで終わるんだ。この先も何も無い。取り繕う必要も無い。これが最後の自分だけの夢なんだ」
頭の中で声が響く。
目を開ける。
視線を上げる。
眞白が居た。
眞白が手に何か持っている。
それは黒いネズミのぬいぐるみだった。
眞白は無表情で、何でもない事のようにその胴体と尾をそれぞれの手で握っている。
「やめて……眞白……やめて……」
譫言のように呟いた。
だが止める事は出来ない。
眞白が手に力を入れる。
ネズミの胴体から尾が引きちぎられる。
床にボトリと落とされた尾の無い黒いネズミのぬいぐるみ。
俺だけだ。
俺以外の誰も世界に居ない。
こんな事で悲しむのも怒るのも俺だけなんだ。
頭の痛みが引いていく。何かがスゥと落ちていく。
黒い靄が晴れてきた。
絞首台の上に居る。時間が止まったところから再開するように、何事も無くトランプ兵は両腕を掴んで引っ張り上げようとする。
ハートの女王が絞首台の前でその様を見物している。その腕には真っ白なウサギが抱えられている。ハートの女王は大事そうに抱き寄せたそのフワフワの頭を撫でている。白ウサギはその心地よさに恍惚として微睡んでいた。
ワァァァァァッと歓声が上がる。
気がつくと周囲を黒い靄の人型が囲んでいた。トランプ兵の壁の外側に、姿の不明瞭な者たちが諸手を挙げて喝采している。手を打って拍手する者、飛び跳ねる者、手を振る者。その中に見知った顔の男が居た。上蓋の外れかけたシルクハットを抑えながら下卑た笑いを浮かべて「ハートの女王様万歳!」と声を上げる。
「世界が創られるって……そういうことか」
「さあ!罪人よ!!処刑の時だ!!」
トランプ兵の高らかな声も、絞首台を囲う群衆も、この世界を構成する全てが虚ろに感じる。虚ろな者たちが俺の腕を掴んで痛めつけることを喜んでいる。
「俺に振るわれる悲しみも苦しみも罰なんだ。だから抵抗する事は正しい事じゃないと思ってた」
「何をブツブツと言っているんーーー」
なんと虚しいことか。俺が創った人形劇で俺は俺を刺して痛めつけている。それはそれで良い。
トランプ兵の手を振り解くと、簡単に薄っぺらい兵は押し飛ばされた。よろけてタタラを踏んだクラブの10が足を踏み外して台から落ちる。群衆のどよめきの中、悠斗はただ1人に焦点を合わせる。目が合って、ハートの女王の表情が強張っていく。怯えと厭悪の表情だ。
ハートの女王は、拘束を解かれた罪人に向かって黒い剣を振りかぶり投げつけた。が、それは躱された。絞首台の柱に当たって、キン、と音を立てながら足元に転がった。悠斗はその剣を拾い上げる。
「罰を受け入れるんだ。そして正しい人間になるんだ。それが正しい事なんだ。それはそうだと今も思う。だからこの世界は変わらない。ただ俺は嫌な奴だ。悪い息子だ。不出来な兄だ。迷惑な弟だ。存在が罪なんだ」
トランプ兵が絞首台を囲っている。槍を構えて陣形を取り威嚇するように悠斗を狙う。
「この虚ろな世界なら俺は悪い事をする。俺はアリスになるんだ」
悠斗の瞳が紅く鈍い色で光る。その頭頂部から血が流れ落ちていくように見えた。悠斗の髪が血を流したように赤く赤く染まっていく。衣装すら記憶の断片に眠るどこかから引っ張り出してきたものに変わってしまった。アリスは目を細めて愉楽に笑った。
振り返って剣を縦に下ろすと背後に迫っていたトランプが裂かれて悲鳴を上げる。
「何をしても良い!意味も無い夢の中で!何をしたって良いよなぁ!」
その剣の鋒は踊りそのまま真っ直ぐにハートの女王を差した。ハートの女王は叫んだ。
「トランプ兵達!何をしている!罪人を捕えなさい!」
「ハハハハハハハハ!」
アリスは剣を思い切り横に振った。立ち塞がるトランプ兵は真っ二つに割れて一閃された。ザワザワと喧騒を残しながら黒い靄の観客たちは散開して逃げ出した。
ごった返すような騒ぎにハートの女王は白ウサギも放って逃そうとした。白ウサギはうわぁぁんと悲鳴を上げて走っていく。何体ものトランプ兵がそれを守るように追従した。アリスはハートの女王の前に迫っていた。
「いやぁぁぁっ」
「ん…………なんだ……?」
黒い剣をまさにハートの女王に向かって振ろうとした矢先に、その腕が硬直した。
「駄目だ。いけないぞ、これ」
「うーん。察するに、望みと同じだ。人間が割れているんだ」
突然横から聞こえた声に視線をやるとチェシャ猫が顔だけを現してニヤついていた。その隙にハートの女王はトランプ兵を必死に呼んだが、中庭には残骸が散るばかりだった。
「そうか……そんな感じだ。俺は剣を振り下ろそうと思うのに同時に抵抗がある」
「意識が強くあれば出来るかもしれないぜ」
「いや、まあ良い。この枷もそのうち外れるだろう。その前にこの夢が終わるかもしれない。俺はどっちでも良い」
アリスは剣を下ろして踵を返す。
「どこに行こうかな」
「どこへでも」
背後から嗚咽と共に消え入りそうな呪詛が追ってきた気がしたが、城内へ入るとそれも聞こえなくなった。アリスは豪奢な廊下を進んで裏手へと抜けた。城は緑の生垣に囲われているようだった。それは塀のように高く聳えている。
「高いなぁ」
「そうだな抜けられるか?別の道を探すか?」
「抜けるってどうやって」
チェシャ猫は珍しく地面に降りて塀の下を腕で突いていた。
「穴は開きそうだぞ」
「そんなサイズでどうするんだ?……ここは夢みたいなものなんだろ?」
アリスは飛び上がって生垣にしがみついた。そこを足がかりにもう一度飛ぶ。
「……なんとかなった」
「そこから降りれるか?」
アリスはしばし逡巡したが、すぐに勢い任せに飛び降りた。
「降りる方がイメージしやすい」
「で、城を抜けたが?」
目の前には舗装された道とその向こうにカラフルな森が広がっていた。
「何となくこういう時に向かう場所は決まってる気がする」
極彩色の木々の中を歩いていく。アリスの背をチェシャ猫は宙に浮きながら着いていった。時間や距離が曖昧だ。ただ実際の記憶で歩いたのと同じくらいな気がした。
「やっぱりそうだ」
木々が開けていくとその先に緑の丘が現れた。紛う事のない記憶の中の公園の姿だった。緑の草原を踏み締めて丘の裏手に回った。木々に囲まれた静寂の中で地面を踏んで辺りを見回す。
何となく予感があった。ここに向かって森を抜けている時はそこまで考えていなかった。ただここだけ自然な木々の中で土を踏んだ時に思い至った。
「ここだ……ここな気がする……」
アリスは地面に膝をついて土に掌で触れた。冷んやりとした茶色い土に手を埋めて掘り返す。ここだと思った、という事はここなんだ。
丸く浅くお椀状に土が掘られていく。お椀の縁に沿うように土が盛り上がる。そしてやがて何かが地面の中から現れた。
ビニール袋に包まれたそれらは薄汚れて中が窺いづらい。
「出してあげられた」
「…………」
「埋葬のつもりだったから出せると思わなかった。でもずっと埋まってたからきっとボロボロだよね」
「……さっき自分でも言っていたがこれは夢みたいなものだ。お前の想像次第だぜ。都合良く考えろ」
「都合良くか……」
「好きにすれば良いんだ」
「……例えば……この地面の下にあるものは……絶対に変わらないとか……」
「そうそう。そういう」
「この土の下にある限りは安全でその姿が脅かされない……」
薄汚れた袋を一度払うと新品のように透明なものに移り変わった。閉じられた封を解くと中から記憶の中の柔らかく温かいぬいぐるみが現れて手に触れる。
「……………………」
ポトリ、と水滴が落ちた。
アリスの目から涙が流れてポタポタと地面に空いた穴に吸い込まれていく。その記憶が温かければ温かい程、自分の心を突き刺すような痛みが酷くなって涙が溢れて止まらない。小さな子供のようにぬいぐるみを抱きしめてアリスは涙が流れるままにしていた。
「ッ……ッ……!」
「……………………ん?」
ふと足元を見下ろせば、アリスの流した涙が穴の方に流れ込んで池のようになっていた。そしてそこでバシャバシャと飛沫を上げて1匹の芋虫が声もなく溺れかけている。少々面食らいながらアリスは芋虫を池から掬い上げた。
「大丈夫かな」
芋虫は何も言わずアリスの掌の上でモゾモゾと蠢いている。アリスは草叢の葉の上に芋虫を逃した。芋虫はしばらく落ち着かなさそうに這っていたがやがて棲家を見つけたように丸くなった。
アリスは腕に抱きかかえたぬいぐるみに視線を落とす。蛇の額と大鷲の翼に木漏れ日が差して輝いていた。
木々の匂いも風の感触もまるで現実のようだ。しかしこれは現実では無い。
アリスはその場を後にして、再び開けた緑の丘へ戻ってきた。
「あれも出来るのかな」
「あれ?」
「大蛇の騎士は、獰猛で執拗なハンターで、獲物に食らいつくまで休むことを知らない」
アリスが言葉を紡ぐと腕に抱かれた細長い蛇のぬいぐるみが軽く震えた。次の瞬間、ぬいぐるみが腕から離れて白い光に包まれる。
瞬きをする間に縦に瞳孔が開いた眼が2つ宙空に浮かんでキラリと光る。3m程の高さだろうか、頭上に鎌首を持ち上げてアリスを見つめる大蛇が現れた。
「…………凄い」
「おおー。大したもんだなこれは」
大蛇は主人に従うように頭を垂れて鼻面を寄せてくる。それを撫でると舌を出してトグロを巻き始めた。それは子供が空想するような都合の良い仲間だった。
「あとは大鷲の騎士。空を舞う疾風、頂上の支配者。どこまでも望むままに飛んでいく。俺の望むところへどこまでも連れて行ってくれる」
腕の中に残ったもう一つのぬいぐるみが同じように輝いて姿を変えていく。目を見張るほど広い両翼をバタつかせ、一陣の風を吹かせたままに綺麗に折り畳んで大鷲は地面にその脚をつく。
「凄いな」
チェシャ猫はフワフワと宙に浮きながら笑みを崩さない。アリスは2人の騎士にそれぞれ視線をやってからふと自分の腰の辺りを押さえた。今来ている衣装は慣れないもので、持ち物も剣が1本あるだけだ。
「どうした?浮かない顔をして」
「いや……」
3人の騎士には1人足りない。
だが最後の1人がここに現れるイメージは湧かなかった。黒いネズミを損ない、兄を失った自分にその資格は無い。
「…………」
「ん?なんだ?」
ふと頭の中である存在にアリスは思い至った。自分で空想したあと1つ。騎士は揃わなくとも、己を守る土の壁を並べることは出来る気がした。
「土人形」
地面が盛り上がり土の巨大な壁が現れた。それは角張った人型の姿になりアリスの背後に聳え立った。
「危ない時に壁になって俺を守ってほしい」
土人形はうんともすんとも言わずに佇んでいたが問題ないとアリスは思った。
「これがお前の3人の騎士ってわけか」
「……ああ。そんなところだ」
「へっへっへ。どうする?これでハートの女王の城にでも攻め込むか?」
「…………そうだな。いや」
アリスは城で起きた事を思い出す。
「白ウサギでも追いかけに行こうかな」
「好きにすると良い」
アリスは大鷲の傍へ寄った。大鷲は地面に伏せてアリスが背に乗るのを待った。大蛇は森へ向かいやがて姿が見えなくなった。土人形は体を崩して地面へと消えていく。
「そうだ。今のうちに話しておくが」
大鷲がまさに飛び立たんとした時にチェシャ猫が口を開いた。
「この世界に現れる資格のある者、かつ、この世界に現れる事を望む者は迷い込む事がある。その場合この世界が影響を受ける事もある」
「どういう事だ?」
「資格っていうのは役割だ。存在の設定があるが未だここに居ないもので、そのキャラクターに相当する存在であれば資格がある」
「…………なるほど?ここがアリスの世界ならハンプティ・ダンプティとかがガワになり得る?」
「そういう事だ。世界に現れる事を望むっていうのは簡単に言うとお前に会いたがる奴だろうな。この場合」
「なるほどな。うーん……その条件なら考えなくて大丈夫な気がするな」
「…………あとな、ここは腐っても地獄の淵だ」
「うん?」
「だからな、招かれざるものが迷い込むかもしれないぜ」
「ふーん?…………なぁ、薄々思っていたんだが、もしかして俺はまだ完全には死んでいないのか?俺が真実死んだらこの世界は消えるのか?」
「あー……まあそれはそうだな」
「そうか。じゃあ本当にこれは現実には何の影響も無い、何にも意味の無いただの夢でしかないんだな」
「今のままならそうなるな。不服か?」
「いや。それなら良かった」
チェシャ猫は目を細めた。心底この状況を楽しんでいるように見える。アリスは眼前の青い猫の姿をしたものに手球に取られているのを感じた。同時にそれをどうでも良い事だと思った。死の夢に漂う影のような自分にとって、最早自身の保身も他者への配意も必要ないからだ。仮にこの猫に取って食われたところで瑣末な事に思えた。
「どうだって良い。最後はどうせ同じ事なんだ」
「そうだなアリス。思う存分夢の世界で踊ると良い」
大鷲は飛翔した。瞬く間に遥か上空へ駆け上がり小さな点となった平原と遠くに見える白亜の城を視界に入れる。夢の中だからか、大鷲がどんな飛び方をしてもその背から振り落とされる事は無さそうだった。
アリスは城の前に城下町が出来ていることに気がついた。往来に影法師めいた存在が微かに見える。
どれもなんと小さく見えるのだろうか。この景色が見たかったのかもしれない。冷んやりとした空気を滑空するのが心地良い。腰に携えた剣も殊更冷たく感じる。
誰もが自分を罰するために在る。そして俺はそれを退け排除するために在る。全てを消したらきっと誰にも攻撃されない平穏が訪れるだろうか。
幾度かの夜が訪れた。
ある時は城の頂へ降り立ち、ある時は新しく見つけた庭園の傍を歩いて目的のものを探していた。アリスはその都度トランプ兵に追い立てられた。それを斬り捨てる度にアリスは自分が馴染んでいくのを感じた。自分の身体が剣を振るい敵を払う事を覚えていく。
ある日、アリスは遂に白ウサギを見つけた。白ウサギは城から南に離れた森の中を彷徨っていた。森の奥へ逃げ惑う白ウサギを大蛇に任せてアリスは大鷲に乗って飛び上がる。大蛇が森を進む様子は上空からも見て取れた。
果たして自分は白ウサギを討てるだろうか。トランプ兵を斬るのとは全く違う。まだ躊躇している自分を感じる。だからこそ、白ウサギを討てれば完全にアリスになれる気がした。割れた意識の半身が縋りついている、アリスにとっては邪魔でしかない自己保身が壊せる気がする。
ーーーー駄目だ。何の意味があるんだ。
自分の声が自分自身に問う。
(意味など無い。意味が無いから良い)
ーーーーそうしたいなんて思ってない。たとえ夢の中でも弟を攻撃したらあの悪魔と同じだ。
(あれは悪魔なのか?)
答えは返らない。そこは焦点では無い、と共通の意識で考えが一致する。
(そう、別に悪魔でも良い。悪魔の手を取ったって良い。自分の事を善人とは思わないだろ?俺は悪い人間だろ?そう思っているよな?悪い人間が悪い事をする事の何がおかしい?)
ーーーーそんなの屁理屈だ。
(お前は本当は悪人になりたくないだけだ。どうにか善人になりたくて足掻いているだけだ。それこそ無駄で無意味だ。俺は悪人のまま終わったんだ)
答えは返らない。アリスは左腰の剣に手をかける。
(眞白、お前は打たれたらどうなる?お前を見れば正解が分かるか?お前はどんな正しい行動を見せてくれる?)
半身の反応は無い。下方にある円形の庭園で大蛇が暴れているのが目に入る。既にトランプ兵が群がって乱戦と化していた。その最中に白い小さな影を捉えた。
(ああ、もう壊れたんだ。いや、壊れるんだ。これで俺はもう取り返しがつかなくなる)
アリスは剣を振り上げた。狙いは定まった。抵抗は感じない。勢いをつけ振り下ろし投擲すると、黒く歪んだ剣は白い影に真っ直ぐ吸い込まれていった。
ーーーー流れた血は戻らない
閉じた瞼を開いてみせよう
ーーーー赤く染まった瞳はそのままに
まだ夢を見ることはできる
ーーーー喪われたものは還らないが
道化となって地獄から唯一つの希望を待ち続けよう
目が覚める。
上体を起こす。
見下ろすと、体がある筈の辺りに朧げな影が何も無い空間に漂っていた。
少しの間、何が起きているのか分からなくて思考が止まった。
ただ現在の状況と考え得る最後の記憶が繋がった時、「ああ、やっと出来たんだ」と息をついた。実際には息をついたつもりで口元辺りの黒い靄がすぅと辺りを燻って霧散する。
自分が置かれた世界を段々と知覚する。何も無い、としか言いようがない領域に、落ちることも浮かぶことも無くただそこに在るだけだ。
何も触れるものが無い。否、何かあったところで感覚はあるのだろうか。このままここに在り続けるのかと思うと、いつか気がおかしくなるのを想像して恐怖心が湧いてくる。
だがここであれば自分によって何かが傷つけられることも壊されることも無い。
そう思うと悲しみと安心が胸中を襲ってきて耐えられず涙がホトホトと落ちていった。実際には黒い靄が震えて雫らしき形状の何かが上とも横とも取れない方向へ消えていくだけだったが。
(良かった。これで良かった。やっと正解を引けた。)
誰もが幸せになる選択だった。
自分の死を知って安心と幸福に綻ぶ人々の顔が浮かぶ。
否、あるいは自分が消えた程度では何も変わらないかもしれない。ただ自分によって生まれていた歪みはもう生まれない。今後一切ない。
良かった。
願わくばこのまま彼岸に溶けて存在が消えたい。それが終わりなのだとしたらーーどれだけーー
ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今聴覚に届いたものが何なのか理解が追いつかない。
電子音のようだった。
無の中に音波が現れしばらく鳴り続けたかと思うと、やがて消えていた。
それが止むと、静寂が来る間もなく今度は別のものが自分の意識の表層を揺すり始めた。
揺蕩うだけの意識に何かが訴えかける。それは「起きろ。起きろ」と自分に促しているように感じられた。
だが理解できない。
何故。ここには何も無い。誰が。何を求めているのか。
ただその何かは死とか消滅とかではなく、自分に何らかの行動を起こす事を要求していた。
理解できないノイズが意識の上を走っては思考が混乱させられる中、それだけは直感で悟った。その概念的な接触が意味を持った言葉になりつつあると同時に、何も無い場所に空間を感じられるようになってきた。
何かは靄である自分に対して言葉の羅列を投げかけてきて、段々とそれは意味のある文の形を取り始めた。
「其の望みを詳らかにし、其の願いを以てこの彼岸を世界たらしめよ。存在を、夢を、陰府の渦中に在らしめよ。現れよ。現れよ。世界を回しただ夢を寿がん。現れよ。現れよ」
自分の思考に別の思考がぶつかってくる。それは意志を持って自分に何かをさせようとする。だがそれは如何に言葉として流れ込んできても悠斗には具体的に何を求めているのか理解できなかった。
『何を言っているか分からない』
「ただ願い。ただ望みを明らかにせよ」
『望みなんて無い。怖い。怖い』
「恐れるものは無い。お前に危害を加えない。お前を攻撃しない。望むなら、お前の思う姿にもなる」
『何を言ってるんだ。お前は何なんだ』
「理解できないのなら、分かりやすいものになってやろう」
何かが光った。何も無い世界で何かがチカチカと明滅した。
それは青い光だった。光は姿を変えてやがて青い猫となった。
『猫だ……」
「そう。己はチェシャ猫という」
悠斗は自分の声が音として聞こえた事に驚いた。チェシャ猫の声も音声として耳に届いている。曖昧模糊とした影はぼんやりとしたまま人型を創り始めていた。
「どうして猫が居るんだ……何だこれは?ここは地獄じゃないのか?」
「その淵に居るようなものだ」
「じゃあもう死んだようなものか」
「故にこれはお前にとって最後の機会だ」
「最後の機会?」
「お前が望みを果たす最後の機会だ」
「だから、望みなんて無いよ。ただここに居れば自ずと地獄に行くんじゃないのか?俺は大人しくそれを待っていたい」
「お前に望みが無いという事は無い」
「俺の何を知ってるって言うんだ。大体お前は何だ?何だか納得しかけたけど、おかしいよな。チェシャ猫ってなんだ?不思議の国のアリスだろ。死の淵に出てくるってことはお前は悪魔みたいなものか?」
「お前、忘れたのか?最期に何を願ったか」
「願った?さいご……」
脊髄反射的に巡らされた真新しい消えかけの記憶の中から1つの可能性が掘り起こされる。暗闇に浮かぶ数多の光。屋上を吹き荒ぶ冬の風。宙に踏み出した浮遊感。そして、最期にーーーー
「どうだ、思い出したか?どうして睨むんだ?」
「何度でも言うけど、俺に望みは無い。あんなのは、望みでも何でも無い」
「そうか」
「俺に何を期待しているか知らないけど俺は何も出来ないよ」
「そうなのか」
「そうだ。強いて望みを言うならもう誰も巻き込みたくない。このまま1人で死にたいだけだ」
「そうか、そうか。まあ」
悠斗はその時違和感を覚えた。胸の内から湧いてくるこの情動は何だ。
最期に何を思ったか。兄に1つ、下らない恨み言を言ってやりたい、と思った。
些末でどうでも良いことだ。何よりもう1ミリ足りとも巻き込みたくはない。だからこそあそこから足を踏み出したとも言える。そうだ、感情が昂るのも頷ける。
第一、どう思ったところで、
兄さんは俺を見たってもう何とも思わないだろうに。
「うっ……はぁっ…………なん、で…………どうして…………」
「まあ、関係ないんだけどな。お前が口でどう言おうと」
ガクン、と何かが身体を通り抜けていく感覚。じりじりと足の先から焼けていく感覚。
身体を見下ろすと、朧げな影ーーではなくて、確かな実体がそこに立っていて、掌が、存在を確かめるように眼前に持ち上げられる。足が大地とは異なる空間を踏み締める。息遣いが耳のすぐ横から聞こえてくる。
「さあ、世界を創造しよう!世界を創ろう!闇と荒野を越えるものよ!現れよ!現れよ!」
チェシャ猫は口角を限界まで引き上げてニンマリと笑った。アリスはそれが何なのかーー悪魔なのかーー天使なのかーー無意味なことに意識を巡らせて、世界の底にへたり込んだ。
「へっへっへ。大丈夫だ。難しく考えることは無い。ただお前の内から世界が投影される。全てを形造り始めている。お前が終わりたいと口で言っても最早大して関係が無い」
「何を言っているんだ?」
「ほら、見ろ!現れるぞ!」
チェシャ猫は高らかに声を上げた。
その時、この領域に何かが生まれた。
まずは2人を囲うように緑の高い壁が世界を破るように現れた。それが押し広げられて出来た空間に、荘厳な白亜の城が建ち上がった。
その城は見た事も無い城だった。
だというのにそれが何を表すのか、悠斗は不思議と瞬時に理解できた。自分のイメージが投影されたと言うのなら、あれは家だ。あの家以外の何物でも無い。悠斗は確信を持って予感できた。
そして同時にその城に棲む者も想像がつく。あの城に棲む者はあの人をおいて他に無い。
否、自分のイメージから生まれるのなら、むしろ自分がそう思った時点でそれは決まったのかもしれない。
その城の正面には重厚な白い扉が佇んでいる。
扉の中心に引かれた縦線が割れて徐々に開いていく。広がっていく隙間から徐々に奥の様子が見えていく。暗い闇の中に鮮明な赤が踊り出す。
その奥からは煌びやかな衣装を纏った赤いドレスの女が姿を現した。
「あ……ああ…………」
その女を悠斗は知っていた。
それは自分が想像した顔と寸分違わない。彼女が自分を見る目も、表情も、次に発される言葉も全て想像がつく。赤い口紅に彩られた唇が開く様がスローモーションに見えた。
「まだ生きているの」
「…………」
「私の事が憎いの?」
「…………」
「お前なんか産まれなければ良かった」
女の右手には箱があった。
トランプの箱だ。
女が箱を開いてバラバラとトランプを捲りばら撒いていく。バラバラと捲られたトランプは宙に飛び出し旋回する。
ハートの6、スペードの4、ダイヤの9、何枚もの舞い上がったトランプ達が目の錯覚のように肥大して手足を生やす。人のような手足と頭を携えてそれらは女と悠斗の間に立ちはだかった。
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「ハートの女王様」
「なんなりと御命令を、ハートの女王様」
それは予想外の展開だった。だが納得もできた。これは仕組みだ。裁きを下す者と裁かれるべき者が居て、ハートの女王という形をとったのならば、断罪するための仕組みが生まれるのも必然と言えた。それがトランプ兵という姿を選んだのは城、ハートの女王から連想されたのだろうか。チェシャ猫もアリスの夢の世界のものだった。
ハートの女王の左手にはいつの間にか帳面が握られていた。黒々とした背表紙しか窺えないが、それが何なのか、何が書かれているのか分かる気がした。
閻魔帳という物がある。地獄の裁判官、閻魔様が持つ死者の善悪が記された手帳だ。
想像したことがある。例えばこの世の罪人を記した帳面があるとしたら、間違いなく自分の名が刻まれている。然ながらそれは罪人帳とも言うべきものだ。
「裁きを受けろ。その罪をもって罰を受けろ。罪人だ。罪人は処刑されなさい」
だから自分は罰を受けるのだ。
トランプ兵は悠斗を捕らえた。ハートの女王の手には黒い剣が握られていた。その剣は間近で見ると緩く湾曲していて、1箇所短い爪のある不思議な形をしていた。それが何を示唆しているのか悠斗は何となく察しがついた。黒いハンガーを畳んで握り込むとあんな形になる。それが今は剣の姿をしているのだ。
ハートの女王の前へ引っ立てられた悠斗に向かってその剣が斜めに振り下ろされる。
「ううゔっっ……!」
体に走る痛みが現実的で目が覚めそうになる。しかし世界は変わらない。ここが現実とは思えないがただの贋でも無さそうだ。袈裟懸けに斬られた傷口がじくじく傷んで赤い血が流れ出す。そのまま消滅を受け入れそうになっているとトランプ兵に体を持ち上げられて何処かへと移動させられる。
(どこへ行くっていうんだ…………)
痛みに朦朧とする意識から浮上して目を開けると白亜の壁に囲まれた中庭に居た。庭の中央には四角い木の板で作られた舞台が建っていた。木の階段を上がった舞台上には縄で出来た輪が吊るされている。絞首台だ。
このまま放っておいてくれたって死ねるのに。
ああ、処刑か。
断罪だ。
女王の決めた事に従わなくては。
「おい。いつまでそうしてるんだ」
点々と自分の通った道に赤い筋が続いている。それは一段、一段と登らされる階段の上にも等しく落ちていく。そんな足元より遥か高みから声がする。青いチェシャ猫が宙空に浮いて口元だけを歪めていた。悠斗は見上げてそれを視認する。
「ああ、この為にこんな世界をみているのか俺は。罰を受けるのか。最期まで地獄みたいだ」
「違う違う。おかしいな。イメージが先行しすぎだ。止まれ!止まれ!」
チェシャ猫が両手を広げて叫ぶとトランプ兵達の動きが止まった。絞首台の前に立っていたハートの女王だけは怪訝そうに首を傾げた。
「どうなってるんだ。ちょっと待て」
「はぁっ……なんだ、トラブルでも起きたのか」
「へっへっへ。そうだな。この世界の全権をお前に握らせるのはどうも上手くいかないらしい」
「全権なんて……要らないよ」
「お前の望みは複雑だな。何で意識が別れてるんだ?相反した望みを同時に持つなんて変な奴だな」
「……勝手に変な事を始めて文句を言われても」
「とにかくこのままでは足りない」
「…………」
「この世界を回すための核が決められないんだ。別に用意するしかない」
「……」
「そのためにもっと馴染んでもらう」
チェシャ猫がそう言うと絞首台の上を黒い靄が包んだ。悠斗は先程までの自分の体を思い出す。チェシャ猫と悠斗だけがその空間に居た。
「このままではただお前の悪夢が創造されて幻影に苛まれながら死を待つ事になるぞ」
「どうしろって言うんだ」
「抵抗しろ。当たり前だろ。自分を攻撃するものに反撃しろ」
「しない」
「分かってないのか?これは現実じゃないんだぜ」
チェシャ猫は張り付いた笑みを絶やさない。靄がチェシャ猫の元に集っていき塊になった。それは捏ねられてボコボコと形を変え人間のような姿になった。影が色づいてそれはまるで誰かによく似たものになった。
「っ……なんで……」
「似ているか?」
「ま……しろ……」
チェシャ猫の元に弟が現れた。眞白は狐につままれたような表情でこちらを見ている。
「兄さん?」
「眞白!どうしてこんなところに!」
「へっへっへ。しっかりらしくなっているな。これを、こうする」
息をする間も無くチェシャ猫は大きな口を突然あんぐりとあけて眞白に食らいついた。眞白はギャッと悲鳴を上げると噛みつかれたところから流血しそのままチェシャ猫の口に飲み込まれていった。
「……………………は?」
目の前で起きた行為を理解するのが遅れる。
この世界をずっと理解できないでいる。
ただ自分が見た光景に、気味の悪い感触が胃の腑から上がってくる。頭が冷たくなって血の気が引き叫び出したくなる。感情が沸騰して体内を燃やしている。
「うっ……おえぇっっ」
胃から迫り上がった何かが喉元を越えて口から吐き出される。
「はぁ……はぁ……はぁ……ぅっ」
「なんだ。大丈夫か」
「うっ……ぐ……この……お前!!」
「ほら、怒るな」
ポン、と間抜けな音がして、目線を上げた先にはまた眞白が居た。
「はぁ……ぁ……?」
「な、分かるか?これはな、よく似てるけど本人じゃない。ただの夢なんだ」
「っ……う……」
「だから何をしたって現実に影響はない。遠慮する事はない」
「だからって……!」
「何だ?もう一回やってみようか?」
「やめろ……!やめろ…………やめてくれ……」
チェシャ猫はニヤニヤと笑みを絶やさない。
チェシャ猫の口があんぐりと開いていく。
走ってチェシャ猫に向かっていくと既の所で煙のように姿を消した。辺りを見回すとチェシャ猫と眞白が離れて背後に現れる。
そしてチェシャ猫の口に眞白がまた飲み込まれていく。
「はぁ……はぁ……うっ……ぐ……」
吐き気が止まらない。体が上手く動かない。
チェシャ猫がまるで全能に見える。
どれだけ嫌でも自分には止める事が出来ない。
この感覚を知っている気がした。
どうしたら良いんだ。
何が正解なんだ。
また次の眞白が現れる。
反抗する?
戦う?
何に対して?
反抗ってどうやったら良いんだ?
思考がまとまらないうちに眞白の悲鳴が聞こえ、瞬きすると新しい眞白が現れる。
悠斗は目眩がして頭の痛みに思わず俯いた。
「分かってるのか?お前は死んで終わるんだ。この先も何も無い。取り繕う必要も無い。これが最後の自分だけの夢なんだ」
頭の中で声が響く。
目を開ける。
視線を上げる。
眞白が居た。
眞白が手に何か持っている。
それは黒いネズミのぬいぐるみだった。
眞白は無表情で、何でもない事のようにその胴体と尾をそれぞれの手で握っている。
「やめて……眞白……やめて……」
譫言のように呟いた。
だが止める事は出来ない。
眞白が手に力を入れる。
ネズミの胴体から尾が引きちぎられる。
床にボトリと落とされた尾の無い黒いネズミのぬいぐるみ。
俺だけだ。
俺以外の誰も世界に居ない。
こんな事で悲しむのも怒るのも俺だけなんだ。
頭の痛みが引いていく。何かがスゥと落ちていく。
黒い靄が晴れてきた。
絞首台の上に居る。時間が止まったところから再開するように、何事も無くトランプ兵は両腕を掴んで引っ張り上げようとする。
ハートの女王が絞首台の前でその様を見物している。その腕には真っ白なウサギが抱えられている。ハートの女王は大事そうに抱き寄せたそのフワフワの頭を撫でている。白ウサギはその心地よさに恍惚として微睡んでいた。
ワァァァァァッと歓声が上がる。
気がつくと周囲を黒い靄の人型が囲んでいた。トランプ兵の壁の外側に、姿の不明瞭な者たちが諸手を挙げて喝采している。手を打って拍手する者、飛び跳ねる者、手を振る者。その中に見知った顔の男が居た。上蓋の外れかけたシルクハットを抑えながら下卑た笑いを浮かべて「ハートの女王様万歳!」と声を上げる。
「世界が創られるって……そういうことか」
「さあ!罪人よ!!処刑の時だ!!」
トランプ兵の高らかな声も、絞首台を囲う群衆も、この世界を構成する全てが虚ろに感じる。虚ろな者たちが俺の腕を掴んで痛めつけることを喜んでいる。
「俺に振るわれる悲しみも苦しみも罰なんだ。だから抵抗する事は正しい事じゃないと思ってた」
「何をブツブツと言っているんーーー」
なんと虚しいことか。俺が創った人形劇で俺は俺を刺して痛めつけている。それはそれで良い。
トランプ兵の手を振り解くと、簡単に薄っぺらい兵は押し飛ばされた。よろけてタタラを踏んだクラブの10が足を踏み外して台から落ちる。群衆のどよめきの中、悠斗はただ1人に焦点を合わせる。目が合って、ハートの女王の表情が強張っていく。怯えと厭悪の表情だ。
ハートの女王は、拘束を解かれた罪人に向かって黒い剣を振りかぶり投げつけた。が、それは躱された。絞首台の柱に当たって、キン、と音を立てながら足元に転がった。悠斗はその剣を拾い上げる。
「罰を受け入れるんだ。そして正しい人間になるんだ。それが正しい事なんだ。それはそうだと今も思う。だからこの世界は変わらない。ただ俺は嫌な奴だ。悪い息子だ。不出来な兄だ。迷惑な弟だ。存在が罪なんだ」
トランプ兵が絞首台を囲っている。槍を構えて陣形を取り威嚇するように悠斗を狙う。
「この虚ろな世界なら俺は悪い事をする。俺はアリスになるんだ」
悠斗の瞳が紅く鈍い色で光る。その頭頂部から血が流れ落ちていくように見えた。悠斗の髪が血を流したように赤く赤く染まっていく。衣装すら記憶の断片に眠るどこかから引っ張り出してきたものに変わってしまった。アリスは目を細めて愉楽に笑った。
振り返って剣を縦に下ろすと背後に迫っていたトランプが裂かれて悲鳴を上げる。
「何をしても良い!意味も無い夢の中で!何をしたって良いよなぁ!」
その剣の鋒は踊りそのまま真っ直ぐにハートの女王を差した。ハートの女王は叫んだ。
「トランプ兵達!何をしている!罪人を捕えなさい!」
「ハハハハハハハハ!」
アリスは剣を思い切り横に振った。立ち塞がるトランプ兵は真っ二つに割れて一閃された。ザワザワと喧騒を残しながら黒い靄の観客たちは散開して逃げ出した。
ごった返すような騒ぎにハートの女王は白ウサギも放って逃そうとした。白ウサギはうわぁぁんと悲鳴を上げて走っていく。何体ものトランプ兵がそれを守るように追従した。アリスはハートの女王の前に迫っていた。
「いやぁぁぁっ」
「ん…………なんだ……?」
黒い剣をまさにハートの女王に向かって振ろうとした矢先に、その腕が硬直した。
「駄目だ。いけないぞ、これ」
「うーん。察するに、望みと同じだ。人間が割れているんだ」
突然横から聞こえた声に視線をやるとチェシャ猫が顔だけを現してニヤついていた。その隙にハートの女王はトランプ兵を必死に呼んだが、中庭には残骸が散るばかりだった。
「そうか……そんな感じだ。俺は剣を振り下ろそうと思うのに同時に抵抗がある」
「意識が強くあれば出来るかもしれないぜ」
「いや、まあ良い。この枷もそのうち外れるだろう。その前にこの夢が終わるかもしれない。俺はどっちでも良い」
アリスは剣を下ろして踵を返す。
「どこに行こうかな」
「どこへでも」
背後から嗚咽と共に消え入りそうな呪詛が追ってきた気がしたが、城内へ入るとそれも聞こえなくなった。アリスは豪奢な廊下を進んで裏手へと抜けた。城は緑の生垣に囲われているようだった。それは塀のように高く聳えている。
「高いなぁ」
「そうだな抜けられるか?別の道を探すか?」
「抜けるってどうやって」
チェシャ猫は珍しく地面に降りて塀の下を腕で突いていた。
「穴は開きそうだぞ」
「そんなサイズでどうするんだ?……ここは夢みたいなものなんだろ?」
アリスは飛び上がって生垣にしがみついた。そこを足がかりにもう一度飛ぶ。
「……なんとかなった」
「そこから降りれるか?」
アリスはしばし逡巡したが、すぐに勢い任せに飛び降りた。
「降りる方がイメージしやすい」
「で、城を抜けたが?」
目の前には舗装された道とその向こうにカラフルな森が広がっていた。
「何となくこういう時に向かう場所は決まってる気がする」
極彩色の木々の中を歩いていく。アリスの背をチェシャ猫は宙に浮きながら着いていった。時間や距離が曖昧だ。ただ実際の記憶で歩いたのと同じくらいな気がした。
「やっぱりそうだ」
木々が開けていくとその先に緑の丘が現れた。紛う事のない記憶の中の公園の姿だった。緑の草原を踏み締めて丘の裏手に回った。木々に囲まれた静寂の中で地面を踏んで辺りを見回す。
何となく予感があった。ここに向かって森を抜けている時はそこまで考えていなかった。ただここだけ自然な木々の中で土を踏んだ時に思い至った。
「ここだ……ここな気がする……」
アリスは地面に膝をついて土に掌で触れた。冷んやりとした茶色い土に手を埋めて掘り返す。ここだと思った、という事はここなんだ。
丸く浅くお椀状に土が掘られていく。お椀の縁に沿うように土が盛り上がる。そしてやがて何かが地面の中から現れた。
ビニール袋に包まれたそれらは薄汚れて中が窺いづらい。
「出してあげられた」
「…………」
「埋葬のつもりだったから出せると思わなかった。でもずっと埋まってたからきっとボロボロだよね」
「……さっき自分でも言っていたがこれは夢みたいなものだ。お前の想像次第だぜ。都合良く考えろ」
「都合良くか……」
「好きにすれば良いんだ」
「……例えば……この地面の下にあるものは……絶対に変わらないとか……」
「そうそう。そういう」
「この土の下にある限りは安全でその姿が脅かされない……」
薄汚れた袋を一度払うと新品のように透明なものに移り変わった。閉じられた封を解くと中から記憶の中の柔らかく温かいぬいぐるみが現れて手に触れる。
「……………………」
ポトリ、と水滴が落ちた。
アリスの目から涙が流れてポタポタと地面に空いた穴に吸い込まれていく。その記憶が温かければ温かい程、自分の心を突き刺すような痛みが酷くなって涙が溢れて止まらない。小さな子供のようにぬいぐるみを抱きしめてアリスは涙が流れるままにしていた。
「ッ……ッ……!」
「……………………ん?」
ふと足元を見下ろせば、アリスの流した涙が穴の方に流れ込んで池のようになっていた。そしてそこでバシャバシャと飛沫を上げて1匹の芋虫が声もなく溺れかけている。少々面食らいながらアリスは芋虫を池から掬い上げた。
「大丈夫かな」
芋虫は何も言わずアリスの掌の上でモゾモゾと蠢いている。アリスは草叢の葉の上に芋虫を逃した。芋虫はしばらく落ち着かなさそうに這っていたがやがて棲家を見つけたように丸くなった。
アリスは腕に抱きかかえたぬいぐるみに視線を落とす。蛇の額と大鷲の翼に木漏れ日が差して輝いていた。
木々の匂いも風の感触もまるで現実のようだ。しかしこれは現実では無い。
アリスはその場を後にして、再び開けた緑の丘へ戻ってきた。
「あれも出来るのかな」
「あれ?」
「大蛇の騎士は、獰猛で執拗なハンターで、獲物に食らいつくまで休むことを知らない」
アリスが言葉を紡ぐと腕に抱かれた細長い蛇のぬいぐるみが軽く震えた。次の瞬間、ぬいぐるみが腕から離れて白い光に包まれる。
瞬きをする間に縦に瞳孔が開いた眼が2つ宙空に浮かんでキラリと光る。3m程の高さだろうか、頭上に鎌首を持ち上げてアリスを見つめる大蛇が現れた。
「…………凄い」
「おおー。大したもんだなこれは」
大蛇は主人に従うように頭を垂れて鼻面を寄せてくる。それを撫でると舌を出してトグロを巻き始めた。それは子供が空想するような都合の良い仲間だった。
「あとは大鷲の騎士。空を舞う疾風、頂上の支配者。どこまでも望むままに飛んでいく。俺の望むところへどこまでも連れて行ってくれる」
腕の中に残ったもう一つのぬいぐるみが同じように輝いて姿を変えていく。目を見張るほど広い両翼をバタつかせ、一陣の風を吹かせたままに綺麗に折り畳んで大鷲は地面にその脚をつく。
「凄いな」
チェシャ猫はフワフワと宙に浮きながら笑みを崩さない。アリスは2人の騎士にそれぞれ視線をやってからふと自分の腰の辺りを押さえた。今来ている衣装は慣れないもので、持ち物も剣が1本あるだけだ。
「どうした?浮かない顔をして」
「いや……」
3人の騎士には1人足りない。
だが最後の1人がここに現れるイメージは湧かなかった。黒いネズミを損ない、兄を失った自分にその資格は無い。
「…………」
「ん?なんだ?」
ふと頭の中である存在にアリスは思い至った。自分で空想したあと1つ。騎士は揃わなくとも、己を守る土の壁を並べることは出来る気がした。
「土人形」
地面が盛り上がり土の巨大な壁が現れた。それは角張った人型の姿になりアリスの背後に聳え立った。
「危ない時に壁になって俺を守ってほしい」
土人形はうんともすんとも言わずに佇んでいたが問題ないとアリスは思った。
「これがお前の3人の騎士ってわけか」
「……ああ。そんなところだ」
「へっへっへ。どうする?これでハートの女王の城にでも攻め込むか?」
「…………そうだな。いや」
アリスは城で起きた事を思い出す。
「白ウサギでも追いかけに行こうかな」
「好きにすると良い」
アリスは大鷲の傍へ寄った。大鷲は地面に伏せてアリスが背に乗るのを待った。大蛇は森へ向かいやがて姿が見えなくなった。土人形は体を崩して地面へと消えていく。
「そうだ。今のうちに話しておくが」
大鷲がまさに飛び立たんとした時にチェシャ猫が口を開いた。
「この世界に現れる資格のある者、かつ、この世界に現れる事を望む者は迷い込む事がある。その場合この世界が影響を受ける事もある」
「どういう事だ?」
「資格っていうのは役割だ。存在の設定があるが未だここに居ないもので、そのキャラクターに相当する存在であれば資格がある」
「…………なるほど?ここがアリスの世界ならハンプティ・ダンプティとかがガワになり得る?」
「そういう事だ。世界に現れる事を望むっていうのは簡単に言うとお前に会いたがる奴だろうな。この場合」
「なるほどな。うーん……その条件なら考えなくて大丈夫な気がするな」
「…………あとな、ここは腐っても地獄の淵だ」
「うん?」
「だからな、招かれざるものが迷い込むかもしれないぜ」
「ふーん?…………なぁ、薄々思っていたんだが、もしかして俺はまだ完全には死んでいないのか?俺が真実死んだらこの世界は消えるのか?」
「あー……まあそれはそうだな」
「そうか。じゃあ本当にこれは現実には何の影響も無い、何にも意味の無いただの夢でしかないんだな」
「今のままならそうなるな。不服か?」
「いや。それなら良かった」
チェシャ猫は目を細めた。心底この状況を楽しんでいるように見える。アリスは眼前の青い猫の姿をしたものに手球に取られているのを感じた。同時にそれをどうでも良い事だと思った。死の夢に漂う影のような自分にとって、最早自身の保身も他者への配意も必要ないからだ。仮にこの猫に取って食われたところで瑣末な事に思えた。
「どうだって良い。最後はどうせ同じ事なんだ」
「そうだなアリス。思う存分夢の世界で踊ると良い」
大鷲は飛翔した。瞬く間に遥か上空へ駆け上がり小さな点となった平原と遠くに見える白亜の城を視界に入れる。夢の中だからか、大鷲がどんな飛び方をしてもその背から振り落とされる事は無さそうだった。
アリスは城の前に城下町が出来ていることに気がついた。往来に影法師めいた存在が微かに見える。
どれもなんと小さく見えるのだろうか。この景色が見たかったのかもしれない。冷んやりとした空気を滑空するのが心地良い。腰に携えた剣も殊更冷たく感じる。
誰もが自分を罰するために在る。そして俺はそれを退け排除するために在る。全てを消したらきっと誰にも攻撃されない平穏が訪れるだろうか。
幾度かの夜が訪れた。
ある時は城の頂へ降り立ち、ある時は新しく見つけた庭園の傍を歩いて目的のものを探していた。アリスはその都度トランプ兵に追い立てられた。それを斬り捨てる度にアリスは自分が馴染んでいくのを感じた。自分の身体が剣を振るい敵を払う事を覚えていく。
ある日、アリスは遂に白ウサギを見つけた。白ウサギは城から南に離れた森の中を彷徨っていた。森の奥へ逃げ惑う白ウサギを大蛇に任せてアリスは大鷲に乗って飛び上がる。大蛇が森を進む様子は上空からも見て取れた。
果たして自分は白ウサギを討てるだろうか。トランプ兵を斬るのとは全く違う。まだ躊躇している自分を感じる。だからこそ、白ウサギを討てれば完全にアリスになれる気がした。割れた意識の半身が縋りついている、アリスにとっては邪魔でしかない自己保身が壊せる気がする。
ーーーー駄目だ。何の意味があるんだ。
自分の声が自分自身に問う。
(意味など無い。意味が無いから良い)
ーーーーそうしたいなんて思ってない。たとえ夢の中でも弟を攻撃したらあの悪魔と同じだ。
(あれは悪魔なのか?)
答えは返らない。そこは焦点では無い、と共通の意識で考えが一致する。
(そう、別に悪魔でも良い。悪魔の手を取ったって良い。自分の事を善人とは思わないだろ?俺は悪い人間だろ?そう思っているよな?悪い人間が悪い事をする事の何がおかしい?)
ーーーーそんなの屁理屈だ。
(お前は本当は悪人になりたくないだけだ。どうにか善人になりたくて足掻いているだけだ。それこそ無駄で無意味だ。俺は悪人のまま終わったんだ)
答えは返らない。アリスは左腰の剣に手をかける。
(眞白、お前は打たれたらどうなる?お前を見れば正解が分かるか?お前はどんな正しい行動を見せてくれる?)
半身の反応は無い。下方にある円形の庭園で大蛇が暴れているのが目に入る。既にトランプ兵が群がって乱戦と化していた。その最中に白い小さな影を捉えた。
(ああ、もう壊れたんだ。いや、壊れるんだ。これで俺はもう取り返しがつかなくなる)
アリスは剣を振り上げた。狙いは定まった。抵抗は感じない。勢いをつけ振り下ろし投擲すると、黒く歪んだ剣は白い影に真っ直ぐ吸い込まれていった。
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